第1話 恋愛ドクター」カテゴリーアーカイブ

恋愛ドクターの遺産(8)現実と夢

こんな時間か・・・ノートを閉じて時計を見たゆり子は、時間が随分経っているのに気づき、少し慌てた。

(幼稚園にお迎えに行かなきゃ・・・)

お迎えの自転車を漕ぎながら、ゆり子はまだノートの中の話を反芻していた。自分もサンドバッグになるイメージをして、相手の話を聞いたら、修復できるのだろうか・・・少し想像してみて、あまりに苦しいのですぐにやめた。
(あのこばやんという人は、とりわけ意志の力が強い人なんだよね、きっと。)
ゆり子はそう思って、自分とは関係ない世界の話にしようとしたが、ゆり子の意思に反して、ノートの中の出来事はずっと心に引っかかっていた。

「さくら、お待たせー。」

さくらはゆり子の一人娘だ。幼稚園の黄色いスモックを着て、髪はふたつ結びにしている。最近の子らしく、ドラえもんに出てくるしずかちゃん、というよりは、どこか初音ミクっぽい結び方だ。子どもを家に連れて帰る途中も、どうしてもノートの中のことが引っかかっていて、「ママ、今日ね・・・」と話しかけてくるさくらの話も、どこか上の空で聞いていた。

「・・・ママ、ママ、起きてよ!」

さくらの声で目が覚めた。
(もう4時半か・・・)ゆり子は壁の時計を見てそう思った。どうやら帰ってきて寝てしまったらしい。2時間ほど寝ていた計算になるか。でも、ゆり子は不思議な感覚に包まれていた。

(私、本当に寝ていたの・・・?)
先ほど、さくらに起こされたとき・・・いや、起きたというより、別世界からこちらの世界に「呼び戻された」という感覚だったが・・・ゆり子は、ドクターのセッションルームにいた。いや、そんなはずはないから、ドクターのセッションルームにいた夢を見ていた・・・と、一般的には言うのだろう。
(でも、リアルだった。生々しかった)

どうやら、夢の中で、あの世界に行ってきたみたいだ、とゆり子は思った。目の周りが濡れていた。どうやら、夢の中で涙を流したらしい。

そう、先ほどまで、ゆり子が体験していたのは・・・

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恋愛ドクターの遺産(7)サンドバッグの結論3

「なるほど・・・奥さまも、感情的になるのを抑えられない自分自身を、自己嫌悪されていたのですね。」
「そのようでした。でも、そうやって話を聞いていたら、突然抱きつかれたんですわ。」

「おぉ!それはおめでとうございます。」

なんて脳天気なんだ、となつをは思った。奥さんが苦しんでるのに、抱きつかれておめでとう、って。
しかし、こばやんには響いたようだ。

「そうなんです!ありがとうございます!」

「それで、奥さまは何て?」
「泣きながら、『もう一度やり直したい。』て。」

「そうですか。それはよかったですね。」
ドクターは握手の形に、右手を差し出した。こばやんもその手を握り、ふたりで固く握手を交わした。
なんか、男同士のノリだな、となつをは思った。女性からすると、まだ完全に解決していないのに、ちょっと喜ぶのが早すぎるし、ノリが軽すぎると感じるが、一方で、うらやましくもあった。

「でも先生、これでスタートラインだと思っているんですが。」
「まあそうですね。希望の人生への、スタートラインですね。」
ふたりはわはは、と笑った。

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恋愛ドクターの遺産(7)サンドバッグの結論2

次のこばやんのセッションは、劇的だった。

「先生、報告があります!」こばやんが開口一番、これまでで一番大きな声を出して言った。
「どうしました?」ドクターはいつも通りの調子だ。
「カミサンが帰ってきました!やり直そう、いうことになってます!」
「おー、それはおめでとうございます・・・というか、多分色々あったと思うんですが・・・頑張りましたね。」
「えぇ、ほぼ先生の予言通りでした。」
予言通り、と言われて、ドクターは少し得意げな表情うかべた。
しかし、すぐに優しげな表情に変わって、こう続けた。
「常に、現場で頑張る人が一番大変です。こばやん、これは、あなたが起こした奇跡ですし、あなたの成果です。胸を張って、人生の貴重な「武勇伝」にできます・・・あ、言い過ぎですかね?」
こばやんとドクターはふたりでわはは、と笑った。

「でも先生、ようやく再びスタートラインに立ったぐらいじゃないかと思うのですが。」こばやんが真顔に戻って言った。
「そうですね。でもまずは、ちゃんとスタートラインに戻って、再出発の準備が出来たことを喜びましょうよ。」
「賛成。」
「何が効果的でした?ちょっとその、成功の秘訣を教えてくださいよ!」
先生は無邪気な子どものように、興味津々、という雰囲気で尋ね始めた。

