浮気はなぜいけないのか。それは愛に反するから。
「浮気はなぜいけないのか」にて、長いこと議論を続けて参りましたが、
私の中で、結論が出ましたので、このコラムでは、それを発表したいと思います。
結論をひと言で言うと、それは、
「愛に反するから」
です。
いつか消える存在だからこそ、愛が必要
まずここでの「愛」について、厳密に定義しておきます。
愛とは、依存心ではありません。
相手が必要で、相手がいないと安心できない。相手に依存している。
これは、依存心です。一般には、愛(好き・愛してる)、と言われることもありますが、この記事ではこれは「依存心」と表現し、上に書いた「愛に反する」の「愛」とは明確に区別しておきます。
では、愛とは何か、ですが、
スコット・ペックさんの「愛と心理療法」にある 愛の目的が、分かりやすいのですが、
「愛とは、自分や相手の精神的成長のために、自分を伸ばす意志」であると。
この考えの前提には、人は、精神的成長を続けていく存在である、という考えがあると思います。
それがなぜ正しいのか、なのですが、それは、人は命を受け継ぎ、文化を受け継ぎ、感情を受け継いで、自らの個体は死んで消えていく存在だから、だと私は考えています。
人は、生まれたときは、とにかく自分の存在承認を、他者からたくさん受け取ることが必要です。
「ここに居ていいんだよ」という承認をたくさんもらうことで、自分で自分を認められるようになります。つまり、小さい子供にとって、存在承認は、成長のための、心の必須栄養素なのです。
今度は、社会や、文化によっては大自然の中で生きていける力を身につけるために、能力を認められる(ほめられる)ことを求めるようになります。こうして、他人の役に立てる自分を作っていくわけです。ほめられること、能力を認められることもまた、成長のための、心の必須栄養素だと言えます。
人は、共感力も育てていきます。これは、家族や社会の中で他人とうまくやっていくためには必須の能力です。これも、他人から共感されることで育っていきます。
そうやって、自分の幸せ・喜びだけでなく、他人の幸せ・喜びについても考えることができる。
この状態こそ、他人を「愛する」ことが十分にできる状態です。生まれてきた子供に承認を与えられるようになっていて、命を受け継いでいくことが、うまくできる状態です。
それがさらに広がって、カップル、家族、交友関係や仕事関係、地域社会、母国、そして世界、へと共感する対象が広がっていく人もいます。
これがなぜ必要なのかというと、私はこう考えています。
人にとって、自分が関心を向けている対象が消えてしまうのは、とてもつらく受け入れがたいことです。
一方で、人は必ず、個体の死を迎えます。
したがって、必然的に、このような結論になります。
人が、自分の幸せ、自分の喜びにだけ関心を向けて生き続けるなら、
死を迎える瞬間は、全てを失うような、耐え難いものになるだろう。
一方で、
人が、自分の命(子孫)、文化(子供や後輩など)、感情(関わった全ての人)を受け継いでいく人に関心を向けるとき、
死を迎える瞬間は、自分の個体という、ひとつの命は消えるけれど、
関心を向けている多くのものは続いていて、全てがなくなるわけではないと悟っているはず。
身近な話をすれば、おばあちゃん、おじいちゃんはよく、子供や孫の心配をしますよね。それは必然なのだと思います。
つまり、人はこのようにして、
自分が承認してもらえるかどうか、という動機に基づいて生きる存在から、
成長して、
自分の命や文化や感情を受け継いでいく人たちの幸せを願う動機に基づいて生きる存在へと、
変化していく、精神的成長を果たすものであると、考えています。
だから、人にとって、成長は、必須であると。
そして、その成長のための意志である「愛」は、極めて本質的なものである、と。
・・・と、ここまで「愛」という話について書いてきました。
浮気はなぜ、愛に反するのか。
では、ここから、どうして浮気が愛に反するのか、その話を書いていきたいと思います。
まず、浮気の定義ですが、私は簡単に、パートナーが浮気だと感じたら、浮気である、という基準で考えればよいと考えています。
つまり、ちょっと極端な例を挙げますが、とても自分に自信がない妻がいたとして、その夫が(多くの人の目から見たら)何でもないメールを別の女性とやりとりしていたとして、でも妻はそれが耐え難かった。そして「精神的浮気よ! 携帯から女性のアドレスを全部削除して!」と。
一般的な基準で考えると明らかに干渉しすぎですし、束縛行為ですが、
これさえも、ここでは浮気に入れて考えて良いと思っています。
つまり、この場合、夫は、愛の道に反してしまったと言えるわけです。
なぜそう言えるか。
それは、愛とは、自分や相手の精神的成長のために、自分を伸ばす意志である、という定義に照らして考えると、分かります。
この夫にとって、妻の精神的成長のために、何か行動するとしたら、何をしたらよいのでしょうか。
この妻はきっと、承認不足(愛情不足・ストローク飢餓)なのです。
きっと、幼少期からの承認が足りないのでしょう。
それを、夫に依存している状態です。(無論よい状態ではないです)
しかし、そうであれば、愛の道とは、妻に承認をあげることです。
精神的成長につながる働きかけ、関わりをしてあげることが、愛です。
妻に対して、君が大切だ、かけがえのない存在だということを、伝え続ける。
どうしても他の女性とメールをする必要があるなら、君に対する否定ではない、どうしても必要なことがあるからメールするのだ、とちゃんと伝えて安心を与える。
それが、妻に承認をあげるということです。
それをせずに、自分の行動は正しいと主張するばかりでは、愛に反するわけです。
但し、ここできっと疑問が湧くはずです。
では、この夫は、この妻と結婚している限り、女性とのメールは全部事前に妻に許可を取らなければ出せないのか?
