「浮気はなぜいけないのか?」について議論しましょう。

 

行動の規範、善悪の基準を学ぶ機会は意外と少ない!

 
マイケル・サンデル教授「これからの正義の話をしよう」本の表紙画像
 
恋愛セラピーで相談を受けていると、
いくつか、典型的な解決の道があります。
 
・過去の心の傷(トラウマ)を癒す
・自己肯定感を高めるため、母親的な「包む愛情」を補う
・長所を知り自信をつけるため「ほめられる」「感謝される」経験を積む
・(行動の規範、善悪の基準を身につけ、ぐらつかない自分を作る)
・親と離れて、自分で責任を持って生きる
 
このうち、行動の規範や善悪の基準を身につける方法は、心理療法にはあまりないのです。むしろ、(実際の親からもらえなかった場合は)仕事の中で精神的に成熟した上司や取引先の人に出会い、時にほめられ、時に叱られて身につくものではないかと思います。
 
とは言え、それでは「運に頼ります」と言っているに等しいので、このコラムのコメント欄を使って、善悪の基準、行動の規範について考えてみたいと思います。
 

ぜひ、議論に参加して下さい!

 
このページでは、積極的に「私はこう思う」と発言して下さる方を歓迎いたします。
絶対的な正解というものもないですし、したがって間違いというものもないと思います。
 
全ての議論が、考えるきっかけになります。
 
考えが十分にまとまっていなくても、OKです。
たとえば、
「浮気は、家族を破壊して、子供が傷つくので絶対ダメ、と思います。
 でも、子供がいない夫婦だったらいいのかと言われると…
 そこは考えがうまくまとまりません。」
 
こんな風に、
・ここまでは自分なりに結論が出た
・ここからは、まとまっていない
そういう書き方で十分OKですし、むしろ議論の助けになります。
 
実は、ものごとを考える時に一番大事なことは「私はここが分かっていない」と自覚することなのです。そのことは、恥じるどころかむしろ誇るべきことです。ソクラテスが最高の知恵者であったのは、彼が自分の無知を自覚していたから、という話が伝わっています。だから、知らないことを隠したりせず、「自分はここまで考えた。でもここから先が分からない」と堂々と表明して下さい。
 
 

お題は「浮気はなぜいけないのか」です。

 
ではいよいよ、テーマですが。
「浮気は【なぜ】いけないのか」にしたいと思います。
 
準備編で、「どこからが浮気なのか、はっきり定義すべき」とのご意見を頂きましたので、具体的な状況を提示したいと思います。
 
結婚6年目の夫婦。
妻は専業主婦。夫は小さいながらも、会社を経営。
長女4歳。長男1歳。
妻が長男(第二子)を妊娠中から、約2年間、隠れて会っている女性がいた。
浮気以外は、家族との時間も大切にしていて、合格点の行動が多い夫。
 
夫が風呂に入っている時に携帯にメールが着信。
それを妻がふと見たら、女性の名前が表示されていた。
「えっ!?」
妻がつい携帯メールを見てみると…
という経緯で浮気が発覚。
その女性とは、体の関係もあり、紛れもない不貞行為。
月に3?4回、密会を重ねていた。
 
妻はショックを受け、一時期は食事もまともに取れない状態に。
夫婦共にカウンセリングに通い、現在は何とか回復した。
 
夫はその女性との男女関係は清算したが、自分の会社の社員なので、
社長と社員という関係は続いている。
そのこともあり、妻はまだ、ときどき不安に襲われる。
 
 
という状況だとします。
 
 
この夫の行動を「別に問題ないじゃん」と考える人はほとんどいないと思いますが、ここで考えてほしいことは、「【なぜ】いけないのか?」「正しいことの【原則は何か?】」ということです。
 
「浮気はなぜいけないのか」というテーマについて考えながら、善悪や正義の基準について考えていこうというのが、このページの主旨です。
 
法律に反するから、というご意見も、一応受け付けますが、むしろ道徳的に正しいのかどうかを考えていきたいというのが主旨です。
 
 

注意事項&考えるヒント

 
・中傷や攻撃のコメントは削除します。
・個別相談ではありません。個人的な事情を書かれても、それが議論に役立つもので
 ない限り回答はしませんし、議論の妨げになる場合はむしろ削除します。
 
準備編で出た意見の中には、
・他人(妻)に嫌な思いをさせることがダメ
というものや、
・結婚という「約束」を破ることがダメ
というものがありました。
 
浮気が道徳的に間違っているのは、なぜなのか?
それを一緒に考えていきましょう。
 
まずは「私はこう思う」と、意見を書いてみて下さい!
 
 
2012.8.8追記。
新たな記事、「浮気はなぜいけないのか」これが私の最終回答です。
をアップし、この議論は一旦終結とさせて頂きました。今後、書き込んで下さることは歓迎しますが、あづまは積極的には、議論に参加しませんのでご了承下さい。


 

「「浮気はなぜいけないのか?」について議論しましょう。」への110件のフィードバック

  1. いつも様々な気付きを与えてくださりありがとうございます。
     
    「妻に内緒にしなければならない行為だから」でしょうか。
    オープンにできないという時点で、100%正しいことと胸を張れない。
    いけないことだからオープンにできない。
     
    もう少し掘り下げたい感じはするのですが、真っ先に浮かんだので、とりあえず書かせていただきます。

  2. はじめまして。いつもたくさん教えて頂きありがとうございます。
    さて、少しだけ感じたことを書かせて下さい
     
    今回の事例、きっと夫婦ともに問題点があったのでしょう。
    だとしたら「なぜ」という質問からスタートするとどんな回答でも誰かを責める結果になりそうだと感じられます。
     
    ですから、例えば「どういう行動をしたらみんなが幸せになれるか?」というような問いにして
    三者ともに落ち着けるように考えても良いかと感じました。
     
    もし関係がまだ続いているのなら「どうしたら別れられるか?」が先でしょうか。
     
    そしてこうした問題の根っこのところに
    「浮気はやっぱり悪い」という理由が出てくるのでしょうね。
    これからの展開、楽しみにしています。

  3. nobeさん
     
    なるほど。
    「内緒にしなければならない行為」といっても、色々ありますね。
     
    誕生日のサプライズ企画などは、内緒にしなければならないですが、これをいけないこと、と考える人はほとんどいないですね。
     
    オープンになったとしたら、相手が傷つくことなのでいけない、ということになるでしょうか。すると、やはり、いつかバレて妻を傷つける可能性があることなので、いけないこと、という、「他人を傷つけることがいけないこと」という考え方の仲間になるのかな?
     
    それとも、仮に一生バレないとしても、妻をだまし続けられたとしても、やっぱりいけないこと、という考えになるのでしょうか?
     
    nobeさん以外の方のご意見もお待ちしています。
    「私は一生バレないなら容認してもいいと思います、なぜなら…」という意見も、
    「私は一生バレないとしてもいけないと思います、なぜなら…」という意見も、
    どちらも歓迎いたします。

  4. suuさん
     
    大変重要なご指摘ありがとうございます。
     
    現実問題として、どう解決するかは、とっっっても大事なこと。
    確かに、浮気がいけない理由を妻が夫に延々と語って夫を責めたら、それは解決にはマイナスですよね。
     
    但しこのコラムでは、
    実際、浮気夫が居直って「俺は変わらないし、お前の愛情が足りないからこうなっているんだ。嫌ならお前が出ていけばいい。」などと言うケースもあって、
     
    妻の側の意思がそれでぐらついてしまう。ということもあるんですね。
     
    解決の方法としては、延々と語って責めるみたいな、「直球を投げる」やり方は私はあまりお勧めしていないんですが、
     
    そもそも、夫が浮気をやめるのを嫌がっているとしたら、浮気を続けることを容認した方がいいのか?
    それとも、夫の意思に反していても、やはり浮気はやめるべきなのか?
    だとしたら、それはなぜなのか?
     
    そういう、根本的な考え方を「自分の中で」しっかり作っていこうよ、ということを目的としています。
     
    このシリーズの中では「浮気が間違っているとして、では、『今すぐ浮気相手と別れて下さい』と妻が夫に言うのは正しいのか?」というような問いかけもしていこうと思っています。
     
     
    まあ、まずは、
    根本的に、浮気は解消すべき、間違った状態なのか?
    それとも、たとえば双方が納得している場合は容認してもいいもの?ばれていなければ容認してもいいもの?など、
     
    良いか悪いか、そしてそれはなぜなのか?
    そういった部分をまず考えていこうと思います。
     
     
    suuさん以外の方からのご意見もお待ちしています。

  5. あづまさま。
    いつも勉強になる記事をありがとうございます。
     
    私は、浮気がいけないのは、夫婦間の信頼関係を破壊する行為だからだと考えています。
    そして、信頼関係を破壊する以上、ばれるばれないに拘わらず容認できないもので、そのような夫婦の下では子供は健全に育たないと思います。
     
    だから、目指したいのは、夫婦間の信頼関係を修復するということで、その手段として浮気をやめることが挙げられるのではないかと・・・。
    浮気をやめても夫婦間の信頼関係が修復できなければ無意味だと思います。
     
    取り急ぎ、感じたことを書かせていただきました。

  6. まゆさん
     
    コメントありがとうございます。
    信頼関係を破壊する行為だからいけない。確かにそうですね。
     
    そして、子供が健全に育たないからいけない、というご意見なのですね。
     
    このあとに、少し考えの枠組みを提供しようと思いますが、正しいこと、間違っていることを考える時、行為の結果から判断するか、結果ではなくある種の絶対的な条件から判断するか、大きく分けてこの両者があります。
     
    まゆさんのご意見は、この二つを両方含み、そして、その二つの間で揺れ動いているようです。
     
    さらに、考えていきましょう。

  7. ここで、少し考えるためのポイントを整理してみましょう。
     
    正しいこと、間違っていることを決める時、
    行為の結果から判断する考え方を「帰結主義」といいます。
     
    結果から判断することには、一定の重要性がありますが、それだけでは私たちの道徳観を全て説明することはできません。
     
    たとえば、次のような状況を考えてみて下さい。
     
     
    (A) 秘密にしていたのは…物議をかもしそうなブログ。
    結婚6年目の夫婦。
    妻は専業主婦。夫は小さいながらも、会社を経営。
    長女4歳。長男1歳。
    妻が長男(第二子)を妊娠中から、約2年間、夫は妻に隠れて、あるブログの運営に手を染めていた。
    それ以外は、家族との時間も大切にしていて、合格点の行動が多い夫。
     
    ある日、妻宛の匿名の手紙が来てそのことが発覚。
    そのブログは、政治的に極めてデリケートな問題を提起するもので、それで、夫は職場にも家族にも秘密にしていた。
     
    そのテーマは(今の議論には本質的ではないが想像しやすさのために例を挙げておくと)「少子化問題の解決のために、妊娠、出産、子育てを仕事より上位に置き、賞賛、奨励すべき」という内容で、実際、キャリア系女性を中心に、内容が差別的だと反発を受けていた。
    但し、デリケートなテーマではあるが、彼は論理的で客観的に議論を展開していて、決して中傷ブログなどではなかった、とします。
     
    しかし、仕事を大事にしている妻にとって、夫がそのような考えを持ち、ブログまで書いていることは非常にショックで、一時期は食事もまともに取れない状態に。妻はカウンセリングに通い、現在は何とか回復した。
     
    夫は今でも、月に3?4回ネットカフェに入り浸って更新している。
    妻は納得できない気持ちを、未だに持っている。
     
     
    ・夫は妻に秘密にしながら、ある行為をしている
    ・そのことがばれたら妻はショックを受ける
    ・夫は月に数回、今でもその行為をしている
    ということだけ見れば、浮気のケースとブログのケースは同じわけです。言い換えると「帰結主義」で考えれば同等の話のはずです。
    しかし、ブログの方は容認できると考える人でも、浮気の方は容認できないと思う人が多いのではないでしょうか?
     
    その違いはどこにあるのでしょうか?

  8. ブログが容認できても、浮気が容認できないとすれば、それは、夫婦間の信頼関係の破壊の度合いが異なるからだと思います。
     
    すなわち、夫婦間の信頼関係の基礎は、大部分が、互いに他者と身体的関係を持たないということで占められていて、その大部分が破壊された(浮気)か、ほんの?一部が破壊された(ブログ)の違いではないでしょうか?

  9. 補足です。
     
     
    信頼関係破壊の度合いが異なるということは、先のあづまさんのコメントのお言葉を使わせていただくと、「妻のショック」の度合いが異なるということになるのだと思います。

  10. 夫婦は、(少なくとも現在の日本では)恋愛関係によって成り立つ関係とされていると思います。
    そして、恋愛関係は(多くの人にとっては)排他的なものです。
     
    とすれば、浮気はその排他性を侵害するので、夫婦の根幹を崩す行為なのではないでしょうか。
     
     
    一方、ブログは、人によっては、そうした主義主張が夫婦の根幹、すなわち恋愛関係の重要な一部を形成しているかもしれませんが、そういう人が多数派とは考えにくいので、通常は、浮気ほどには気にされないのでしょう。
     
     
     
    私はまだ若輩者なので、最初の前提が理想論だと言われてしまえばそこまでなのですが、とりあえず、今の自分の夫婦観はこんな感じです。

  11. こんにちは、いつも楽しく読んでいます。
     
    考えがまとまらないのですが。
     
    ブログは容認され、浮気が容認されないの違いは、女として、また母として一生懸命家庭を守ろうとし頑張ってきた妻の生き方が、否定されてしまうということではないでしょうか。
     
    妻は、夫を愛していた。愛してるゆえに、頑張ってきた。夫に向けていた思い、夫も同じく自分に向けてくれていると思ったと思いが、他の女に向いていた。
     
    ここに、悲しみという感情が生まれると思うのです。
    女に対しては、憎しみという感情が生まれると思うのです。
     
    浮気には、明確な第3者が存在します。
     
    ブログに関しては、夫の意見は、一つの考えであり、反論や同意など多数の考えがそこで飛び交うわけであり、「中傷ブログ」でないのであれば、それは、容認されると思うのです。

  12. 最初にコメントしたnobeです。
    あづまさんに「オープンになったとしたら、相手が傷つくことなのでいけない」と具体的に挙げていただいて、
    いまいちしっくりこなかったので、なんだろうと考えました。
    私の考えでは、道徳的に「いけない」ということでオープンにできないのかな・・・と。
    妻がショックを受けるからというよりは、「うしろめたい」気持ちがあるのかなと。
    特に性交渉は結婚した男女間でのみ許されている、というのが原則だと思います。
    今の世の中は性交渉の自由というのか、ずいぶん寛大になっているようですが、
    私個人としては、もっとそのへんを厳密にした方がいいのではないかと思っています。
    結婚したら、互いに様々な責任を負って生活していくのだと思います。簡単に言えば「約束」です。
    それを破る行為は「いけないこと」だという、道徳感(観?)があるのではないでしょうか。

  13.  
    なぜいけないのか?
    パートナー、そして自分と向き合うことへの逃げだからではないかと思います。
    自分の弱さを知ること受け入れることはとても怖いです。
     
    一人で生きていくなら逃げ続けていてもいいと思います。
    そういう大人は私の周りにもいます。
    フワフワとその場その場に流され生きていて常に心は不安で支配されています。
     
    でもパートナーがいるなら、そのパートナーとずっと一緒に居たいのなら受け入れる努力は必要なんではないでしょうか。
    お互いにですが。
     
    夫婦でいるならこれから家族を作っていくなら向き合ってもらわないと継続した幸せが得られません。
    浮気をしてる人はとても心は不安定です。
     
    自分の行動を正当化するために必死で幸せそうではありません。
     
     
    パートナーには幸せでいてほしいです。
    浮気をしていることで幸せなら問題ありません。
    でも浮気をしていて情緒不安定な人は多く見ましたが幸せそうにしている人は見たことがありません。

  14. こんにちは。いつも配信興味深く拝読しています。
     
    「人を殺す」ということでさえ、たとえば「戦争」や「死刑」という問題を考えると、世界共通の、どの時代にも言えるような絶対的な善悪を問うことは不可能です。
    「浮気はなぜいけないのか」という問題設定自体、実は様々な条件や制限をつけた上でないと成立しない、ということはあづまさんは十分ご承知の上で、あえて議論してほしい、ということと受け取りました。つまり、「いけないとすればなぜいけないのか」とさせていただきます。
     
    現代社会では結婚と恋愛というものが地続き的につながっていることもあり、私自身、もっと若い頃には、結婚という制度を、恋愛という感情問題と、じつは重ならない部分までもかなり混同しておりましたが、これまでの人生で多くの人々の結婚、別居、離婚、不倫、再婚等を見てきて、思ったことを述べさせていただきます。
    私が現在住んでいるのはイタリアですが、イタリア語では、「結婚」をマトリモニオmatrimonio、「財産」をパトリモニオpatrimonioといいますが(これは、マドレ(母)パドレ(父)と語源を同じくします)、実際、結婚という制度はつきつめると財産の問題ではないかと思います。つまり、結婚という制度は、別居(イタリアでは制度化されています)や離婚も含めて、財産分与を法的に定め、公的情報とする制度であるということが、近年、ひしひしと感じられるようになりました。
     
    婚姻という制度は、その契約的部分に関しては、愛の契約なのではなく、共同生活における相互援助関係、そして、財産分与に関する契約です。あるいは、気持ちの契約ではなく行動に関する契約である、とも言えます。
    むろん、たとえば教会での結婚式で永遠の愛を「誓う」ということは行われますが、実際、「誓い」=意思表明、であって、契約ではありませんから、絶対的な保障でないことは明らかです。感情に関しては、本人が100%自由に操作することは不可能ですから、売買も交渉もできないので、当然とも言えます。
     
    婚姻相手以外との肉体関係を、不貞行為として法律が禁ずるのは、また、とくに日本の法律が不貞行為に対して(国際的にみて)相対的に厳格なのは、日本では、個人の感情や自律性よりも社会秩序を優先させる度合いが大きいためではないかと思われます。
    子供が生まれた場合、誰に父権を与え誰に母権を与えるのかを簡略化し、ある人が死亡した場合、誰がどのくらい財産を受け取るのか、ということを正式に公に制定するのは、恋愛にはない、婚姻という制度の特徴です。それにより、無駄な諍いや流血を避けることができます。また、たとえ気持ちがなくなった場合や、共同生活が実質的に不可能となった場合でも、「離婚」という制度が保障されているのが婚姻です。「離婚」は、いったん「婚姻」で予定された財産分与を仕切りなおす制度です。「離婚」があるからこそ「結婚」は「恋愛」より社会的には価値がある、とさえ言えるかと思えます。婚姻をともなわない恋愛関係であれば、財産の問題は一切発生しませんが、婚姻に財産の問題が発生するのは、それが、子孫を残し育てることを目的とした社会制度だからでしょう。
    不貞行為は、婚姻関係外で子孫を残す可能性を増やす行為ですから、社会秩序の観点からみると、混乱をふやす原因ですから、それを増大させないために、処罰の対象となるわけでしょう。
    たとえばイスラム教では一人の男性が複数の女性と婚姻することが認められていますが、この場合も、すべての子どもを平等に扱うという条件がついています。つまり、子どもを作るんなら、相手の女と子どもに関してそれなりの責任をとるという覚悟でやってくれないと、社会的には迷惑をかけますよ、ということです。
     
    こうしたことをふまえた上で、提起されている夫の浮気というか、より正確には不貞行為の是非にもどりたいと思います。
     
    結婚する、つまり、婚姻という制度を受け入れるということは、実は、未来の財産分与契約に調印する行為に等しいと言えますが、実際に結婚する若い男女の全員が、そこまで考えているとはとうてい思えません。しかし、逆に、あまり考えないで結婚する人が多いからこそ、結婚という制度をもって、社会は、その秩序を守ろうとするとも言えます。
    この制度は、どちらかというと女性に有利な制度です。あるいは、妊娠、出産、子育てという、種の保存に必須な活動により多く関わる女性の側の不利益をおぎなう制度であるとも言えます。
    この制度をいったん受け入れれば、女性的立場からは、妊娠・出産・子育てに関して、より大きな安心が得られることになるわけで、たとえば夫の不貞行為のようなこの制度をゆるがす行為が行われれば、精神的・経済的なダメージを受けることになります。
    男性的立場からは、多くの男性はもともと一夫一婦制とはなじみにくい性質を持っているようですので、この制度を受け入れるには、かなりな覚悟が必要なわけですが、いったん受け入れたら、それを遂行する責任が生じます。むろん、あまりに苦痛になる場合は、離婚というオプションもありますが、
     
    「不貞行為はなぜいけないか」
    それは、社会的観点からは、社会秩序をおびやかす要因を増やすため、望ましくない、あるいは、処罰の対象となるわけです。
    日本ではおそらく現在でも、配偶者を、別個の自律的な人間というよりは、自分の財産の一部であるかのような考えが社会的にまだ有効なのであると思われます。たとえば、「妻」というよりは「嫁」という感覚です。ですから、不貞行為を働いた配偶者が「裏切り者」扱いされるにとどまらず、その相手は「泥棒」扱いされるということになり、不倫の相手にも制裁が加えられるのでしょう。
    配偶者の観点からは、生活の基盤や保障をいったん与えられ、その上に共同生活を築いて行く過程で、その基盤がゆるがされるわけですから、多かれ少なかれ精神的あるいは経済的ダメージをこうむることとなります。
     
    妻と不倫相手の女性と、どちらの気持ちが優先されるべきか、という問題は、「生活」と「気持ち」とどちらを優先させるのか、という問いに少し似ています。ひとそれぞれ、立場や考え方によって違うと思います。
    私個人は人間的には同等だと思います。私が妻の友人なら妻の気持ちに寄り添い、不倫相手の女性の友人ならその女性の気持ちに寄り添う、という意味です。
    しかし、社会秩序という観点からは、むろん、妻が優先されるということになるでしょう。妻には婚姻制度によって約束された「生活」を保障される権利が発生しています。
    ただ、その権利をふりかざして証拠を集めて浮気する夫を責めても、たぶん、妻には慰謝料請求ができるくらいで、幸福という観点からは特にいいこともないと思います。
     
    あるひとりの男性が、あるひとりの女性を愛して、その人と、またその人との間にできた子供たちと幸せに暮らしたい、という前提で結婚するなら、不貞行為は、その実現を自分ではばむもので、いけない、というよりは、いけてない、という感じがします。(でも、私がその男性の友人であれば、その気持ちを理解しようとするでしょう)
    しかし、その「いけてない」夫を断罪する妻も、いけないとは思いませんが、もしかすると、同じくらい「いけてない」とも思います。(でも、私がその女性の友人であれば、その気持ちを理解しようとするでしょう)
     
    カトリック教会で誓う(宗教婚)、「永遠の愛」っていうのは、ちょっとどうかと思いますが(そういうことを誓うこと自体に私は偽善を感じます)、市庁舎で行われる結婚式(民事婚)で言われる「精神的・物質的に相互援助する」という誓いは、誠実で崇高であると思います。

  15. あけましておめでとうございます。
     
    正直、この問いかけにどれだけ反響があるか不安だったのですが、本当に真剣に意見を書いてくださって、本当に感謝しています。
     
    さて、いくつかの視点が出ているようです。
     
    一つは、家族制度という秩序を壊すという視点。
    これは、自律的な本人の意思というよりも、社会的な視点ですね。西洋から入って来た概念で、マイケル・サンデル教授が本の中で紹介しているような道徳概念のほとんどは、人間を個人として扱うものです。
     
    個人の権利、個人が自分で決めて自分で行動するという、自律性を重視する考え方です。
    しかし、教授はそれだけではいけないと感じていて、共同体の中の個人という考えを持つべきだという方向に進んでいます。
     
    日本人には、共同体の中の個人という考え方が伝統的に残っていますね(いや、個人という考え方はむしろ希薄かもしれません)。そこから考えると、ようやくたどり着いて来たかという感じもしますが…(ちょっと上から目線ですいません)
     
    但し、日本でよくあるように、秩序優先という考え方を突き詰めると、感情的には破綻している夫婦でも結婚という形は維持すべきだという結論になりがちです。実際、夫の浮気を親に相談したら「離婚だけはするな」とアドバイスされたという話も少なくありません。
     
    ところで、麻木久仁子さんの不倫騒動に際して、彼女側の弁護士の弁で「すでに破綻していたので不倫には当たらない」としていました。結婚が相互援助の契約だとすれば、たとえ感情面で破綻しても、しっかりとけじめをつけてから次にいかないといけないですよね。しかしそれでは、夫婦が破綻しかけたら、一人で離婚の処理をしてから次に行かなければいけないという話になるのですが、それも厳しいのかな、とも思いますね。
    (けじめをつけてないのは麻木さんではなくその相手の方ですが)
     
    もう一つ、子供が育つかどうかという観点が出ていました。
    結婚の一つの目的として、子供を育てるというものがあります。簡単に浮気して、簡単に夫婦を破綻させていいのであれば、物質、精神両面において、子供の養育上の問題が生じるのは議論するまでも無いですね。
     
    しかし、そうすると、もう一つの疑問が浮かんで来ます。
    子供がいない夫婦で、特に、夫婦のどちらかの要因で不妊であって、今後も子供を持つことがないという状況下あれば、浮気のは容認されるのか。容認まではされないとしても、より問題は小さいと考えられるのか。逆に、妻の気持ちを考えると、こっちの方がより深刻とも考えられます。
    実はこれは、結婚の目的に関わることで、生殖と子供の養育が結婚の目的だと考えると、妊娠の可能性のないカップルになぜ結婚を認めるのかという話になってしまうんです。
     
     
    今日は正月で、iPhoneで読んで、書いているので、ちょっと整理し切れません。
    数日後、個別にレスを書きたいと思います。
     
    意見を書いてくださった方、ほんとありがとうございます。

  16. みなさんの意見を読まず、自分が感じることを書きます。
     
    浮気がいけないのは、浮気した本人の心にポイントがあるような気がしました。
    じつは、わたしはされた側でして、当初は大変な思いをしましたが、
    あれから二年後、夫の浮気があったからこそ、
    いまの自分がいるし、いまの自分がとても好きだし、
    気づくチャンスをくれた夫に感謝しています。
     
    (もちろん、浮気はもう勘弁ですが、
    いまなら発覚後の対処はまったく違ったものになります)
     
    なので、なぜ浮気がいけないかと言うと、
    その行動に出る人の「心」を心配します。
    伴侶に隠しての浮気、かくさない浮気、その心のうつろさ。
    人が抱えている寂しさ。
     
    寂しさを抱える生い立ち、家庭環境、親子関係。
    「浮気はいけない」、というところから、
    社会全体のおおきな問題として捉えます。
     
    浮気されて、こう考えるようになりました。
     
    いまなら、なぜ夫が浮気したかわかるんです。
    その前にどうすればよかったかもわかるんです。
    でもあの頃の、「自分を嫌いなわたし」にはムリでした。
     
    苦しんでいた期間、あづまさんのメルマガには、ものすごーく助けられましたよ。
    ここでなんですが、感謝しております。

  17. 私は夫の浮気に直面している当事者ですが、結婚・愛情について持っている私の考えに基づいて、浮気が何故間違っているのかを書いてみます。
     
    浮気がいけないのは、「愛情」という夫婦関係の根幹にある(またはあるべき)感情と相反する行為だからだと考えます。
     
    私が考える愛情とは、それを降り注ぐ相手を慈しみ、尊重し、自分の感情や幸福や時には利害が、愛情を注ぐ相手のそれと相反する時には、自己犠牲や不満の気持ちを持つことなく、自然に相手のそれを優先したいと感じること。理想論かも知れませんが、そういう感情が愛情であり、そういう相手だから一生を共にし子供を生み育てるという覚悟をもてるのだと思うのです。また結婚とは「この相手とは一生を共にし、どんな時にも助け合い、慈しみあって生きて行こう。」という確信を持てたときに踏み出すものだと思います。
     
