フジテレビ とくダネ! から取材を受け、街コンについてコメントしました。
週刊ダイヤモンド 9/15号 特集「心理入門」にコメントが掲載されました。
2009年の雑誌・テレビ等取材実績はこちら。
2010年の雑誌・テレビ等取材実績はこちら。
雑誌や他のメディアの取材依頼には、積極的に応じております。
ご連絡はメールにてお願いいたします。
azma@556health.com
恋愛・結婚・働き方・生き方を潜在意識から改善する
フジテレビ とくダネ! から取材を受け、街コンについてコメントしました。
週刊ダイヤモンド 9/15号 特集「心理入門」にコメントが掲載されました。
2009年の雑誌・テレビ等取材実績はこちら。
2010年の雑誌・テレビ等取材実績はこちら。
雑誌や他のメディアの取材依頼には、積極的に応じております。
ご連絡はメールにてお願いいたします。
azma@556health.com
え〜。
この、カテゴリーの記事では、心理学と関係ない話もつぶやくことにしています。
今朝、産業が効率化すると、結局機械化・自動化で、人間の労働を減らす方向に進み、結果として、一応全体的には効率化はしますが、
高度化するオペレーションについていける人だけが職を得て、そうでない(しかも、それほど能力に大差があるわけでもない)人たちや、若い人などが職にあぶれる、ということが、避け難く進行していることについて、思いを巡らせていました。
結局、多少効率化したとしても、仕事がなくて、社会に対してなんらかの価値を生み出す活動をしていない人が増えて、あるいは、ワーキングプアみたいに、十分な報酬が得られない人が増えて、それを誰かの負担で(=税金で)再分配すると考えると、結局、人あまりの時代においては、産業の効率化は、社会を豊かにしないのではないか、なんて考えていました。
人を減らした企業は、実は社会に負担を強いています。
公害を出した企業にはペナルティーがありますが、リストラをした企業には、その社会的負担に対するペナルティーは、いまのところ、ありません。
失業が自殺の遠因になっていることは、統計的にも明らかになってきているにもかかわらず。
さらにいうと、たとえば世界の工場になっている中国で生産したものを日本に輸入するというビジネスは、世界全体でみれば、生産を効率化しているという面もありますが、日本国内のことだけ考えると、失業者や、ワーキングプアの増加につながっている、と言えるでしょう。
そういうわけで、短絡的な人は、関税をかけよう、なんて考えるわけですが、これもまた、国際的には摩擦の原因になるわけです。
そこで、やっぱり思うのは、いま、自分たちが払う税金が高くなるかどうかみたいな、目先の損得ではなくて、もう少し俯瞰して全体をみたら、
消費税のような間接税を高くして、その分、それを失業対策や就業のための教育などに使う方向にすればいいじゃないか、ということです。
これなら、海外で生産した製品にも、平等に課税出来ます。
日本国内の方が給与水準が高い、という点については補正しようがありませんが、給与水準が高いことで支払う所得税も高い、という点については、間接税中心にすることで、ある程度解消出来ます。
そう考えると、ヨーロッパの国々が、間接税が高いのも、なかなかしたたかに、外国製品にもうまいこと課税するという戦略なのかな、と思えてきます。
目先の損得ではなくて、よくよく考えて税の仕組みを作るべきだと、改めて思いました。
まあ、素人考えなので、あちこち抜けているところがあるかもしれませんがそこはご容赦。
先日、カンブリア宮殿を見ていて、
M&Aで、
後継者のいない中小企業、でも、従業員の生活があって会社をつぶせない、という状況の企業を、その事業がほしいと言ってくれる買収先とマッチングして救うというビジネスをしている会社の社長さんが出ていました。
その会社のビジネスの根幹は、膨大な、企業診断のスキルと、マッチングのためのネットワークで、それはこのコラムとは関係ない話なのですが、
その回の中で、印象に残ったことがあったので、書こうと思いました。
買収する側の企業が、その後買収された会社の人たちとどううまくやっていくのか、
そういう問いに対して、M&Aマッチング会社の社長さんはこういう話をされていました。
あと50万円出して下さい。
そのお金で、(買収される側の)社長さんの、新しい机と椅子を買って下さい。
そして、会長として、これからも指導をお願いします、という形で席を作って下さい。
そういう話をされていました。
相手の尊厳を大切にする、という話でした。
そうすると、取引先の人たちが訪問してきて、
「あれ、買収されたはずなのに、こんな立派な席があるんですか?」
となる。
すると、(元)社長は、訪問してきた人たちに、
「新しい社長は、人情の分かるやつで、こうして席を用意してくれた。
新社長に協力しないやつは、ただじゃおかないぞ。」
というぐらい言うようになる。
そうすると、元々その社長についてきた人たちが、すんなりと新社長についていくようになる。