なつをは以前、先生のこの、「興味津々モード」について質問したことがある。先生はときどき、子どもみたいに興味津々で色々質問をすることがあるけれど、それは、興味本位なのか、それとも演技なのか、と。先生の答えはこうだった。まあ、ある程度自分が興味を持つ範囲をセッションの時には決めている、と。クライアントの問題解決に役立つことに興味を持つように、自分自身を持っていく、とかそんな感じだった。ということは、ある意味演技とも言えるのかな、となつをは解釈していたのだが、こうして無邪気に尋ねる先生を見ていると、とても演技には見えなかった。

(これを天職というのかもしれない・・・)
なつをはそう思った。

こばやんは、しばらく考えて、こう答えた。
「いや、ほんま、先生に言われた通りですわ。サンドバッグになる、いうイメージを持て、て言わはったんで、その通りにしました。」
「やってみて、何か気づいたことはありましたか?」
「そうですね。今までは、自分が責められてる、自分が悪いと言われてる、と、そこしか考えられへんかったんです。せやけど、サンドバッグになってカミサンの話を聞いてみたら、なんだか、怒っている、私を責めているというより、救いを求めているように見えたんです。」
ドクターは深く二度うなずいた。

「そうですか。」
あぁ、もう、卒業だな、となつをは思った。目の鋭さが消えていたからだ。先生が「これから解決してやるぞ」と、心の腕まくりをしているときは・・・「心の腕まくり」とは本人が時々実際に使う言葉だ・・・優しい口調、優しい表情をしているときでも、独特の鋭い眼光がある。心の奥底まで見透かすような、洞察眼だ。でも今の先生は、本当にリラックスしているように見えた。

「たぶん、もう解決に向かっていくとは思うのですが。」ドクターは続けた。
「念のため、より確実にするための行動課題を提案させて頂きたいんですが。」

「いいですよ。でも、その前に、ええ話ですんで、ぜひ先生にも聞いて頂きたいんです。」
「それは失礼しました。ぜひどうぞ。お願いします。」

「実はカミサンから、こんなことを言われたんですわ。『私は子供時代から、不安で、私を愛してくれる人はいない、と感じて育った。でもゆうさん(こばやんは奥さまからそう呼ばれている)と出会って変わった。でも、仕事が忙しくなったりして、どうしても「ゆうさんも私を見放すのか!」って想いが強くなって、家で一人で考えていると、どんどんそう考えていって、自分でも止めようがなくなってしまった。ゆうさんに当たるのはお門違いって分かっていても、止められなかった。ゆうさんが怒鳴ったとき、もうあとは絶望しかない、私の人生は、って思ってしまった。こんな自分が嫌いだ。』と、こんな感じの話でした。」

「なるほど・・・奥さまも、感情的になるのを抑えられない自分自身を、自己嫌悪されていたのですね。」
「そのようでした。でも、そうやって話を聞いていたら、突然抱きつかれたんですわ。」

「おぉ!それはおめでとうございます。」

なんて脳天気なんだ、となつをは思った。奥さんが苦しんでるのに、抱きつかれておめでとう、って。
しかし、こばやんには響いたようだ。

(つづく)

恋愛ドクターの遺産(7)サンドバッグの結論1

 

こばやんが帰り、なつをとドクターが議論をしていた。

「先生、どうして奥さまの愛情飢餓が原因、ということが分かるんですか?」
「それが分からないようじゃ、まだメインカウンセラーとしてこの仕事を任せるわけにはいかないな。」
「意地悪言わないでください。」
「別に意地悪を言っているわけじゃない。もっとレベルを上げてもらわないとお客さんの前には出せない、という経営判断を言っているだけです。本当に、レベルを上げてください。」

先生は仕事のクオリティーについてはかなり厳しい。クライアントに接するときの柔らかい感じとは全く違う厳しい一面を見て、なつをは、毎度の事ながら軽く当惑した。

「でも、どうしてなんですか?」なつをは尋ねた。

ドクターは視線を斜め左上に移して、しばらく考えているようだった。そして言った。
「いくつか、そう推測するに値する状況証拠がある。たとえば、彼の話から、学生時代、そして仕事の責任がまだ軽かった頃、子供もいなかった頃・・・これは言い換えるとふたりで過ごすヒマが十分あった頃と言い換えられる・・・その頃には関係はうまく行っていたと分かる。彼の奥さんは、自分のために時間を使ってもらいたいわけだ。」