    浮気という行為は、一生を共にすると自分で決めた相手に背をむけ、相手に求めるべきものを他者に求めることです。性的快楽、安らぎ、ほめたり認めてほしいという欲求などどのような理由にしろ、結婚という人生の一大事を誰に強制されたわけでもなく、自身の決断として選択した以上、それは自分の脇にいる相手に求めるもの。そして相手が与えてくれないときは、共に解決策を模索するのが正攻法でしょう。
     
    浮気という行為は、自らの選択を否定し、隠したりごまかすことで問題に正面から向き合わず、快いほう苦しくないほうへと流れていく、解決とは対極にある逃げの行いです。結婚していても他者に惹かれることはもちろんあり得るのですが、自分の感情に気づいたとき、それをコントロールし対処することは、成熟した大人であれば充分出来ることだと思います。
     
    自分の選択に責任を持つ、特に結婚という選択により、生活や将来設計という運命共同体、自分の一部となっている配偶者や子供の感情や幸せを含めて行動することが正しい行いであり、浮気はその他の構成員の感情に配慮することなく、自分一人の欲求や充足感のみを追求するという意味で、その対極にあるので間違っていると考えます。

  18. 私は、結婚する前は浮気されたら離婚すればいいと軽く
    考えてました。
     
    結婚して、子育てをし、浮気されて離婚寸前な今の私は
     
    結婚とは、人間が編み出した素晴らしい制度である!
    子供がいたら尚更だけれども、子供がいなくても、信頼しあい助け合う
    パートナーがいるということは、素晴らしい安堵感をもたら
    す。
    情緒的にも安堵感を得られるのはもちろん、一方は仕事をしお金を
    稼ぎ、もう一方も働き家事を分担する場合には経済的に良い生活ができるし
    子供がいるならもう一方は
    家事育児に専念すれば、効率良く育児ができる。
    結婚とは、うまく機能すれば本当に素晴らしい制度であると
    私はそう思います。
     
    ところで、人間には心がある。
    いくら効率良く生活ができても、きらびやかな非日常に
    あこがれてしまうこともある。(=浮気)
    そうなれば、生活は色あせつまらない物に見えるかもしれない。
    人間は弱いから仕方がない。
     
    だからこそ、浮気はいけない、とするべきだと思います。
    君子危に近寄らず、です。
    最初は軽い気持ちでも、心は自分で思うほど
    自分の言うことを聞かないと思います。
    家庭が壊れても構わないくらい本気になってしまう。
    一時の錯覚で、家庭が壊れることもあります。
    ならぬものはならぬ、で浮気は悪い!と初めに決まりを作らなければ
    弱い人は流され、保てた家庭も壊れます。
    弱い夫を持つ私がそう言い切ります。
     
    ちなみに、母子家庭でももっと働きやすくなり、偏見も減ったら
    離婚も増え、浮気も増える気がします。夫側だけでなく
    妻側の浮気が。。。
    関係ない話をすみません。

  19. 浮気は「結婚相手にきちんと向き合っていないからよくない」というご意見が見受けられます。浮気をされた側の気持ちとしてはもっともだと思います。
    ただ、私が思うのは、そもそもきちんと向き合えるだけの土壌があれば、向き合っているのだと思います。
    土壌のないところで、気持ちに反して、「結婚とはこういうものであるべきだから」と、無理やり向き合おうとすると、おそらく、罪の意識や怒りや恐れにからめとられて、泥仕合になる気がします。そもそも、「結婚とはこうあるべき」という考え方自体、社会的なものです。それを、個人的な怒りの感情から、「こうあるべき」をふりかざして相手を自分の望む方向に動かそうとしても、おそらく、積極的または消極的反抗を招くのが関の山かと思います。そもそも、何でも受け入れられるという安心感が得られない関係なのですから。浮気する夫は、妻の「こうあるべき」に無意識の反抗をしているかもしれない、ということです。それに対してどんなに「こうあるべき」を主張しても、さらに反抗されるか、あるいは、言うことはとりあえず聞くけれど心ここにあらずの、腰の重い受動的な夫が得られるだけだったりします。うつ病にでもならない限り、すきあらば浮気するでしょう。
     
    浮気という事態が起こった場合、一方的な侮辱とか身勝手な行動とかいう審判を下さず、それを関係性全体に関わる「一症状」と受け取って、自分の側から関係性の向上につとめれば、たとえば、ゆりさんのように、むしろ浮気後に関係が良くなるのだと思います。
    ゆりさんは、「浮気はいけない」という言い方をそのまま受け取っておられますが、ゆりさんのお話を読む限り、その「いけない」は、正しい者から間違った者に対する言葉ではなく、関係全体の病気のようにとられているのだと感じます。
     
    社会保障が発達して、スウェーデンのようにシングルマザーも社会的に奨励され、老後の心配も少なくなれば、くるみんさんの言うとおり、離婚も浮気も増えるかもしれません。しかしそれよりも、生活や老後の安定や社会的ステータスのために離婚しない、という人が減るのだと思います。
    今の日本では、結婚はもちろん、離婚も双方の合意のもとでないと非常に難しいのが現状です(合意さえあればこれほど簡単な国もないんですが)。しかし、双方の合意がなければ成り立たないのが結婚だと考えると、一方が離婚を望めば、結婚への合意が消滅しているとし、離婚できる、という方向へ進んで行くと思います。
     
    そもそも、浮気は「なぜいけないか」という問題の立て方自体、「いけない」という「禁止」が入っています。私が、社会制度の問題としてとらえたのは、「いけない」という禁止自体は、社会的にしか有効ではないだろう、と思うからです。「浮気はいけない」という禁止自体、一夫一婦制に基づく社会制度があってこそ有効なものだと思います。工業革命後に増えた核家族というもの自体、経済の最小単位であり、現在はこれが生活の基盤なのです。現実社会の平均的家族の経済状況からいっても、離婚というのは大きな経済的ダメージを与えることが多いため、離婚を誘発する浮気というものは、大きな不安のもとになると思います。子供があってもなくても、専業主婦など経済的弱者にとって大きな打撃となります。
     
    たとえば「なぜよくないか」ではなく、「なぜいけないか」とあえてしたのは、なぜなのか、あづまさんのご意向をおうかがいしたいと思うのですが。

  20. 始めまして
    この議論については【相手に浮気をされること】よりも【自分が浮気をすること】を前提に考えてみました。
     
    【浮気はなぜいけないのか?】と言われてすんなり出てくる答えは「相手を裏切っているから」でした。
    では、【なぜ浮気は相手を裏切ることになるのか?】と進めていくと「結婚という制度がお互いをパートナーとして生きていくうえで、その生活の妨げになるから」と。
    こういうことをずーっと考えていく上で、『自分を認め、受け入れてくれる理解者』というものを誰しも探していて、【浮気をする】ということは、その『理解者』はパートナーではない、と感情的に相手を否定するものになるからではないか?と思います。
    そしてその理解者というのはグループ単位では存在し難いもののように思います。
    夫婦の問題を見ずに子供に肩入れしたり、嫁姑問題を我関せずと見ているのも、「お互いが真の理解者となるため」の努力をしてないところから発生する問題のように思われます。そして結婚というのは「理解者になるため、存在を受け入れるため」のものではないかと思うのです。
     
    仮に私がパートナーの浮気を黙認できるか?と言われればNOですし、パートナーの浮気が発覚した時点で思うことは『相手の理解者は自分ではなかった。少なくともパートナーは私が彼の理解者だとは思っていないし、彼はそれゆえ自分の理解者を探している』と思うでしょう。そしてその『理解者探し(=浮気)』というのは、あまりにも安易に答えを出そうとしてるように思われるのです。
     
    【相手を理解する】ということは一朝一夕にはいかないものであり(だからこそうまくいかない場合は別れるという選択肢もある)一生の時間を要する大事業で、良いことばかりではなく、むしろ襲ってくる問題を次々解決することで深めていくことのように思います。(なぜその問題が起こるのかということを考えていくと、お互いを理解する=自分自身を理解するため、と思います)
     
    その問題を解決していく(真にお互いの理解者になる)という中で大事なのは『相手を信頼する』ということであり、【浮気】というのは『相手を信頼する』というのが根底から覆されてしまうことだと思います。
     
    日本でも一夫多妻制が存在した時代がありますが、歴史を読み解く限り複数の男女と理解しあって楽しく過ごしたというのはなかなか難しいんじゃないか?と思います。
    恐らく真に相手を理解すると言うことは、お互いが相手に、そして自分に真剣に向き合うことでしかなし得ないこと(絶対的な安心感の中でしか育めないもの)で、人間として存在するということはそういう存在を常に求める旅をしているということなのかなと思います。

  21. 多くのご意見ありがとうございます。
     
    若干順番が前後しますが、コメントしていきたいと思います。
     
    ★長くて失礼しましたさん
    なぜ「浮気はなぜよくないのか」ではなく「いけないのか」という禁止の言葉を使っているのか、とのご質問ですが、鋭いところをついてきますね。この記事の本質に関わる話で、他の方にも読んで頂きたいと思いますので、ここで詳しく説明したいと思います。
     
    子供に道徳を教える時の基本は「自分がされて嫌なことは他人にしない」ですよね。これはとても大事な考え方ではあるのですが、実は十分ではありません。浮気夫が「俺は好きにやる。お前も浮気すればいい。」と言ったとすると、彼にとって浮気は少なくとも言葉の上では「されて嫌なことではない」わけで、このルールでは反論できなくなります。
     
    もう一歩考えを進めると、自分と他人は違うので、「自分がされて嫌なこと」という、自分を基準にする考え方はあくまで目安であって、本質は「相手の嫌がることをしない、その目安として自分がされて嫌かどうかを考えてみる」だということが分かります。
     
    但し、そこまででもまだ、十分ではありません。
    どう十分でないかは、これから追々議論しながら一緒に考えていきたいところですが、一例としてその浮気夫が「お前がいつも俺のことを否定する(=嫌がることをされた)からこうなったんだ」と言ったとします。妻の方が先に「相手の嫌がることをしない、というルールを破った」という主張ですね。
     
    次に出てくるのが「みんながやっていること(慣習)が正しい」という議論です。浮気夫の台詞で「浮気なんてみんなしているよ」というものがありますが、これは「みんながやっているから、べつにしてもいいじゃん」という主張なんですね。
     
    ★Fumingさん
    恋愛関係は【多くの人にとっては】排他的なもの、とあります。
     
    恋愛関係は排他的なものである≡浮気はいけないこと
    ですよね。このふたつは同じ意味の言葉です。
    その理由は、多くの人がそう思うから、ということでしょうか?それとも、さらに踏み込んだ理由があると考えますか?(問いかけましたが、答える義務はありませんので…一緒に考えていきましょう)
     
     
    この議論で一緒に考えたいのは、こういうことです。
    初歩的な道徳のルール、すなわち、
    ■自分がされて嫌なことをしない
    ■相手の嫌がることをしない
    ■みんながやっていることが正しいこと
    というルールで解決できない道徳的問題に直面した時に、私たちは何をどう考えればよいのでしょうか。それを考えたいのです。

  22. 相手の喜ぶことを積極的にしよう
    相手の嫌がることはやめよう
     
    この、初歩的な道徳原則を、もっと哲学的に発展させたものがジェレミー・ベンサムの「功利(こうり)主義」です。「最大多数の最大幸福」こそが善であるという考えが、ベンサムの基本です。
     
    この原則に基づいて考えればよい、という考えは、なかなか魅力的ではあります。
     
    たとえば、
    妻・子供そして妻の親族が不幸になる度合いを考えれば、夫が浮気で浮かれる度合いを考えても、浮気は不幸を生産するものと結論づけられる。したがって、浮気はいけないのだ。功利主義的に考えると、そういうことになります。
     
    ★まゆさんが書いて下さった浮気とブログの違いに関するご意見は、不幸の度合いを問題にしていますから、功利主義的な発想であると言えますね。
     
    ★ふらん。さんのご意見も、悲しみや憎しみという不幸を問題にされていますので、同様の発想を含んでいるようですね。
     
     
    但し、純粋な功利主義では、たとえば、夫の浮気による喜びが非常に大きく、妻が寛容で、それほど傷つかない場合、浮気をすることが喜びを最大化するので善、という結論になるかもしれないが、それでよいのか?という疑問が必ず湧いてきます。
     
    つまり、喜びが善、傷つくことや苦しいことが悪、という論理を発展させていくと、どうも私たちが納得できないところにたどり着いてしまうのです。
     
    私たちの心の中には、夫婦が向き合っていく中で感じる幸せの「質」と、浮気の中で感じる喜びの「質」が違うのではないか。喜びや幸せには高級なものと低級なものがあるのではないか、そういう感覚もあると思うんですね。
    しかしここで、慣習に基づいて、みんながそう言っているから「高級」「低級」と言うのでは「みんながやっていることが正しい」という初歩に戻ってしまいます。
     
    功利主義者のジョン・スチュワート・ミルは高級な喜びと低級な喜びがあるとした上で、高級な喜びを感じるためには、学びなどの準備が必要という前提もおいた上で、もしある人が、両方の喜びを感じたら、必ず高級な方を選ぶはずだと主張しています。
     
    簡単に得られる喜びと、努力や学びが必要だがより深い喜びと、両方経験した人は、後者をより高く評価するはずだと。
     
    浮気の件に適用すると、夫婦の絆を感じ、幸せを経験した人は、浮気の一時的な喜びと比較して、夫婦の絆の方を選ぶはずだと。だから、夫婦の絆による幸せの方が高級だと考える。
     
    ジョン・スチュワート・ミル的に発想すると、そういう結論になると思います。
     
    この発想はしかし、個人の成長が善という考えになっていて、既に功利主義の「喜びが善」から逸脱しているんですね。成長が善という考え方は私も大事だと考えていて、この議論を進めていく中で、また取り上げたいと思います。
     
    ひとまず、
    「相手の嫌がることはしない」という原則も、もう少し突き詰めると、功利主義という哲学になるのだという話は、ここまでにしたいと思います。

  23. はじめまして。今日はじめてこのサイトを訪れたのにいきなり書き込みします。
    みなさんのコメントのレベルの高さにビビっていますが、
    ド素人ならではの意見を勇気出して書き込んでみようかと思います?(汗)
     
     
    「浮気はなぜいけないのか」
     
    の文字を見て、まず真っ先に思ったのは、
     
    「いきなり“いけない”と言ってしまうのもなんだか違うような。。。」
     
    です。
    私の友人にも浮気経験者が何人かいます。
    その友人たちの話を聞くと、みんなそれぞれに悩みや事情があってのことで、
    それを聞いたら、とても、「それはいけないことだよ」 とは言えませんでしたし、
    なんだか仕方がないことのようにさえ思いました。
    でも“いけない浮気”というのもあると思います。
     
    友人が浮気中に、我を忘れ、勝手で見境の無い行動におちいりそうな時はさすがに、
    「それはいけないと思う」 と言ったことがあります。
     
    まわりの人たちの気持ちや将来を一切無視して、
    自分のことだけを優先した“自分勝手”な行動だと思ったときでしょうか。
     
    “自分勝手” なんて大雑把な表現でまとめてすみません(汗)
     
    うまく言い表せませんね!難しいです!

  24. はじめまして。
    今回の夫の浮気後から、あづまさんのお言葉やみなさんのお言葉に助けられながら毎日を過ごしています。今回の、としたのは前回があるからです。今までの浮気の内容を書き出すと、とても終わりそうにないのでやめます。ただ、今回はとてもショックが大きく、本当に苦しんでいます。
    ここ数カ月悩んでいる事は、前回の浮気発覚時に、次回はもう絶対に別れようと決心したのにもかかわらず、また修復を望んでいる事です。主人を好きという私の弱点がそうさせます。主人は毎回修復に一生懸命ですから、そんな姿を見て(好きだから)許してしまうのです。
    しかし、今回はここで悩んで苦しんでいます。こんな自分が好きではないのです。主人が好きで一緒にいたいのに、また同じ事を繰り返すかもしれない、前回、あれほど苦しんで自分の中で次回は離婚しようと強く決めていたのに離婚に向けて進めない弱い自分が好きではないのです。離婚したくないのに、離婚したい。今のところ、めちゃくちゃです。
     
    「初歩的な道徳のルールで解決できない道徳的問題に直面した時に、私たちは何をどう考えればよいのか。」
    それは、この行為をした自分を本当に本当に好きかどうか、を考える事ではないかと思います。
    そう考えると、浮気をしている自分を「本当の本当に好きか」の問いに対して「嫌い」という答えを自分で持つならば、この行為はいけない行為だと思います。
    「浮気はなぜいけないのか」 そんな行為をする自分の事が好きではないと気づいていながらしてしまう、これがいけないと思います。
     
    ちなみに、今の私は自分で決めた約束を実行できない自分を嫌いですが、この事を深く深く考えている自分は好きです。
    答えはあづまさんのカウンセリングを受けて助けてもらおうかと思っていますが、もう少し自分で時間をかけて考えてみたいと思います。苦しみながら、自分の心の成長を楽しんでいる自分がいるからです。
     
    とても良いサイトに出会えた事に感謝します。

  25. あづまさんが功利主義について書かれているところで挙げられた、
     
    1相手の喜ぶことを積極的にしよう
    2相手の嫌がることはやめよう
     
    というのには、絶対守るべき「原則」ではなく、だいたいこの線で行くよという「基本方針」としてかなり共感できます。
    また、「最大多数の最大幸福」という考え方は、ベンサムが法の枠組みを考える上での原理(あるいは目標)としたものであって、行動原則としてとらえられるべきではない、のではないかと思います。この考え方は、安易に用いられると、「少数の人が不幸になるのはしょうがない」ということを正当化しかねないものですが、ベンサムはそういう事態を支持するものではないようだ(実際、後に、「最大多数」の部分を省いているようですし)、と、ひとこと付け加えさせていただきます。
     
    また、その前のコメントで挙げられた、
     
    3自分がされて嫌なことをしない
    4相手の嫌がることをしない
    5みんながやっていることが正しいこと
     
    というは、あくまでも「自他の区別が未分化な子供」への道徳教育の初歩の初歩という意味で挙げられたのではないかと考えます。つまり、自他の区別がついている大人相手の議論ではない、と思います。
     
    2と4は、似ているようでいて、実はかなり違います。
    4は、「相手がいやがるだろう」という自分の推測に基づいて最初からしないという、自閉した判断だとすれば、自他の区別がついていません。
    それに対し、2は、やっている行為に対して「嫌です」という何らかの意思表示を受けたら「やめよう」ということで、開かれた態度です。
    (これは、やめさせるためには「嫌だ」と言えばすむ、ということにはなりませんし、「嫌だ」と言われても必ずしもやめなくてもいいとも思います)
     
     
    しかし、人間というのは恋愛感情が混ざったり、たとえば親子などで癒着を起こすと、自他の区別がなくなりがちで、いわば幼児返りするわけでしょう。発想がいつのまにか、2から4へ移っていたりするのです。
    関係がうまく行かなくなったときは、「大人返り」する努力を行うといいかと思います。つまり、自他の区別をつける、あるいは取り戻すということです。
     
    「相手の嫌がることをやめよう」も、自他の区別をつければ、自分が嫌がっている方だとすると、「やめるべきだ」というよりは、「やめてくれませんか」になるのだと思います。自分と他人は別個の人格や好みを持った自律的な個人と考えれば、相手が私の思い通りにしなければならない法はないわけで、そんなことを強要する権利はどこにもないのです。
     
    ところで、5「みんながやっていることが正しいこと」については、私は日本で生まれて育ちましたが、少なくとも私はこのような考えを道徳観として現在まで共有したことがありませんが・・・ この一文に関するあづまさんのお考えを、もしできればおうかがいしたいです。
     
     
    自他の区別に関しては6歳児以上の能力があると少なくとも自分では思っている私自身の道徳律(道徳という言葉自体が社会的なものなので、私自身の、というと一見矛盾がありますが、私自身と社会の関係の仕方、という意味で使っています)は、何か、ちょっと考えてみました。
    たとえば、以下のようなものです。
     
    6自分や他者を無駄に害する行為をしない。
    7他人に親切にする。(できる範囲で)
     
    6の「他者」というのは、人間に限りません。
    「無駄に?ない」と書いたのは、たとえば、動物を食べるということに関して、自分が生きていくのに必要以上に殺さない、といったようなことです。
    また、戦場における兵士のように「自分が死ぬか、相手が死ぬか」という究極の選択の場合は、いずれかが選択されるわけですが、その究極の選択を第三者の立場から批判しない、という立場をとります。
    また、やられたらやりかえして、痛さをわからせる、というリアクションも(程度の問題はありますが)認めるということでもあります。
     
     
    さて、「浮気」に関してですが、こう言っては実も蓋もないのかもしれませんが、私は、する側としてもされる側としても、個人としては、「浮気はやってはいけない」という立場はとりません。(社会制度が「浮気はしてはいけない」という立場をとることに反発もしませんが)
     
    「浮気をしてはいけない」の逆が、「浮気をしなければいい」だとすると、
    「浮気をしてはいけない」を認めると、「浮気をしなければいい」を認めることにもなります。いわば、法律や社会制度はそういう立場です。
     
     
    「浮気をしなければそれでいい」と言い換えるとわかりやすくなるかと思いますが、あづまさんが限定した例の『結婚6年目の夫婦』の浮気をされて苦しんでいる妻も、夫が浮気さえしなけりゃそれで苦しみはなくなるかというとそうではないでしょう。
     
    妻が苦しんでいるのは、浮気のせいであるかに見えて、実は、「尊重されてない!」ということにあるのです。
     
    「あんたたちは夫は、妻のことなんて実はどうだっていいんでしょう! あんたたちが浮気をしないのだって、単にそんなことするのがめんどくさいからよ!」といって、夫をなじっていた女性を知っています。
    彼女の夫婦仲は円満なほうだと思います・・・だからこそ言えたセリフですが。

  26. 私自身、5年前に夫の不倫が発覚し、離婚を経験しました。
     
    今、冷静に振り返ってみれば、たくさんのことが見えてきます。
     
    浮気はいけないがどうか・・・ですが、
    された側は、死ぬほどつらい思いをします。
    した側もいろいろと苦しいのでしょう。
     
    悩みぬいた末、出た答えがあります。
    それは
    「誰かを傷つけた上での幸せはありえない」
    ということ。
     
    幸せは、誰かを傷つけるものではないのです。
     
    もし、どうしても浮気相手のことが好きならば
    奥さんに打ち明けるのが誠意ではないでしょうか。
    「君の事は愛していない」と真実を打ちあけるのが
    優しさでしょう。
     
    それでも夫を愛していくなら、それを受け入れるしかありません。
     
    「そんなことを言ったら、相手が傷つく!黙っていたほうがいい」
    という人は、その浮気相手のことは所詮遊びなのでしょう。
     
    誠実さとはなんのなのか、といことです。
     
    さて、かくいう私は再婚し、子供も授かり幸せな毎日を送っています。
     
    もし夫が浮気していたら・・・
    「墓場まで持っていって欲しい」
    というのが本音です。
     
    知らなければ、あんなに苦しむこともなかったんですもの。
     
    もしあやしくても男性は
    「そんなのしてるわけないじゃん」
    というでしょう。
     
    昔の私なら追及したでしょうが
    今の私なら
    「あ。そう。じゃあ信じるわ」
    と軽く流すでしょう。
     
    本当に誠実な男性なら
    きっとそれ以上妻をだまし続けることは
    できないでしょう。
     
    そういう夫だと信じているから、(たとえ違っていても)
    信じます。
     
    浮気は悪いことか・・・
    どっちでもいいと思います。
    したかったらしてもいい。
    どうせするなら
    本気のほうがいい
    でもその責任も負う覚悟で。

  27. 浮気そのものについてではないのですが、
     
    >「浮気をしてはいけない」の逆が、「浮気をしなければいい」だとすると、
    これは違うと思います。
    「しなければ」という言葉のニュアンスとして、単なる条件についての言葉というよりも
    「浮気をしなければ(他に何をしても)いい」というような意味合いが生まれます。
    だからこそ、
    >「浮気をしなければそれでいい」と言い換えると
    という意見がでてきてしまうと思います。
     
    「浮気をしてはいけない」というのは、結婚生活、夫婦の関係性において、他にもいけないことはいくつかあって、その中で、浮気もしてはいけないことに入る、という意味ではないでしょうか?
     