という話。
やはり、第三者の存在があったり、パブリックな側面がある場合は、
気持ちを持つ、というだけでなくて、
【その気持ちを、はっきり分かる形で示す】
ということが大事なこともある、と思いました。
心理学をやっていると、内面が大事、という話に偏りがちになりますが、
それをきちんと、形で示すことも大事だなぁ、と改めて思いました。
最近、このサイトのコラムに寄せられるコメントを読んでいて、頻繁に感じることがあります。
それは、「あなたの今の心の体力では、その問題は解決できないよ」ということです。
アドバイスも効果ありません。
彼を操作しようとしても徒労に終わります。
平気なふりをしても、表情やおどおどした態度で結局伝わっています。
ある意味とても厳しい意見だと思いますが、
今現在の、心の体力がないときに、何か秘策がないかと探し求めても、
それを実践するだけの体力がないわけですから、解決しないのです。
たとえば、夫に浮気されたが、責めたい気持ちと、別れることへの怖さで身動きが取れない。
たとえば、暴力的な男性との関係で悩んでいるが、別れるのが怖いので、強い態度に出られない。
こういう場合、短期的には、心理学的に解決することは不可能です。
心理学を何か魔法だと思っている人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。
もう一度、はっきり書いておきますが、上のように、自分自身が怖くて身動きが取れないという状態にある場合、相手に変化してもらうこともできないですし、自分自身が冷静に、あとから考えて後悔しないような決断を下すことすら、状態によっては困難です。
どんなに優れたアドバイスも、実践するだけの心の体力がないのなら、活かせません。
自分自身が、不安に対応できる心の強さ、心の基礎体力をしっかりつけて、
目の前の出来事に、堂々と対応できるようになる。
それがまず、必要なことなのです。
そのような、心のトレーニング、心の基礎体力づくり、心の成長、のためになら、心理学はとても有効で、効果的な解決策を提供してくれます。
でもそれは、場合によっては年単位の時間をかけて、取り組むものなのです。
私は、短期的に解決したい場合は、
法的解決で、感情面はとりあえず置き去りにして、
ズバッとお裁きをしてもらう、
ということの方がいいと考えています。
そうやって別れてしまったら、もちろんとても辛い時間を過ごすことになると思いますが、そこから、ようやく、心理学の出番じゃないかと思います。
辛さを癒して、そして、そこで終わりにせず、心の基礎体力をしっかりつける取り組みまでする。
そうやって、再発防止にこそ、心理学を活かす。
そのような道が、心理学や心理セラピーが一番その効果を発揮できる形だと信じています。
原発事故以降、脱原発運動が目立つようになっています。
私はこれまで、結局エネルギー源の確保は重要なので、脱原発だけ騒いでもだめだろう、と考えてきましたし、代替案としての自然エネルギーも、よく実態を知らない人が幻想を持っているだけで、結局フタを開けてみたら自然エネルギーの不安定さと価格の高さに憤慨するという結論になるんじゃないかと思ってきました。
まあ、現実を見ていない人が、代案なきぶち壊しをしているだけなんじゃないかと思って、そういう主張とは距離を取ってきました。
しかし、最近ちょっと考え方が変わりつつあります。
原発を停止して、一番痛いのは、おそらくは製造業など、大量の電力が必須な産業だと思われます。
高度成長期に若者だった人たちは、製造業の中核に入り込むことができて、給料も住宅も得て、年金生活に入ることができましたが、いまの若者にはそのチャンスは非常に少ないです。
製造業自体が現在の雇用を守ることすら苦しくて、若者を積極的に採用できないからです。
すると、世代間格差ができます。
さらに、年金など、福祉に関する負担の世代間格差は非常に大きく、既に年金生活に入った人と、いまの20代などでは負担額がひとりあたり一億円ぐらい違うという試算もあるようです。
生まれた年が違うだけでここまでの不公平というのは、これはもう、正義に反しています。
ところで、原発を止めたら、電気は一応足りるでしょうが、きっと電気の安定供給に課題や懸念が生じて、産油国や天然ガス産出国に足下を見られて、高い燃料を買わされることになるでしょう。いまでもちょっと高いですが。
それに加えて、自然エネルギーが普及するほど、電気代は高くなります。
電力会社の原価で、火力や原子力が8?12円/KWHなのに対して、自然エネルギーは買い取りの原価で40円を超えているものもあります。ふつう、野菜だったら4倍高ければ買わないですが、電気は法律で買わなければいけないことになってしまいましたし、これを電気を使う人みんなで負担する法律になりました。
こうなっていくと、製造業はますます海外に出て行ったりして、日本の雇用を守れなくなっていくと思うんですね。
で、ここからが本論ですが。
むしろ、そういう状況を加速してみたら?