「それって、女なら大抵そうじゃないんですか?」

「君は、同時に一個のことしか考えられないのか? それだけで決めつけたわけではない。」ドクターは少しいらだった様子でそういった。そして、続けた。
「それから、関係が悪化していった経緯です。健全に育ち、心が健康で大人の女性の場合、相手が自分のために時間を使ってくれなくなったら、それは寂しい。寂しいのは当然の反応だが、それをある程度受け入れ、自分を満たす別の方法を見つけて、相手への期待を少し手放す。それができるものだ。『亭主元気で留守がいい』という言葉は、面倒くさいから居ないでほしい、と解釈されることもあるようだけど、忙しくて一緒に居られないが、それをある程度手放した妻の強さを表す言葉とも解釈できる。」

「はぁ。」

「そして、たとえば、ダンナの忙しさの波が少し去ったら、一旦棚上げしたダンナへの期待を、もう一度復活させて、相手に期待する、つまり『寂しい、かまってよ。』という意味のことを言えるものだ。」

「あ、そういえば私も、彼が忙しいときは、一人で過ごす方法を色々覚えたけど、また一緒に過ごせるようになったら、彼と一緒に出かけるように、生活を変えました。」
「そういうこと。こばやんの奥さまは、そのあたりの、自分をうまくコントロールするスキルが未熟に見える。ある程度まで我慢して我慢して、ある日突然、『あんたにはもう期待しない!』ってなる。」
「確かに。言われてみれば、そういう傾向はありましたね。」
ドクターは、やっと分かったか、と言いたげな様子で、二、三回うなずいた。

「これは、愛着障害、という概念で考えると理解できる。幼少期に親との愛着に問題があると・・・色々なパターンがあるが、そのひとつの類型としては・・・べったり愛着して、相手がかまってくれなくなったり自分のことを少しでも否定したりすると、途端に「ぷいっ」と離れる・・・この「ぷいっ」を専門用語で「デタッチメント」というんだが・・・そういうことを起こすんだ。彼の話から、奥さまの反応がこのデタッチメント的だと考えたわけだよ。」

「なるほど・・・ここまで言われると納得です。」
「もうひとつ、これは参考程度かもしれないけれど、この仮説を強化するような状況証拠があります。それは、こばやんの性格です。彼は、何かがあると、自分を強く責める。そして何か問題があると、自分が行動して解決しなくてはいけない、という発想をする人ですね。」

「はい。男性的・・・というか、そういう面、ガチガチでしたよね?」

「そうだ。実は、自分を責める傾向の強い男性には、依存的な女性がカップルになる傾向がある。これは経験則だけれど。そして、表面的に依存的な部分が出ている女性の中で、愛情飢餓を持っていて、愛着障害の傾向もある、という女性は、それなりに、いる。」

「なるほど・・・前の二つに比べると、ちょっと弱い証拠、という感じですね。」
ドクターは、そういうこと、という感じで、小さく複数回うなずいた。

しかし、先生、これだけのことを毎回、相手の話を聞きながら考えているのだろうか、となつをは感心半分、自分に出来るだろうかという不安半分で考えていた。事実、先生の仮説はこれまで、ほとんどの場合正しかった。よくこれだけ間違わずに判断をくだせるものだと、なつをは感心、というより畏敬の念で、帰り支度を始めたドクターの後ろ姿を眺めていた。
・・・

次のこばやんのセッションは、劇的だった。

「先生、報告があります!」こばやんが開口一番、これまでで一番大きな声を出して言った。
「どうしました?」ドクターはいつも通りの調子だ。
「カミサンが帰ってきました!やり直そう、いうことになってます!」

(つづく)

恋愛ドクターの遺産(6)「変化」−4

「幼少期の愛情飢餓問題。そのことで、少し相談があるんですが。」ドクターは言った。

(えっ! なんと!)

なつをは心底驚いた。先生がなつをに対してあれほど明確に否定した愛情飢餓説を、クライアントを前にして堂々と言ってのけたのだ。

(そんな・・・やっぱり、自分が言うのは良くて、私が言うのは許さない、ということなの・・・?手柄を独占したいってこと? 尊敬できる先生かと思ったけど意外に器が小さいのかも・・・)
なつをの脳裏に、以前一度浮かんだ疑念がまたよみがえってきた。
「幼少期の愛情飢餓。私にはそういう問題がある、ということでしょうか?」
こばやんが尋ねた。ひとつ課題をクリアしてスッキリしたばかりで、また次の課題があると言われて、戸惑っているようだった。しかしドクターは全く動じることもなく、いつも通りの調子でこう言った。