    「浮気をしてはいけない」=「浮気をしなければそれでいい」というのは間違いだと思います。

  28. あづまです。
     
    本当に真剣なコメントありがとうございます。
     
    ★なぼさんが、「皆さんのコメントのレベルの高さにビビっていますが、」と書かれていますが、私もビビっています(笑) いや、感動しています。同時にプレッシャーも感じています。
     
    ★長くて失礼しました、さんのご指摘にあった「みんながやっている」というのは道徳ではないというお話、まったくおっしゃる通りだと思います。私の言葉が足らなかったと思います。
     
    浮気夫の中には「浮気なんてみんなやってるよ」という言い方をする人がいます。それに対して、「たとえ他にも浮気をしている人がいても、やはり浮気はいけないこと」と考えられる自分の軸を作ってほしいというのが、この議論の目的なので、
     
    ・自分がされて嫌なことをしない
    ・相手の嫌がることをしない
    という初歩のルールと「みんながやっている」という言い訳を一緒に並べて、「これらを乗り越える原則はなんだろう?」と考えてほしかった、というのが本当のところです。
     
     
    ここから「自由」について話をして行きたいと思います。
     
    ★長くて失礼しましたさんや、★らむさん、★にこにこさんは、「浮気をしてはいけない」という命題そのものに疑問を投げかけられています。(実はそうなることは想定していたのですが、想定より早く出てきてしまいました。)
     
     
    自由であることが大切だ、という思想が、上掲の本「これからの正義の…」にもいくつか紹介されています。
     
    自由を大切にする思想の中でも、リバータリアニズム(市場原理主義)は、自由を大切にし強制を嫌う考え方で、国家による規制は基本的に全て悪と考える主義です。お互いの合意によって、特に自由市場で価値を交換すればよい、というものです。
     
    結婚観との関係の議論は浅学にして知らないのですが、もし生粋のリバータリアンが結婚について議論したら「国家が『浮気は不法行為』と決めるのは間違っている。但し、お互いに『浮気はしない』と合意し合ったのなら、それを自ら破るのは間違いだ。」となるでしょう。
     
     
    浮気がよいか悪いかなど、議論する意味がない。
    二人でどう合意するかだけが大事だ。
    結婚同意書に「浮気はお互い容認し合う」と決めておけば、それで問題なし。
    結婚同意書に「浮気はしない」と決めてあるなら、浮気はしてはいけない。
     
    これがリバータリアンの至る結論でしょう。
    (慣習的に、浮気はいけないという考えがあるので、結婚したら浮気しないという『暗黙の同意』をしていると考えるのが一般的だと思いますが、議論の余地はありそうです)
     
    よく読むと、コメントして下さっている方のご意見は、リバータリアン的な「二人で合意したものだけが重要」という考え方に近い部分もありますが、ちょっと違う部分もあるようです。
     
    浮気をしてはいけない理由は、本当に「合意を一方的に破ったから」という理由だけなのでしょうか。

  29. あづまです。
     
    「浮気は問題ない。容認する」とは言えないけれど、「浮気はいけない、とバッサリ斬る」ことにはためらいを感じる方がいらっしゃいますね。実は私もその一人です。
     
    その点について、少しコメントしたいと思います。
     
    道徳的であるかどうかを考える時、やはり大前提として、本人が自分で考えて決定することが大事なのだと思います。
     
    他人の下で、他人の考えに依存しながら物事を決定すると、要するに「顔色をうかがう」「声の大きい人に従う」という行動パターンになってしまいます。怒られないように我慢する、怒られないように行動を隠す、というような。
     
    私は、この記事を、(もしも、他人の顔色をうかがって決めることばかり多い方が読まれていたとしたら)、そこから抜け出して、自分で考えて自分で決定する方に進んでほしいと思って書いています。議論に参加して下さっている皆様は、その手助けをしてくれていると考えて、感謝しています。
     
     
    自分で決定すること。
     
    他人の顔色をうかがって生きる生き方から、自分の中にルールを持ち、それに従って生きる生き方へ。これを呼びかけたいのです。
     
    ★くるみんさんのご意見は、浮気にはまってしまう人は、自分で道徳的に判断することができない、ということを前提にされていますね(実は浮気にはまってしまうケースの多くで当てはまっています)。だから、あらかじめ禁止すべきだと。
     
    現実的には、それもひとつの予防策かと思います。
     
    ただ、理想論を言えば、本当は、そんな予防策が必要ないような精神的な軸を作るところまでみんなが成長することを望みたい、そう感じています。
     
     
    浮気がなぜいけないかの理由として、浮気をしている人の心のあり方を問題にされている方が、何人もいらっしゃいました。
     
    ★mariさんのご意見は、浮気は「逃げ」だから、というものでした。
    ★nobeさんも、なにか、本人の心のあり方を問題にされているようです。
    ★ゆりさんも、浮気をする人のうつろな心について書かれています。
    ★chiccoさんも「逃げの行い」という言葉を使われています。
     
     
    ここで、哲学に多大なる影響を与えた、カントの道徳観についてご紹介したいと思います。
     
    カントの考えは、結果ではなく「動機」が大事だという考え方です。
     
    カントはまず、自由であることを極めて厳格に定義しました。普通私たちは、自分が望むことを障害や制約なく実現できることが自由だと考えます。しかし、カントのいう自由はもっと条件が厳しいのです。
     
    例えば私たちは、感情に振り回されて、自分の行動すら思いのままにならないことがありますね。カントの定義によれば、これは自由ではないのです。自分の理性に従い、理性が決めたルール(「格律」という用語を通常使います)に従って行動している時だけが「自由」なのです。
     
    だから、浮気男が、妻の幸せを踏みにじっているのに浮気をやめられない(自分の欲と感情に振り回されている)のはカントに言わせれば「自由に浮気をしている」のではなく、自分の欲に振り回されていて「自由ではない」わけです。
     
     
    自分がルールを決めて、自分でそれを守る。それがカントの考える「自由」です。
    但し、ルールを決める時に、大切な条件があるとカントは説きます。
     
    ・汝の意志の格律が、つねに同時に普遍的法則となるように行為せよ
     
    要するに、周りのみんなも同じルールで行動したとしたら、破綻しないかどうか、それを考えよ、と言っているわけです。
     
    カント自身は「お金を返せないと分かっていながら、返せるように装ってお金を借りる」ことを例に挙げています。親族の中に一人ぐらい、こういうお金にだらしない人がいても、確かになんとか人間関係は維持できるかもしれません。
    しかし、道徳的かどうかを考える時には、みんなが同じことをしたらどうなるかを考えてみるわけです。
     
    明らかに、お金を貸す人がいなくなります。つまり、この格律(ルール)は道徳的でない、と判断するわけです。
     
    ★なぼさんは、自分のことだけを優先した“自分勝手”な行動だと思った時に「それはいけないと思う」とおっしゃったとのこと。
     
    自分だけ良ければいいや、という論理はやはり、道徳的ではないのです。
     
    カントがもう一つ条件に挙げているのは、人間を手段としてではなく目的として尊重することです。
     
    相手を尊重すると巡り巡って自分が得するからとか、相手を怒らせたらあとで面倒だからとか、結果を気にして相手を尊重するのではなく、
     
    相手の人格を尊重することを目的(絶対条件)として行動せよ、と言っているのです。
     
    当然ながら、妻に真っ赤な嘘をついて外出する口実を作り、浮気相手と会っていたら、それは妻の人格を尊重するどころか貶めている行為で、バレなければいいとか、妻がショックを受けなければそれでいいとか、そういう話以前に、道徳的に間違っている、という結論になります。
     
     
    こうした考えから、カントの結婚観は、セックスというものが、お互いの「人格も肉体も魂も、よいところも悪いところも全て」共有して初めて、人間同士の結びつきになると考えていて、従って夫婦がそのように向き合っている結婚においてのみ、セックスが単なる欲望を満たすだけの行為以上のものになると考えました。
     
    浮気が「逃げ」と感じることは、カントのこの考えに通じるように思います。
    ★長くて失礼しました、さんも「尊重されてない!」と書かれています。
     
     
    そして、心のあり方や動機の話に関係するコメントと同様、
    結婚した二人はどうあるべきかに関する議論も次第に出てきましたね。
    「浮気さえしなければそれでいい、わけではない」というような。
     
    次第に、結婚とは、どうあるべきか?
    その話になってきたようですね。
     
    引き続き、どんなご意見でも歓迎いたします。

  30. 夫婦が向き合うことから「逃げた」他人との結び付きは予測ですが虚しいだけなんでは思います。
     
    ただ旦那さんが浮気していなくても誠実であっても、夫婦が向き合っていない場合の結び付きは虚しいものです。
     
    浮気はその結果論ではないでしょうか。
     
    片方どちらか最上級の幸せというものを経験していれば今何をすべきか分かるはずです。
    どちらも経験していなければわからないまま、何故か虚しい、寂しいでも方法がわからない、となるわけです。
     
    結婚を通して問題の解決処理能力を高めていく必要もあると思います。
    経験からしっかりと学ぶ力がなければ乗り越えられないこともあります。
    お互いに思いやりや愛情、絆も大切ですがそれだけではダメだと私は思っています。
     
     
    浮気についても夫婦の問題解決処理能力が高ければ事前に防ぐことも出来たことかも知れません。
    結婚という自分の選択した責任から「逃げず」沢山のことを学んでいくべきなんではと思います。

  31. 浮気はなぜいけないのか?
    浮気された経験がある私が思うことは、幸せに向かう行動ではないから。夫・妻・子供・浮気相手の誰にとっても、幸せになる方向ではありません。
     
    もうひとつは、セックスにより子供ができる可能性があり、もし妊娠した場合、生むか生まないかという選択しなければいけない問題が生じること。大事な命を、中絶しなければいけないかもしれないということです。生むとしても戸籍上の問題が発生してしまいます。
     
    結婚して、信頼関係を築きながら、子供を生み育てていくということは、心が愛で満たされ最高に幸せなものです。
     
    ただその最高な幸せを感じることができるのは、精神的に自立していて(あづま先生が言う、包む、ほめる、諭す、見守るという愛情を受け取れた人でしょうか)、道徳的に良し悪しが自分で判断し行動できる人だけだと思います。
     
    完璧である必要はないけれど、幸せな結婚生活のためには、お互いある一定レベル以上の精神力、道徳力が必要であると実感しています。その上で、日々の生活や子育てからいろいろと学び、お互いに成長していけばいいと思いますが、そのレベルにない人(いっぱいいっぱいな人)には結婚生活は精神的にきついのかもしれません。きつさや寂しさから逃避した結果、依存症状(浮気・アルコール・ギャンブル・買物など)がでるのでしょう。
     
    私は再発したら、離婚しようと決めていましたが、約一年見守って生活してきました。理解していても、実際にパートナーの浮気を病気としてとらえ、自分の心のケアをしながら、仕事家事育児をこなすことは本当にきついです。それに取り組んでいらっしゃる方は本当にすごいと思います。
     
    いまは、愛=相手の心の成長を願うことだとしたら、決して一緒にいることが彼にとって成長にならず、お互いの幸せのために別々の道を行こうという決断もあると思っています。お互い一人になって、自分の土壌をきちんと作ることが必要なんだろうと。自分の心が成長したのか、なんだか今の生活がバカらしくなったというのもあります。
     
    浮気をされると、くやしさや寂しさから、しかえしてやろうかと思うことがありました。だけれど、それでは、相手と同じレベルに自分が下がってしまうだけ。精神的にも道徳的にも引っ張っていけるそんな自分をめざして、がんばっています。

  32. 浮気はなぜいけないのか?
    極端なことを言えば、人殺しはなぜいけないのか?、と大差の無いテーマではないでしょうか。
    殺人に至るまでには様々な背景、苦しみ、心理的葛藤などがあり、容疑者と言えど、考慮しなければならない点が多々あり、それがもとで刑が軽くなったりもしますよね。
    「浮気はいけない、とバッサリ斬る」ことにためらいをもつ気持ちはわかります。しかし、その方達は実際に浮気された経験がある人でしょうか?恐らく違うのではないかと思います。浮気された側の痛みは、されたことがなければ絶対に解らない、それはむごい物です、長い信頼関係があった後ではなおさら。した側の隠れたつらさ、さみしさ、苦しみ、罪の意識の重圧などとは比べ物にならない、独特の深い痛みなのです。私自身、された側です。今まで経験したことの無いむごいつらさの中から、このサイトにたどり着き、なんとか前向きに生きています。自分に問題があったことも解りましたし、自分が幸せになるために努力をする、というとても大事なことにも気付かされ、あづま先生には大変感謝しています。しかし、「浮気はいけない、とバッサリ斬る」ことにためらいをもつ、のは、私にはきれいごとに思えます。殺人に関しても、もし自分の愛する人が殺されたら、殺人者の痛みや背景などを汲んであげられますか、私にはできません。いけない!とバッサリ斬るでしょう。
    浮気に関しても同じです。
    浮気はいけないのです。
    浮気は罪だからいけないのです。信頼関係のある人を裏切るのですから。
    例えお互いに問題があったことが理由でも、その行為に至らずに向き合って解決することも可能だったはずなのに、それを避けて、浮気行為に至ることは、やはり卑怯な行為であり、罪であると思います。
    私は「浮気はいけない、とバッサリ斬る」ことが必要だと思います。
    そうでなければ、された側の痛みはいったい誰が汲んであげられるのですか?
    お互いに悪かったからと、等分するのは、それこそ社会に横行する初歩的道徳的のルールによる判断方法に思われます。
    浮気は悪い、ときっぱり認めた上で、はじめてお互いに前向きに進んでいけるのではないでしょうか。突き詰めると問題があったのは妻だった、などといかにも正当性があるように聞こえますが、
    そもそも問題のない人などいるのでしょうか?誰もが心に何かしら抱えて育ってきていると思います。うまく言い訳を探し当てただけです。
    浮気はとにもかくにも、いけないのです。なぜ、はありません。だからといって、罰しろと言っているのではなく、浮気は悪い!、と初歩的道徳ルールにより認めたあとで、お互いの痛みを個人個人で癒していけばいいのではないでしょうか。お互いに悪かった、と相手もしくは自分自身を責めても何も解決しません。
    浮気はいけないし、された側は何も悪くない、これでいいのだと思います。
    そうでなければ、された側が立ち直るほうがはるかにつらいですし、自分を責めていては進めませんので。あづま先生には浮気された側の気持ちを、もう少しいたわってほしいと思います。
    (誤解を招く文章かもしれませんが、あづま先生を批判しているわけではありませんので。むしろとても感謝しており、自分の悪かったところも、多いに反省しております。自分は悪くないと言いたい訳じゃなくて、「浮気」はただ、悪い、と言いたかった(言って欲しかった!?)だけです。これからもコラムを楽しみにしています。今、幸せになるために努力しています。)

  33. 「浮気は罪だからいけない、信頼関係のある人を裏切る事だ」
     
    それは前提として「夫婦間に信頼関係が築かれていると両方が思っている(確認できている)」場合ですよね。
     
    では、した側が「信頼関係は崩れていたor綻んでいたor信頼できないと思える事があった」と思っていた場合には
    上記前提条件は覆されるかと思うのですが、いかがでしょうか。
     
    「浮気はいけないし、された側は何も悪くない」
     
    つまり、ご自身は全く何も問題がない、ご主人「だけ」が一方的に悪いと仰りたい訳ですね。
     
     
     
    私は浮気している側です。今も恒常的にしています。
    元々惚れっぽい側面は否定しませんが、「本来は」一途です。
    ちなみに浮気(というか不倫)は、旦那公認です。
     
    旦那は「面倒臭いので」しない&(当人曰く)「私を好き」なのでしない派、のようです。
     
    ですが
    私がカミングアウトした時に、彼が「一瞬たりとて傷つかなかった」訳ではありません。
    数秒考え、そののち「仕方ないよね」と(色んな意味で)受け入れた人です。
     
     
    さてこの場合でも、私=悪い(事をする)人、旦那=何も悪くない(被害者)
    ということになるのでしょうか。
    (趣旨違いになりかねませんので、浮気した原因などはここでは避けたいと思います)

  34. これだけでは判断しようが無いかもしれませんので、少しだけ。。。
     
    前提条件は
     
    ・「当時の私としては」相手を信用しきれていなかった
    ・「話しても無駄」と思っていた(実際別件でそういう事があった)
     
    です。

  35. この旦那さんが浮気をしたということは、奥さんから何かをもらえないと感じていたわけですよね?
    欲しいんだけれどもらえないので、奥さんに黙って、それを持っていそうな会社の女性からもらった。
     
    けれど、奥さんは本当にそれを持っていなかったのでしょうか。
    僕はこういうものが欲しい、と奥さんに伝えたのでしょうか。
    もし伝えてももらえなかった場合、それはなぜなのでしょうか。
    どうすればもらえたのでしょうか。
    さらに言えば、自分が欲しいものをもらうことだけがパートナーシップなのでしょうか。
     
    正論なのは解っています。
    こんなふうに明確に自分の心の状態を理解して浮気をするわけではないです。
    それでも私は、浮気はフェアじゃない、と感じます。
    なぜいけないのか?という問いに対する私の答えは、フェアプレイの精神に反するから、ということのような気がします。

  36. あづまです。
     
    たくさんのご意見ありがとうございます。
    この議論はもう少し続けていきたいと考えています。
     
    管理人という立場は一旦脇に置いて、私も、みなさんと同じ投稿窓から、コメントを投稿しています。
     
    相手が自主的に、浮気のような道徳的でない行動をやめるには、何が必要か。
    という問いと、
    相手に、アメとムチで、浮気をやめさせるにはどうしたらいいか。
    という問いは、
     
    本質的に違うのではないか。
    そう感じたので、とりあえず投稿しておきます。
     
    内発的動機と、外発的動機の違い。
     
    全然まとめる方向になっていないので、一意見として読み流して下さい。

  37. あづまです。
    今度は、この議論のまとめ役として発言しますね。
     
    再度確認しておきますが、この議論の目的は、「浮気は【なぜ】いけないのか」という問いを題材として、よく考えることを通じて、
     
     
    「正しい」「正しくない」という基準は何?
     
    に迫ることにあります。
     
    そこまで話を大きくしないとしても、男女関係においての、道徳的な正しさの基準はどこにあるのか、そういうことを考えていきたいというものです。
     
    浮気が正しいか正しくないかの議論に決着を付けようという主旨ではありませんし、どの程度までなら許されるかという話でもありません。考える助けのために色々な程度について設定してみることはあるかもしれませんが。
     
    ★tamakoさんは、浮気はとにかく悪い、理由なんてない、としながらも、された側が傷つくと言うことを理由に挙げていらっしゃいますね。勇気を出してコメントして下さってありがとうございます。
     
    そして、「あづま先生には浮気された側の気持ちを、もう少しいたわってほしいと思います。」と、ありますね。お気持ちはお察しいたします。
     
    同様に感じていらっしゃる方も多くいらっしゃると思いますので、改めて私の意図、姿勢について書かせて頂きます。もちろん「意図は分かったが有効な方法ではない」というようなご意見も、歓迎いたします。
     
     
    この記事の議論は、渦中にいらっしゃる方には読むのがしんどいかもしれませんが、私の意図は「他人がとやかく言おうと、私の中の基準は定まっている。浮気は悪い。その理由は○○。」と、自分の中の軸が定まることです。
     
    別の言い方をすれば「浮気なんて別にいいんじゃないの?」とか「浮気された側にも問題があるよ。」という他人の意見を聞いても、さほどぐらつかない自分を作ることです。
     
    こうした「軸」を持つためには、まず土台として、ありのままの自分をゆるし、受け入れるという、母親的な「包む」愛がある程度心に満ちている必要があります。すると次に善悪の基準を作っていくという、父親的な「ほめる」「諭す(叱る)」という働きかけが心の成長につながるようになると考えています。(自分をゆるし、受け入れることが足りない場合、まだこの議論を受け入れて成長の糧にすることが難しいと思います)
     
     
    このシリーズをいくつかやろうと考えていまして、次のテーマは「浮気は悪いとして、では悪いことを『悪い』と相手に言うことは正しいのか?」というテーマにしようと思っています。おそらく同時進行でいくと思います。
    他には、結婚と同棲の違いを題材にしたり、親が反対する結婚を押し切ることについて考えたりしてみたいと、現時点では考えています。
     
    複数のテーマについて考えていく中で、読んで下さっているだけの方も含め、参加者の方が、自分なりの考え方の基準を育てていく、何かのヒントになればと願っています。

  38. 先生はなぜ、浮気はなぜいけないのか?などというテーマを選んだのですか。
    私は、浮気をした相手を一方的にせめているのではありませんし、悪い、と斬ることで変えようとも思っていません。
    私は別れを選びました。何度もやり直そうと思って、話し合ったけれど、彼は根本的に浮気を悪いこととは思っていないし、私とは浮気に対する価値観が違うのだと気付きました。
    浮気をする人はするし、しない人はしない、ただそれだけなのではないでしょうか。
    善悪の価値観の問題ではないですか。
    しかも、そのどちらが本当に善で、どちらが本当に悪なのか、全くわかりませんよね。
    自分の判断でしかないです。
    彼とはただ、それが違ったのだと思います。
    先生が言っておられる、世界の捉え方、が違うということなのかもしれません。
    浮気が悪で、罪だ、というのは私の個人的な体験が色濃く反映された判断でしかありません。
    正しいかどうかもわかりません。
    ちゃんと歩み寄れば、その価値観も変えられたのかもしれません。
    七年前にも一度浮気を受け入れており、その後七年間は一度も浮気は無く、とても幸せな時期もありました。でも、歩み寄り方が間違っていたのでしょう。二度目の浮気は前回にも増して耐え難いものでした。一生忘れることができない傷になりました。だから今は浮気が悪だとしか考えられないし、いけない理由などいらないくらい自明な悪、としか思えないのです。
    善悪をはっきりつけたところで、関係修復には何の効力もないし、むしろそのような私の態度が原因だったかもしれません。
    ただ、別れを選択した私は、何か自分を励ますかのように、こうやって言い切るしかないのです。
    いつの日か彼を許せる日が来ることを心から願っております。

  39. ここで、一つ別の問いを立ててみたいと思います。
     
    実は、何か嫌な出来事が起きた時に、どのぐらいショックを受けるかというのは本当に人それぞれで、浮気が起きた時も比較的冷静に受け止めて対応していく人と、生きていけないと感じるほどのショックを受ける人がいます。
     
    ショックの大きさを基準に物事を考えることは、果たして正しいのでしょうか?
     
     
    ここで、ちょっと極端な例を挙げてみたいと思います。
     
     
    結婚6年目の夫婦。
    妻は専業主婦。夫は小さいながらも、会社を経営。
    長女4歳。長男1歳。
    家族との時間も大切にしていて、合格点の行動が多い夫。
    このケースでは、夫は浮気はしていません。
     
    夫が風呂に入っている時に携帯にメールが着信。
    それを妻がふと見たら、女性の名前が表示されていた。
    「えっ!?」
    妻がつい携帯メールを見てみると…
    まじめな内容の、仕事関係のメールでした。
     
    しかし、この妻は非常に嫉妬深い性格だったのです。
    これまでも、夫の(恋愛ではない)女性の知人との関係を
    執拗に詮索し、責め立てたことで、仕事にも支障が出た
    ことが何度もありました。
     
    妻はその、夫に来た仕事メールに激しくショックを受け、
    一時期は食事もまともに取れない状態に。
    夫が優しく接してくれて、カウンセリングも受けて、
    いったんは落ち着いたけれど、妻はまだ、ときどき不安に襲われる。
     
     
    という状況を想定してみます。
    このケースでは、夫は浮気をしていないわけです。
    (女性とプライベートで食事に行くレベルのこともしていないとします)
     
     
    しかし、それでも妻はショックで、不安で仕方ない。
     
     
    このような状況があった時には、私たちのほとんどは、妻のメンタルな問題について考えるのではないでしょうか。
     
     
    「夫の行動で妻が激しくショックを受けた」
     
    ということは同じなのに、浮気の場合行動を改めるべきなのは夫であるのに対して、このケースでは妻が変わるべきだという結論におそらくなると思うのですが(違うご意見も歓迎します)、【なぜ】結論が違うのでしょうか?
     
    それは単に、浮気は【みんなが】いけないと言っているから、嫉妬深い妻は【みんなが】「やりづらい」と言っているから、という「みんながそう言っているから」というレベルの議論なのでしょうか?
     
    それとも、何かもっと、本質的な違いがあるのでしょうか。
     
     
    どんなご意見も歓迎いたします。

  40. 直前の先生のコメントとちょうど同時期に書いていたようで、予期せず私の質問にちゃんと答えてくれていました。このテーマで話すことの意図が、わかりました。
    ありがとうございます。

  41. ★琥珀さん、勇気あるコメントありがとうございます。
     議論の本流に乗るかどうか分かりませんが、違う視点を提供して下さってありがとうございます。
     
    ★tamakoさん、私のコメントが意味ある回答になったようで、よかったです。

  42. 再びコメントさせていただきます。
     
    夫が浮気をしていない、普段の生活も信頼に値するものなのに、夫を信じられないというのは自分の中に「信頼」という柱がないということでしょうか。
     
    前回の浮気と今回の嫉妬とを比べてみると、今回は「信頼する」ということを相手に預けてしまっている(今回の場合は妻が夫に)のが問題なのではないか?と思いました。妻は「信頼に関して」自力ではなく他力になっている、ということです。
    確かにそんな夫は一瞬は魅力的ですが、自分がそれを要求されたら耐えられないでしょうね。「自分の人生を生きてよ」と思うと思います。
     
    たとえば「私は自分を信じている。私が選んだ夫なんだから私は夫を信じている。夫も私を信じているだろう」と思えば、1通のメールから疑心暗鬼になっていかないし、携帯電話というパンドラの箱は見ないと思います。
    そしてもし本当に浮気が発覚したとしても、それをきっかけにして夫婦ということをお互いに考えられるようになるんじゃないかと思います。
     
    前回のコメントに「夫婦とは真に理解し合う相手」としましたが、その理解するためには「自分を信頼する」ということがまずありき、なのだと思います。

  43. 結論が何故違うのか。
    それは本人が相手にどれだけ依存しているか、またプラスに受け入れる柔軟さ、で違うと思います。
     
    もうひとつ、沢山のこを経験してきて学んだ視野の広さも関係してると思います。
     
     
    実は私も浮気されたことがあります。
     
    小さなことに不安になる私に対してある知り合いの女性は「お金とか生活はちゃんとしていて、そこ以外は大丈夫なんでしょ?たった一度の浮気でしょ?そこをずっとぐちぐちしてると顔が暗くなるよ。笑ってるほうが魅力的だよ」といわれ気づかされました。
     
    沢山の経験をした知り合いからしたら私の悩みは「そんなこと?」 なんです。
     
    傷つくことを恐れてないというか全てを相手任せにせず自分次第で生きてる人でした。
     
    いつまでも不安でいる人は、浮気が無くても日常的に考えがマイナスで依存的だったんではないでしょうか。
    浮気を理由に問題が見えなくなりがちですが、最初から自分の心が問題で起きた出来事であるかもしれません。

  44. 新たに仮説された問いをもとに考えてみました。
     
    最初のケースでは実際に発覚した夫の浮気が原因であるといえるのに対し、
    この場合は、妻の行き過ぎた疑心に改善が必要とされるといえます。
     
    まずこの「疑心」…、何によって増大するのか?と考えてみると、それは「不安」や「恐怖心」で、
    その対象や大きさは人の性質の違いや経験などによって個体差はあるものの、誰もが持つ感情ですよね。
     
    例えばケースの嫉妬妻さんの場合は、夫が浮気してしまったら…と思う恐怖心。
    例えばスケート選手だったら、ジャンプ失敗してしまったら…と思う恐怖心。
     
    この恐怖心によって他人や自分を信じられなくなり、理性を失わせたり本来の力を出せない状態になる。
     
    でもこの恐怖心って何だろう?と考えた時に、
    人間が恐怖だと感じるものに共通しているものが見えてきました。
     
    病気や死、老い、戦争、法的な罰や世間の評価、パートナーの浮気、神田川のあなたの優しさ…などなど
    人により様々ですが、これらは全て「自力ではコントロールできないもの」です。
     
    自分の価値や行動が、何らかの力(または他人)に委ねられてしまうことこそが人間を最も不安にさせ、
    恐怖心を抱かせるものなのではないでしょうか。
     
    嫉妬妻さんは、自分の幸せ(喜び)すらも他人に委ねられているものとして恐怖であり、
    またそれを司る夫も自分の力でコントロールできないゆえに恐怖であり、
    それらの恐怖の大きさが理性的な行動力を低下させているのだと考えられます。
     
    …と、プロの方に素人の一考察にお付き合いさせてしまいました。
     
    私、ここまで考えてみて初めて「思考する意味」を実感したのですが、
    正直に言いますと、最初にケースを読んだ時はこんな依存的で人の携帯を勝手に見るようなのは
    「人として間違ってる」という印象でした。
    今までだったらそれだけが結論でした。
    ですが根底にある心理を推察していくと、そこに共通していた恐怖は自分にも覚えがあり、
    納得できるものだったのです。
     
    私が間違ってると感じたのは彼女の行動に対してだとしても、
    彼女の人格そのものや心理ではないと言えます。
     
    そういう視点を持って改めて最初のケースに立ち返ってみると、浮気はなぜいけないか?の問いに対して
    これも初めは「社会的・道徳的に間違っているから」と単純な答えでしたが、
     
    浮気という「行動」はいけないことだと言える。
    ただし、浮気に走らせた心理がいけないとは決して言えない。となってくるようです。
     
    今までの道しるべの中にあったスチュワート・ミルの理論からの考察は、大変興味深く感じました。
    高級な喜びと低級な喜び、成長の善という部分です。
     
    またよく考えてみますね!