そもそもそれはほぼ過干渉、束縛行為であって、その原因は妻自身のメンタルにあるのに、夫がずっと妻の言いなりになることは、単なる「事なかれ主義」であって、問題の根本解決にならないのではないか?
そもそも、そうやって、甘やかしたら、それこそ、妻は成長しないのではないか?
これらの疑問は、もっともだと思います。
しかし、承認不足を持っている人が、成長するためには、承認が必要なのです。
人間にとって、子供時代からの、承認された経験の蓄積は、精神面の必須栄養素みたいなものです。絶対に必要なものです。
栄養失調でふらふらの人に、気合いが足りない!甘えてる!しっかり立て!と言うことが無意味であるように、心の栄養失調になっている人に、甘えるな!自立しろ!と言うこともまた、無意味なのです。
この妻には、心の栄養が必要です。それは、他者からの承認です。
人は、十分に依存して、他者からの承認をたっぷりもらってこそ、自立(≒自分で自分を認める力がつくこと)できるし、共感やお世話や教育など他人を承認する関わりもできるようになるのです。
始めはまず、他者からの承認を受け取ることが、大事なのです。
但し、ひとつ落とし穴があります。
それは、
「夫が妻を承認すること」と、
「妻がその承認を受け取ること」は、
イコールではないということです。
この妻が、結婚するまでずっと承認不足が解消しなかった理由として、おそらくは、本人の中に自己否定や人間不信(他者否定)に根ざした、心のブロックがあるのだと思います。
妻が自ら、夫の承認を、感謝して、心に深く受け取ろうという努力をしない限り、
どんなに夫が愛の道を貫いても、妻の心の深いところには何も届かないということなのです。
つまりここで言えることは、妻もまた、夫の承認を受け取って、自分の心の深いところにある承認貯金の残高を増やし(自分の自信のなさを解決し)、成長するべきであって、
妻がそれをしないならば、妻もまた愛の道に反しているということなのです。
浮気が起きる、典型的な男女関係というのは、
一方が依存的で、どこか承認不足を持っていて、それをパートナーに依存しています。
上の妻のケースもそうです。
依存が続くと、パートナーは疲れてきます。何となく、自分らしく居られない、息苦しさを感じてきます。
それは当然です。依存というのは、相手に対する「過度の期待」であり、相手が自分の望むとおりに行動してくれなきゃイヤだ、という精神状態のことだからです。無意識に、パートナー(上のケースでは夫)は行動を制約されるわけです。
すると、逃げたくなります。そして、浮気が起きるわけです。
では、こういう力学があることを前提に、
上記の夫は、どう行動すれば、愛の道に沿っていると言えるのでしょうか。
それはやはり、上に書いたような、
妻に対して、君が大切だ、かけがえのない存在だということを、伝え続ける。
どうしても他の女性とメールをする必要があるなら、君に対する否定ではない、どうしても必要なことがあるからメールするのだ、とちゃんと伝えて安心を与える。
という、承認を与える行動も取るけれど、同時に、
ちゃんと、しっかり僕の愛(心)を受け取って、子供時代からの課題をちゃんと解決してほしい。
ということを「要求する」ことです。
妻が成長するように、苦言もいう、ということです。
ここで、苦言とは、自分がイヤな思いをしたからその不満を言うことではありません。それは「苦情」と言って、私は区別しています。苦情ももちろん大事なのですが、承認不足の人は苦情を受け止めて、愛を返すだけの余力がありませんので、この妻には効果がありません。
まるで、母親のような包む愛と、父親のような導く愛の両方を発揮しなさい、
という話に聞こえると思いますが、
そういう意図で書いています。
このカップル、私が作った架空の話ですが、実在したらたぶん、別れると思うんですね。
でも、そうだとしても、一緒にいる間は、愛の道を貫く。
最後、やっぱり最後まで愛を注ぎ続けられなかった、ごめんね。という別れの瞬間があるとしても、その日が来るまでは、相手の精神的成長のために自分を伸ばす意志を持ち続ける。
これこそが、愛の道だと思います。
そして、いよいよ結論ですが、
そのような意味で、
浮気が起きる典型的なケースでは、
浮気される側に承認不足があって、依存的であって、そこから逃げるように浮気してしまうと言う構図があるわけですが、
まさに、パートナーの精神的成長のために自分を伸ばす意志を、放棄していると言えます。
スコット・ペックの定義する「愛」に照らして考えると、
愛に反する行為、です。
私は、このような視点で、
浮気は、愛に反する行為だから、いけないことである、
と結論づけました。
※なお、「浮気はなぜいけないのか」の議論はこれにて一旦終結させようと考えています。コメントはオープンにしておきますので、ご意見を書いて下さるのは歓迎しますが、今後簡単なお礼のレスぐらいは書くかもしれませんが、積極的に議論の内容に踏み込んだコメントはしませんので、ご了承下さい。