「いや、そうではありません。愛情飢餓の問題を持っているのは、奥さまではないかと考えているのです。」

「えっ?」
「えっ?」
こばやんとなつをは同時に声を上げた。ドクターはなつをの方をチラッと見た。助手は静かにしていなさい、という意味だった。なつをは心の中で「すみません」といいながら軽く頭を下げた。

「さきほど、こばやんの課題については、一番大きいものが、会社の危機に十分力を発揮できなかったと自分を責めていたことによる罪悪感・無力感、と申し上げましたが、それは、それでよいと思っています。但し、ご夫婦の関係がうまく行かない原因として一番大きな要因、ということになりますと、実は奥さまの側の問題・・・幼少期の愛情飢餓の問題・・・が、こばやんの課題よりも少しだけ大きいのではないかという印象を持っています。」

「えっ?そうなんですか?」

「えぇ。でも今日は、色々ワークもしましたし、全部こと細かく説明する時間もありません。そこで、この仮説は私を信用して頂いて、ひとつ試して頂きたいことがあるのですが。」

「はい。先生の仮説なら、信じて進める気がします。」

「奥さまは、ときどきご実家にお帰りになっているのですよね。その奥さまに、毎日メールか電話をする。そして、ここが大事なところですが、あえて、サンドバッグ役になって電話してください。変な話ですが、たとえばご自分が本物のサンドバッグになって、奥さまのパンチやキックを受け止める、というイメージを頭の中で作ってから、メールをする、電話をする、ということを、一ヶ月ぐらい続けてみてください。」

「・・・はーぁ。なるほど。これ、結構キツイ修行やね。」
「そうですね。ただ、今のこばやんなら、ある程度頑張れるかもしれない、と思うので、提案しているんです。」
「先生はどうしてそう思われるのですか?」
ドクターは質問には直接答えず、さらに話を続けた。
「以前険悪になった頃には、奥さまから色々言葉で責められたことがあったのではないかと思うのですが。」
「えぇ。ありました。あれはキツかったですわ。」
「もし、奥さまがお家に帰っていらっしゃった場合、それと同じように、奥さまの言葉を受け止めることを、またやってみてほしいのです。」
「はい。頑張ります・・・でも結構しんどいかもしれません。」

(いきなりこんな大変な宿題を出して大丈夫なんだろうか・・・?)
サンドバッグになれ、とかなり精神的にキツイ行動課題を、平気で出している先生に対して、なつをはそう思った。

「まあまあしんどいとは思いますが、実は以前ほどじゃないと思いますよ。」

怪訝そうな顔をしているこばやんに対して、ドクターはさらに続けて言った。
「では、奥さまが以前のように、こばやんを責め立てる、という場面を想像してみてください。」

「・・・はい。」
少しだけ、こばやんの表情が曇る。

「今どんな感じですか?とてもしんどくて耐えられない感じ?」

こばやんは、意外そうな顔をしながら答えた。
「いや、意外と出来るかもしれへん、と思いました。前はほんまにしんどかったのに、なぜなんでしょう?」

「詳しくは、そのうちお話ししますよ。でも、人は、目の前の出来事から直接影響を受けるわけではないのです。それを心の中で解釈して、それで、どんな気持ちになるかが決まる。こばやんは、以前は、ご自身を責めていらっしゃったわけですよね?」

「そうですねぇ。」

「ということは、同じように責められても、以前の方が、自分で自分を責めて苦しくなる、という度合いが大きかったわけです。自分を責めるのが止まった今、以前より、他人から責められることに、強くなったわけです。」

「はぁ・・・そういうもんですか。いつも勉強になりますわぁ。」

そろそろ時間だ。セッションは終わり、こばやんは、先生ありがとうございました、と言って、深々と頭を下げて帰っていった。先生も同じぐらい深々と頭を下げていたのがなつをには印象的だった。

この物語はまぐまぐから配信の無料メールマガジン「女と男の心のヘルスー癒しの心理学」で(少し)先行して配信しています。また独自配信(無料)の「ココヘル+」では物語の裏側、心理学的側面を解説しています。合わせて御覧頂くと、より理解が深まります。登録はいずれもこちらのページから行えます。(すでにお支払いになっている、インターネット接続料金・通信料以外の料金は一切かかりません。)

