夫が浮気をしている。
夫婦仲が冷え切っている。
夫婦げんかが絶えない。
もう、破綻しているよ、この関係。
でも、「子はかすがい」とも言うし、この子のために離婚しないでおく方がいいのでは…?
離婚するかしないか、みたいな表面的な出来事ベースで考えると、重要な決断は、間違えてしまうと思うんですね。
昔は、離婚して母子家庭になったら、それこそ悲惨な生活が待っている、ということだって現実味を持った話でした。それこそ、「子供のために離婚しない」がリアリティーのある話だったと思うんですね。
物質的な部分ですよね。「人はパンのみに生きるにあらず」とは言うけれど、そのパンがなければまず生きていられないわけですから。
しかし、最近は「離婚したら悲惨」という考えは、若干過去のものになってきたかな、と思います。福祉のサポート体制が充実してきたことや、ぜいたく言わなければ女性でもなんとか仕事をして子どもたちとの生活をまかなっていくことが可能な社会になってきたことも大きいのだと思います。
先日、読売新聞の「きしむ親子」という特集の中で、こんな事が書かれていました。
茨城大学の野口康彦准教授が、大学生321人を「両親の仲がいい」「仲が悪い」「離婚した」の3群に分けて、そのことと、自己嫌悪や心身の不調などの抑うつ傾向との相関を調べる研究を行ったのだそうです。
その結果、「仲が悪い」のグループが、いちばん抑うつ傾向が強く、「仲がいい」と「離婚した」では差がない、という結果が出ました。
同記事には、別の研究者の研究として、離婚後、子供が別居した方の親と面会できるかどうかと、子供の自己否定傾向を比較した結果、面会できていない子の方が、月一回以上面会できている子よりも自己否定傾向が強かった、という話も取り上げられていましたが…
面会しているかどうかそのものよりも、子供を面会させない親が別居する親の悪口を子供に言う割合が91%と非常に高く、むしろ、このことが子供の精神に影響を強く与えているのではないか、という解釈が紹介されていました。
何をお伝えしたいかというと、
私も以前は研究者でしたから分かるのですが、
研究では、
明確に白黒判定できる「要因」と
できるだけ明確に違いが分かる「結果」を見つけて、
その相関関係を調査したいという衝動に駆られるわけです。
つまり、
親の仲がいいか悪いかという、主観的な要因よりも
離婚しているか否か、みたいな客観的な要因の方が、
研究者には好まれる、ということです。
同居の親が別居の親に対して、未だ悪感情を持っているかどうかという主観的な要因よりも、
子供が別居の親に面会しているかどうか、という客観的な要因の方が、
研究者には好まれる、ということです。
すると、離婚したかどうか、面会できているかどうか、など、客観的に、アイテム的に判断できるものが、まるで原因であるかのような、イメージが出来上がります。
これは、社会学者や、それを取り上げるマスコミの問題でもあると思います。
つまり、面会の話で言うと、
「面会できている子」「面会できていない子」の間で、
明確な自己否定傾向の差がある。
これは、統計的な事実なわけです。
しかし、人はこれを聞くと、解決方法として、
「子供の面会は大事。子供の精神の健康のために、面会させよう」
と考えますよね?
しかし本当は、
別居の親に子供を面会させない親は、高い割合で、
別居の親の悪口を子供に言っている。
↓
子供は、離婚しても未だ「喧嘩の続き」をしているかのような親の影響を受け続ける。
↓
子供自身の精神に悪影響。
ということが起きているかもしれないわけです。
だとしたら、面会させることよりも、悪口をやめることの方が意味があるわけです。
(悪口というのは子供の立場からの解釈で、親は「ちょっと愚痴を言っているだけ」と思っているんじゃないかと、私は思います。それすらも、子供に言うのはやめた方がいいです)
社会学的な研究を解釈するときには、本当に慎重な姿勢が必要です。
子供の面会の話のように、本当の原因と見かけの原因が違ってしまうことを「偽相関」といいます。研究の現場ではよく現れることです。
私たちは、研究者の研究を再現実験する力はありませんから、社会学の研究者が出してきた結果や、それを紹介しているマスコミのニュースを見聞したときに、
「なぜそうなのか」
を、しっかり自問して、自分の頭で考えて、受け取るクセをつける必要があると思います。
「離婚すると子どもがかわいそう」
「子供のために離婚しない」
「なぜそうなのか?」
考えてみて下さい。
ひとつ、私から問いかけたい点があります。
それは、親自身がまだ、マズローの五段階欲求説で言えば、下から二番目の「安全の欲求」が十分に満たされていない感覚にあって、
子供の精神の健やかな発達というのは三番目の「承認の欲求(愛と所属の欲求)」に関連した部分なのですが、
親自身が、三番目の欲求を考える段階まで、進めていないのではないか。
というのが、私から問いかけたい点です。
ちなみに、マズローの五段階欲求説というのは、下から順に書くと、こうです。
生理的欲求(飢餓状態なら、食べ物を得ることしか考えられない)
安全の欲求(現代社会では、お金と生活。生きていけるかどうかの不安があるとそれが優先になる)