  45. あづまさん、フォローのレスありがとうございます。
    懲りずにまた参加いたします。
     
     
    さて
    ・夫の浮気の場合→夫
    ・妻の嫉妬深さの場合→妻
    ですが、
     
    どちらも「ノットイコール」だと考えています。
     
    価値観の相違の場合もあるでしょう、
    精神的に未熟な場合もあるでしょう、
    コミュニケーションに問題がある場合もあるでしょう。
    成育歴に某かあった場合もあるでしょう。
     
     
    高級な喜びを「知らない」「得られない」から、
    低級な喜びで「紛らわしている」
    …とも言えるかも。
     
     
    常習犯(笑)が言うのもなんですが、
    しょせん、浮気は低級な喜びでしかありません。それは認めます。
    (これに気づいてない常習者やハマり中の人は大勢いますが。)
     
    どれだけ浮気しようと、心の穴は埋まりません。飢餓感は消えません。
    しょせんそれは、ジャンクフードや煙草、お酒、麻薬みたいなモノだから。
     
    それでも、「無いよりマシ」なので、更に浮気を繰り返し恒常的になっていきます。
     
    依存の出来上がりです。
    (浮気も依存症の一種と思っています)
     
     
    本当は、パートナーに高級な喜びを与えてもらいたいし、
    自分もそうしたい。
    けれど、その環境にない。或いはその方法を知らない。
    だから、手っ取り早く「満たす」ために、「他に依存する」=浮気する。
     
    浮気することで、SOSを発している。
    気づいてくれ、と、
    助けてくれ、と、
     
    愛してくれ、と。
     
    そういう一面もあるかもな…と、自分が浮気する側になってから、考えに至りました。
    (批判は覚悟の上です。)
     
     
    ※それ以前にカウンセリング受けて、まず自分で自分埋めろよ、という話に
     なるかもしれませんが
     夫婦の場合、片方「だけ」問題があることは稀だと思っています。※
     
     
    また、嫉妬深い人は相手をどう信頼すればいいのか、方法を知らない事が多いですが
    これもまた、
    心が満たされていないことがあります。
    「嫉妬をやめたいのに止められない」
    「疑いたくないのに疑ってしまう」
     
    …見捨てられるのが怖いから、捨てられたくなくて、すがってしまう。
    自分の足で立つ方法を知らないから、しがみつくしか出来ない。
     
    でもそんな自分を認めるのは怖いから(自分が無能だと思わされるから)
    「嫉妬させる相手が悪い」
    「疑わせる相手が悪い」
    と、相手のせいにして、その場をしのいでいるかもしれません。
     
    ちょうど、浮気人間が浮気を繰り返すのと同じ。
    ジャンクフードや嗜好品、麻薬で満たそうとするのと同じ。
     
     
    …あづまさんの掲げる本題からズレていたら、すみません。
    とりあえず、こういう考えをする奴もいるんだ、位に思っていただければ。

  46. 今 気がつきましたが、
     
    「(大抵の)浮気する人」を、
     
    「(大抵の)引きこもったり、不登校になったり、家庭内暴力ふるったり、非行に走ったりする子供」
     
    に置き換えると、
     
    もっと考えるのが楽になるかも…
     
     
    どちらも根っこは同じだと思います。

  47. なぼです。もぉ?続きが気になって気になって(汗)
    勇気をもって、再び書き込みです。
     
    いまだやはり、「浮気」=「いけないこと」 とあっさりとは斬れないですね?。
     
     
    パートナーの信頼を裏切る・傷つける ことは、できればしたくはないことだけれど、
    「傷つける」=「悪」 とは、私は思いません。
    浮気する側が、すでに傷ついてることもあります。
    その傷が浮気の原因だとしたら、誰が悪い人なのでしょうか。。。
    「私は傷ついた。傷つけたあなたが悪い人だ」 を、言い出したら、
    「私だって傷ついてる」、「いや、私のほうが傷ついてる」と、
    お互いの言い分がぶつかりあって、収拾がつかなくなってしまうようにも思います。
    恋人であれ夫婦であれ、関係が終るときはたいてい、傷が生じること多いですよね。
    「傷つけること」が悪い、というより、「傷つけ方」、のほうに、悪があるように思います。
     
    前の書き込みで、友人の事情を聞いて、浮気してしまうのも仕方がないことのように思った、と書きましたが、
    浮気の原因が、「悪意」ではなく、「弱さ」だと思ったんですよね。
    誰だって、弱さを持ってて、その弱さゆえに、悩むことありますよね?
    もちろん私だって弱いところあります。
    人はそれぞれ違う弱さ、を持ってると思っていて、だから友人の弱さを私が持っていないからといって、
    「それは間違っている!悪である!」 とは、言い切れないんですよ、私は。
    「弱い」=「悪」 とは、したくない、それが「いけないこと」とバッサリ斬り捨てられない理由でしょうか。
    うぅ??ん、わかりません、また考えます。
    いやぁ?、ほんと、考えさせられますね!このサイト!
    でも考えるって楽しいですね♪
     
    「欲」 という言葉が出てきてましたが、「欲」のままに、っていうのは、なんだか悪そうですね(笑)
    でも、「欲」に勝てない、という弱さを本人が認めて悩み出したとき、悪は消えるのかも!?
     
     
    あ、ちなみに私も過去に彼氏に浮気されたこと有りです。
    彼は、欲が多くて仕方がない、みたいなこと言ってましたね。
    私はそんな彼のことを好きでしたが、でも、
    そんな彼の欲とつきあっていく覚悟は持っていなかったので、あっさり別れました。
    浮気をした彼の責任や悪を問い詰めるよりも、
    自分の今後の幸せを考える方に重点おいたわけです。
     
    悪人をあぶりだすより、新しい幸せ見つけるほうが効率的♪
    私に去られた彼は、不幸♪ ザマーミロですよ♪

  48. なぜ浮気はいけないのか?と考えていくうちに、
    なぜそもそも結婚という制度があるのかと考えました。
    人々が結婚する動機は何でしょうか?
     
    結婚によって得られるのは、
    ・相手に一番近い場所にいられるという安心感
    ・世間体を保つことによって得られる心の安定感
    ・誰かに1番の相手として認められているという自己肯定感
    等であり、結婚とは通常それがずっと続くことを前提に結ばれる契約だと思います。
     
    人は心の中で、安心・安定を求める傾向にあり、
    それが反映された制度が結婚だと思います。
     
    浮気をすることは、相手の同意を得ずにそれらを打ち壊す行為です。
    だから、先程の嫉妬深い妻の場合には、
    必要以上に嫉妬する=夫を信頼していないということであり、
    先に相手の自己肯定感を奪う行為をしているため
    妻が悪いと思う人が多いのではないかと思います。
     
     
    私は、浮気はバレなければOKだと思います。
    (だれも傷つかず、不安にもならないから)
    ただ、浮気に気づく・気づかないは、相手の心のなかで起こることなので、
    気づいても気づかないふりをしている可能性もあり、
    100%浮気がバレていないと証明する手段はないと思います。
    故に、「確実にバレていない浮気」は形而上のものではないかと思うのです。

  49. 浮気はなぜいけないのか?
     
    その前に「浮気」の定義が必要ではないですか?
    そこは個々人の判断に委ねられるわけですか?
    その定義された内容によっては、
    肯定的な部分も出てくるだろうし、否定的な部分も出てくると思いました。
     
    でも一般的に言われている浮気を
    「彼女・女房がいるのに、外に女を作って金や体や時間や心を費やすこと」
    だとすると…
     
     
    理屈ではないですよね。
    感覚的に「いけないこと」でしょ。
     
     
    でも、挙げればいくらだってその理由はあります。
    夫婦なら法にもふれるワケですし。
     
    日本人故の道徳観かもしれませんが、
    その日本人の私たちの大多数の人が持っている概念・先入観に、
    「貞操を守らないこと=いけないこと」があると思います。
    一夫一婦制の世の中で一夫多妻制的なことには違和感を感じるし、
    1人の人に留まらない人を不誠実な人と判断する風潮があるのは否めませんよね。
     
     
    私は「不誠実=悪」だと思います。
    だから浮気はいけないことだと思います。
    最初に“理屈ではない”と言ったのは、基本的な考え方としてこれがあるからだと思うし、
    それがもう感覚的になっているからだと思います。
     
    でもこの問いかけは、言い換えれば
    「不誠実はなぜいけないのか?」
    ということなんだろうなと、漠然と思いながらコメントさせていただきました。

  50. これだけ水準が高い書き込みが続いていると、あえてここで書き込むこと自体が命知らずというか、身の程知らずという気もしますが・・・。
     
     私自身は結婚していた最後のほうで浮気された側ですが、浮気そのものは離婚の原因ではなかったと思います。それ以前にいろいろと問題があったと思います。最後のところで信頼関係が崩れたとは思いますが、離婚する決意をする背中を押す最後の一歩になったくらいです。元夫の弱さもあったと思うけど、私自身尊敬できない相手と結婚してしまったのではないか、その原因として自尊心の低さがあったと思います。その意味では、何人かの方がおっしゃっているように、夫婦双方にそれなりの精神的な成熟がないと、幸福な結婚生活を維持するのは難しいと思います。
     
     その上で、私は浮気はやはり「悪」だと断罪できないと感じています。「長文失礼しました」さんがおっしゃっていたように、結婚制度は貞節を守ることだけで成り立っているものではそもそもなく、家産を継承する(家同士の同盟)という面も今も残っていると思います。また「浮気が悪」という価値観が社会的に構築されたもので、絶対的なものではないとも思います。
     
     また、女性の地位がこれだけ低い日本などでは、そしてまた経済生活が賃労働に依拠する資本主義社会では、再生産労働(家事と育児)は経済的な自立を阻むものになりがちです。結婚制度が、再生産労働を担う側になりがちな女性を経済的に保障する側面は大きいでしょう。
     
     日本で夫婦の一方が離婚に同意しなければ離婚が難しい(今は結婚生活が破綻している状態=別居がだいたい5年続いていれば、離婚を認める裁判官が増えてきたようですが)、というのも、主として離婚したら経済的に困窮する女性を保護するために働いているとも思います。
     
     ですので結婚制度が純粋に、夫婦双方の感情的・情緒的な結びつきだけで成り立っているのでないのは、主に女性の地位の低さ、男女平等が実現していないところにあると感じます。それでは男女平等が実現したら、とくに女性が経済的に男性と同じように自立できる社会なら、浮気は問題にならないのか。古代のスパルタのように、子供が生まれたら数年で戦士になるべく親から離され、普通の成人は子育てにあまり参加しない社会なら、浮気は単に、恋人同士の嫉妬の問題に還元されてしまうのか。
     
     あるいは離婚したときに養育費などを多額に支払うことで責任をとらせ、離婚に伴う経済的な問題を解決できれば、浮気のショックは減るのか。
     
     このあたりは私は整理できていません。フランスなどは、聞いた話でしかありませんが、配偶者の浮気即離婚、となるようですが、親の関係の変化についていかなければならない子供は大丈夫かと思ったりします。結局は個人の経済力と女性の地位に応じて、結婚の枠内での不貞行為がもたらすインパクトは違うのでは、というくらいです。
     
     また、結婚相手がいても運命的な相手に出会ってしまい、駆け落ちして去る、というのも一概に責められないところがあります。「マディソン郡の橋」では、主人公の女性は結局家族への責任を優先し、運命の相手をあきらめ、死んでから遺灰を一緒にしてほしいと願うところは感動的でしたが、仮に彼女が家族を捨ててその重荷を背負いつつ、運命の相手と一緒になることを選んでも、それはそれで責められないのではと思います。
     
     哲学的にどうか、というのはよくわからないですが、プラトンは絶対的な善というのは存在するという立場でしたね。ただこの問題については、私はやはり相対的な基準しかないのではないかと感じます。きちんと考えていないので、間違っているかもしれません。
     
     

  51. 久しぶりにコメントします。
    みなさんの意見にうなずくばかりです。どれも正しいと思います。
    それが自分の答えなのですから。
     
    長年連れ添った相手が浮気をしたとき
    「裏切られた」と思うのは当然だと思います。
    一番近くにいた人の気持ちが実は何も分かっていなかったという現実・・・。
    これから何を信じたらいいのか、私自身も途方に暮れました。
     
    そしてその後、何年にも渡り自分を責め続けました。
    「何がいけなかったのか?」
    「私が悪かったのかもしれない・・・」
     
    そして数年後ばったりと彼と再会し
    なぜ浮気をしたのかを聞きました。
    「君はなにも悪くない。ただ仕事が単調でつまらなくて刺激が欲しかった」
     
    「え??」
    私は耳を疑いました。
    長年自分を責め続けてきたのは一体なんだったろう?
     
    浮気する人される人、どっちも悪いし、どっちも悪くない。
    これが私の出した答えです。
     
    浮気する側にもその人なりの言い分があるのでしょう、
    しかし私には、とうてい理解できないものかもしれない・・・。
    それでも、私はそんな相手のことを好きでいたのも事実。
     
    浮気する体験、浮気される体験
    そこから何を感じ、なにを学び取るか。
    どん底まで行ったのだから、なにかをつかんで這い上がりたい
    その思いでいっぱいでした。
     
    つきあいも長かったので
    相手のことを誰よりも知っているという自負
    そして、話をしなくても分かっているだろうという思い込み
    それが何年も積み重なり
    いつしか修復できないほどふたりの溝は深まっていたことに
    気が付きませんでした。
     
    相手が裏切るわけがない

    ずっと自分を好きなはずだ
     
    相手がいてくれて当たり前で
    感謝の気持ちさえ忘れていました。
     
    良く考えれば、「当たり前」など
    この世にはないのですよね。
    本当にバカでした。
     
    小さなことでも話し合ったり
    気持ちを伝え合ったりすること(ネガティブなこと含め)が
    ものすごく大切なことだと気が付きました。
    言葉だけでなく体のコミュニケーションも同じくらい重要です。
     
    気持ちを伝え合う。それはとてもめんどくさい作業です。
    できれば避けたい事もあるでしょう。
    そこを、お互いの努力でコミュニケーションを
    とっていく。
     
    永遠の愛は日々の努力の積み重ね。
    神の前で愛を誓い合ってからが修行の日々ですね。
     
    浮気はなぜいけないのか?
     
    あずまさんがこのテーマを取り上げた理由はさまざまあると思いますが
    私は自分のかけがえのない経験を振り返るいい機会になりました。
     
    できるのなら私のような地獄をみなさんに味わって欲しくない
    だからこそ、当たり前の愛は存在せず、
    細かな気持ちを正直に伝えていくコミュニケーションが大事だと
    この場を借りて伝えさせていただきました。
     
    ありがとうございます。

  52. 多くのコメント、本当にありがとうございます。
    正直、コメントのレベルの高さや真剣さに本当にびっくりしていますし、いい意味での緊張感も頂いています。
     
    個別のコメントにレスを付けたり、哲学者の考え方を紹介したりするのは、追ってやっていきます。ここではまず、大前提を改めて書きたいと思います。
     
    マイケル・サンデル教授の、DVDになっている「ハーバード白熱教室」の授業で、教授はこう述べられています。「哲学は君たちに新しい知識を与えるわけではない。既に知っていることを教える。」と。つまり、新しい見方、考え方を提供して、私たちが漠然と捉えていることを、もっとくっきり捉えられるようにするものだということです。
     
    このコラムの一連の議論でも、多くの人の意見や考え、疑問などに触れて、身近なテーマなのに、意外にも分からないことが多いことに気づかれたかと思います。
     
    それこそが、このコラムの目的です。
     
    また、「知っていることを教える」という言葉には、逆に、私たちは教わる前から何か、漠然としているけれど「正義感のタネ」みたいなものを心の中に持っているという含みもあるように思います。
     
    そのタネに気づいたり、タネが育ったりする一助になればと思います。
     
    まだまとめきれないので、続きはまた熟考してから投稿します。

  53. みなさんのコメントを読んでいて、「わかっているようでわかっていないことを、自分の言葉であらわすことで再考できるかも」「自分に軸があるのかどうか、確認したい」という気持ちがわき起こり、私も投稿してみます。
     
    自分が悪いと思っていることに対して、パートナーが悪いと思っていない事態が起こった場合、つまり、「結婚生活でのさまざまな価値観の違い」がこれにあたると思いますが、お互いに話しあうことが大切でしょう。そのとき、双方がほぼ同じくらい「相手を知りたい、理解したい」という気持ちを持ち、同じテーブルについて話をしようと思うことが必要です。
     
    でも、そんな風にタイミングよくテーブルにつけることはなく、相手を理解しようと深く考えることもない場合。そのテーブルにつくことを避けた結果が、「問題から逃げる行為」たとえばこのトピックスの「浮気」という行為になります。
    異性は面倒だが、お酒が好きな人なら、それが「アルコール依存」という行為になる。
    相手とむきあうことから、逃げてしまうのです。
     
    「浮気がなぜ悪いのか」の中にひそむ問題の本質は、「人間関係において、相手に対して本当に向き合うことから逃げ続ける方法しか知らないことが悪い」という、影のメッセージがあるのではないでしょうか?
    これが、わかっているようで意外に意識していない、人間の好ましくない行為の一つなんではないでしょうか?
     
    人間が生きていくという使命を負っている以上、人と人が結びついて、深さは色々であっても、それなりに関わっていかなければなりません。そのときに、「どの人とでも本気ではなく、すぐに逃げれる関係しか作れないこと」にフォーカスすることが、解決(成熟した心への成長という意味で)の糸口になるのでは、と感じます。
     
    そう考えると、浮気にめぐっては、される方にも、された方にも、程度の差はあれ、人との結びつき方の癖において上記のような部分がひそんでいるのでは、と思います。
     
    そして、そのような人間関係の癖は、結果的に人も自分も傷つけ
    ることにつながる・・・。人も自分も悲しく傷つくことは悪いことである。
    相手と自分に真剣にむきあわないで、逃げてしまう行為(浮気もそのひとつ)は悪いことである、ということです。
     
    しかし、「悪いことである」と私も断言できません。なぜかというと、本人もいっしょうけんめいやっているのにそうなってしまう、からです。無意識だったり、幼いころからの環境で作られた無意識の人間関係の癖だったりするからです。先天的なものだから、という感覚に近いかも知れません。
     
    結局、本人はどこかで自覚して、意識的に自分の人間関係の悪しき癖を矯正するか、それによって被害をこうむるまわりの人間が本人から離れるか、どちらかしかないんでしょうね。
     
     
    かくいう私も夫に浮気をされ、別居中の身です。小さい子供が3人もいるので、夫の言動に心が揺れたり振り回されたりする中で、なにが正しいのかわからず、ずいぶん苦しみました。私は別居3年目に、やっと後者の選択をする決心がつきました。自分の中にも、好ましくない人間関係の癖があることを知り、努力を続けている最中です。「浮気はなぜ悪いのか」、感情論だけではない答えを私自身、いまも求め続けています。だから、このテーマ、とてもおもしろいです。
     
    これからの展開、終結、大変楽しみです!
    また、ほかのテーマもとても興味あります。

  54. はじめまして。
    いつも行き詰った時が自分の改革の時と心得て、こちらのホームページで学ばさせて頂いています。
     
    この議論に興味を持ったので思った事を書いてみます。
    といっても大したことは書けませんが。。。
     
    浮気がいけないかどうかは、結局は、結果なのかなと思います。
    浮気を乗り越えてさらに強い絆を結んだ夫婦もいれば、浮気のために関係が悪化した夫婦もいる。
    乗り越えた場合は結果として浮気を是と肯定できるし、関係が悪化した場合は非となるなら、浮気がいけないとというのはただの多数論なのかなと。
    経験の有無に関わらず、”浮気=関係の悪化”と捉える人が多いのではないでしょうか。
     
    ここで自分に立ち返って考えてみると、正直に言って、浮気を乗り越える自信も浮気しない自信もありません…。
    まずそういう相手が今はいませんが。
    だから浮気はいけないとタブー視してしまいます。
    常に一歩一歩、責任を持って歩み、なにより内的な成長を続ける努力を継続することが大切なのかなと思います。
    浮気を見過ごすわけでもなく、開き直るわけでもなく、「乗り越えられるよ?」って自信を持って言えないから、今の答えは”浮気はいけない”。
     
    稚拙な私なりの考えです。
    読んで下さってありがとうございました。

  55. 私も参加します。
     
    浮気はなぜいけないのか?
    嘘をつく、だます、あざむく……からだと思う。
     
    嘘をつかない浮気はありえない。
    パートナー合意のもとで他の人間と関係をもつ(そんなことがあったとして)のは、浮気とは言わないだろう。
     
    嘘の上に信頼関係は存在できない。
     
    ちなみに、ここで言う「嘘」のなかには、言葉にして口にだした「嘘」はもちろんだが、
    そのことを知ったら相手がふたりの関係を考え直すような事実を黙っていた、つまり「言わない嘘」も含まれる。
     
    嘘はそれ自体が罪だ。

  56. あづまです。
     
    改めてコメントを読み返してみて、ご本人さんが稚拙だと書かれているものも含め(とんでもないです!素晴らしいです!)、本当に貴重なご意見でありがたいと感じています。
     
    さて、さらに議論を進めていきたいと思います。
     
    浮気はなぜいけないのか、を考える時に、実は大前提にしていることがあります。それは、結婚(および恋愛)は一対一が原則である、ということです。
     
    雑婚(一夫一婦ではなく、複数の男女が婚姻関係を結ぶこと)が常識の社会であれば、浮気はそれほど問題視されないのかもしれません。
    しかし、結婚において、夫婦が一対一で向き合い、お互いが生涯を共にするということが原則、という社会では、浮気は問題行動になります。
     
    実はその議論は、結婚のテロス(目的)とは何か、という深い話に直結しています。
     
    結婚に目的があるということは、突き詰めて考えると、国の制度には「善き生き方とは何か」という道徳的な指針が含まれている、ということになります。
     
    ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授は、アリストテレスの思想を引き合いに出し、国は、何が善き生き方なのか、その判断をすることから逃げることはできない、としています。
     
    男女が向き合い、信頼関係を築いていく努力をしてゆく、そういった姿こそ、結婚の目的である、という「善き生き方」を示しているのが、結婚制度だと。
     
    そして、私たちも、何が善き生き方なのか、その判断をすることから逃げることはできないのです。
     
     
    ここで少し脱線しますが、専業主婦の配偶者控除を廃止する議論では、大抵(テレビで見る限り、ですが)感情的な議論が交わされます。
     
    民主党は控除から手当てにするから損にはなっていないはずだ、という話をしていますが、実はこの議論、噛み合っていないんですね。
     
    手当ては子供に支給されるもの。一方、配偶者控除は、専業主婦の無給の労働に対する国の敬意、という意味が含まれます。
    つまり、国は配偶者控除を廃止するという議論の際に、専業主婦に対して今後は敬意を払わない、専業主婦は善き生き方ではない、という姿勢を示したと受け取られる危険性がある、ということです。
     
    単純な金銭の話ではないわけです。このように、何かを決めるときに、どうしても「善き生き方とは何か」を避けて通れないんだよ、というのがマイケル・サンデル教授の主張です。
    そこまでちゃんと踏み込んだ議論は、なかなか聞かないですね。
     
     
    さて、結婚の話に戻りますが、結婚のテロス(目的)は愛情や信頼の関係であるべきだ、というご意見は多数ありました。
    ★Fumingさん(2010年12月29日 01:03)
    ★chiccoさん(2011年01月02日 23:47)
    ★りんごさん(2011年01月03日 01:13、2011年01月14日 13:50)
     自分と向き合うこと、自分を信頼することも強調されていますね。
     
    実は、マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室の中でも、結婚のテロスに関する議論があり、そこでは、結婚の目的は、生殖ではなくパートナーとの恒久的な約束である、だから同性の結婚も認められるとする裁判所の判断が引き合いに出されています。
     
     
    一方で、
    ★長くて失礼しましたさん(2010年12月31日 02:35)
    は、結婚は愛情などではなく相互援助と財産分与に関する契約、とされていますね。
    ★くるみんさん(2011年01月03日 00:06)
    も、断定はされていませんが、相互の助け合いに重きを置かれていますね。
     
    ★mangomamaさん(2011年01月26日 22:38)は、
    >ですので結婚制度が純粋に、夫婦双方の感情的・情緒的な結びつきだけで成り立っているのでないのは、主に女性の地位の低さ、男女平等が実現していないところにあると感じます。
    と、書かれています。わたしもこの視点には賛成です。
     
    やはり結婚のテロスは、社会の経済状況や、子育て支援や介護等、福祉の状況など、男女を取り巻く様々な環境と、切り離して考えることはできないと思います。
     
    生存と子孫を残すことが重要な関心事であった考古学的な時代の頃は、男女関係は即生殖のための関係だったでしょうし、社会福祉が充実していない時代は、子に老後の面倒を見てもらう必要があり、生殖に加え家族の秩序が重要だったでしょう。
     
    生存に関して、社会制度によってある程度保証される現在、やはり結婚のテロスは子供を育てることから、別のものへと変化しています。
     
     
    時代によって結婚のテロスも変化していくものだと思います。
    ひょっとすると、結婚制度そのものが消滅することがあるのかな、なんて思ったりもします。
     
    なぜなら、結婚制度があることは、結婚した人だけに名誉を与え、未婚の生涯を送る人に対して、相対的に不名誉を与えることにつながるからです。
     
    既に、同棲などの事実婚を結婚と同等の状態として認めるフランスなどの国もあります。結婚という名誉を与えることから国は手を引き、単なる経済的、法律的な(年金の分配とか子供の養育権とかの)公平性を保証するだけになる可能性だってあり得ると思います。
     
    以前「ラストフレンズ」というドラマがあったのですが、そのラストで(ネタバレになるので少しぼかしますが)結局男女三人で微妙なバランスの関係で暮らしていくことを選択するんですが、そういった形の「結婚」も将来経済的、法律的に何らかの保証のある形になるのかもしれません。

  57. あづまです。つづきです。
     
    ひとつ上の私のコメントで、結婚制度自体が無くなるかもしれない、などと書きましたが、ご安心下さい。ひとつの可能性として書いたまでです。
     
    実は私は、パートナーシップを通じて人は大きく成長できる、だから結婚は善なのだ、という考えを基本的には支持しています。これは仕事を通じて成長できる、子育てを通じて成長できる、などと通じる、人の「善き生き方」に関する考えです。
     
    そういった色々な「善き生き方」の要素のひとつとして、結婚というものもあるのではないか、そう考えています。
     
    さて、その流れで考えていきます。
     
    浮気は「自分と向き合うことから逃げている」からいけないのだ、というご意見を書いて下さった方も多数いらっしゃいました。
    ★mariさん(2010年12月30日 23:32)
    ★ゆりさん(2011年01月02日 16:06)
    ★chiccoさん(2011年01月02日 23:47)
    ★rikoさん(2011年01月04日 18:38)
     も、このカテゴリーに入るかな。
    ★mariさん(2011年01月12日 11:36)
     は、問題解決能力を高めていく必要性を主張されています
    ★ohisamaさん(2011年01月12日 15:51)
     は、精神的に自立すること、道徳的に善し悪しを判断し行動できることを重要視されています。
     
    これは、結婚のテロスを超えて、人はいかに生きるべきか、に関する議論になっていると思います。
     
    決して話が脱線しているという意味ではなくて、浮気はなぜいけないのかを考えたり、その過程で結婚のテロスについて(明確に意識していなくても)考えたりするとき、私たちは必然的に、人はいかに生きるべきかについて考えざるを得ないのだと思います。
     
    実はここから先の議論は、ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授も取り上げていないものです。
     
    皆さんからご意見を頂きたいと考えております。
     
     
    私から、ひとつの視点を提示したいと思います。
     
    ケン・ウィルバーなど(ようやく重い腰を上げて著書を取り寄せて読むことにしました)が主張しているのは、人には成長の過程がある、その過程を進んでいくのが人間の生き方だというものです。
     
    何かに依存していて、そこで停滞している人は、おそらく、中期の自我の段階にあるといえるでしょう。そこから、自分を律して、社会的にも通用する「正義」の意識を身につけることで、後期の自我に進んでいくことができます。
     
    そして、パートナーシップとは、後期の自我からさらに進んで、成熟した自我が必要です。それは、自分とは違った価値観も受け入れ合う関係だからです。
     
    そういった観点から考えていくと、浮気というのは、中期の自我から成長するのを拒否して、依存症的な状態にとどまっていること。と言えるでしょう。
     
    あるいは、もう少し進んでいる人でも、後期の自我まで進んで、浮気はいけないという正義感は持っているけれど、抑圧された衝動などの無意識の中にある自分のシャドウと向き合っていない、つまり成熟した自我に向けて成長することを拒否している状態、とは言えると思います。
     
    自分と向き合うことから逃げているから、浮気は悪だという議論はまさに、人は成長してゆくべき存在である、という人間存在のテロス(目的)に関わる議論です。
     
     
    ・・・ちょっと飛ばしすぎました。
    ・・・脳がオーバーヒートしてきましたので、この辺で。
     
     
    えと、どんな意見を求めているか分かりにくかったと思うので、再度ポイントを書いておきますが、
     
    「浮気はなぜいけないのか」という問いかけに対して、「人生の目的はこれこれであって、それに反するので、浮気はいけない」という回答をすることです。そのようなご意見があると、本当に嬉しく思います。
     
    なお、人生に目的なんて決めるのはおかしい、といった反論も歓迎いたします。

  58. いつもメルマガを拝読しています。今回の「ゆるす」のブログ、はっとさせられました。全部のコメントに目を通した上ではないので、もしかしたら同じコメントを既にされている方がいらっしゃるかもしれませんが、自分の考えと向き合うためにもコメントさせていただきます。
     
    浮気はなぜいけないか?
     