恋愛ドクターの遺産(6)「変化」−3

「では今度は、現在のあなたのまま、当時の世界に入っていく、とイメージしてみましょう。椅子を立って、向かいの椅子にいる、当時のあなたに近づいていってください。」

先生が誘導すると、こばやんが椅子を立ち、向かいの椅子の前に立った。

「私がこれから言う言葉を、今実際に声に出しながら、当時のあなたに伝えてあげてください。」

「はい。」

「呼びかけの言葉は『こばやん』でいいですか?」
ドクターが確認した。
「はい。」

「では、いきます。『こばやんは、悪くないでぇ』」
ドクターはこのときだけ、関西弁になってそう言った。

こばやんは、すぐには言葉を発しなかった。言おうとしているが言えない、そんな感じだ。頭が小刻みに、不規則に震えている。しばらくして、はぁ、とため息をついた。

「言えないもんですねぇ。」

なつをは、あぁ、ゆるしのワークを実践しているんだな、と思った。空椅子を置く「エンプティーチェア」のワークは一般的なセラピーの技法だが、いま先生は一般的なエンプティーチェアのワークをしているのではない。形だけエンプティーチェアの形式を借りているが、ゆるしのワークという別の技法だ。「悪くないんだよ」とゆるしの言葉を、自分を責めてしまっている過去の自分に対してかける。これは先生が編み出した技法だそうだ。

「もう一回やってみたら、言えるかもしれません。」
ドクターは続けた。
「こばやんは、悪くないでぇ。」

「こばやんは、悪くない・・・。」
こばやんの喉から、うっうっ、と嗚咽が漏れる。このワークは、自分を強く責めているほど、例のせりふを言うときに反応が出る。こばやんはどうやら、自分を無意識にかなり責めていたようだ。

「次は、この言葉を言ってあげてください。『よう頑張ったな』」
「よう頑張ったな・・・ほんと、よう頑張った。よう頑張ったな。」

こばやんの目から涙が落ちた。
ふとみると、表情が随分穏やかになっている。というより、笑っているようにも見える。大きな心の負担を抱えて苦しんでいた人が癒されていくとき、独特の明るい表情を見せる。以前、先生が「多くの人は負の感情を怖がって感じないようにするが、ため込んでいた負の感情を出すというのは、喜びに近いものだ」と言っていたのをなつをは思い出した。

そのあと、同様にいくつかのせりふを言ってもらって、ゆるしのワークは終了した。初めのせりふが一番の反応を引き出したようだ。感情が激しく動くと疲れるものだ。こばやんは少しぼうっとしているように見えた。

「最後に、確認のために、もう一度最初のように、当時のあなたになったとイメージしながら、そちらの椅子に座ってみて下さい。」

「はい。」

「当時のあなたになってみると、世界の明るさは、明るいですか暗いですか?」
「明るいです。」
「空気の温度は、暖かいですか、肌寒いですか?」
「ふつうやけど・・・少しぬくいです。」
「空気の重さは、軽いですか?重いですか?」
「あっ・・・重くないですね。軽いですわ。」
最後の質問に答え終わったあと、こばやんは「にっ」と笑った。

「先生・・・不思議ですね。あんなに重うて苦しかったのに・・・消えてしまいました。」

「そうですね。もう終わったことなので、こういう問題は解決が早いです。」
「そういうもんですか。」

ドクターはそれにはあまり答えず、まとめに入った。
「今日のセッションのポイントなんですが、これは、会社の危機に対して、十分に力を発揮してそれを救うことが出来なかったという罪悪感や無力感が、ずっと心にのしかかっていて負担になっていた、ということだと思います。」
「確かに、それはありました。ずっと不安で、苦しくて、でも業績は一向に良くならんし。ほんまに苦しかったですわ。あの頃は。」
「その時期に、みんなの期待に応えられず、十分に力を発揮できず、会社を救えず・・・となっていた自分自身を、徐々に責めるようになってしまったのだと思います。」

「そうですね。納得です。その通りだと思います。」
こばやんは、セッションに納得していたようだった。そして、大事な質問をした。
「先生、私のこのストレスが、夫婦仲がうまく行かなかった原因だった、ということなんですね?」

こばやんはそう尋ねた。なつをが「あぁ、このセッションもこれでまとめに入るのだな」と思ったそのとき、ドクターが意外なことを言いだした。

「いや、実はそうではないかもしれない、と思っているんです。
幼少期の愛情飢餓問題。そのことで、少し相談があるんですが。」

(えっ! なんと!)