というハナシ。
どうせ、製造業が栄えたって、若い人に対しての恩恵は大してないわけだから、
思い切って、代案なきぶち壊しをしてみたらどうか、というわけです。
ちょっと、革命思想っぽいですが。
でも、この機に乗じて、やってみるのも悪くないんじゃないか。
最近そう感じています。
そうやって、いま企業の中にいる人も、本当に困ったと感じてきたら、
何か動かそうという気になるでしょう。
ま、世代間格差というのは、いま、そのぐらい深刻になってきている、という問題意識を日記記事にしてみました。
「浮気はなぜいけないのか」にて、長いこと議論を続けて参りましたが、
私の中で、結論が出ましたので、このコラムでは、それを発表したいと思います。
結論をひと言で言うと、それは、
「愛に反するから」
です。
まずここでの「愛」について、厳密に定義しておきます。
愛とは、依存心ではありません。
相手が必要で、相手がいないと安心できない。相手に依存している。
これは、依存心です。一般には、愛(好き・愛してる)、と言われることもありますが、この記事ではこれは「依存心」と表現し、上に書いた「愛に反する」の「愛」とは明確に区別しておきます。
では、愛とは何か、ですが、
スコット・ペックさんの「愛と心理療法」にある 愛の目的が、分かりやすいのですが、
「愛とは、自分や相手の精神的成長のために、自分を伸ばす意志」であると。
この考えの前提には、人は、精神的成長を続けていく存在である、という考えがあると思います。
それがなぜ正しいのか、なのですが、それは、人は命を受け継ぎ、文化を受け継ぎ、感情を受け継いで、自らの個体は死んで消えていく存在だから、だと私は考えています。
人は、生まれたときは、とにかく自分の存在承認を、他者からたくさん受け取ることが必要です。
「ここに居ていいんだよ」という承認をたくさんもらうことで、自分で自分を認められるようになります。つまり、小さい子供にとって、存在承認は、成長のための、心の必須栄養素なのです。
今度は、社会や、文化によっては大自然の中で生きていける力を身につけるために、能力を認められる(ほめられる)ことを求めるようになります。こうして、他人の役に立てる自分を作っていくわけです。ほめられること、能力を認められることもまた、成長のための、心の必須栄養素だと言えます。
人は、共感力も育てていきます。これは、家族や社会の中で他人とうまくやっていくためには必須の能力です。これも、他人から共感されることで育っていきます。
そうやって、自分の幸せ・喜びだけでなく、他人の幸せ・喜びについても考えることができる。
この状態こそ、他人を「愛する」ことが十分にできる状態です。生まれてきた子供に承認を与えられるようになっていて、命を受け継いでいくことが、うまくできる状態です。
それがさらに広がって、カップル、家族、交友関係や仕事関係、地域社会、母国、そして世界、へと共感する対象が広がっていく人もいます。
これがなぜ必要なのかというと、私はこう考えています。
人にとって、自分が関心を向けている対象が消えてしまうのは、とてもつらく受け入れがたいことです。
一方で、人は必ず、個体の死を迎えます。
したがって、必然的に、このような結論になります。
人が、自分の幸せ、自分の喜びにだけ関心を向けて生き続けるなら、