    これは友人と何度か話したことがあります。男性であれ女性であれ、その行為が少なくとも自分以外の人間を傷つける行為であることを自覚した上での行為なのか、が問題だと思います。
     
    もし、「妻(あるいは夫)にかまってもらえなくて寂しいから」という理由、或は「妻(あるいは夫)に愛情を感じなくなった」という理由であれば、私の中ではその浮気や不倫は「悪いこと」になると思います。
     
    でも、自分の妻(あるいは夫)と子ども、両親(相手の両親)、浮気相手(とその家族)、自分の周りにいる人を全て傷つけて、自分(もしかしたら浮気相手も)が周りから批判され軽蔑の目で見られることになっても「一緒にいたい、愛したい」と思える相手と結婚後に出会ってしまったのならば一概に「悪い」とはいえないかなと思います。
     
    仮に、不貞行為が法的に違反ではないとなった場合、浮気は悪いことではないとなった場合、誰も真剣に恋愛や結婚をしなくなるかもしれません。
    1人の人を一生愛して守っていくという誓いをするからこそ、みんな真実の愛を求めるし恋愛に真剣になれるのではないでしょうか。

  59. 浮気をした側です。
     
    浮気は、
    “試練として乗り越えて、自己を成長させたり人生を豊かにできる経験”
    と言う風に捉えることが非常に困難なレベルの、
    深い傷を負わせるものであり、
    傷を負った側の人間のあらゆる面での可能性を縮小させるほどの
    破壊力がある行為だから、いけない。
     
    と、そのように思います。
     
    個人差はあると思いますが、
    身内を殺された、とか、
    戦争を経験した、とか、そういう、
    立ち直ることが非常に困難な類の傷を受けるものだと思います。
     
    少なくとも、別れた旦那さんに対して、
    私が浮気をしたのがなぜいけなかったのか、と問われたら、
    それが答えです。
     
     
    もともと供依存的な関係であった旦那さんとは、
    長い長い付き合いの末に結婚したのですが、
    結婚するとき、自分には覚悟ができておらず、
    結婚することの責任からも逃げていました。
     
    そんな状態で何故結婚したかと言うと、
    「親を苦しませることに、耐えられなかったから」です。
     
    けれど、旦那さんとは本当に仲が良かったし、
    尊敬しあっていたし、価値観も趣味も非常に合うし、
    何をやるにもどこへ行くにも、
    互いが一番の相手でした。
    大好きでした。
    結婚しなくても、この人と一生一緒に生きていきたい、
    と互いに思っていました。
     
    お互い、両親の影響で、
    結婚と言うものに良いイメージを持っていなかったため、
    結婚など形式だけのもので、
    大切なのは絆だと思っている節があったのですが、
    同棲も5年以上になると、私の両親がいよいよ痺れを切らし、
    実家に行くたびに喧嘩になることに、私は疲れ切っていました。
     
    どうせ結婚しなくても一生一緒にいるなら、
    事実婚で結婚式だけでも挙げて、両親や身内を
    安心させてあげたほうが、逆に波風立たずにすむんじゃないか、
    と言う軽い気持ちもあり、籍を入れずに2年前、式だけ挙げました。
     
     
    私は、典型的なアダルトチルドレンでした。
    主体性も軸もなく、セルフイメージが極端に低く、
    感情はジェットコースターのようで自分でも手に負えず、生き辛さを
    感じていました。
    どうして自殺願望があるのかわからず、死にたくなることが
    申し訳なく、苦しんでいました。
     
    こんな自分と結婚を決意するのは、たとえ籍を入れなくても
    相手は相当覚悟が必要だったはずです。
     
    私の浮気後、旦那さんが互いの供依存的な部分をしっかり直そう、
    と言うことで、別居を主張してきましたが、
    まだアダルトチルドレン的な自分の性質を
    客観的に捉えられていなかった私は、
    別居したら、もう二度と一緒に住めないと言う恐怖や不安から
    錯乱状態になり、「互いにちゃんと自立できてから、
    もう一度しっかりした関係を築こう」と言ってくれている旦那さんの
    主張を受け入れられず、別居するなら離婚だ、とか、
    別居はなんの解決にもならない、と旦那さんを責め続け、
    挙句の果てには「浮気は全部が全部、私が悪いわけではない」、
    などと喚いて、旦那さんを疲弊させました。
     
    その後、結局別居したのですが、
    浮気をした罪悪感と、旦那さんから見捨てられたような孤独、
    将来への不安から、精神が不安定になり、藁をも掴む気持ちで、
    浮気後1度カウンセリングでお世話になった、
    あづま先生のブログやメルマガを読みまくりました。
     
    その結果、自分の異様に寂しがる性質や、自殺願望、軸のなさなどの
    原因がわかってきて、インナーチャイルドヒーリングをしたり、
    あづま先生が紹介されていた、
    チャック・スペザーノ博士の本を毎日読んだりすることで、
    少しずつ落ち着いてきて、
    最終的には罪悪感を手離したり、感情をコントロールできるようになったり、
    セルフイメージを高くもてるようになったりして、
    今は本当に生きやすさを感じられます。
     
    けれど、こんな風になった自分を誰よりも喜んでくれるだろう
    旦那さんには、もう新しい女性が現れてしまい、
    もう、私には戻れないと言われました。
     
    ショックでした。
     
    「アダルトチルドレンだったんです。
     自分でも、どうにもできなかったんです。」
    そんな思いが、自分の中に涌き上がって、切なくて、
    張り裂けそうになりますが、
    旦那さんからしたら、そんな事情は汲めないほど、
    傷ついてしまったのです。
     
    薬物依存者が殺人を犯して、
    「責任能力があったか調査中」、などとよく耳にしますが、
    罪を犯した私が思うのは、
    どんな背景があっても、本人にコントロールできない感情が
    あったとしても、罪を犯してしまったのは、
    ほかならぬその人間であり、その行動は個体として、
    その人間以外のものが責任を負うことはできない、と言うことです。
     
    自分が悪くないのに、罪を犯したのは何故か、
    と言うことを自覚するところから、
    その人の自分を取り戻す歩みが始まるのだと思います。
     
    私の旦那さんは、能力が高く、人からも好かれ、
    この人は将来どういう活躍をするんだろう、
    と言うのは、私の楽しみでもあり、誇りでもありました。
     
    そんな彼にも弱いところはあり、結婚前に私を裏切ったり傷つけたことで
    自分を責め続けていたり、
    今回の浮気のことで、結局私を責めているようで、
    本当は、過去の自分が許せなかったりして、
    罪悪感を手離せていない部分があり、そういうことも、
    離婚につながったと思っています。
     
    彼には、私との関係が、たとえ終わったとしても、
    その訳をちゃんと追求し、自分の中の罪悪感を手離し、
    次の人と同じことを繰り返さないで幸せになって欲しい、
    と言うのが私の願いです。
     
    彼ほどの人が、私の浮気のせいで深い傷を負い、
    向き合えないことで弱点を作ってしまったことが、私の苦しみです。

  60. 私は浮気をしたこともされたこともありません。ですからもちろんされた方の痛みや悲しみも、してしまった方のそれに至った苦しみや罪悪感も想像しかできません。私の書けるのはあくまで理屈というか、考察でしかないのが申し訳ないのですが、ここまで読んできて大変勉強になったので参加させていただきます。
    「いけない」という言葉に抵抗を感じるのは私も前に書かれていた数人の方々と同じです。でも、「浮気は良いか悪いか、するべきかしないべきか」と聞かれたら、必ずしも悪くないにしろ決して良くはないし、するべきでもないと思います。
    何故かというと、不誠実で自分勝手な行動だし、1対1でバランスが保たれるはずの関係も、片方に第三者が付加されることによってバランスが崩れてしまう可能性が大きいからです。バレなければ良いとも思えません。お金を毎日少しずつ盗んで「バレなければ悪いことではない」と言う人はいませんよね。バレなければ代償を払わずに済むかもしれませんが。多少個人差はあっても大切な相手に注げる愛情や時間やエネルギーには限りがあります。誠実に相手と向き合うためには、お互い相手にもらっているのと同等の愛や時間やエネルギーを与える努力、与えたいと思う気持ちが必要だと思います。
    既にバランスが崩れた関係で苦しんだ末に浮気という道を選んでしまう人もいるだろうし、浮気は結果という場合もありますよね。でも、結果である浮気にも、さらにその結果があります。それまで進んできた道がどちらであれ、浮気は関係を破壊する方に進む大きな一歩なんだと思います。だから私は、浮気は「自分は今の二人の関係を大切に思っていません、あなたを尊重していません」というメッセージと受け取ってしまいます。
    浮気が発覚したことにより今まで目を背けてきた二人の間の問題が表面化し、お互い努力して幸せな家庭を修復できたとしても、それは問題と向き合い努力したのが善であり、浮気自体はやはり問題(悪)の方ではないでしょうか。浮気発覚がきっかけで成長した人も、多分その人の中に傷ついた中にも教訓を見いだし自分を磨くだけのパワーがあったのであり、「相手の成長を促すため」に浮気をする人なんていませんよね。ここまではっきり浮気は良くないと思っているのに「いけない」と言う言葉に違和感を覚えるのは、あくまで二人の健全な結婚/恋愛関係を保つことを前提に「良くない」と考えているのであり、人間として絶対にしてはいけないというレベルで捉えてはいないという感覚でしょうか。

  61. ohisamaです。再びコメントします。
    あづま先生の書かれた「人生の目的はこれこれであって、それに反するので、浮気はいけない」という視点で改めて考えてみました。
     
    魂は、何回か輪廻転生をし昇天する、と聞いたことがあります。
    そして同じ魂のレベル同士で、惹かれあうそうです。
    人生の目的は、魂を磨くこと、成長させていくことであり、そのために人生には色々な課題や困難が待ち受けているのだと私は思っています。その試練や困難は、その人の魂レベルに合ったもので、その人に乗り越えられるからこそ、神様が与えるものなのだろうと思います。だから、どんなことからも逃げず立ち向かうことが、自分に与えられた使命なのです。浮気することは、自分の課題に立ち向かい魂の成長につなげるという人生の目的に反する、だからいけないのだと思います。
     
    参考になればと思い、自分の例をあげます。
     
    私は夫と交際している間は、「お互いに頑張って成長していこうね」と言い合い、もっといい女になりたいと色々なことにチャレンジしました。彼の彼女であることに、背筋が伸びる感覚がありました。それは彼も同じ感覚だったと思います。喧嘩をしてもとことん話し合って、改善していこうと向き合っていました。
     
    ですが、結婚し子供ができて、そういう感覚がなくなってしまったように思います。喧嘩をしても、労力がかかるから話し合わず、我慢したり、違う話題に逃げたり。私は頑張りすぎてしまったり、・・・すべきと正しさを主張しがちで、彼は孤独感もあり親や夫としての義務を追求され、お互いに苦しかったのだと思います。私は無視したり冷たくするようになり、彼は逃避行動に出るようになりました。浮気です。お互い逃げる行動では、成長がありませんでした。
     
    浮気も、お酒・ギャンブル・タバコ・麻薬のように、一度その快感を味わってしまうとやめるのが大変なようで、彼の場合私が証拠を持ってはっきり指摘し別居という態度をとらないとやめられません。私は何度も深く深く傷つきました。それから先生のカウンセリングを受けたり、セミナーに参加し、自分の罪悪感を癒すことに取り組みました。離婚も考えましたが、やり直すということが、また以前のようにお互いの成長につながるかもしれない、難しいといわれる事にチャレンジしてみようと思い、もう一度やり直してみることにしました。でも、戻ればまた浮気再発でした。私の軸のなさ、彼の孤独感がまだ問題でした。
     
    またやり直すのか・・・
    今は彼にはもう惹かれません。ただ、可哀想・・・そう強く思います。
    浮気発覚後、私は色々と勉強し自我が成長したけれど、彼は家族や自分から逃げてばかりで成長がとまってしまった。むしろ、浮気をしてしまったという罪悪感を抱え、さらに苦しく後退してしまったようにさえ感じます。成長するスピードが違いすぎた。
    今は魂のレベルが違ってしまったのだと感じます。
    もう一緒にいることが、お互いの成長につながらないと思っています。
     
    きちんと勉強したわけではないのですが、私の思うところを書かせていただきました。ちょっと宗教的な考えかもしれませんが、詳しい方がいらっしゃったら教えていただきたいです。

  62. あづまです。
     
    本当に真剣なコメントを、書いて下さってありがとうございます。
     
     
    ◆かおるさん
     
    なるほど。悩み抜いた上で、全ての責任を引き受ける覚悟の上の行動なら、一概に「悪い」とは言えない。深いお答えですね。
     
    一般的には「悪い」こと、ということが十分に分かっていて(=自分の中の「軸」があって)、それでもあえて、その軸に沿えない自分がいて、その不利益を全て引き受ける覚悟で前に進む。
     
    正しいことに固執しがちな後期自我の状態を超えて、自分の中の混沌とした無意識の領域に向き合って成熟した自我へと成長する道にも通じるような気がします。
     
    とは言え、多くの浮気では、そこまで考えていないことが多そうですね!
     
     
    ◆メロンさん
     
    体験談をありがとうございます。
    なるほど。色々な議論があろうと、やはり乗り越えることが非常に困難なレベルの深い傷を負わせてしまうことになるから、いけないのだと。
     
    そして、どんな背景があっても、行動には責任を負うべきだと。
    私も、その考え方に基本的には賛成です。
    ただ、浮気に逃げる以外にどんな解決方法があるのか、そういった教育なり、社会としての支援体制があるべきだろうな、とは思います。
     
    お金がないから盗みをした、ということがないように、生活保護という社会制度がある。それと同じように、アダルトチルドレンで感情のジェットコースターなどの状態だから不倫などの、問題のある恋愛をしてしまう、ということがないように、社会のサポート体制があるといいな、といつも思っています。
     
     
    ◆サイさん
     
    コメントありがとうございます。
    浮気の結果を問題にされていますね。結果が大事、という帰結主義的な考え方ですね。
    一方で、問題と向き合い努力することを善とされています。プロセスについての言及ですね。
     
    「あくまで二人の健全な結婚/恋愛関係を保つことを前提に」とも書かれていますので、二人で向き合うことが結婚生活の「善」だと考えていらっしゃるのでしょうか。そしてそれに反するから浮気は「よくない」と。
     
    様々な観点からのご意見ありがとうございました。
     
     
    ◆ohisamaさん
     
    人生の目的に触れるコメント、ありがとうございます。
    正直、議論を難しくしすぎてコメントしづらくなってしまったかなと、ちょっと反省もしていたところだったので、とても嬉しく拝見いたしました。
     
    「人生の目的は、魂を磨くこと、成長させていくこと」というご意見に、私もまだ100%の確信ではないものの、同意します。
     
    人生においてぶつかる様々な課題や困難に向き合って乗り越えていくことが善と考えていらっしゃるのですね。浮気は確かに、そこから逃げる姿勢になっています。
     
    私はこういう視点はとても分かりやすいと感じるのですが、(このコラム&コメントを読まれた皆さんは)どうでしょうか?
     
    成長した側と、成長が止まってしまった側は、おっしゃるように別れに至ることが多いです。一緒にいても学び合えなくなるからでしょう。
     
    ohisamaさん、深いご意見ありがとうございました。

  63. 「人生の目的はこれこれであって、それに反するので、浮気はいけない」という回答をすることです、と聞いてまず思ったことを書きます。
    結婚するまでは「私の人生の目的は・・・」となっていたのが、結婚してからは「私達の人生の目的は・・・」に変わりました。生涯ずっと共に助け合い、と変わらぬ愛を誓いあった二人ですから、人生の目的が二人同じものになりました。人生の主人公がそれまで自分だけだったのが、二人になったのです。一緒にがんばってマイホームを持とう。子供は3人くらいほしいね。子供が離れたら二人でいっぱい旅行しよう。そしていつか年老いたら、二人で南の島に移住したいね。大変なこともいっぱいあるけれど、そんな楽しい二人の人生、目的に向かってがんばって歩いていこう、と誓ったのです。そう誓った時点で相手の人生が自分の中にあるのです。
    私は主人の浮気がわかったあとに、人生の目的が壊れてしまった、とまず感じました。勝手に私だけが作った人生のシナリオなら、その通りにいくわけもありませんが、二人で作った、愛のある人生のシナリオだったにもかかわらず、壊れてしまった、と強烈な絶望を感じました。
    私達の場合、結婚した時点で人生の目的は二人共有のものになったので、浮気はその目的を壊してしまうため、絶対にしてはいけなかったことでした。
    今は新しいシナリオ作りに努力している主人を見ながら、もう一度私も同じ目的が持てるかどうか、ゆっくり自分をみつめながら暮らしています。
     
    みなさまに比べて幼稚な発言ですが、思ったことをそのまま書いてみました。

  64. しばらくご無沙汰しておりましたが、皆さんの投稿、大変興味深く拝読しました。
    特に、メロンさんの手記には、深く心打たれるものがありました。
    とても切ない経験をされて、その後よく自分をきちんと見つめていらっしゃる。相手への深い愛情が育っているのが、とても感動的でした。別れることになったとはいえ、あるいは、それだからこそ余計にその気持ちが純粋なことがわかります。
     
     
    浮気はいけないか。
    それは、病気はいけないか、という問いに似ています。
     
    病気というのは、抵抗力というか免疫が下がったりバランスが崩れたりしていることを、我々に教えてくれるものです。
    風邪をこじらせて死ぬ人もいれば、癌から立ち直る人もいます。
     
    浮気をされるのがこわくて相手を厳しくコントロールするタイプの人は、まるで、無菌室で生きようとするようなものです。その中にいる間は伝染病にはかかりませんが、免疫はつきません。無菌室から出たとたん、感染しやすくなります(イヌイットの人々が我々の世界にきたらインフルエンザで死んでしまう、という感じでしょうか)。で、余計に無菌状態を保とうとする・・・
    しかし、ずっと無菌室の中にいるとそのうち息がつまって、普通の人ならそれこそビョウキになるんじゃないかと思います。
     
    病気というものは、実は原因をつきとめようとしても治るものではないように、浮気もおそらく、どんなに原因をさぐっても、解決する問題ではないのではないかと思います。
    病気をするごとに、もっと強い体になるように免疫をつけていくような生活をすることが根本的な解決であると思います。
     
    この場では、「いいか悪いか」という議論を、「自分の軸をしっかり持つため」という目的で提案されたようですが、私の場合、様々なご意見を拝読するのはとても興味がありますが、議題自体には、残念ながら、深いところでは興味がわいてこないのが事実です。
     
    これはキリスト教と仏教のちがいのようなものかもしれませんが、罪を問題にするのではなく、苦をいかに減らすか、の方が、個人的には、より興味深いです。
     
    そもそも、あづまさんのカウンセリングは、「苦をいかに減らすか」という方法であるとみて、大変興味深くいつも拝読しています。
    実を言うと、今回の「罪を問題とする」方針が実をいうと理屈っぽくて、やゆこなれていない部分があり、これまでの「苦をいかに減らすか」方針の中でうまくまだこなれていない、という気がする・・・・・・のは、私だけでしょうか。
     
    決して批判のつもりではありません。むしろ、あづまさんの、新しいことに色々チャレンジする姿勢はすばらしいと思います。
    ただ、「罪」とか「いかにあるべきか」を語りだすと、意に反して宗教がかってしまうのではないかという恐れはあります。

  65. 浮気はいけないか…
    主人にしつこく聞き出すことにより2年間に渡る浮気が発覚しました。こんなに私はあなたのことが好きなのに、どうして?、私が幼い子供3人を育てている時期になぜ?
     
    私とはセックスもほとんどなかった…、会話の内容もお互いのスケジュール確認が主、よく飲みに行ってた…、あれもこれもそういえば…と、その当時を思い出すと未だに悔しくて苦しくて感情が高まるのが抑えられません。
     
    これまで二人が築いてきた大切なものが崩れて壊れてしまったような、自分を女性として妻として全否定されたような、全くやりきれない気持ちに陥りました。
     
    このことで、怒りや悲しみを主人におもいきりぶつけて色々な話し合いや口論をもった末、
    徐々に自分の足りないところに気づき、反省するようになってきました。
    女性として妻として、そして自立した人間として、自分はどのように補っていけばいいんだろうか、主人にどのような心を遣うべきなのか…を考えるようになりました。
     
    考えれば考えるほど、これまでの私は足りていなかったと思うことばかりです。
    主人に何でも合わせて、見た目も心も行動も主人に喜んでもらうように…と、折れそうになる心を削りながら過ごしています。
     
    まったく浮気というのは、私にとって恐怖です。不安で悲しくて、これだけ主人のことが好きなのに、今も明日も未来も不安です。いつまたこのようなことが起きるか、と思うと。
    相手を信用できなくなる、不安な気持ちがいつも付きまとってしまう。
     
    浮気するということは、されたほうにとっては、大きな心の傷を受けます。相手に不安と不信感をいだきながら生きていくことになります。
     
    安心した、ワクワクする、楽しい、うれしい、ありがたい、といった、心から自然とじんわりと生まれてくる感情を全く封印させてしまいます。
     
    だから、いけないと思います。

  66. はじめまして。みなさんの深まってゆくコメントをざっと読みました。お題にあまり合ってないかもしれませんが参加させてください。
     
    「浮気がもし本気の愛ならいいのか?」というギモンがあります。人間の感情や心は外側や他人からはおしはかることは難しいし、すべての浮気が浅はかで軽い、価値のないものだと言いきれないだろうと思います。どなたかも書いていましたが、すべて責任を取る覚悟の本気の愛情ならどうなのだろう、と考えています。
     
    またもし浮気相手への愛とまったく同じくらい配偶者も愛していた時は、果たして責めることができだろうか?というギモンもあります。二人を同時に愛せるわけがないと思っている人には無駄な問いかもしれませんけど。複数の人を愛せば、使う時間も労力も少なくなるでしょうが、結婚制度を選んで契約しているからといって、配偶者以外のひとを愛する気持ちを、無理に抑えることがよいことなのだろうか、と考えてしまいます。
     
    もちろん配偶者に立ち直れないくらいのダメージを与える、という事実はわかります。でもそのようなダメージは、信用していた友人や何かの契約をしていた人間関係においても起きることですし、いやな思いをさせるのは、浮気に限らず結婚している間にはさまざまな形でお互いにあることだろうと思うのです。最大の加害の一つが浮気だろうと思います。
     
    また真実の愛は、一人の人だけを一生愛することなのでしょうか。結婚制度がもしこれを前提にしているというなら、子どもや親族、友人たちへの愛情はどう位置付ければいいのでしょうか。愛情とは相手の幸せを願うことだとしたら、たった一人の人への愛情は、尊い一面があるとしても、自分にも相手にとっても、ものすごく狭くて不自由な束縛とおなじ意味にもなるのではないかなと思うんです。
     
    まだ私の中でもうまく整理できないまま書きこんでしまいました。妻としてこんなふうに考えてる人もいるということでお許しください。

  67. 皆様のご意見、とても興味深く拝見させて頂きました。
     
    個人的には浮気は良いものとは思わないけれど、背景によっては、絶対的に悪いこととも言いきれないと考えているのですが、反面で、かくいう自分自身、その場になったら、おそらく感情的に許せない、と感じるかもしれないとも思います。
     
    じゃあ、それは何故かと考えると、「浮気」が「生活基盤の破壊」につながりかねない行為だからではないか、と思うのです。「浮気」が許せない、と感じる背景には、怒りや悲しみ、裏切られたという思いなど様々な感情が絡みますが、その一つに、浮気相手への嫉妬心も多くの場合は出てくると思うのです。
     
    この嫉妬心というのは、「自分の立場を脅かされるのでは」という不安感、もっといえば「自分の立場・生活を脅かされる恐怖心」から生じるのではないかと考えています。
     
    例えば、比較的浮気に対して寛容な人は、ショックを受けながらも、一時的な気の迷いというのもあるし、最終的には自分のもとへ帰ってくるだろう、といった発想・根本的な自信のある人が多いように思うのです。
     
    逆に常に浮気を心配している人は、常に相手の関心を自分に惹きつけてないと相手が自分から離れていくのではないか、という不安を日常的に抱いている人が多く見られます。
     
    このことから「許せない」という思いの強さは、「現在の自分の立場を失うかもしれない」といった不安感・恐怖心とかなり密接な関係があるように感じるのです。
     
    これらのことから、浮気がいけないとするなら、「相手の立場・生活を脅かす可能性の高い行為である」という自覚の有無が重要な焦点になると考えます。
     
    つまり、夫婦関係の場合、それで相手との信頼関係が破たんし、結婚生活を続けられなくなったとしても、慰謝料・養育費などを支払う、といった覚悟があって(相応の責任を取る姿勢と言い換えてもよい)、それでも浮気に踏み切ってしまった場合と、そこまで考えておらず、衝動的に(あるいは誘惑に負けて)浮気をした場合では、必然的にその後の対応・誠意の示し方などに大きな開きが出てくるため、浮気をされた側の気持の整理に多大な影響が出てくると思うのです。
     
    個人的には、「浮気」という出来事そのものより、そういったアフターケア(責任と誠意と置き換えてもよい)が感情的に「絶対に許せない(悪)」と「すぐには受け入れきれなくとも、いつか許せるかもしれないこと(悪と言い切れない)」の分かれ目になることが多いのでは、と考えます。

  68. 浮気はなぜいけないのか?についての議論ですよね。
     
    浮気についての個人的な考えや感想を述べるのは、本題からかけはなれていませんか。
     
    涼風さんのコメントはいかがなものでしょう?