なつをは心底驚いた。先生がなつをに対してあれほど明確に否定した愛情飢餓説を、クライアントを前にして堂々と言ってのけたのだ。

恋愛ドクターの遺産(6)変化−2

なつをは、こばやんの表情がみるみるこわばってきたことに気づいた。心理セラピーにおけるワークは、想像の世界で、ある意味、虚構の世界ではあるが、それが本人にとっては、相当のリアリティーのあるものだったりする。この場合も、すでに過去の出来事なのに、その当時のような緊張感がよみがえってきている。
こばやんの表情がこわばるにつれて、その場の雰囲気もピリピリと張り詰めたようになってきた。そんな中でもドクターは特に表情を変えることなく、相変わらず、穏やかな調子で指示を出していく。

(こういうところ、ホント先生はスゴイ・・・)

「こばやん、当時のあなたは、どんな服を着ていますか?」
「えと・・・スーツ姿です」
「髪型はどんなですか?」
「今と近いですけど・・・すこしボサボサな感じです。」

こばやんは髪のボリュームのあるタイプだ。髪が少しカールしているせいかもしれない。なつをにも、そこにはいないはずの、少し髪がボサボサな、当時のこばやんが見えたような気がした。

「どんな表情をしていますか?」
「かなり張り詰めた感じです。深刻そうな表情をしています。」

「では、当時のあなたになってみましょう。実際に椅子を移動して、そちら側に座ってみてください。」

ドクターが手で、向かいの空椅子の方を示して、こばやんを促した。こばやんが椅子に座る、絶妙なタイミングで、こう続けた。

「その椅子に座ると、当時のあなたになる、とイメージしてください。」

(意外とすんなり座るものだな・・・)
なつをは、以前このワークを勉強のために実践したことがある。大抵、向かいの空椅子には、自分にとって心地よくないものを座らせるため、空椅子に移動するときには、ものすごく心理的抵抗がある。なつをは一度「できません」と断ったことがある。その時も誘導役はドクターだったが、「そっかー、できないよねー。何か抵抗あるみたいだねー。」「はい。」「あ、でも、もう一回やってみたらできるかも。」「えっ!・・・」こんな感じで押し切られて、「えいっ!」と座ったのだった。座ってみると先ほどまでの抵抗感は急に消えていた。あれは本当に不思議な体験だった。
でも、こばやんは、はた目には、特に抵抗もなく、すんなり座ったように見えた。それがなつをには意外だった。

こばやんは、相変わらず厳しい表情をしている。ドクターは質問を続ける。

「世界の明るさはどうですか?」
「全体的に、薄暗く、グレーな感じです。」
「空気の温度は、温かいですか?肌寒いですか?」
「ふつう・・・ですかね。」
「空気の重さは、軽いですか?重いですか?」

これは先生必殺の質問法だ。空気の重さをきくと、その本人の持っている罪悪感の重さが分かるのだ。そもそも、罪悪感は非常に重たく、感じることに苦痛を伴う感情なので、人間は罪悪感を感じないように生きている。
先生は「罪悪感は感じない感情です」とよく言っている。感じないからない、のではなくて、感じないけど、潜在的にはそこにある感情、と禅問答みたいなことを言われたことがある。その、なかなか感じなくて、捕らえどころのない罪悪感を、質問一発であぶりだすことができる、先生の発明が「空気の重さは?」なのだそうだ。以前「どこの心理学の教科書にも書いてないけど」と自慢げに説明してくれた時の先生の得意げな表情を、なつをは今でも鮮明に思い出せる。実は友達が自分を責めて落ち込んでいるようなとき、なつをはこっそりこの質問を使っている。

「空気は・・・重いです。」

空気だけではない。こばやんの表情も、体も、全てから「重い」感じがにじみ出ている。

「ほんと・・・重そうですね。」

こういうとき、先生は、驚くほど軽い言い方をする。なつをには、その軽さが、クライアントの深刻さとミスマッチなようで、いつも気になる。先生自身が重い空気感に呑み込まれないために意識的にやっていることなのか、それとも、これも何かの、セッションの効果を高めるための「発明」なのか・・・一度聞いたことがあるが、そのときは適当にはぐらかされた。

「では一度、現在のあなたに戻ってきてください。」

ドクターは、先ほどまでこばやんが座っていた方の椅子・・・現在は逆に空椅子になっている方・・・を手のひらで指し示した。こばやんがゆっくりとそちらの椅子に戻る。

「当時の世界に入ってみて、どんな感じがしましたか?」
「えらいびっくりしました。ものすごい暗くて、重苦しゅうて・・・当時の感覚が全部よみがえってきましたわ。」

(つづく)

恋愛ドクターの遺産(6)変化−1

「最近いかがですか?」
先生が尋ねた。今日はこばやんがまた来ている。

「そうですね。相変わらず苦しいときはあります。」
「まだ、一番の問題が未解決ですからね?」
「そうですね。そのことを思うと、やっぱり気持ちが重くなります。」
「そうですよね・・・こういう状況の時は、どうしても心に負担がかかります。」

「はい・・・あ、でも、例のごほうび付きのウォーキング、最近はよくやるようにしています。歩いているときは結構忘れていられるというか、むしろ元気に歩けますね。」
(その言葉、さては気に入ったな)なつをは思った。
こばやんは今日は「ごほうび付きのウォーキング」という言葉をすらすらと言った。おそらく前回のセッションで気に入って、自分の中でも、この言葉を何度も使っていたのだろう。

