恋愛ドクターの遺産(6)「変化」−3

「では今度は、現在のあなたのまま、当時の世界に入っていく、とイメージしてみましょう。椅子を立って、向かいの椅子にいる、当時のあなたに近づいていってください。」

先生が誘導すると、こばやんが椅子を立ち、向かいの椅子の前に立った。

「私がこれから言う言葉を、今実際に声に出しながら、当時のあなたに伝えてあげてください。」

「はい。」

「呼びかけの言葉は『こばやん』でいいですか?」
ドクターが確認した。
「はい。」

「では、いきます。『こばやんは、悪くないでぇ』」
ドクターはこのときだけ、関西弁になってそう言った。

こばやんは、すぐには言葉を発しなかった。言おうとしているが言えない、そんな感じだ。頭が小刻みに、不規則に震えている。しばらくして、はぁ、とため息をついた。

「言えないもんですねぇ。」

なつをは、あぁ、ゆるしのワークを実践しているんだな、と思った。空椅子を置く「エンプティーチェア」のワークは一般的なセラピーの技法だが、いま先生は一般的なエンプティーチェアのワークをしているのではない。形だけエンプティーチェアの形式を借りているが、ゆるしのワークという別の技法だ。「悪くないんだよ」とゆるしの言葉を、自分を責めてしまっている過去の自分に対してかける。これは先生が編み出した技法だそうだ。

「もう一回やってみたら、言えるかもしれません。」
ドクターは続けた。
「こばやんは、悪くないでぇ。」

「こばやんは、悪くない・・・。」
こばやんの喉から、うっうっ、と嗚咽が漏れる。このワークは、自分を強く責めているほど、例のせりふを言うときに反応が出る。こばやんはどうやら、自分を無意識にかなり責めていたようだ。

「次は、この言葉を言ってあげてください。『よう頑張ったな』」
「よう頑張ったな・・・ほんと、よう頑張った。よう頑張ったな。」

こばやんの目から涙が落ちた。
ふとみると、表情が随分穏やかになっている。というより、笑っているようにも見える。大きな心の負担を抱えて苦しんでいた人が癒されていくとき、独特の明るい表情を見せる。以前、先生が「多くの人は負の感情を怖がって感じないようにするが、ため込んでいた負の感情を出すというのは、喜びに近いものだ」と言っていたのをなつをは思い出した。

そのあと、同様にいくつかのせりふを言ってもらって、ゆるしのワークは終了した。初めのせりふが一番の反応を引き出したようだ。感情が激しく動くと疲れるものだ。こばやんは少しぼうっとしているように見えた。

「最後に、確認のために、もう一度最初のように、当時のあなたになったとイメージしながら、そちらの椅子に座ってみて下さい。」

「はい。」

「当時のあなたになってみると、世界の明るさは、明るいですか暗いですか?」
「明るいです。」
「空気の温度は、暖かいですか、肌寒いですか?」
「ふつうやけど・・・少しぬくいです。」
「空気の重さは、軽いですか?重いですか?」
「あっ・・・重くないですね。軽いですわ。」
最後の質問に答え終わったあと、こばやんは「にっ」と笑った。

「先生・・・不思議ですね。あんなに重うて苦しかったのに・・・消えてしまいました。」

「そうですね。もう終わったことなので、こういう問題は解決が早いです。」
「そういうもんですか。」

ドクターはそれにはあまり答えず、まとめに入った。
「今日のセッションのポイントなんですが、これは、会社の危機に対して、十分に力を発揮してそれを救うことが出来なかったという罪悪感や無力感が、ずっと心にのしかかっていて負担になっていた、ということだと思います。」
「確かに、それはありました。ずっと不安で、苦しくて、でも業績は一向に良くならんし。ほんまに苦しかったですわ。あの頃は。」
「その時期に、みんなの期待に応えられず、十分に力を発揮できず、会社を救えず・・・となっていた自分自身を、徐々に責めるようになってしまったのだと思います。」

「そうですね。納得です。その通りだと思います。」
こばやんは、セッションに納得していたようだった。そして、大事な質問をした。
「先生、私のこのストレスが、夫婦仲がうまく行かなかった原因だった、ということなんですね?」

こばやんはそう尋ねた。なつをが「あぁ、このセッションもこれでまとめに入るのだな」と思ったそのとき、ドクターが意外なことを言いだした。

「いや、実はそうではないかもしれない、と思っているんです。
幼少期の愛情飢餓問題。そのことで、少し相談があるんですが。」

(えっ! なんと!)

なつをは心底驚いた。先生がなつをに対してあれほど明確に否定した愛情飢餓説を、クライアントを前にして堂々と言ってのけたのだ。

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