  69. ◆陽子さん
     
    ご自分の体験から、ご意見を書いて下さったのですね。
    ありがとうございます。
     
    ただ、自分が幸せを感じなくなるから、いけない、という意見であれば、上の方で議論した夫のブログの話と何が違うのか、という話に戻ってしまいますね。
     
    本当に、個人的感情のみで、善悪を議論することは正しいのでしょうか?
     
     
    そして、
    ◆涼風さんが書かれているように、
     
    もし、本気で好きになっていたとするなら、夫にとっては、浮気相手と別れさせられることは、ひどい心の痛みを伴うはずです。
     
    個人的感情で善悪を議論するのであれば、
     
    幼児期に、母親に守られている安心感を十分得られなかったなどの理由で、依存的な状態が大人になっても続いていて、浮気をやめたら激しく心が痛むという状態の夫がいた場合(実際にそういう人はいます)、
     
    浮気をやめたときの夫の痛み>浮気をしているときの妻の痛み
     
    となるのであれば、
    (まあ、比較が可能であったとして、ですが)
     
    浮気をする方が正しい、という結論が導かれるのでしょうか?
     
     
    これは決して、非現実的な仮定をしているわけではなくて、浮気を続ける夫を、不本意ながらも容認し続けている妻、という関係を見ていくと、夫自身が心の問題を抱え、浮気をしていることを心の支えにしているケースが多々あります。
     
    実際に、
    浮気をやめたときの夫の痛み>浮気をしているときの妻の痛み
    と言えるようなケースがあるのです。
     
    まあ、一般的に解釈すると、妻が忍耐力があるから耐えているだけ、と考えるような状況ではあるわけですし、私も、その妻本人も、その状況をOKだと思っているわけではありません。
     
     
    ★ここで私が問題にしたいのは、
    浮気の善悪そのものではなくて、
     
     
    善悪を考える時の、基準についてです。
     
    本当に、個人的感情をよりどころにして、善悪を決めることは出来るのでしょうか?
     
    そして、個人的感情ではないものをよりどころにするのであれば、いったいどういう基準で善悪を決めればよいのでしょうか?
     
    という話です。
     
     
    私は、◆涼風さんの議論は、この議題の本質に関わる、とてもよい視点を提供してくれたと考えています。ありがとうございます。
     
    ◆陽子さん、浮気を「題材」として、善悪の原則について議論するのがこのコラムの主旨です。突き詰めていくと浮気した側を一方的に断罪することは出来ないことに気づくはずです。
     
    もし、個人的感情を解消したいのであれば、このコラムをお読みになるのは、まだ早いかと思います。少しご自分の中で、整理がついてから、またチャレンジしてみて下さい。

  70. ◆光りさん
     
    ご意見ありがとうございます。
     
    >「相手の立場・生活を脅かす可能性の高い行為である」という自覚の有無
    …なるほど。
     
    自分の行動が及ぼす様々な影響に対して、責任を取る覚悟があるかどうか。
    浮気をしたことによって自分に跳ね返ってくる不利益をも、引き受ける気があるかどうか。
     
    その点が大事だということですね。
    (うまく言葉に出来ていません。ごめんなさい!)
     
    まだ私もうまく言葉に出来ていないですが、確かにそのあたりに大事な要素がありそうな感覚があります。
     
    なかなかいい点を突いている気がします。
    (私もまだ、確信がないのです)
     
    すると、善悪の基準というのは、どうなるのでしょうか。
     
    自分の行動の結果にしっかり向き合って、逃げずに責任を取ろうとするなら、善。
     
    結果に対する責任を引き受ける気がなかったり、逃げようとしていたら、悪。
     
    ということなのかな。
    (自分の中でもうまく言葉にしきれていない気がしています)
     
     
    光りさん、深いテーマです!ありがとうございます。直感的に「大事なことだ」とは分かるのですが、ちょっと整理し切れていないかもしれません。さらに勉強して頑張ります。ありがとうございました。

  71. 思うままに書いてみます。
     
    浮気はなぜいけないか。
    それは、相手や社会を信じることが土台となって人は幸せな
    (または発展的な)社会生活や結婚生活を送れるのではないかと
    思います。
     
    浮気続けていくには結婚生活を送っているパートナーに対して
    何らかの嘘をつき続けていかなければなりません。
    そういうことを続けていて果たして人を本当に信じることが
    できるでしょうか。
     
    また、浮気の事実を知られたとき、日々結婚生活を送っている
    パートナーが相手を信じる心を(私はどのくらいという想像も
    つかないのですが)大きく打ち砕いてしまうのではないかと思います。
     
    「人生の目的」とまでいくかどうか分からないのですが
    自分でもそして出会う人同士お互いの行為によって信じる心を
    コツコツ築き続けていくというのも、大勢の人たちが社会をつくりつつ
    個人が安心して暮らせる大切な営みではないかと思うのです。
     
    浮気がいけないのはなぜかという問いがあるならば
    そういうことを共有できる一番身近な人との関係がそもそも
    築けなくなってしまうということが問題なのではないでしょうか。
     
    言葉が足りていないかもしれません。
    とても考えさせられます。

  72. 初めまして。私は、浮気というのは、自分のみの快楽の追及ような感じがします。いいか、悪いか、正直私にはよくわかりません。ただ、私は個人的に浮気は好きではありません。どうしてか自分でもよくわかりません。ただ、人を好きになる時は本気です。私は結婚20年目です。実は、一年前に好きになった人がいました。自分で言うのもなんですが、本気でした。本気だから一線を越えず終わらせました。本気で好きな場合、私が相手にできることはただ一つ、相手の長所(あなたは丸ごと素晴らしい)と相手に伝え励ます事だけでした。私達夫婦は結婚はしていますが、法的には夫婦とは言い難い状態です。それでも夫婦でいたいから結婚を続けています。実は本心の49%は一線を越えなかった事を今でも後悔しています。1%かろうじて理性が勝っただけでした。私の気持ちは、浮気じゃない、本気なんだ、浮気になどするものか、という意地です。私のような行動は浮気に入るのでしょうか。結婚していても異性を好きになることはあると思います。本題からずれていたらすみません。

  73. 浮気がなぜいけないか?それは簡単なことです。
    結婚という公の契約をしておきながら、公の契約相手以外の人と関係を持っているからです。
     
    その「不貞行為」は離婚の理由として認められるものです。家庭を持つ、生活を共にするにあたって、パートナー以外との関係(不貞行為)はそれを阻害するもの(結婚生活を継続できない重大な理由)として認められているからです。
     
    法律では納得できないなら人間としてどうか、という点からお話しましょうか。まともな教育を受けている人間なら、「人のものを取ってはいけません」ということくらい教えられていますよね。譲り渡す約束もしていないのに他人の物を取れば、犯罪云々以前に「モラルがない」と白い目で見られます。
     
    さすがに「欲しいものがあれば人からとってもいいじゃない!」というのは法律抜きで悪いのは分かってますよね。決まりごと全般を否定するのは無秩序で誰も安心して暮らせない世界を肯定することになりますから。
     
    で、「人のもの」を取ってはいけない。ということは、人のパートナーも当然取ってはいけないのです。「物は取ったらいけないけど、人は取ってもいいよね!」という人は、自分の恋人や子供を奪われても平気なのか、よーーーーーーーく考えて下さいね。
     
    そもそも、略奪婚などと「他人から恋人と幸せを奪った末に自分だけ幸せになります☆」というモラルも何もない結婚をさもカッコイイことのようにはやしたてる一部の輩がいるから「他人から恋人を奪ってもいいんだ」と思い込む人が増えるのです。
     
    話を戻します。
    「生活に支障を来さないからいいだろう」という言い分があるでしょうが、浮気が本気にならないと言い切れますか?それで離婚したら、非は当然浮気した側にありますので多額の慰謝料を払うはめになりますよ。
    また、人の口に戸は立てられません。浮気現場を知り合いにでも目撃されれば「モラルのない人」と認識され、それが広まる恐れも十分あります。そのことを咎めたところで、浮気という「相手から一方的に離婚を突きつけられても文句をいえない」ことをやっている人に苦情を言う資格はありません。
     
    夫婦が互いに浮気を黙認しているならいいでしょう。しかし、そうでないのに浮気をするということは、一時の快楽のために仕事・家庭・友人・信頼を失う可能性がつきまとう、大きなリスクがあるのです。
     
    実際に浮気で職も家族も友人も失ったケースは多くあります。なぜいけないのか、それは一時の快楽のためにパートナーを傷つけ、多くを失うリスクを背負うからです。何よりも浮気が大事なら好きにすればいいと思いますがね。

  74. 賛否両論あると思いますが、私の考えの基本は、人の心は法律では縛れない です。太古から戦争が続いているのも同じ理由のような気がします。あづま先生の仰った 
     
    自分の行動の結果にしっかり向き合って、逃げずに責任を取ろうとするなら、善。
    結果に対する責任を引き受ける気がなかったり、逃げようとしていたら、悪。
     
    に近いです。
     
    浮気や不倫を謳歌した後、その関係者から恨まれて刺されて死にかけながら、自分は後悔していない、やりたいからやった、と潔く死んでいく人を私は嫌いではありません。織田信長の 是非に非ず に近いかな。
     
    もしかして浮気を強く否定する人の中には、本当は自分がしたいけどできなくて怒っているような人もいるのかな。
       

  75.     
    自分の中で何か大切な答えにつながりそうで再投稿です。
     
    法律違反だから浮気をしないのは、心が法律に縛られていて、本音は浮気したいけど世間体を恐れて我慢している状態。
     
    例えば法律で浮気okでも、愛する人との信頼関係を考えて自ら浮気をしない選択ができる人は成熟した人間。
     
    あくまで私の考えです。

  76. 以前投稿した紫陽花です。
     
    その時、皆さんの投稿をほとんど読まずに投稿しましたが、先程、皆さんすべてのご意見を拝読させて頂きました。
     
    個人的に、涼風さんのコメントが、まるで自分の今の心を代弁して下さっているかのように感じ癒されました。
     
    また、長くて失礼しました さんのすべてのコメントが(メロンさんに対する思いまで)驚くほど共感でき、ここまで自分の考えに近い人がいるとは思ってもいませんでした。
     
    このような場を作って下さったあづま先生に心より感謝致します。

  77. あづまです。
     
    久しぶりにこの記事にやってきました。
     
    再度確認しておきますが、この記事の目的は、浮気という問題を題材として、正しいこと・間違ったことの基準は何か?と考え、そのことを通じて、自分なりの道徳観念を育てることにあります。
     
     
     
    ◆のりこさん
     
    のりこさんの基準は、相手や社会を信じること、なのですね。
    確かに、相互信頼に基づいて私たちは生きていますね。
    それを破壊する行為だから、浮気はいけない。
     
    さらっと書かれていますが、なかなか鋭い論点だとうなってしまいました。
    カントの道徳観念と、通じるものがあるように思いました。
     
     
    ◆紫陽花さん
     
    既婚で別の人を好きになってしまった場合、本当に苦しいですよね。
    本題からはズレていますが、ありがとうございました。
     
     
    ◆まゆさん
     
    うーん。「要するに私は嫌だ」になっていませんか?
    このコラムの目的である、正しいことの基準、という論点にはなっていないような。
     
    契約だからいけない、ということは、
    「自由意思で合意したことは守るべき」という道徳規準になるわけですが、これだと、結婚していないカップルの場合、浮気はいけないという理由がなくなってしまいます。
     
    それから、略奪がいけないという論点では、略奪する側、つまり不倫相手に罪があることは言えますが、二股をかけた張本人は問題ないということになってしまいます。浮気した本人は、ものではなく、人格も意思も持った人なのですが。
     
    これでは、正しいこと・正しくないことの基準にはなり得ないのでは?
     
    そして、最後の方に書かれている浮気をすると職も家族も失うことがあるという話は、「損をするからやめよう」という論理。善悪ではなく、損得でものを考えればよい、ということでしょうか?
     
    私が屁理屈を書いているように感じるかもしれません。
     
    でも逆に、私には、まゆさんの中に、確固たる、これが人生において大事なことで、正しいこと・正しくないことの基準だ、というものがまだちゃんと、作れていないように感じるのです。
     
    これを機会に、ぜひぜひ、よく考えてみてほしいと思います。
     
    それと、身近にそのような現場があった、などのご経験をされている場合、まず、自分の心の傷を癒してからでないと、このような記事を読むのは難しいですよ、ということも、最後に書き添えておきます。
     
     
    ◆nobuさん
     
    なるほど。nobuさんの基準は、不利益を被ることも覚悟の上でする浮気なら、ありだと。
    そのココロは、自分の行動の結果に責任を持ち、自分で決めるならよい、と。逆に法律や世間体を怖れて我慢している状態は、あまり良い状態とは言えない、ということですね。
    うーんなるほど。私はとても共感しますし、精神的成熟度の基準としては、全くその通りだと思いますが、その基準を持ってくると、善悪を超越して「自分次第」「覚悟次第」みたいになってしまうところが、悩ましいところです。
     
     
     
     
    皆さま、議論にご参加ありがとうございましたm(_^_)m

  78. 浮気はなぜいけないのか→本気と浮気という区別があって、浮気は悪いもの、という刷り込みというか前提が社会にあるからだと思います。
    ルールとして浮気はだめ、が先にあるので、浮気の濃度、状況に関わらず浮気=ルール違反になるからです。
     
    浮気は男の甲斐性、と言われていた昔は、今より浮気に対して寛容でいられた分、浮気された方は心理的・感情的に楽だったのでは。
    浮気くらいで揺らぐ関係ではない、と別物に考えられれば時代に関わらず楽なんですかね。
     
    人生は道徳だけで出来てないし(というか欲のエネルギーの方が圧倒的に強いし)、正しいことより楽しいことのほうが魅力的だったりするから困っちゃいます。

  79. machiさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    >ルールとして浮気はだめ、が先にあるので、
    ここがmachiさんの基準なのですね。
     
    確かに、日本では浮気は不法行為、つまり、犯罪ではないが、法律的に正しくない行為、とされています。要するに浮気相手と妻のどちらが正しいかという話になったときに、正妻の方が正しい立場にいる、という意味です。
     
    しかしそれだけでは、本当の基準とはなり得ない、と私は思います。
    善悪の基準というのは、やはり、「その基準に沿ってルールを作る」ためにあるものでしょう。
     
     
    ルールがあるからダメ、が、根本原則ということであれば、
     
    日本も昔は女性に参政権がなかった時代があります。
    それはそのときのルール(法律)だったわけです。
     
    ルールがあって、社会の合意があるから、それを守るべき、
    という視点だけでは、
    女性に参政権がなかった時代に、それを守るべき、となってしまい、
     
    ルールが不合理かどうかを判断することができないと思います。
     
     
    つまり、
    浮気はいけないというルールが、なぜ不合理でないのか、
    それが説明できるような、道徳の規準が必要ですよね?
    その規準とは、どんなものなのでしょうか?
    それを考えてみましょう、というのがこのコラムの主旨なのです。
     
    なかなか高度な話で、脳みそがしびれそうなテーマですが、考えてみてくださいね。

  80. 例えば、こんな考え方はいかがですか?
     
    「浮気」は正しい。
    むしろ「浮気」を否定する考え方/道徳が間違っている…と。
     
    まず、最初に断っておく事は「浮気」という言葉を使った時点で、「本気」と対をなすものとなり、言葉そのものに「本当ではないもの、浮ついたもの」というニュアンスが含まれてしまうので、ここではあえて「浮気」という言葉は使いません。
     
    そのかわり、「シェア」という言葉を使いましょう。
     
    世界はすべて借り物でできており、所有し独占できるものなど何もないのです。
    私たちの身体ですら、その細胞を構成する分子や原子は、星のカケラ。また食べて/出して/栄養として/エネルギーに転換して…成長する。こうした「新陳代謝」もまた、借り物である証拠といえるでしょう。
     
    また、昨今の社会的な流れとしても「シェア=共有」はひとつのテーマです。家や部屋をシェアして使う、自転車や自動車をシェアして使う。私が必要とする時間に、私が使う事ができれば、私が使っていない時間は誰が使っても良いではないか。
     
    その考え方が、どういうわけか恋愛/結婚となると、『独占』指向になってしまう。
     
    彼は私のモノ! 俺の女房に何をする!
     
    え! それって『独占的所有物』?
     
    私の24時間365日に、彼または彼女が必要?
    たまには、ひとりになりたい時ってない?
    少なくとも会社で仕事をしている時は、独占的ではないはず。それは許せるの?
     
    仕事と私とどっちが大事! ってなることもあるけど、それって私以外に仕事に浮気しているって、捉えているから。
     
    そう…
    「浮気」がダメ!
    という気持ちの反対には「彼/彼女を独占的に所有をしておきたい」気持ちがあるから。
     
    地球の資源だって独占などできないし、実は子どもたちの時間だって親は独占できない。
    なのに、なぜ?彼/彼女、夫/妻に対しては相互に独占的所有(的感覚)を正当化できるのだろうか?
     
    まずは、そのあたりから考えてみるのも、おもしろいんじゃないですか?

  81. ちなみに
     
    [投稿者 あづま : 2011年2月10日 02:40]にある
     
    雑婚(一夫一婦ではなく、複数の男女が婚姻関係を結ぶこと)が常識の社会であれば、浮気はそれほど問題視されないのかもしれません。
     
    における「雑婚」って、使い方が違っているように思います。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/雑婚
     
    にあるように、
    ・異宗婚(異なる宗教の者にどうしによる結婚)
    ・族外婚・族外結婚(同族集団外の者との結婚) 
    ・国際結婚(異なる国の出身者間での結婚)
    ・南アフリカにおける「雑婚禁止法」では、白人と非白人の婚姻を禁止した…ということなので、肌の色が違うものどうしの結婚と解釈できる
     
    という言葉のようです。
    あずまさんのご指摘にある、一夫一婦ではなく、複数の男女が婚姻関係を結ぶこと とあるのは、むしろ「乱婚」とよばれるものではないかと思います。
     
    http://ja.wikipedia.org/wiki/乱婚
    ただ、このリンク先の本文にもあるように、ヒト社会においては「仮説」であり、配偶システムとして成立したとは考えにくい…そうです。
     
    また、意味からとらえると「乱婚」という言葉よりも「複雄複雌の配偶システム」と言い換えるみたい。

  82. 私の考えを書かせてください。
     
    「浮気をしてはいけない」の起源は宗教だと思います。
    聖書の十戒の「姦淫するなかれ」です。他の宗教も同様のものがありますよね。
    家畜と同等に、所持している「妻」を他人に寝取らせないのは財産(妻または子供)を奪わせないためであり、
    道徳的なようで元は功利的な意味だったんだと思います。
     
    時代を経て神との契約が社会との契約(法)に置き換わり(宗教が元の習慣にはこういうものは多いですよね)、
    婚姻は「互いに浮気しない」という社会への公約に変わった。
     
    だから浮気が「不倫」という「倫理にあるまじき」という別名がつくのでは?
     
    浮気が「いけない」理由を明確に説明できないのは「いけないこと」としたのが元々「神」(仏とか)だからで、
    その理由は当時なら明確だけど今の時代に即しているわけではないから。(男尊女卑思想が強いので)
     
    ここから結論をつけたら「浮気がいけないのは神様がそういったから」だと私は思います。
     
    やっていい「浮気」も存在するんじゃないかという気がしてきました。
    やってもいい人はほとんどいないでしょうけど。(人間の成熟度合いからしてという意味です)

  83. こんにちは。皆さまの意見、大変興味深く拝読させて頂きました。
    既に何年にも渡り、議論が行われているようですが、
    気になった点や、わたしも議論に混ぜて頂きたい気持ちから、発言させて頂きます。
    論理的な部分や、感情的な部分が入り混じったものとなっておりますが
    世見苦しさをご容赦頂けますと幸いです。
     
     
     
    「浮気はなぜいけないか?」
     
     
    この議題で議論する為に、先ず『何が浮気であるか?』という定義が必要ではないのでしょうか。
    拝読した限りでは、あづま先生が最初に例にあげていらした夫婦のケースから発展し、
     
    『婚姻関係にある男女のうち、どちらかが、不貞行為(重に身体の関係を含む)を第三者と行う事』
     
    なのかな、と推測しました。
    が、それでは、結婚していない、所謂交際中のカップル(男女と書くと、同性同士で恋人の方が含まれなくなってしまうので、カップルという表記を使わせて頂きますね)の場合はどうなのでしょうか。
    既に何度か議論されている、財産に関わる部分は、交際中のカップルでは、夫婦に比べ、少なくなってきます。
    では、夫婦における一方あるいは両方の浮気と、交際中のカップルのものでは、そこに何かしらの差はあるでしょうか。
    法律で不貞行為をしない、と定められている国は多いですが
    それ以外に、どのような違いがあるのでしょうか。
     
     
    仮に財産に関してという部分が「浮気がよくない」理由として成立するならば、
    交際中のカップルでは、「浮気はまぁまぁよくない」もしくは「浮気くらい許される」「浮気は別に悪くない」と、変わってくるのでしょうか。
     
     
     
    また、浮気、という言葉ですが、
    これは何処から何処までのものを指すのでしょうか。
    自分のパートナーの気持ちが他の人にある事?
    自分のパートナーが第三者と気持ちと通じ合わせる事?
    自分のパートナーが第三者と肉体的関係、あるいはキスやハグなど親密な関係を持つ事?
    あるいはその全て?
     
    これが何を指すのか、という点によって、議論はまた異なった様相を見せるのではないでしょうか。
     
     
    もうひとつ、気になった点ですが、
    誠実さという言葉を何度か見かけました。
    では、誠実であれば、全ての事は許されるのでしょうか。
    これもまた、誠実さの言葉の定義によって変わる部分があるのは承知しています。
     
     
     
    上記3点、あづま先生、また皆さまのご意見や定義をお聞かせ願えれば、
    また違った視点からこの議題を見る事が可能になるのでは、と思います。
     
     
     
     
     
    ・・・こういった意見を書かせて頂いたのは、
    わたし自身が今経験している事柄に深く関係しています。
    私事をここで綴る事、大変申し訳ございませんが、
    こういうケースサンプルもあるのだと思って頂ければ幸いです。
     
    わたしには、国際恋愛中の年の離れた恋人がいます。
    仲は良い方です。
    詳しい事は長いので省きますが、
    まとめると、彼にはわたしの他に気になる女の子が出来てしまい、わたしも彼女もどちらも選べません。
    浮気、というものは彼にとって、非常に恥ずべきものだそうです。
    そして、「彼にとっての浮気」の定義とは、以下の3点です。
     
    ・肉体関係の有無
    ・唇へのキスの有無
    ・パートナーに全てを話す事
     
     
    彼は、その子と会う時は必ずわたしに教えてくれますし、
    どのような事をしたか、何処で会ったか、隠さず話してくれます。
    それが彼にとっての誠実さであり、
    パートナーシップにとって大事なものだからです。
     
    ただ、彼と彼女は、お互いに好意を抱いており、それをお互いに知っています。
    気持ちは既に通じ合っている訳です。
    そして、一緒に遊ぶのをやめません。二人きりで遊びにでかけたり、互いの部屋を行き来もします。
    唇ではありませんが、「フレンドシップキス」もありました。
     
    また、女性の方は、オープンリレイションシップと呼ばれるものを実践しており、
    今現在既に複数のパートナーがいます。
    それぞれ彼女のパートナーは、彼女の生き方を肯定し、受け入れ、彼女が第三者と気持ちを通じ合わせたり肉体関係を持っても、
    それは「浮気」とはみなされません。
     
     
    彼、もしくは彼女の論旨は、
     
    ・パートナーシップはお互いの信頼関係と愛情に基づいている
    ・その為にはお互いによく話し、相手を理解し、受け入れる事が必要だ
    ・お互いの間に信頼関係があれば、数は関係ない
    ・複数パートナーがいるという事は、それだけお互いに濃密な関係性を持てる相手が多いという事、幸せにしたりされたり出来る事が増えるという事だ
     
    と、いうものです。
     
     
    こちらで議論されている、誠実さや傷付ける、傷付けない、問題から向き合わずに逃げてはいないか、
    という観点からだけ話をすれば、
    これはある意味クリアされている訳です。
     
    相手に対して真剣だから誠実であろうとする、
    その為にはパートナー(この場合はわたしですね)の理解と合意なくして、第三者と関係性を持たない。
    ただ、パートナー(=わたし)が合意さえすれば、
    肉体関係を含む関係性を、パートナー以外とも持つ。
    但し、ここで言う「合意」とは、
    関わる全ての人間がきちんと納得し、幸福である事である。
    相手を傷付けない為に、きちんと向き合って、話をする。
     
     
     
     
    では、果たしてこのケースでは、
    彼が彼女と二人きりで互いの部屋で同じ時間を過ごしたり(机とベッドしかない狭い部屋で、ベッドの上に座ったまま、二人ともうたたねをしてしまった事もあります)、
    二人きりで食事に行く事は、「浮気」に当てはまらないのでしょうか。
     
     
    感情論だけで述べますと、浮気と呼ばれるものの分類されても仕様がないのでは、と感じています。
    (ただ、日本語で浮気と言えば
    本命がいて他に浮ついた気持ちを持ってしまう、というニュアンスがありますが
    このケースでは、本命が二人いて、浮ついてはいない訳です。)
     
     
     
    それでも、浮気だ、と感じる根拠は
     
    ・二人の気持ちが通じあっている
     
    という、この一点です。
    男女で、浮気が許せる許せないのポイントは異なっており、
    女性は気持ちが通じているか
    男性は肉体関係があったかどうか
    を気にする、という文献を何処かで読んだ覚えがあります。
    これも最初の「浮気の定義」という部分に帰結するかと思います。
     
     
    私事と、感情論を交えての発言、
    失礼致しました。
     
     
    浮気は何故いけないか、という議題、大変興味深いものです。
    上記のような個人的な経験から考えた事を述べますと、
     
    先ず、浮気の定義はわたしの場合は以下の3点に集約されます。
    ・気持ちが通じ合っているか否か
    ・肉体関係があるか否か
    ・唇へのキスがあるか否か
    この内の1つ以上越えた場合には、それは浮気になり、
    これは夫婦間だけではなく、交際中のカップルにもあてはまります。
     
    浮気は、いけないものです。
     
    そう考える根拠は、された側の精神的苦痛、社会的道徳的な規範、多大なる時間の消費、話し合いに必要な労力、コンドームなしでパートナーが第三者と肉体関係を持った場合の性病のリスク等々、
    色々と考えられます。
    浮気、と一口に言っても、非常に様々な原因とそこに至るまでの背景がある、
    一概にこうだ、と言えるものではないのではないでしょうか。
     
    また、愛と依存と罪悪感というタイトルのこちらのコラム(https://www.556health.com/archives/2008/12/post_316.html)でもバランスが大事だとありましたが
    浮気は、このバランスを崩してしまうものであるからではないでしょうか。
    一つバランスが崩れれば、それに伴って、他にも崩れてしまう部分も出てきます。
     
    恋愛、夫婦関係というのは、複雑です。
    互いに別の意思を持った一人の人間同士が、パートナーとして共にあろうとするので、
    互いに足りない部分を支え合ったり、補いあったり、共に高めていったりします。
    それは、非常に高度で繊細なパズルのようで、
    同じピース(人間)であっても、
    タイミングや条件によって、誤差が生じる事もあります。
    大体はその誤差は許容範囲内で収まりますが、
    これが大きくバランスを崩し、ぴったりはまらなくなる事も、起こります。
    浮気は、そういった要因(恐れといった方が正しいでしょうか)の内の一つなのではないでしょうか。
     