「そうですか。それは何よりです。一番しんどかった時を0点、何もかも良くなった時を100点としたら、今は大体何点ぐらいですか?」

「そうですね・・・40点ぐらいじゃないでしょうか。」
「なるほど。40点。それって何の40点分なんでしょうね。何があるから、40点なのですか?」

出た!スケーリングクエスチョン。なつをは思った。
先生はこの質問を使うことが結構多い。今何点ですか、と状況を聞きながら、同時にポジティブなことに目を向けさせるという、カウンセリングの高等テクニックだ。

以前、なつをは初めてこの質問を教わったとき、ドクターに「その質問、私もよく使います」と生意気な発言をして・・・例によってダメ出しをもらったことがある。なつをが言及したのは、例えばフィギュアスケートの演技を終えた選手に「今日の出来は何点ですか?」と訊くような、あの質問だった。点数を数字で表すなんて、よくあること、と、知ったかぶりをしたのだった。今でもそのときの、ドクターのがっかりした顔が忘れられない。「その質問とは似ているが本質的なことが違う。たとえば90点と答えたら、なぜ100点じゃないのか、減点したのは何なのかを訊くことが一般には多い。減点法だ。でも、カウンセリングでは絶対にそれをしてはいけない。完璧主義で自分を苦しめているクライアントも多いが、その質問をすればますますその傾向を強めてしまう。そうじゃあなくて、『何があるから○点なんですか?』と、あるものに意識を向ける、加点法の質問をすることが大事なんだ。」
そう、加点法で「何があるから・・・」とあるものに意識を向けさせるような質問をするのが、このスケーリングクエスチョンのコツなのだ。ドクターは質問の達人だ。さりげないが、大事なポイントは絶対に間違えない。
「えぇと・・・最近は、美味しくご飯が食べられることが多くなりました。」
「それは何よりです。」
「それから、例のウォーキング。歩いているときは、わりと清々しい気持ちになっている気がします。」
「そうですか・・・そんなところですか?」

「あと、意外と職場の人・・・あ、実は、離婚の危機かもしれない、ということを同僚に話したのですが、男性の同僚はもちろん、女性も結構味方になってくれて、親身に話を聞いてくれたりして、ここのあたりが固くギューっとなっていたのがほぐれたというか、温かくなったというか・・・」

こばやんは胸のあたりを手のひらで示した。そして続けた。

「とにかく、味方が結構多いと感じたことは大きかったですね。人って優しいな、というか。」

「それはきっと、こばやんのお人柄ですね。今までの仕事や人付き合いで、良い関係を築いていらっしゃったんですね。」

「あぁ・・・ありがたいことです。」

こばやんは、はっとした様子で顔を上げて、ドクターを見て言った。
「あ、なんか、65点ぐらいな気がしてきました。」

「ほう、65点! 結構いい線行ってますね!」
「そうですね。なんか、結婚の問題は、まだ解決していないですけど、支えてくれる人もたくさんいるし・・・と思ったら元気が出てきました。」

何も基礎知識がない人がふたりの会話を見たら、何気ない会話、何気ない質問と回答を繰り返しているように見えるかもしれない。でも、こんな短時間で、明らかにこばやんは気持ちが明るく変わっている。やっぱり先生はスゴい、なつをは思った。

「なつを君。椅子を用意してください。」
「え・・・あ、はい。」
突然こちらに話しかけられて咄嗟に返事が出なかった。なつをはいつもドクターのセッションを観客みたいな気持ちで聞いてしまうのだ。

なつをが椅子をもうひとつ持ってくると、ドクターは立ち上がり、その椅子を自ら持って、こばやんの横に、こばやんの方を向けて置いた。
「こばやん、こちらの椅子の方を向いていただけますか? 椅子ごとお願いします。」

こばやんが椅子の向きを変えると、ちょうど、こばやんが座っている椅子と、新たな椅子とが向かい合った状態になった。なつをは知っていた。これはエンプティーチェアという、カウンセリングの技法だ。ドクターはこれからそれを実施するのだろう。

しかし、それから10分間ぐらいの先生の質問、そしてこばやんとのやりとりは、なつをにはよく理解できなかった。先生は色々ホワイトボードに絵を描いて質問したり、こばやんに何かを言わせたりしていたが、それが何を探るためのもので、結局何を探し当てたのか、よく分からなかった。

しばらくして、空の椅子を手のひらで指し示しながらドクターが言った。
「ここに、そうですね。仕事のストレス・・・そうですね。会社がもしかして立ちゆかなくなるかもしれない、というストレスが最大だった頃のあなたがいるとイメージしてみてください。」
「はい。」