スコット・ペックの「愛と心理療法」、(愛すること、生きること)は読みました。
すごく感銘を受けました。
現在、不倫相手とは別れましたが、仕事上、経営者として名を相手とともに連ねており、
ただし立場は下でありますが、共依存状態がしばし続き、距離を置くことに必死になっております。
上の例の方々が別れると思うというのはもっともで、しみじみ回避依存症の彼が
私をイケスの中に入れたことで依存的なことに、
逃げ出したくなっております。
会社のつながりがなければとっくに逃げ出しています。
現在はその悩ましい状況の中におりますが、
あずまさんの答えに私と近いものがあり、
自信を持ちました。
じつは、あずまさんが述べてらっしゃることを
ピーター・ドラッガーの「わが半生」の著作の中でも述べていました。
あるお医者さんが、自分の出世を中心に考えていたが、
老齢に達するにつれて、後輩育成に注いだことでした。
とても勇気をもらえる回答、ありがとうございました。
スコット・ペックの「愛と心理療法」、(愛すること、生きること)は読みました。
すごく感銘を受けました。
現在、不倫相手とは別れましたが、仕事上、経営者として名を相手とともに連ねており、
ただし立場は下でありますが、共依存状態がしばし続き、距離を置くことに必死になっております。
上の例の方々が別れると思うというのはもっともで、しみじみ回避依存症の彼が
私をイケスの中に入れたことで依存的なことに、
逃げ出したくなっております。
会社のつながりがなければとっくに逃げ出しています。
現在はその悩ましい状況の中におりますが、
あずまさんの答えに私と近いものがあり、
自信を持ちました。
じつは、あずまさんが述べてらっしゃることを
ピーター・ドラッガーの「わが半生」の著作の中でも述べていました。
あるお医者さんが、自分の出世を中心に考えていたが、
老齢に達するにつれて、後輩育成に注いだことでした。
とても勇気をもらえる回答、ありがとうございました。
あずまさん
最終コメントありがとうございます。とても納得できるものでした。
ただ、上記のようなケースで、実はご主人も奥さんからの承認不足で、愛が必要、というときに、一体どこから愛(承認)をもらえばいいのでしょうね。
奥さんは依存的で、承認不足で、ご主人もふらふらで愛の栄養失調で、相手に愛を与えるだけのスタミナがないとき、しっかりしろ、立って妻に愛を与えろ、と言われてたら。
まず、自分を立て直さなくてはいけない。そのための愛(承認)が必要なとき。
そんなとき、ご主人は浮気をして、ニーズとしての愛を補充しようとしたくなることもあるでしょうね。
お返事はいりませんが、そんなことを思いました。
長いこと議論の場を設けていただき、ありがとうございました。
思ったことがあるので、書きこませていただきます。
愛に反するから。
意味合いは違いますが私もそう思っていました。
私の答えとしては「浮気をする」つまり「他の人との時間を優先する」ということは「いざというときに絶対に助けてくれる人だと言い切れない」からじゃないかという結論になりました。
二兎追うものは一兎をも得ず。といいますか
とても大変な何かが起きた時、守るものが多すぎると何一つ守れないと思うんです。
「いざというときに頼れない」→「自分で解決しなければならない」
となると、それは二人で生きているといえるでしょうか。
それは一人で生きる考え方だと思うんです。
もちろん頼るばかりではなく、自分で解決することは大事なことですが、最後の最後に頼ることが出来る、という心の支えにはならないのではないかと。
動物でも、子作りの時だけラブラブで、子作りが終わると別れて片親だけが子育てをするという種族が多いので、一概に悪いことだとは思いませんが。
それはそもそも一人で生きる文化であって、二人で生きるということではないんだと思います。
皇帝ペンギンはずっと一夫一婦制で、再婚がないとさえ言われていますし、二人で生きる文化というのはそれほど強固な信頼関係があってはじめてできるものなんじゃないでしょうか。
浮気がいけないのは、
それは「二人で生きよう」としている人に「自分は一人で生きる」と決別する行為だからだと思います。
それは悪いことというより、生き方が違うのでしょう。
それはあずまさんのおっしゃる「パートナーの精神的成長のために自分を伸ばす意志の放棄」につながる答えのように思えました。
ただ自分では答えにたどりつけなくてずっと引っかかっていた「合う合わないって何?」という疑問が、コラムを読んでいて解けそうな気がしました。
なんというか、こう、自分の限界を超えない相性というか、なんというか。
上手く説明できているかわかりませんが、このコラムを読んで、(他のコラムも含んでいますが)考えが深まりました。
今までこういう問題について自分なりの答えを出しているサイトや人に出会ったことがなかったので、とても新鮮でうれしかったです。
ありがとうございます。