     
    大変長くなりまして申し訳ございませんでした。

  84. まる3さん
     
    コメントありがとうございます。
     
    えと…まず、確かに言葉の使い方が間違っていたようです。
    いらぬ誤解を生まぬよう、今後気をつけようと思います。
     
     
    さて。
     
    まる3さんのご指摘は、なかなか本質的な部分をついていると感じました。
    実際、夫婦が一緒にいるべき、浮気はいけない、という主張をする人の中で、その理由を突き詰めていくと、
     
    嫉妬をしてしまうから
     
    という、あくまで個人的な感情が理由になっていることは、非常に多いように感じています。
    自分が独占したいから、独占欲があるから、浮気なんてけしからん、という、完全に自分都合の論理ですね。
     
    人がその利己的な理由を乗り越えたとき、パートナーをシェアするぐらいの考えにたどり着くことは、あるのかもしれません。社会を構成するメンバーの大多数がその段階に達しないことには実現不可能ですが。
     
     
    夫婦のミッションという観点からは、ちょっと別の結論も出そうだと感じます。
    ほとんどの夫婦において、夫婦が共通して目指すべき目標というのは、子供を育て上げること、であることが多いです。
     
    そして、大人が嫉妬心から解放されるほど自分を成長させることができたとしても、やはり、生まれてきた子供は、親がころころ変わったり、親が複数いて曖昧な関係であることを、心から喜んで受け入れられるかどうか、それは疑問です。
     
    そうすると、心理的に成熟し、嫉妬心を乗り越えた人たちの世界で、子供がいなければ、浮気は悪ではない、という話になってしまうのですが…突き詰めてみると、それでも浮気はいけない、と言い切れない気がしてきました。
     
     
    このコラムは結論を出すことが目的ではなく、人生におけるものの考え方を再考することが目的ですので、ここまでにしておきます。
     
    いずれにしても、考えるきっかけになりました。鋭いご意見ありがとうございました。

  85. たまきさん
     
    コメントありがとうございます。
    これだけ議論が出尽くしたと思ったら、ここに来て新しい視点が出ました。
     
    宗教だと。
     
    なるほど。
     
    姦淫するなかれ、が元になっていると。
     
     
    ルーツをたどってみると、確かにそれはあるかもしれませんね。
     
    ただ私は、それは功利的なものではないと思うのです。
    宗教的に禁忌とされているものの多くは、心理学的な面からいうと、何かに依存している心の状態でやってしまうものが多いように感じています。
     
    満たされない心の状態で、それをなんとか満たそうとして、他人の迷惑も省みず、依存的・依存症的な行動を続けてしまう。当時の人々も、そういう状態を見て、これはまずいよな、と感じていたのではないでしょうか。
     
     
    そういうところまで掘り下げてみると、
    私がよく記事の中で「愛情のざる」と呼んでいる状態、過去の感情や過去の承認不足が解消されておらず、それを現在埋めるために不倫などに依存してしまう状態は、いけないこと、という話になっていくのかもしれないと、思いました。
     
    これは、自分の本当の望みと行動が一致していないという話でもあり、
    同時に、感情面で未熟すぎる行動という話でもあります。
     
    人生において大切なことは、感情的に成長し、自分の本当の望みや欲求を自分できちんと分かって、他人に迷惑をかけない形で、適切に自分を満たすように行動する。
     
    そのような、感情・思考・行動が一貫して、十分に有効に機能している状態を目指すことが大事、という方向につながっていくのかと思います。
     
    おっと、つい自分の信念を語ってしまいました。
     
    ともあれ、新たな視点の提示ありがとうございました。

  86. はじめて書き込みします。
     
    >「浮気はなぜいけないのか」という問いかけに対して、「人生の目的はこれこれであって、
    >それに反するので、浮気はいけない」という回答をすることです。そのようなご意見がある
    >と、本当に嬉しく思います。
     
    >なお、人生に目的なんて決めるのはおかしい、といった反論も歓迎いたします。
     
     
    まず、ここではじめに「浮気はいけない」という結論がなりたつ条件を探してみたいと思います。
    何かがいけない、とするには、こういう状態が正しいというものが必要ですよね。
     
     
    まず、浮気するとされた側が傷つくから、ということ。
    これは絶対にそうでしょうか。まる3のような方もいることも考えると、絶対ではありません。
    (傷ついている方には申し訳ありませんが、ここは議論なので、少しドライに書きます)
    身内を殺されると、大抵の方は傷つき許さないと言いますが、アーミッシュで過去実際に起こった事件で、殺人者をすぐ許し、葬儀に招きいたわったという事例もあります。
    起こったことにどう反応するか、ということは、個人の資質、考え方によって変わることがあります。(もちろん極端な例は出していますが)
     
     
    信頼関係を損なうから、という前提。
    これは、浮気された側がした側を信頼できなくなるから、ということでしょうが、
    これも個人の資質によるものが大きいと思います。浮気の後、相手を全く信頼出来なくなる人もいれば、大きく構えていられる人もいる。これも絶対ではないように思います。
     
    ※もちろん、ここでは議論用に極端な例を出しています。
     
    ですが、大多数の方は、浮気されると感情的に平静でいられなくなり、パートナーシップを良好に保とうとする努力よりも、相手を責めたり、自分を責めたり、または、争ったりという方向にエネルギーを費やしがちだとは思います。
    そこで、浮気という出来事を、自分や相手の成長のために生かしていけるか、どうかということは、個人の受け止め方、取り組み方によって変わると思います。
    自分が成長していく機会にも出来るし、相手を一生責め続ける理由にも、自分が一生不幸でいる理由にも出来るわけです。
     
     
    感情的なダメージを理由に浮気を正しくない、とするのは、「絶対」ではないということになります。
     
     
    ここで
    「人生の目的は○○であり、それを遂行することである」と仮定して、その○○を遂行するのに、浮気が感情的なダメージを与えることで支障を来すので、浮気はいけない、と断言できなくなります。
     
     
    また
    ここで人生の目的はこうである、というものを誰かが決めていいのか?
    という疑問も生じます。
    統一しなければならないのか? そもそもそんなものはあるのか?
    みんな一緒でなければいけないのか?
    ここでは、仮にいろいろ提示しています。
     
    仮に、「私の人生の目的は、ただ経験することである」仮定します。
    そうすると、起こることに善悪はありませんので、何が起こってもただそうですね、というだけになります。
     
    仮に、「私の人生の目的は、愛することである」と仮定します。浮気をしたパートナーであろうが、(努力してでも)愛することができれば、ここでも問題は起きません。
     
     
    仮に、「私の人生の目的は成長することである」と仮定します。
    浮気を通して、仮に感情的に苦しむことがあったとしても、成長することができれば、ここでも問題はないということになります。
     
     
    仮に、「私の人生の目的は、支障なく結婚生活を維持することである」と仮定します。
    ここで、やっと浮気が問題となる可能性があります。何らかの支障が出てはいけないのですから。
     
     
     
    このようにいろいろと
    「人生の目的は○○である」と仮定していって、決定的に浮気がいけないと言い切れる目的は、「人生の目的は浮気をしないことである」ということに行き着くと思うのですが、どうでしょうか。
     
    その人がこの目的を持っているとき、浮気はいけない、とはじめて断言できると思います。

  87. つけたしです。
     
    あずまさんの
     
    >私がよく記事の中で「愛情のざる」と呼んでいる状態、過去の感情や過去の承認不足が解消さ
    >れておらず、それを現在埋めるために不倫などに依存してしまう状態は、いけないこと、とい
    >う話になっていくのかもしれないと、思いました。
     
    >これは、自分の本当の望みと行動が一致していないという話でもあり、
    >同時に、感情面で未熟すぎる行動という話でもあります。
     
    >人生において大切なことは、感情的に成長し、自分の本当の望みや欲求を自分できちんと分か
    >って、他人に迷惑をかけない形で、適切に自分を満たすように行動する。
     
    >そのような、感情・思考・行動が一貫して、十分に有効に機能している状態を目指すことが
    >大事、という方向につながっていくのかと思います。
     
     
    これは私は個人的に好きな価値観です。
    葛藤がない人生の方が楽です。
    人生の目的でいうと、私なら「人生の目的は幸せに生きることである」そして「幸せに生きるにはこのような状態が望ましい条件」の範疇に入ると思いました。
    ただし、浮気で何か苦しい思いをして、それでこのようなことが大事とわかったのだとしたら、その苦しみも無駄にはならない、ゆえに浮気がいけない、とは言いきれなくなりますが。

  88. 以前参加させて頂いた者です。今日、たまたま拝見させて頂きましたら、進んでおりまして・・!また一言参加させて頂きます。まる3さんのご意見を拝見していて、サルトルを思い浮かべました。確か、サルトル夫婦もお互いシェアする自由恋愛夫婦だったと思います。また、「エマニエル夫人」のテーマも結婚後の女性の性の解放がテーマですよね。旧約聖書自体に対する疑問(反発)もあるのかしら・・。キリスト教は、善悪二元論(善一元化の為の)、仏教は陰陽思想。陰陽はどちらが善でも悪でもありません。人間にも色々な考えの人がいて、キリスト教的に正邪善悪を決定して固定化したい人間と自然を陰陽思想で考える人がいるように思います。宗教が自由なように思考も(浮気を含め)個人の選択だと(私は)思います。

  89. すごく興味深い議論で、とても楽しくなります。
     
    では今回は「浮気はダメ!」という視点で考えを書いてみますね。こういう考え方もあるんだ…ということで読んでいただければ幸いです。
     
    全開は、「シェア」をキーワードとして、特定の男性が特性の女性を生涯にわたり独占的に所有することが本当によいのだろうか?
    24時間365日しかもこの先何年も、あなたは私のもので私はあなたのもの状態を強いることが、なぜ正しいことなのだろうか? という疑問に対して人を説得できる説明ができるものでしょうか?
    ただ、こう書いてみると…なんだか浮気肯定主義で、いつもとっかえひっかえ彼女や彼氏を変えているかのようにみえますが、そのような状態であっても「浮気」はやはりダメです。
     
    ここでいう「浮気」とは、「浮ついた気持ち」「上の空の気持ち」という意味なのです。
     
    仕事中に奥さんや恋人のことを考えると、これは仕事に対して「浮気」です。
    Aさんとデートしている最中であるにも関わらず、ほかのBさんのことを考えているのも「浮気」です。
    これはダメです!なぜなら「今をちゃんと生きてないから」なのです。
    実は人とは、「今を生きる」ことしかできないのです。過去にも生きる事はできないし、未来を生きることもできない。ここでないどこか別の場所で生きることもできません。
     
    人が生きることができるのは、「いま・ここ」でだけなんです。
    そしてその「いま・ここ」で生きていることを共有すべき相手がいるにも関わらず、その時に他の人のことを考えてしまうことは、これこそ「浮気」と呼ぶべきものだと思うのです。
     
    過去や未来…いわゆる時間というものは、実在せず、それは脳内の概念でしかありません。
    過去の出来事は、その時々に脳が認識した記憶として残っているだけです。
    未来はまだ起きていないことを、脳が想像力豊かに作り話をこさえることです。
    私たちは「時間」というものが実在ではなく、脳内の概念なのだと思っています。
    では日々過ごしている私たちにとって何が実在かといえば「変化する今」であり、「ここにいる」私なのです。
     
    そして大事なことは、その「変化する今」を共有している相手と向き合わず、いま・ここに居ない別の誰かを思いながら過ごすことこそ「浮気」であり、それは相手にとても失礼なことだと考えています。
     
    「今、僕はここで、目の前にあなたを愛している。そのことに嘘はありません」
     
    という生き方ですね。たとえ明日は別の人と一緒にいたとしても。
    それに比べれば、
     
    「今、僕はここで、目の前に恋人がいるけど、他の人のことを考えています」
     
    は、たぶん生き方として間違っていると思うのです。たとえその恋人と別れずにいたとしても。
     
    書いていて気がついたのですが、「浮気」というよりも「上の空の気持ち」「上気(うわき)」と書くべきなのかな。
     
    というわけで
    ・人は「変化する今」しか生きることができない。
    ・その「変化する今」を共にしている人と向き合って生きることが大事
    ・もし「今、ここで」生きることを共にしている人に向き合わず、いまここに居ない別の人や別のものことに捉われて過ごすことは、今をちゃんと生きていない。
    ・そうした「上の空の気持ち」である「うわき」は、生き方としてダメだと思っている。
     
    ということで、いかがでしょうか?

  90. 浮気はなぜいけないか?
     
    「浮気はいけない」という感覚は一般的に持っていると思います。
    そして、結婚と言う事がお互いに相手を唯一のパートナーとして選び、
    みんなに公認される方法として一般的なので、結婚する事自体が
    「あなたとだけ心も体もひとつになる。」という意味を含んでいると思います。
     
    浮気をするということは、その約束を破る事で、相手から非難される事です。
    ですから、たいていの人は浮気を隠します。つまり、相手をだますわけです。
    約束をやぶり、うそで相手に対する。
     
    それは、言葉や行為と、心に矛盾を引き起こします。
    浮気をされた人(配偶者)は、パートナーが自分をだましてすごしてきた事を知り、不信感を持つようになります。一度だました人はこれからもだますかもしれないからです。
     
    結婚と言う行為が、生活、セックス、子孫とのつながり…を示すとても重要なことなので、その関係を乱す浮気は、根本的な不信につながります。
     
    信じたい相手を信じられない。そういう苦しい閉塞状態を作り出したのは、
    浮気をしながら自分をだまし続けた相手の気持ちそのものなのです。
     
    私は真心で接する事のできない夫婦関係は不幸だと思っています。
    ですから、相手に対して心を開けなくする浮気は夫婦間においては許されないものだと思っています。

  91. こんにちは。
    ねとらじをきっかけに、こちらのコラムを拝見いたしました。
    皆様のコメントも大変興味深く読ませていただきました。
     
    私は、あづまさんがねとらじで話されていた、
    「自由な関係」に賛成の者です。
     
    >「浮気はなぜいけないのか」という問いかけに対して、
    >「人生の目的はこれこれであって、それに反するので、浮気はいけない」
    >という回答をすることです。そのようなご意見があると、本当に嬉しく思います。
     
    私は、人生の目的は、あらゆる形で愛を経験することだと思っています。
    恋愛、パートナーとの愛、家族の愛・・・
    色々な人を通して、様々な形での愛を経験していきます。
    そして、あらゆる感情も、愛に気づかせてくれる要素だと思っています。
    喜び、楽しみ、幸せな気持ちは勿論ですが
    苦しみ、悲しみ、痛みも、それは今、自分が愛から離れているな・・・
    という、シグナルであって
    それすらも結局、愛に気づき、立ち戻っていくためのプロセスだととらえています。
     
    それに即して言えば、浮気も、愛というものは何か?を経験する
    ひとつのプロセスであり、それ自体の善悪を問うことはできないと思っています。
    そこから何を学ぶか?が重要なのであり、
    そこでお互いが学んだ結果、お互いの価値観が相手を裁けば
    そこに善悪を生み出すでしょう。
    でもお互いを許しあって、もう一度愛することを選択したら、
    そこに善悪はなくなるのではないでしょうか・・・?
     
    そもそも、人生に起こる全ての出来事に、間違っていること、はあり得ず
    被害者・加害者がいるとすれば、それは自分のこころの投影であって
    本当は全ての人が無実なのだというのが、私の考え方です。
    相手を傷つけた、自分が傷ついた、と思うことも
    あずまさんがお話されていたとおり、
    幼少期のこころの傷に起因していることが多い。
    その解決方法は、それを善悪で裁くのではなく、
    その自分のこころの傷に寄り添って、満たしていくこと・・・。
    それらを体験するプロセスを経て、
    自分は愛であり、完全に無実なのだということを理解すること、
    それこそが人生の目的だと私は思っています。
     
    まとめると、私の答えは
    「人生の目的は愛を経験することであり、
    それにおいて浮気もお互いにとっての一つのレッスンであり、
    それ自体に善悪をつけることはできない。
    なぜなら、愛は裁かず、相手と自分を赦していくことだから」
    です。
    善悪を問う議論の本題から外れてしまっているようで、申し訳ありませんが
    これが私の率直な意見です。
     
    私が愛の指針のひとつとして良く思い出す言葉に、
    チャック・スペザーノ博士の「傷つくなら、それは愛ではない」というものがありますが
    それになぞらえるならば、
     
    誰かを好きになるとき、他の誰かを傷つけていると感じたり、自分が傷つくならば、
    それは愛ではない。
    たとえ複数の人を愛しても、そこにいる誰もが傷つかず、こころから幸せであれば、
    問題は何もない。
    という感じでしょうか。
     
    これは、あずまさんの仰るところの
    「感情的に成長し、自分の本当の望みや欲求を自分できちんと分かって、
     他人に迷惑をかけない形で、適切に自分を満たすように行動する」
    というところに近いと感じています。
     
    ちなみに、私は、人を愛することは、本来とても自由な行為であり、
    その対象が一人であっても複数であっても自由だと思っています。
    本来、愛は誰かだけに制限して向けるものではなく、
    あらゆるものに向けられるものだと思いますし、
    人間として生きていく以上、成熟した大人として
    尊敬し惹かれる人が出てくることもあって当然だと思うのです。
     
    その上で、真剣に自分を愛し、相手のことを愛し、出来上がった関係性は
    法律や、世間的な価値観で一律に裁けるものではないと思っています。
    逆に、結婚という法制度を盾にして、善悪を語ることを私は好みません。
    結婚したから「信頼し、誠実であれる状態が自動的に続く」訳ではないのです。
    結婚は確かに、お互いに愛し、与え合うという契約かもしれませんが、
    その契約を続けるには、お互いのコミットと努力が必要です。
    「結婚したから、契約が続いて当たり前。破ったら悪」ではなくて
    パートナーとしてお互いに「そうしたいから」、「信頼し、誠実であり続けるための努力をする」ということだと思うのです。
    それが愛すること、自分と相手に誠実であること、というパートナーシップの学びであり
    人生の目的である愛を学ぶ大きなレッスンだと私はとらえています。
     
    長文となってしまいましたが、発言させていただき、ありがとうございました!

  92. 浮気は何故いけないのか・・・。
     
    稚拙ながら考えたことを書かせていただきます。
     
    私は浮気相手側の経験をしました。不倫の相手側です。
     
    深く悩んで行き着いた答えは
    何故浮気がいけないのか?は「自分を見放している行為だから」
    という結論にいたりました。
     
    これは浮気する人、浮気に付き合う人、それぞれ自分の存在を大切に扱っていないのです。
     
    人生の目的は、仏教的には「苦」からの解放であり、キリスト教的には「愛」であると思いますが、
    こういった宗教が先に私たちに提示した「教科書」で頭でわかるものではなく、
    これらの答えは、生きる中でいかに自分の命を大切にあつかったか?の結果であると思っています。
     
    浮気では命を大切にする「問い」から根本的に逃げているから
    いつまでたっても答えがでてこないのです。
     
    自分を大切にあつかっている人は「浮気」は自然としなくなると思います。

  93. さらさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    なるほど…なかなか深く考えさせられるコメントです。
     
    人生の目的を設定しなければ、「浮気がよい・悪い」ということは言えないと。
    確かに、そうなのだと思います。
     
    では、多くの人(あるいは全員)に適用すべき、普遍的な目的はあるのか。
    そう考えてみたときに、ふと思い出した言葉がありました。
     
    M・スコット・ペックの「愛と心理療法」。
    「愛とは、自分あるいは相手の精神的成長のために、自分自身を伸ばそうとする意志である」
     
    単に、恋愛感情を抱いたから一緒にいる。覚めたから別れる。覚めたけど、別れにくい状況だから浮気する。みたいなのは、この定義からすると、愛ではないわけですね。
     
    こういう感情に振り回されている状態は、仏教用語では「渇愛」と表現しますよね。仏教の言葉では、上の「愛とは…」の概念は、「慈悲」かもしれません。
     
     
    浮気が起きる典型的な状況は、夫婦がちゃんと向き合えなくて、夫婦間のタブーがたくさんできて、あきらめがはびこってきて…
     
    という中で、手っ取り早く、自分の欲求(男性であれば主に性欲、女性であれば主に依存欲求)を満たす手段として、配偶者以外の異性を求めてしまう、という状況だと思うんですね。
     
    こうなる背景には、多くの場合、幼少期?結婚生活までの人生の中での、承認不足などの、未解決の心理的課題があります。
     
    浮気する側にも、された側にも、そのような課題があることが多いです。
     
     
    すると、浮気というのは、夫婦が、本当に絆を感じ、精神面そして感情面で満たされて成長することを、妨げる行為ということになります。
     
    実際、浮気は、自分や相手が成長しないで、手っ取り早く欲求を満たそうという行為、になっていることが多いと思います。
     
    そして、浮気をされてしまうパートナーというのも、実は、結構依存的なことが多いんですね。
     
    夫が浮気(二股)したという状況を考えてみたときに、妻の側も承認欲求が強くて、依存的な状態であって、夫はそれがだんだん重たくなっていて、逃げたくなっている、そういう状況は、よくあります。
     
    その場合、上の「愛とは…」に照らして考えると、夫は妻の承認欲求をよくよく受け止めて、妻が精神的に成長するように働きかける。それこそが愛だということになりますが、
     
    浮気しちゃうと、そこから逃げることになります。
     
     
    まとめると、
    人生の目的は「愛」であって、
    愛とは、自分あるいは相手の精神的成長のために、自分自身を伸ばそうとする意志である、
    と考えるならば、
     
    浮気はその目的に反している(ことが極めて多い)。
    と、言えるのだと思います。
     
     
    と、自分でここまで書いてみて、
    結局それでは、あらゆる浮気はいけないこと、という話にはならないことに気づきました。
     
    精神的成長につながらない、精神的成長をしないために逃げ込む浮気だったら、だめ。
     
    大半の浮気は、精神的成長をしないために逃げ込むものであると思っていますので、「大半の浮気はいけない」とは言えるかな、と思います。

  94. nobuさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    >サルトル夫婦もお互いシェアする自由恋愛夫婦だったと思います。
    >宗教が自由なように思考も(浮気を含め)個人の選択だと(私は)思います。
     
    なるほどね…
    それは思考実験としては、正しいのだと思います。
     
    サルトル夫婦は、お互いに成熟していたのでしょうかね。
     
     
    但し、実際に多くの浮気は、パートナーが自由恋愛を認めるほど成熟していない状態で起きるものです。
    これは、さらさんへの回答で私が書いた、「愛とは…」に反する行動である、と言えるのではないでしょうか。
     
     
    言い換えると、
    パートナーが、自由恋愛を認めるほど成熟しているなら、既婚者の自由恋愛は、悪ではない。
     
    パートナーが、自由恋愛を認めるほど成熟していないなら、
    パートナーを愛して、自分とパートナーの精神的成長を目指すことが、目下の課題であるから、別の異性に逃げ込むことは、悪である。
     
    という話になるのかな、と思いました。
     
     
    短いコメントでしたが、なかなか、議論の深まる内容、ありがとうございました。

  95. まる3さん
     
    コメントありがとうございます。
     
    始めこのコメントを拝見したときに、実は、書いてある意味は、日本語としては理解できましたが、本当にそういう話でいいのか、全然ピンと来なかったんですね。
     
    それで、そのあと珠帆印ねとらじに出演して婚外恋愛について語り合って、さらに、いくつかの書き込みに対して回答を書いているうちに、
     
    実は、まる3さんの書かれていることは、私がひとつ前のコメントで書いた、
     
     
    >パートナーが、自由恋愛を認めるほど成熟しているなら、既婚者の自由恋愛は、悪ではない。
     
    >パートナーが、自由恋愛を認めるほど成熟していないなら、
    >パートナーを愛して、自分とパートナーの精神的成長を目指すことが、
    >目下の課題であるから、別の異性に逃げ込むことは、悪である。
     
    という話と、意外と近いのではないかという気がしてきました。
     
     
    表面的には、私が書いた方は、「成長」が目的になっていて、
    まる3さんの書かれた方は、「今ここ」を「体験」することが目的になっていて、
     
    違っているように見えますが、
    人間が成長するためには、「今ここ」の「体験」を、本当にしっかり感じて味わって体験することが必要なので、本質的には、近い気がします。
     
     
     
    但し、成長を考えない、「今ここ」の「体験」だけに偏ってしまうと、
    本当に子供みたいに、今ここで体験していることに集中するタイプの人が(たとえば男性だとして)、
    妻といるときは妻のことに集中していて、
    別の女性といるときはその人のことだけを考えていて、
     
    というのは、OK、てことになってしまいます。
     
    感覚的には、ちょっとこういう人は友達になりづらいなぁと感じてしまいますが…
     
    その辺が、もう少し整理されると、より深まるんじゃないかと思います。

  96. joiaさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    色々な愛を体験することが人生の目的。
    これは、なかなか素敵な目的ですし、深い話でもありますね。
     
     
    joiaさんの説を否定するつもりは、全くないのですが、
    実は「愛」という言葉は、人によって解釈が大きく異なる、誤解の多い言葉なんですね。
     
     
    依存や執着を「愛」だと思っている人もいます。
    自己否定にもとづく、自己犠牲を愛だと思っている人もいます。
     
    joiaさんは
    >チャック・スペザーノ博士の「傷つくなら、それは愛ではない」というものがありますが
    と、書かれていますので、依存や執着や自己否定的な自己犠牲と、混同されていないのだと分かりますが、
     
    ここを読まれた、他の方のために、念のため書き添えておきました。
     
     
    さて。
    joiaさんは、最後に、結婚が、
    >人生の目的である愛を学ぶ大きなレッスン
    と書かれていますね。
     
    ここが、基準なのですね。
     
    愛を学ぶレッスンを行っていれば、よし。
    愛を学ぶレッスンから逃げていれば、よくない。
    と。
     
    そう考えると、
    結婚生活を形式的には続けていて、浮気もしていなくても、夫婦が向き合っていなくて、愛を学ぶレッスンから逃げている、なんてことは、十分ありますね。
     
    上の基準に照らして考えると、これも、よくない形だ、ということになるわけですね。
     
     
    で、浮気は? て話ですが、
    私が、相談事例の中から感じている話をすれば、
    愛を学ぶレッスンから逃げるための浮気って結構多い気がします。
     
    結果的に、苦しくなって、悩んで、自分と向き合うきっかけになって、それまでの自分を変える結果に結びついた、ということはあるかもしれませんが。
     
    そういう流れの場合、やっぱり、その浮気は逃げであって悪。そのあとに、自分と向き合おうと考えて努力した部分が善、と、私なら言いたくなりますが。
     
     
    joiaさんの自由恋愛説を、否定するつもりはないんですよ。
     
    何個か前の回答にも書きましたが、やっぱり、パートナーの精神的成熟度が深く関係しますから、パートナーを置き去りにして浮気するって形は、やっぱり、愛を学ぶレッスンに反しているかな、と思うわけです。
     
    で、実際問題、そういう浮気が結構多いものですから、
    ここを訪れた方が勘違いしないよう、一応、釘を刺しておきたいな、と思うわけです。
     
     
    joiaさんの説自体は、私は好きです。
    ありがとうございました。

  97. ゆげゆげげさん
     
    コメントありがとうございます。
    実際に体験された方のご意見はとても貴重だと感じています。
    現実離れした理論的可能性、などではなく、実際の体験に基づいた話ですからね。
     
     
    なるほど。
    >「自分を見放している行為だから」
    >浮気する人、浮気に付き合う人、それぞれ自分の存在を大切に扱っていない
     
    心が癒され、満たされ、苦から解放される、そういう方向に向かう行動になっていない、ということなのですね。
     
     
    自由恋愛アリ、派のご意見も、一応認めている私ですが、
    やはり、実際の体験に基づいて「自分を見放している行為だから」よくない、という意見の方が、浮気の実態に即しているように感じます。
     
    稚拙なんてこと、ぜんぜんないですよ。
    とてもリアリティーがあって、議論を深めるご意見になっていると思いました。
     
    ありがとうございました。

  98.  
    Yokoyamaさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    結婚というものが「公認」というプロセスを含んでいると。
    そしてその公認には「あなたとだけ心も体もひとつになる」という約束が含まれている。
     
    浮気するということは、その約束を破ることになるから、いけないことだと。
     
    なるほど。
    これは、結婚を単なる自分と相手の二者関係と見るのではなく、社会との関わりとして見る見方ですよね。
     
    この視点は、確かに大事なものだと、私も感じます。
     
     
     
    同時に、この視点で考えると、次の「複数女性との関係を続けるために、あえて結婚しない道を選ぶ」場合は、「いけないとは言えない」ことになります(そういう道を選んだと宣言した人の話を聞いたことが実際にあります)。
     
    ・一人の人と添いとげる気が全くない彼が、彼女に対して「オレはずっと色々な人と関わり続けたいから、結婚はしない」と宣言し、何股もかけ続けている。もちろん始めから秘密にもしていなくて、堂々と「別の女性と会うから」と宣言して彼女とのデートを断る。
     
    ・そしてその彼は、恋人同士としてさえも、公認されることを嫌っていて、彼女とお互いの友達を紹介し合うことは絶対にしない(ので、社会の常識と違う考えで恋愛していてもOKと考えている)。
     
    ・そんな彼だが、会っているときはすごく共感的で優しく、ユーモアもあって、女性としては嬉しい関わりをしてくれる。ルックスも良い。だから離れられなくなっちゃう女性が何人もいる。
     
    このような場合、社会に公認してもらうのに、その公認の中に暗黙のルールとして含まれている「浮気はしない」ことに反するのはいけないことだ、とは言えないことになりますね。
     
    そういう彼だと分かって付き合うわけだから、女性の側も、本人の選択の問題だという話になる。
     
     
    ・・・という話でいいのでしょうか。と、問いかけてみました。
     
     
     
    理由の後半は、信じられなくなるから、という別の観点になっている気がしました。
     
    この観点は、もう少し掘り下げが必要かな、という気がしています。
     
    信じられなくなる → なぜ? → 信じて裏切られると、また傷つくから
     
    という感情に関する話に結局行き着くのかな、と。
     
     
    すると、非常に主観的な基準になってしまうんですね。
    傷つきやすさというのは、ひとそれぞれ違うものですから。
     
    幼少期からの承認不足が強い女性で、彼がちょっと別の方を向いただけですぐに傷つく状態の人がいたとしますね。彼は別に恋愛という意図はないが、彼女以外の女性とメールをしていた。それに彼女は激しく傷つき、怒り、彼を信じられなくなり、彼のアドレス帳から女性のアドレスを全部削除させた、みたいなことがあったとすると?これは完全に束縛行為ですが?
     