死を迎える瞬間は、全てを失うような、耐え難いものになるだろう。
一方で、
人が、自分の命(子孫)、文化(子供や後輩など)、感情(関わった全ての人)を受け継いでいく人に関心を向けるとき、
死を迎える瞬間は、自分の個体という、ひとつの命は消えるけれど、
関心を向けている多くのものは続いていて、全てがなくなるわけではないと悟っているはず。
身近な話をすれば、おばあちゃん、おじいちゃんはよく、子供や孫の心配をしますよね。それは必然なのだと思います。
つまり、人はこのようにして、
自分が承認してもらえるかどうか、という動機に基づいて生きる存在から、
成長して、
自分の命や文化や感情を受け継いでいく人たちの幸せを願う動機に基づいて生きる存在へと、
変化していく、精神的成長を果たすものであると、考えています。
だから、人にとって、成長は、必須であると。
そして、その成長のための意志である「愛」は、極めて本質的なものである、と。
・・・と、ここまで「愛」という話について書いてきました。
では、ここから、どうして浮気が愛に反するのか、その話を書いていきたいと思います。
まず、浮気の定義ですが、私は簡単に、パートナーが浮気だと感じたら、浮気である、という基準で考えればよいと考えています。
つまり、ちょっと極端な例を挙げますが、とても自分に自信がない妻がいたとして、その夫が(多くの人の目から見たら)何でもないメールを別の女性とやりとりしていたとして、でも妻はそれが耐え難かった。そして「精神的浮気よ! 携帯から女性のアドレスを全部削除して!」と。
一般的な基準で考えると明らかに干渉しすぎですし、束縛行為ですが、
これさえも、ここでは浮気に入れて考えて良いと思っています。
つまり、この場合、夫は、愛の道に反してしまったと言えるわけです。
なぜそう言えるか。
それは、愛とは、自分や相手の精神的成長のために、自分を伸ばす意志である、という定義に照らして考えると、分かります。
この夫にとって、妻の精神的成長のために、何か行動するとしたら、何をしたらよいのでしょうか。
この妻はきっと、承認不足(愛情不足・ストローク飢餓)なのです。
きっと、幼少期からの承認が足りないのでしょう。
それを、夫に依存している状態です。(無論よい状態ではないです)
しかし、そうであれば、愛の道とは、妻に承認をあげることです。
精神的成長につながる働きかけ、関わりをしてあげることが、愛です。
妻に対して、君が大切だ、かけがえのない存在だということを、伝え続ける。
どうしても他の女性とメールをする必要があるなら、君に対する否定ではない、どうしても必要なことがあるからメールするのだ、とちゃんと伝えて安心を与える。
それが、妻に承認をあげるということです。
それをせずに、自分の行動は正しいと主張するばかりでは、愛に反するわけです。
但し、ここできっと疑問が湧くはずです。
では、この夫は、この妻と結婚している限り、女性とのメールは全部事前に妻に許可を取らなければ出せないのか?
そもそもそれはほぼ過干渉、束縛行為であって、その原因は妻自身のメンタルにあるのに、夫がずっと妻の言いなりになることは、単なる「事なかれ主義」であって、問題の根本解決にならないのではないか?
そもそも、そうやって、甘やかしたら、それこそ、妻は成長しないのではないか?