なつをは、こばやんの表情がみるみるこわばってきたことに気づいた。心理セラピーにおけるワークは、想像の世界で、ある意味、虚構の世界ではあるが、それが本人にとっては、相当のリアリティーのあるものだったりする。この場合も、すでに過去の出来事なのに、その当時のような緊張感がよみがえってきている。

(つづく)

恋愛ドクターの遺産(5)セッション−3

「ところで、こばやん、もし、タイムマシンに乗って当時・・・つまりストレス度がマックスだった頃に戻ってやり直せるとしたら、元気補給や、健康維持のための、どんなことをしたいですか?」

「そうですね・・・食べ歩きですかね。」
「食べ歩き!?」

こばやんは、絵に描いたような中年太りのおじさんだ。決して不健康そうではないが、少し小太りだし、あごもうっすら二重あごだ。そのこばやんから、健康のために食べ歩きをする、と聞いて、なつをは心の中で「おいおい」とツッコミを入れた。

先生も同感らしく、ちょっと驚いている様子だった。

「いや、そうですよね。ウォーキングの方がいいですよね。でも、ただ歩くだけ、と思うとモチベーションが続かないので、しっかり歩いたら、美味しい物を、食べ過ぎないようにしながらですけど、食べる。それを『食べ歩き』と称して、彼女とつき合っていた頃・・・あ、彼女というのは今のカミサンですけど・・・よくやっていたんですよ。」

「ああ、なるほど。終わったあとに美味しい食事のごほうび付きの、ウォーキングね。」

「そういう言い方をすると、心身に良さそうに聞こえますね。」
ふたりは楽しそうに笑った。

「いいと思いますよ。あ、でも、奥さまと一緒にされていたんですよね? 新婚当初とか?」

「はい。でも、カミサンと険悪になってからは、次第にやらなくなりましたね。たべある・・・いや、ごほうび付きのウォーキングは。」

「今からまた、美味しいごほうび付きのウォーキングを再開することは出来ますか? 奥さまを誘うのは今すぐだとハードルが高ければ、お一人でも、お友達を誘ってもいいと思うので。」

「はい。結婚後もそうやってひとりで歩いたりしたこともありました。本当は気持ちよかったんですが、いつの間にか忘れていました。ええ、またやってみます。」

「では、今回はこんなところで・・・ご相談ありがとうございました。」

「こちらこそ、ありがとうございました。」

 

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恋愛ドクターの遺産(5)セッション−2

今日のクライアントは、なつをが前回のセッションの時に「愛情飢餓」ではないのか、と先生と議論になった、その、こばやんだ。でも先生は愛情飢餓説には全く興味を示さない。そして、初めて積極的に質問をしたのが・・・つまり先生が「食いついた」ということなのだが・・・会社の危機からくる仕事ストレスの話だった。

「いえ、特に何も・・・仕事でいっぱいいっぱいで、気晴らしや運動など、本当にする時間も余裕も無かったですから。」

「そうですか。こばやんは、会社で、次第に、些細なことに過敏になったり、あるいは、周りの人から『最近扱いづらくなった』みたいに言われる事はありませんでしたか?」

「えっ!? どうして分かるんですか? 確かに、会社の危機が続いて、仕事に没頭して・・・とやっている頃、だんだん、周りの人がデスクで立てる音が気になって注意したり、それでも気になって、耳栓をしたり・・・周りの人から『最近変だよ』とは時々言われてました。」

「そうですか。なるほどね・・・やはり、仕事上のプレッシャーというか、会社がどうなるか分からない、どうにかしなくてはいけない、という危機感、責任感、重圧、そして、焦りみたいな物も感じていらっしゃったかもしれませんね。」

「いや、その通りです。焦りです。重圧もありましたが、自分がこの状況を打開できるだろうかという不安と、打開できなかったら会社はどうなってしまうのだろうという焦り・・・今思い出しても気分が悪くなります。」

「本当に大変でしたね。家族を守るためのお仕事で、神経をすり減らすことに・・・そして会社まで守らなければならないという重圧・・・お察しいたします。」

なつをの目から見ても、この瞬間、クライアントがふっと肩の力が抜けていくのが分かった。表情が急にゆるんで、目にうっすら涙が浮かんだ。こんな変化があったときは、クライアントの問題は一気に進展していくことが多い。今日も先生のセッションはスゴいのひと言だ。やはり核心は幼少期の愛情飢餓問題ではなかったのだ。仕事からのストレスにパッと光を当てて、簡単な質問で、クライアントの「分かってもらいたい」ポイントにたどり着く。