恋愛ドクターの遺産(7)サンドバッグの結論1

 

こばやんが帰り、なつをとドクターが議論をしていた。

「先生、どうして奥さまの愛情飢餓が原因、ということが分かるんですか?」
「それが分からないようじゃ、まだメインカウンセラーとしてこの仕事を任せるわけにはいかないな。」
「意地悪言わないでください。」
「別に意地悪を言っているわけじゃない。もっとレベルを上げてもらわないとお客さんの前には出せない、という経営判断を言っているだけです。本当に、レベルを上げてください。」

先生は仕事のクオリティーについてはかなり厳しい。クライアントに接するときの柔らかい感じとは全く違う厳しい一面を見て、なつをは、毎度の事ながら軽く当惑した。

「でも、どうしてなんですか?」なつをは尋ねた。

ドクターは視線を斜め左上に移して、しばらく考えているようだった。そして言った。
「いくつか、そう推測するに値する状況証拠がある。たとえば、彼の話から、学生時代、そして仕事の責任がまだ軽かった頃、子供もいなかった頃・・・これは言い換えるとふたりで過ごすヒマが十分あった頃と言い換えられる・・・その頃には関係はうまく行っていたと分かる。彼の奥さんは、自分のために時間を使ってもらいたいわけだ。」

「それって、女なら大抵そうじゃないんですか?」

「君は、同時に一個のことしか考えられないのか? それだけで決めつけたわけではない。」ドクターは少しいらだった様子でそういった。そして、続けた。
「それから、関係が悪化していった経緯です。健全に育ち、心が健康で大人の女性の場合、相手が自分のために時間を使ってくれなくなったら、それは寂しい。寂しいのは当然の反応だが、それをある程度受け入れ、自分を満たす別の方法を見つけて、相手への期待を少し手放す。それができるものだ。『亭主元気で留守がいい』という言葉は、面倒くさいから居ないでほしい、と解釈されることもあるようだけど、忙しくて一緒に居られないが、それをある程度手放した妻の強さを表す言葉とも解釈できる。」

「はぁ。」

「そして、たとえば、ダンナの忙しさの波が少し去ったら、一旦棚上げしたダンナへの期待を、もう一度復活させて、相手に期待する、つまり『寂しい、かまってよ。』という意味のことを言えるものだ。」

「あ、そういえば私も、彼が忙しいときは、一人で過ごす方法を色々覚えたけど、また一緒に過ごせるようになったら、彼と一緒に出かけるように、生活を変えました。」
「そういうこと。こばやんの奥さまは、そのあたりの、自分をうまくコントロールするスキルが未熟に見える。ある程度まで我慢して我慢して、ある日突然、『あんたにはもう期待しない!』ってなる。」
「確かに。言われてみれば、そういう傾向はありましたね。」
ドクターは、やっと分かったか、と言いたげな様子で、二、三回うなずいた。

「これは、愛着障害、という概念で考えると理解できる。幼少期に親との愛着に問題があると・・・色々なパターンがあるが、そのひとつの類型としては・・・べったり愛着して、相手がかまってくれなくなったり自分のことを少しでも否定したりすると、途端に「ぷいっ」と離れる・・・この「ぷいっ」を専門用語で「デタッチメント」というんだが・・・そういうことを起こすんだ。彼の話から、奥さまの反応がこのデタッチメント的だと考えたわけだよ。」

「なるほど・・・ここまで言われると納得です。」
「もうひとつ、これは参考程度かもしれないけれど、この仮説を強化するような状況証拠があります。それは、こばやんの性格です。彼は、何かがあると、自分を強く責める。そして何か問題があると、自分が行動して解決しなくてはいけない、という発想をする人ですね。」

「はい。男性的・・・というか、そういう面、ガチガチでしたよね?」

「そうだ。実は、自分を責める傾向の強い男性には、依存的な女性がカップルになる傾向がある。これは経験則だけれど。そして、表面的に依存的な部分が出ている女性の中で、愛情飢餓を持っていて、愛着障害の傾向もある、という女性は、それなりに、いる。」

「なるほど・・・前の二つに比べると、ちょっと弱い証拠、という感じですね。」
ドクターは、そういうこと、という感じで、小さく複数回うなずいた。

しかし、先生、これだけのことを毎回、相手の話を聞きながら考えているのだろうか、となつをは感心半分、自分に出来るだろうかという不安半分で考えていた。事実、先生の仮説はこれまで、ほとんどの場合正しかった。よくこれだけ間違わずに判断をくだせるものだと、なつをは感心、というより畏敬の念で、帰り支度を始めたドクターの後ろ姿を眺めていた。
・・・

次のこばやんのセッションは、劇的だった。

「先生、報告があります!」こばやんが開口一番、これまでで一番大きな声を出して言った。
「どうしました?」ドクターはいつも通りの調子だ。
「カミサンが帰ってきました!やり直そう、いうことになってます!」

(つづく)

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