承認の欲求(自分が他人から承認され、受け入れられたい欲求)
自尊の欲求(自分がちゃんとしている、できる、ということを自他共に認めたい欲求)
自己実現の欲求(自分が何のために生まれて、何をして生きるのかを探求する欲求)
ちなみに、セラピストとしての活動から得た、あづまの個人的見解ですが、
幼少期に家庭が安全な場所ではなかった場合、どうしても安全の欲求が、子供時代に十分満たされないまま、大人になってしまい、実際の生活が安定していたとしても、子供時代の感覚が残り、安全の欲求にしがみつく、というようなことが起こると感じています。
つまり、「子供のために離婚しない」と言ってしまう親は、自分自身がまだ、幼少期の不安な家庭環境の影響を脱し切れていないのではないか、というのが、この記事で問いかけたいことなのです。
さらにもう一歩踏み込んで考えると、
「離婚した」親というのは「離婚できた」親なのかもしれません。
親自身が、自立した心を持ち、まずは夫婦関係の修復をしっかり試みるけれど、やっぱり相手方の問題が大きいということも、現実にはあるわけですから、
そういう場合には、離婚を選択できるぐらいに、自立した大人の心(精神的自立)と、社会で生きていくための生活力(経済的自立)を持っている親。
そういう親の元で暮らしている子は、精神的に健やかに生きている。
そういう、統計には出てこない、本当の理由が裏にはあるんじゃないかと思うんですね。
研究者は、こうして憶測で論文を書いてはいけないわけなんですが、
それを受け取って活かす我々はむしろ、しっかり裏の理由を読み取って、対応することが大事なのだと思います。
私は、先の大学生の研究で、親が、
「離婚した」「仲が悪い」
の間に子供の抑うつ傾向の差がある、という統計的事実の裏には、
仲が悪い親=依存的で相手に期待するのでケンカになる親=精神的に自立していなくて離婚できない親
離婚した親=精神的に自立して離婚できた親
という、「離婚したしない」そのものではない、
その裏にある、親の精神状態、親の精神的成熟度が、
本当の原因として横たわっていると解釈しています。
さて、ここまで来て、表題の
「子供のために離婚しない」という考えは間違いなのかどうか、について再度考えてみますと、
自分の中に、「離婚する」という道が、選択肢として十分にある
(=経済的、精神的に自立している)
そういう親が、客観的に考えて「子供のために今は離婚しない」という選択肢を選ぶのであれば、私はそれは正しいと考えます。
そういう親はきっと、自分の選択肢に対して責任を持つでしょうから、子供に愚痴を言ったり、ましてや「あなたのために離婚しないのよ」なんて恩着せがましく言ったりすることもないでしょう。自分で決めた道。誰のせいにもしない。と言えるはずですから。
しかし、自分がまだ、生活の安全・安心を得られない精神状態(主に親自身の生育環境に原因がある)である親の場合、
(=精神的に自立していない。経済的にも自立していない場合あり)
よくよく突き詰めて考えると、自分の中にまだ、離婚して一人でやっていくという選択肢がないことに気づくはずです。怖くて怖くて進めない、というか。
そういう状態であるにもかかわらず、責任を子供に転嫁して「子供のために離婚しない」と言ってしまうのは、これは間違いであると、私は思います。
つまり、「子供のために離婚しない」という言葉だけで、正しいか間違いかは言えないのです。
精神的に自立している人が言ったなら、正しい。
本当に「子供のため」であれば、正しい。
精神的に自立できていない人が言ったなら、間違い。
本当は自分が離婚できないのに、子供に責任転嫁しているのであれば、間違い。
ということになるのだと思います。
蛇足ながら、もう一言付け加えると、
精神的に自立する道を目指すと、(相手次第ではありますが)夫婦仲はよくなることが多いです。
つまり、本来、離婚するかしないかということは、心理学的に見れば、精神的自立に比べたら小さいことなのです。
女と男の心のヘルスのセラピーでは、離婚するかしないかで迷っている人に、離婚は一旦保留にしておいて、精神的自立を目指すことに全力を尽くすように指導します。
精神的に自立して、離婚できるようになったら、それはそれでOK。ハッピーエンド。
精神的に自立して、夫婦仲がよくなったら、それももちろんOK。ハッピーエンド。
という道を提案するわけです。
今日は少し複雑な話でしたが、
やはり物事は、本質を見据えることが大事です、というお話しでした。
初めまして
主人が不倫しております。10年以上と分かりました。
何度も割れて欲しいと言いっても別れたと嘘ばかり。
私が行きたいと言えばドライブ,日帰り旅行にも連れて行きました。が
それも腹がたちます。相手の女が憎いし忘れられない、
密会の二人のアパートが発覚したことて私のプライドがズタズタになり別居をもしでて
主人が出て行きました。毎月、生活費は振り込んで貰ってます。
半月になります。忘れる努力をしているが、とうしても女が憎い、忘れて主人とまた
暮らしたいが、無理かも、ダブル不倫なので女の家庭もめちゃくちゃにしたい。
この気持ちをどうすればいいのでしょうか。女は私と同い年です。主人は一体本気なのか?
