ペルソナとシャドウ 【ぺるそな と しゃどう】

 

ペルソナとシャドウ 【ぺるそな と しゃどう】 (persona and shadow)
 
 ペルソナとは、ある人が社会的あるいは周りの人に対して適応するために作った「仮面」「外面」のこと。語源に舞台で使う「仮面」の意味があり、ユングが名付けた。社会に適応するためにはペルソナを作ることは必要なことであるが、ペルソナが強くなりすぎると、自分の欲求や感情が抑圧されるようになる。これがシャドウである。
 シャドウとは「影」という意味であるが、ペルソナを作る過程で、受け入れられない考え方や感情を心の底に押し込めて「なかったこと」にする。その切り離された自分の一部がシャドウである。
 分かりやすい例で言えば、「自分のことは自分でする」というのは大人の原則である。但し、「他人に頼りたい」という気持ちも、ゼロにはならない。「自分のことは自分でするのが原則だが、大変なときは、上手に頼ることも大切」というように、適度にバランスが取れていればよいのだが、「自分のことは自分でする。他人には頼らない」というペルソナが強くなりすぎると、「他人に頼りたい」というシャドウが強く抑圧される。
 抑圧されて、日頃気づかないからこそシャドウなのであって、自覚がない場合が多いのであるが、シャドウの存在は、他人を鏡にして気づくことができる。たとえば、上記のようなケースであれば、「すぐに人に頼る人」や、「他人のご機嫌取りをして、助けてもらう人」を見たときに「イライラ」したとすると、そこにシャドウの存在があることが分かる。なぜなら、そのイライラ、怒りは自分の自我が、自立した個性を好み、これを表面的な性格(ペルソナ)とし、依存的な部分を嫌って抑圧し、シャドウを造り出したからこそ起こるものだからである。
 上記のケースのように、直接自分に被害が及ばない(誰かが依存的に振る舞っていても、それを見た人が損をしたわけではない)のに、怒りやイライラが出てくる場合、シャドウの存在をまず疑ってみるべきである。シャドウは本来、自分の感情や欲求に寄り添った人格であるが、抑圧しなければならない理由が人生のどこかにあって、抑え込まれて出たがっているものである。
 原因は多岐にわたるため、個別に探る必要があるが、上記のケースではたとえば、親が厳しくて、子供時代に十分に依存できず、依存したい気持ちを無理やり心の底に押し込めて自立した、というパターンがよくある。また、逆に親が頼りなかったり、忙しかったり、家が貧乏だったりしてゆとりがなく、子供時代から何でも自分でやらなければならない状況にあり、やはり同じように十分に依存できずに、依存したい気持ちを無理やり心の底に押し込めて自立した、というパターンもある。
 シャドウが生まれるプロセスで大事なことは、環境をきっかけにして、自分で自分の欲求を抑圧することを決めたというところがポイントである。同じような環境で育っても、自立的な姉と依存的な妹が育ったりすることもある。兄弟姉妹間で、対極的なペルソナを持つことは珍しくない。
 
 ペルソナとシャドウという対立を心の中に持っていると問題になることは、これが、現実の対人関係の対立に反映することである。人間関係が対立を軸としたものになりがちになる。特に自分が嫌っている「シャドウ」の側に立っている人とは、敵対関係になる。
 また、シャドウが「分かってもらえない」ことは怒りの原因になり、その怒りすら抑圧してしまうと、周りの人に怒りが移り、「なぜか他人から怒りをぶつけられる」という現象として表面に出てくることもある。
 
 身近な他人の持っている考え方や感情を「自分のシャドウかもしれない」と見る習慣を持つことは、自分の心を探り、改善していくために有用である。