    信じられなくなるという主観的で、感情面の理由を道徳の規準にしてしまうと、この女性の主張が正しく、彼が間違っているという話になってしまいます。
     
     
    なので、信じられなくなるからダメ、という道徳の規準は、もう少し良く掘り下げてみる必要があるかな、と思います。

  99. あづま先生へ
     
    コメントへのご返答、ありがとうございました。確認させて頂きたい事があります。
     
    私のコメント
    >サルトル夫婦もお互いシェアする自由恋愛夫婦だったと思います。
    >宗教が自由なように思考も(浮気を含め)個人の選択だと(私は)思います。
     
    あずま先生の返答
     
    なるほどね…
    それは思考実験としては、正しいのだと思います。
    サルトル夫婦は、お互いに成熟していたのでしょうかね。
     
    について、です。
     
    サルトルとボーヴォワールは、自由恋愛を認めた契約結婚で、事実婚としてサルトルが亡くなるまで50年近く(2人の関係は)続きました。その2人の生き方(価値観)に対して、
     
    >それは思考実験としては、正しいのだと思います。
     
    と言う事ですね。思考実験としては正しい が、実際の2人の生き方(価値観)は正しくない と言う意味ですか。
     
    >サルトル夫婦は、お互いに成熟していたのでしょうかね。
     
    サルトル夫婦が、お互いに成熟していたら→善(正)
    サルトル夫婦が、お互いに未成熟なら→悪(邪)
     
    と言う事ですか。では、成熟と未成熟はどなたが判断(審判)なさるのですか。
     
    宗教が自由なように思考も(浮気を含め)個人の選択だと(私は)思います。と書いたのは、社会における法律や道徳や常識がどのように変化しても(正邪善悪の基準がどのように変わろうとも)結局自分の人生は自分で決めて自分で責任を取る他ない、と言う私の私見です。あま先生は何か新しい共通善を探し当てて、新しい法律を作り、新しい社会体制を作る予定なのですか。だとしたら、マイケル・サンデル氏のその本には書かれていない、反キリスト教思想のニーチェやサルトル、仏教支持のユング、対善悪二元論の陰陽思想(東洋哲学)、他宗教も加えての共通善、共通正義のテーマを立ち上げるのが本当の正義ではないのですか。この世の中はキリスト教徒ばかりではありません。なぜ浮気はいけないのか、ではなく、浮気について自由に本音で論じましょう、が共通正義だと思います。
     
    正邪善悪の基準は、厳密には人間の数だけそれぞれに違うと思います。しかし、現実にはそう言う訳にはいかないから、一応法律があるのだと思います。戦時中は戦争が善、敗戦後は戦争は悪ですが、戦時中であれ、戦後であれ、法を守るも、法を犯すも、結局自分の選択(責任)であり、裁判官や検察官、法廷の場でもない限り他人を正邪善悪で裁く権利はないと思います。
     
    *aiさんへ お節介に話かけてごめんなさい。人生何があるか分かりません。浮気とか不倫とか突き抜けた所の真摯な愛を追及して育んで下さいね。応援しています。

  100. あづま先生へ
     
    何度もすみません。自分のコメントを再度読み返し、自分の未熟な文章表現が誤解を招いている事に気が付きました。また、昨日のコメントが自分の思い込みや自分勝手な憶測、私見の押しつけが主である事にも気が付きました。不愉快な気持ちにさせてしまい本当に申し訳ありませんでした。私自身、本当の愛にむけて努力、挑戦していきたいと思います。、

  101. nobuさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    このコラムの主旨は、結婚していても自由恋愛OKという意見が、本当に大事だと思うなら、それを主張してもOKというのが前提です。
    はじめにそう書いてあります。
     
    ただ、一般的に「浮気はいけない」という社会的共通認識のようなものがありますから、それを全部ぽいっと捨てて、勝手に議論を始めるべきではないですし、いったん「浮気はいけない、という一般的な認識があるよね」と認めた上で、「ではそれはなぜ?」と考える流れになっているわけです。
     
    精神的成熟度は、ある程度、客観的な基準で判断できる部分もあると考えています。
     
     
    それは、周りの出来事に対して、いちいち「批判だ!」と感じて傷つく人ほど、未熟である、ということ。言い換えると、自分の中にある「シャドウ」をちゃんと見つめることが出来ていない、ということでもあり、
     
    他者からの承認を受け取って、自己承認の力を育て、多少の批判には傷つかない安定した心をそだてること(が大事なのですが)、それがまだ十分出来ていない、ということでもあります。
     
     
    浮気問題が起きたときに、衝撃を受け、傷つくのは、やはりいま、上に書いたような意味での「未熟さ」が残る人です。
     
    逆に、精神的成熟度が高い人ほど、パートナーの自由を、どーんと構えて見守れるものです。
     
     
    ニーチェとヴォーボワールが、お互いにそれでよし、としていたなら、まあその件は、それでいいわけなんですが、
     
    それは、浮気はよいとするのか、だめと考えるのか、という「原則」から考えたときに、原則のど真ん中だと考え、他の人もそれに倣うべきだと考える話なのか、
     
    精神的に特に成熟した二人だからこそなしえた「例外」で、一般的にはちょっと難しいね、と考えるのか。
     
    そこが大事なのだと思います。
     
     
    私は、浮気はなぜいけないのか、そもそも婚外恋愛はいいのか悪いのか、という「原則」について考えるときには、
     
    あるカップルの事例を「原則ど真ん中」と考えるのか「それは例外だ」と考えるのかが、とても大事なことだと思っています。
     
     
    浮気はいいのかいけないのか、という議論をすると、どうしても、現実離れした議論になりやすいんですね。特殊な事例を持ってきて、個人の選択の話だから、いいのではないか、みたいな話に。
     
    このコラムの議論を上の方までさかのぼって見ても、そういう傾向がちょっとあります。
     
    では、そういう意見を言う人が、自分の結婚でそれが出来るのか、自分の親兄弟友達、あるいは子供が、自由恋愛OKという結婚をすることを、本当にOKと言えるのか、と、考えていったときに、
     
    本当に「個人の選択」と言い切っていいのか。
     
    そういう問題があるわけなんです。
     
     
    思考実験として、そういう可能性もあるよね、と考えるレベルと、
     
    もっと身近な問題として、私は親兄弟友人知人子供が、婚外恋愛OKという結婚の契約をしても、それは「個人の選択」として、何の違和感も持たず、喜んで認め、祝福します、と言えるレベルは、
     
    ものすごくかけはなれていると、思うんですね。
     
     
    だから、身近でない人の話を出して「個人の選択」という意見を聞くと、
     
    それは、思考実験(可能性の話)としては正しいけれど、では、身近な問題としてそれが起きたとき、本当に人は受け入れられるのか、という疑問を持つわけです。
     
     
    浮気問題が、精神的に未熟で、相手の行動に激しく傷つきやすい、そういうカップルの間でこそ、深刻な問題になる、という事例を、恋愛セラピストとして、たくさん見てきているので、
     
    一部の、特に成熟した二人の事例を引き合いに出すことは、現実に即していない特殊事例かもしれないと感じるので、私は抵抗があるわけです。
     
    高校生の体育で、超一流のアスリートのトレーニング方法を、「おまえら全員これをやれ」となったら、やっぱりそれは、現実離れしています。
    そのような意味での、「成熟していたんですかね」というコメントです。
     
     
    最後に、念を押しておきますが、このコラムは、サルトルについて語るコラムではありません。
     
    あくまで議題は、「浮気はなぜいけないのか」(浮気もOKという主張もあり)というものです。私のコメントも、すべて、議論の本筋にそって展開しているものです。
     
    そのような文脈で読んで頂くよう、お願いいたします。

  102. お返事下さいましてありがとうございました。上手に説明できるか分かりませんが、せっかくですので言葉足らずだった部分を説明させて下さい。私は法律や道徳、常識は、基本的に為政者が民衆を1つに支配する為に(為政者にとって)都合の良い権威主義的なルールなのではないかと疑っています。特に道徳や常識は、私自身、知らず知らずのうちに血肉にしみ込んで盲信してしまっている事が多く、真実が見抜けなくなるので、それで法律で決まっている事でも、一旦丸投げにして考える癖がついてしまったのかもしれません。反省です。また、今回、サルトルの名前を出したのは、皆さんの話の流れが婚外恋愛についての話になったので、実際の例として挙げさせて頂いたのです。カントやベンサムが紹介でされていたのでサルトルもいいのかな、と。また、私の文章が興奮していたのは、正直、サルトルを侮辱されたようで頭にきたからです(苦笑)。大人げなくてすみません。しかし、傷ついて承認不足な私に、未熟、未熟と連呼して、先生も結構残酷ですね・・(涙)。傷口に塩、ですか。いえいえ深い親の愛ですよね。今回はこちらのコーナーの皆さんに不愉快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。最後に参加させて頂きありがとうございました。

  103. 浮気について。私も一言言わせてください。
     
    なぜいけないのか。そもそも人間には例外なく一人の人以外を愛する事が出来る要素があるからです。だからこのように常識や道徳や法律で一夫一婦制が守られているんだと思います。私の考えでは常識や道徳や法律というのは最近になってこそ、個人の権限を守るものが増えてきましたが、昔からあるものは社会全体の幸福のため(ベンサムの最大多数の最大幸福論、まさにそうですね。)に作られている気がします。
    私には絶対的に浮気がいけないという人は、制度や常識が違えばどうなんだろうという気がします。
     
    一夫多妻制度の国で聞いた話では、それ自体が制度として容認されていても実際にそうするのはステイタスのある人、つまりそれだけの甲斐性がある人でないとできない、だから奥さんは一人がいいという若い男性がけっこうおりました。かといって浮気はするんです。それをみて、社会的な責任をとりたくない、自然な欲望のまま生きたいというのが浮気なのかなと思いました。
     
    一人の人だけを愛する事が出来るのは、信頼関係とかけがえのない存在にまでなったパートナーがいて、そのための努力も喜んでできる、お互いに愛情が二人の間を循環をし、完全に満足できている状態なのだと思います。ただ、そのエネルギーの循環がうまくいっていないとパートナーではない、他の方向へむけてしまうのではないか。それが、子供や仕事や酒(これはこれで問題)や友人に向いていたら問題は表面化しないのですが、異性(または同性)に向いてしまったら、パートナーとして自分に取って代わることのできる対象だからこそ、みんな自分の存在意義を守るためにやっきになるのだと、私はそう思います。
     
    浮気という第三者の存在で問題がめんどくさくみえますが、心の状態を二人で静かに内観したときに、この状況では信頼関係が築けないとわかったときには、子供がいても離婚すべきだと思います。二人の問題を子供のせいにしてはいけないと思います。そのような問題回避型の親に対し、子供が親を信頼できず、甘えられなくなります。
    その後、浮気された方は、旦那もしくは妻が浮気相手とくっついて幸せになることを考えると憎くて腹がたつでしょうが、浮気がなければうまくいっていたのか視点を変えて一考すべきだと思います。
     
    また、時間が経てば、元の鞘に納まる場合もあるじゃないか、人間間違うものだからいつかきっとパートナーのもとへ戻ってくるという考えもあると思います。自分がいなければパートナーはやっていけないという、まるで母のような自信があるのであれば私はその方を人間の鏡として尊敬しますし、がんばってほしいのですが、その自信がなく、影響を周りに迷惑をかけ、自分一人で気持ちをおさめられないくらい落ち込むのであれば別れた方がいいと思います。
     
    浮気する旦那と子供の教育ばかりに目を向ける妻、気持ちがお互いに向いていない、互いに夫婦の責任を果たしていないという点では同罪だと思います。
     
    長くいっしょにいられるようなお互いのレゾンデートルが明確にあれば、浮気はさほど問題ではないような気がいたしました。
     
    まとまりのない長文ですみません。経験則からつらつら書いてみました。

  104. 補足です。レゾンデートルですが、それはパートナーの中の自分の存在意義、自分の中のパートナーの存在意義それぞれが明確であるということです。それも物質的側面ではなく、精神的側面におけるレーゾンデートルというか。
    すみません、今の私の中ではこの主張でこの部分が弱いのはわかっているのですが、これ以上はわかりません。浮気されたばっかりなので感情も邪魔してしまって(笑)。あづまさんの方でもうすこしここを展開してご教授いただけますと大変ありがたいです。

  105. 先ず、人は本能として異性への興味があります。比率は異なるとも、それは男女両方が持ち合わせております。
    ですから、お互いに元来のパートナー以外に性的及び恋愛感情をいだくことは動物学にみて自然な行為ではあります。
    しかし、一方で人間社会を築き上げて、一婦一夫制の社会システムの倫理上では、他のパートナーとのつながりを良しとしない倫理観があるのも事実です。俗にいう不倫です。
    この、現在の日本社会における不倫=悪しき行為の図式ができた由来については、諸説様々であると思いますが、基本的にその方が、管理しやすい安定した社会システムであることには違いません。
    ここで、不倫という行為の善悪を問う前に、現代の結婚行為について考えて見ましょう。
     
    Q)人は何故、結婚をするのか
    A1、子供をつくり子孫を繁栄させるため結婚をしてその起源を明らかにする行為。
    A2、その子孫を育てるため男女が協力して育成できるためのシステム。責任の所在の明確化。
    A3、結婚システムを通して、パートナー間の財産の共有を図るため。
     
    主として結婚というシステムには、概ね上記3つの意味があると考えます。
    勿論、結婚をしないで子供を産む人もいますし、離婚して片親で子供を育成する人もいます。また、夫婦であろうとも財産を共有しない人々もいますが、それはあくまでも、少数派であり、ここで言わんとすることは、一般的な見地から結婚という行為に対し一般的な意味を論理的に考えてのことです。
     
    すなわち、この結婚システムの維持を脅かす行為の対象として、不倫浮気行為が悪しき行為と社会通念上では考えられています。
     
    人は、生まれてから育った環境の中で社会性を持ちその社会システムの中に規定する善悪についての常識を身につけ、更にその社会倫理に洗脳されていきます。
    つまり、基本的に、浮気は動物的な本能行為にも関わらず、社会倫理上、悪とされている行為であるため、いけない行為 とされてしまっているのです。
     
    私たちが作り出した、現代社会における価値観は、有る一定期間を過ぎると変化します。たとえば、戦前の社会価値観と現在では、大きく異なります。
    ですから、遠い未来、社会価値観が 不倫は悪しき行為。。。では無くなる可能性も大いにあると思われます。いや、おそらく、不倫及び浮気はいけない行為ではなくなる様に感じています。
     
    それは、最初に述べた、結婚行為の理由に対して、社会が必要性を感じなくなってきているようです。
     
    たとえば、デキ婚。これは、子供を育てる責任の所在の明言化だけのために行っている結婚行為に当たります。それを現代社会では、デキ婚と言って容認しつつあります。
    また、離婚率の増加に伴う片親率の上昇。これは、片親でも育児ができる社会保障の充実が伺えます。(誤解があると困りますので、片親で育児はそれでも大変です。私が言いたいのは昔よりは社会保障が向上しているという、あくまでも比較論です)
     
    また、財産の面から見てみると、現代社会人は晩婚化が進み、また、結婚願望の無い人たちが急増しています。これは、未婚時代に築き上げた個人資産を他と共有することを望んでいない現れと考えます。
     
    そういった、状況から、考えると、社会システムにおける倫理観には普遍的な物が見つからないため、本当の意味で、浮気はいけない、を定義するには、非常に説得力に欠けるように思います。
     
    ですから、結論として、人間が本来、動物として持っている本能は、普遍的な価値観があるゆえ、変動的である社会の価値観と照らし合わせて比較した結果、
     
    浮気はいけない行為ではないと判断します。

  106. あづまです。
     
    このコラムの主旨を、再度確認しておきます。
     
    このコラムは、
    はじめに書いたとおり、
    >このコラムのコメント欄を使って、善悪の基準、行動の規範について考えてみたいと思います。
     
    という目的で運営しています。
     
     
    人の心の発達の段階は
     「無条件の承認→条件付きの承認」で進むものですし、
     
    たとえば浮気されて傷ついた心の癒しも
     「気持ちを受け入れてもらう(無条件の承認)→自分の行動を反省する(条件付き)」
    という順番になります。
     
     
    そして、道徳観や倫理観というのは、条件付きの承認に関わる話なんですね。それは、人間にとって必要なものですし、無条件の承認を大事にするあまり、心理カウンセラーが置き去りにしやすい部分だったりもするわけで、
     
    だからこそ、こういうコラムを立ち上げているわけなんですが、
     
    しかし、
    無条件の承認が足りない段階の人。
    傷ついたあと、気持ちを受け止めてもらうことがまだ必要な人。
     
    には、苦しいコラムになってしまいますし、客観的な議論が、きっとまだ出来ないと思います。
     
     
    こういう自覚がある人は、参加を自粛して頂いた方が、よいと思います。
    ある程度、癒しが進んだり、無条件の承認を得てから、参加してください。
     
    別に禁止はしませんが、自分の心の体力を考えずに行動すると、かえってつらい思いをしてしまいますので。
     
     
    ここで一度、書いておこうと思いました。

  107. こんにちは。
    興味深く読ませていただいてます。
     
    あまりない立場だと思うので書かせていただきます。
    私はとある夫婦の旦那さんに一方的に好意をもたれました。(私は独身です)
    とはいっても実際に、何か浮気に当たる行為をしたわけではありません。
    旦那さんが勝手に好意を持っただけです。
    ですが、たとえ精神的なものでも、奥さんからすると、ゆるせないものであったらしく
    私は嫌がらせを受けるようになりました。奥さんからすると、私の存在があるからいけない、ということになったようです。
     
    もちろん、私は距離をおこうとしました。
     
    奥さんのいやがらせは、ちょっとひどいものだったのですが、旦那さんは自分に罪悪感があるもので、奥さんを叱るということができなかったようです。
     
    本来は、夫婦関係が空虚なものであったために、旦那さんは外に何か埋め合わせを求めようとしたようですが、もちろん、私はそんな関係に同意することはできません。
    奥さんは、関係の空虚さを修復する努力はせずに、私や旦那さんを責めるという姿勢でしたので、いっそう関係はひどいものになり、よけいに関係は悪くなりました。
     
    私は不倫も何もしていないのですが、擬似的にそんな役をやっていることになってしまいました。そのときの体験から、なぜ浮気がいけないのか、を書いてみます。
     
     
    浮気相手、という第三者がいると、まず、問題がややこしくなります。
    本来はご夫婦の問題であり、ふたりで向き合うべき問題であったものが、浮気相手という第三者がいると、その第三者がいるから、夫婦がうまくいかない、というように、問題がすりかわってしまうことです。
     
    旦那さんにすると、第三者から愛を得ようとすることの葛藤に苦しむことになり
    奥さんにしてみると、関係を修復したり、自分を振り返るよりも、つい旦那の浮気相手を非難する方にエネルギーを傾けてしまい、ちっとも建設的な努力ができなくなります。
    旦那さんも、第三者に逃げたわけですが、奥さんも自分と向き合うことから逃げるということになります。
    私は奥さんからは嫉妬されていやがらせされるし、旦那さんを拒否すると大げさに悲しんで騒がれるし、いい迷惑でした。
     
    どんな関係でも向き合わないと、人間関係は修復できないと思いますが、
    第三者を巻き込むということは、もともと溝があった関係が、さらに向き合うこと自体が困難になる、という理由で、やはりあまりよいことではないと思います。
    また、第三者にとっても、迷惑なことだと思います。

  108. Rさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    なるほど。
    浮気そのものよりも、夫婦の間での、お互いの存在意義があるかどうか、という点に目を向けるべきだと。
     
     
    結局のところ、夫婦の存在意義、という言葉で表現されている内容が、
    (ちょっと厳しい言い方ですみませんが)、
     
    「存在承認」、のように感じられました。
     
    あなたが私の方を向いてくれていないと、私は否定されたと感じ、傷つく。
    あなたが私の方を向いてくれていれば、私は肯定されて、安心する。
    (これは、純粋に存在に対する承認ですね)
     
    私があなたの役に立っているとき、私は自分の存在価値を感じる。
    私があなたの役に立てないとき、私は自分の存在価値がないと感じる。
    (これは、能力や貢献に対する評価・承認ですね)
     
    お互いに、相手から存在承認をもらい合うということが結婚だと。
     
     
    こういう側面は、確かにありますが、
    これを全肯定してしまうと、
     
    自分に自信がなくて、自分の存在価値を認める役割を(本来自分の価値は自分で認められるのが成熟した自我の状態ですが)、「相手が自分を好きでいてくれること」「相手が自分の方を向いてくれていること」に依存してしまっている、
     
    という未熟な状態を、肯定してしまうことになります。
     
    彼が他の女性とメールしただけで、携帯の全女性アドレスを削除させたり、彼の行く飲み会に女性が参加するかどうか執拗にチェックしたり、となれば、これは行き過ぎだ。束縛行為だ、となるでしょう。
     
     
    夫婦が、お互いに、自分の存在価値を、相手の評価にゆだね合って、
    ピッタリ密着するように、自分をなくし、相手がいないと自分も存在できない、
    これはまさに、共依存というべきですが、
     
     
    相手にとっての存在意義は、十分にあると言えるでしょう。
     
     
    ちょっと、まわりくどい議論ですみませんでした。
     
    つまりね、お互いが、相手にとって存在意義があるかどうか、という点だけを基準にしてしまうと、上に書いたような、べったり共依存的な夫婦が、理想的だという話になってしまいかねないんですね。
     
    ですので、お互いにとって存在意義があるかどうかという視点を、
    道徳の規準にするためには、
     
    もう少し深く考える必要があるのかな、と思いました。
     
     
    この論点も、議論を深めるためには、役立ったと感じています。
    ありがとうございました。

  109. asatoさん
     
    コメントありがとうございます。
     
    なるほど…
     
    「浮気はいけない」とするのは、社会的な価値観であり、それは、普遍的なものではないと。
     
    一方で、本能的なものは、普遍的なものであるから、パートナーがいても別の人を好きになってしまうという「本能」があるのなら、それは正しいと。
     
    したがって、浮気はいけないものではない、という結論ですね。
     
     
    この論点は、いくつかの点で、もうすこし深く考えてみる必要性があると感じます。
     
     
    それは、たとえば、脳科学の研究から、女性は、男性が継続的に自分だけに親切にしてくれるかどうかを、潜在意識レベルで良く記憶していると考えられています。女性は恋愛をすると記憶を司る部分が活性化するのです(男性はそうでもないようです)。
     
    これはつまり、本能的に、継続的に自分やこれから生まれた子どもたちに対して親切にしてくれる(獲物を捕ってきてくれるなど)、誠実な男性を「本能的に」好きになるようにできている、と言えるわけです。
     
    当然、交際中や、結婚生活の中で、パートナーが浮気をしたら、憤慨しますよね。これも、自然な感情的反応ですから、本能と言ってもいいでしょう。
     
     
    浮気というのは、浮気をしている側と、浮気をされた側では、まったく正反対の感情の状態になりますよね。
     
    浮気をして、有頂天になっている側は、確かに本能に従ったかもしれませんが、
    浮気をされて、傷ついた側は、本能的に言っても、望んでいない経験をした、という話になります。
     
     
    利害が、一致していないんですね。
     
     
    こういう、両面があるということを考えたときに、本能を基準にして、
    浮気はいいのか悪いのか、という話を議論していいのだろうか。
     
    これは、結局、このコラムの議論では、かなり上の方で出てきた、ベンサムの「最大多数の最大幸福」という話に戻るわけですが、
     
    そもそも、本能や感情という極めて主観的なものをベースに、道徳の規準を考えることは、難しいのではないか、という問いを、上の方では何度も投げていますが、そこに戻ってしまいます。
     
    従って、もう一度深く考えて頂きたい、論点です。

  110. あづまです。
     
    これまで、議論に参加して下さった皆さま。
    ありがとうございました。
     
    これにて、一旦この議題は終結させて頂きたいと思います。
     
    コメント欄はオープンにしておきますし、書き込みも歓迎いたしますが、
    今後あづまは、議論の内容に踏み込んだコメントはいたしません。
     
     
    理由は、私の中で、ひとつの結論というか、回答が出たからです。
     
    それを別記事でアップしましたので、興味のある方はぜひご参照下さい。
     
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