気持ちが分かりません、体の関係はもう無いと思います出来ないから。
アドバイスお願いします。
ズミさん
コメントありがとうございます。
大変な状況で、混乱されているのだとは思いますが、あなたのコメントを見て、私はとても、残念な気持ちです。
このコラムの主旨が、全然伝わっていないと感じるからです。
子供のために離婚するか、しないかを考える時すら、自分が精神的に自立しているかどうか、それが大事だよ、というのがこのコラムの主旨です。
あなたのご主人さんは、ウソをついてまで相手の女性と会っているということを考えると、確かに精神的に未熟なところがある気がします。
しかし、あなたの文面を見ると、あなた自身も、精神的に自立する必要があります。正直、今のあなたには、そのご主人さんとの関係を修復するだけの精神的成熟度、精神的エネルギーはないと思います。
楽になりたいのであれば、私はむしろ別れを勧めます。
浮気問題で、恋愛セラピーを利用して相談して下さっている方に、私は常々申し上げているのですが、
「短期的に見れば、修復の方がイバラの道だよ。
『自分が楽になりたいから、主人の浮気をやめさせたい』というような、
自分都合の理由で取り組むなら、絶対続かないです。
でももし、たとえいっとき辛くても、この人との関係を絶対取り戻したい、
そういう想いがあるなら、奇跡も起きるかもしれないので、
それなら、修復方向で、私も喜んで協力します。」
ということなのです。
今のあなたには、そのご主人さんとの関係を修復するだけの精神的成熟度も、精神的エネルギーもないと思うんです。
この状態で、あれこれ努力してみようとすると、裏目に出やすいですし、本当の意味での解決もないでしょう。
まずは、ご主人さんに代わる、男女関係ではない、精神的支えを持つことが、第一段階の取り組みだと思います。
友達に助けを求めて下さい。必要なら、カウンセラーにも助けを求めて下さい。
親には…言いにくいことも多いし、余計な介入をしてくる親だと状況が余計こじれることもあるので、相談は慎重に。
自然、動物、芸術、神様。
何か、自分の支えになるものを見つけて下さい。
まず自分が落ち着くこと。
すべては、そこからです。
今は、ご主人さんには頼れません。
それだけは、受け入れて下さい。
辛口コメントでしたが、それだけ、厳しい状況です。
覚悟を決めて、前に進んでほしいと心から願っています。
がんばれ!
離婚・別居が子どもにああ得る影響、同居親が別居親への否定を子どもに刷り込む「片親疎外」について、日本は著しく知見が遅れています。「片親疎外」については学術的分類(シンドロームとするか精神疾患とするか)に争いはあるものの、問題の存在、その悪影響については諸外国において一致して認められるところであり、DSM基準に入れることも検討されています。一度こちらをお読みになってみては如何でしょうか?
「離婚毒」 リチャード・A・ウォーシャック著
リップ・ヴァン・ウインクルさん
コメントありがとうございます。
「片親疎外」ですか。なるほど納得です。
確かに、親権を持った親が、もう一方の親に会わせないなどの行動が、日本ではまかり通っていますね。
ただ、離婚せず夫婦げんかをずっと見せ続けるというのも、子供の心に毒を流し込む行為であることは間違いありません。
やはり、このコラムで
>子供は、離婚しても未だ「喧嘩の続き」をしているかのような親の影響を受け続ける。
と書いたように、離婚したかしないかではなく、
子供は、離婚せずケンカしている親を見ることで傷つく。
子供は、離婚したにもかかわらず、ケンカの続きをしている親を見ることで傷つく。
ということなのだな、という信念を深めました。
役立つ情報ありがとうございます。
素晴らしいコラムですね。
人間関係と向き合うための具体的判断の適否は、精神的自立が前提にあるか、という測定不能だが歴然とある当事者の人格の真実次第である。
男女関係において、それをここまで見事にわかりやすく伝えられているコラムを僕は見たことがありません。石田さんの洞察力と表現力には感動しました。
読ませていただけて感謝いたします。