これらの疑問は、もっともだと思います。
しかし、承認不足を持っている人が、成長するためには、承認が必要なのです。
人間にとって、子供時代からの、承認された経験の蓄積は、精神面の必須栄養素みたいなものです。絶対に必要なものです。
栄養失調でふらふらの人に、気合いが足りない!甘えてる!しっかり立て!と言うことが無意味であるように、心の栄養失調になっている人に、甘えるな!自立しろ!と言うこともまた、無意味なのです。
この妻には、心の栄養が必要です。それは、他者からの承認です。
人は、十分に依存して、他者からの承認をたっぷりもらってこそ、自立(≒自分で自分を認める力がつくこと)できるし、共感やお世話や教育など他人を承認する関わりもできるようになるのです。
始めはまず、他者からの承認を受け取ることが、大事なのです。
但し、ひとつ落とし穴があります。
それは、
「夫が妻を承認すること」と、
「妻がその承認を受け取ること」は、
イコールではないということです。
この妻が、結婚するまでずっと承認不足が解消しなかった理由として、おそらくは、本人の中に自己否定や人間不信(他者否定)に根ざした、心のブロックがあるのだと思います。
妻が自ら、夫の承認を、感謝して、心に深く受け取ろうという努力をしない限り、
どんなに夫が愛の道を貫いても、妻の心の深いところには何も届かないということなのです。
つまりここで言えることは、妻もまた、夫の承認を受け取って、自分の心の深いところにある承認貯金の残高を増やし(自分の自信のなさを解決し)、成長するべきであって、
妻がそれをしないならば、妻もまた愛の道に反しているということなのです。
浮気が起きる、典型的な男女関係というのは、
一方が依存的で、どこか承認不足を持っていて、それをパートナーに依存しています。
上の妻のケースもそうです。
依存が続くと、パートナーは疲れてきます。何となく、自分らしく居られない、息苦しさを感じてきます。
それは当然です。依存というのは、相手に対する「過度の期待」であり、相手が自分の望むとおりに行動してくれなきゃイヤだ、という精神状態のことだからです。無意識に、パートナー(上のケースでは夫)は行動を制約されるわけです。
すると、逃げたくなります。そして、浮気が起きるわけです。
では、こういう力学があることを前提に、
上記の夫は、どう行動すれば、愛の道に沿っていると言えるのでしょうか。
それはやはり、上に書いたような、
妻に対して、君が大切だ、かけがえのない存在だということを、伝え続ける。
どうしても他の女性とメールをする必要があるなら、君に対する否定ではない、どうしても必要なことがあるからメールするのだ、とちゃんと伝えて安心を与える。
という、承認を与える行動も取るけれど、同時に、
ちゃんと、しっかり僕の愛(心)を受け取って、子供時代からの課題をちゃんと解決してほしい。
ということを「要求する」ことです。
妻が成長するように、苦言もいう、ということです。
ここで、苦言とは、自分がイヤな思いをしたからその不満を言うことではありません。それは「苦情」と言って、私は区別しています。苦情ももちろん大事なのですが、承認不足の人は苦情を受け止めて、愛を返すだけの余力がありませんので、この妻には効果がありません。
まるで、母親のような包む愛と、父親のような導く愛の両方を発揮しなさい、
という話に聞こえると思いますが、
そういう意図で書いています。
このカップル、私が作った架空の話ですが、実在したらたぶん、別れると思うんですね。
でも、そうだとしても、一緒にいる間は、愛の道を貫く。
最後、やっぱり最後まで愛を注ぎ続けられなかった、ごめんね。という別れの瞬間があるとしても、その日が来るまでは、相手の精神的成長のために自分を伸ばす意志を持ち続ける。
これこそが、愛の道だと思います。
そして、いよいよ結論ですが、
そのような意味で、
浮気が起きる典型的なケースでは、
浮気される側に承認不足があって、依存的であって、そこから逃げるように浮気してしまうと言う構図があるわけですが、
まさに、パートナーの精神的成長のために自分を伸ばす意志を、放棄していると言えます。
スコット・ペックの定義する「愛」に照らして考えると、
愛に反する行為、です。
私は、このような視点で、
浮気は、愛に反する行為だから、いけないことである、
と結論づけました。
※なお、「浮気はなぜいけないのか」の議論はこれにて一旦終結させようと考えています。コメントはオープンにしておきますので、ご意見を書いて下さるのは歓迎しますが、今後簡単なお礼のレスぐらいは書くかもしれませんが、積極的に議論の内容に踏み込んだコメントはしませんので、ご了承下さい。
婚外恋愛の場合。結婚していて、別のパートナーと交際したり、あるいは、既婚者と交際してしまったり、そういう相談を受けたときに、「ようやく、自分らしい道に踏み出しましたね、おめでとう!」なんて言えないはず。そのあたりについて、どう考えたらよいのか。そして、婚外恋愛にはまり込んでしまった場合、どうやって心理面の解決を図ったらよいのか。そのあたりについて、熱く語りました。
珠帆印ねとらじ 「婚外恋愛」特集にあづまが出演しました。
本来、「自分らしくいることが大事」という方向で話を聴いたり、ときにはアドバイスをしたりするのが、セラピストの本分のはず。
社会的な押さえつけから自由になることも、とても大事な一歩のはず。
でも、婚外恋愛の場合。
結婚していて、別のパートナーと交際したり、
あるいは、既婚者と交際してしまったり、
そういう相談を受けたときに、
「ようやく、自分らしい道に踏み出しましたね、おめでとう!」なんて言えないはず。
そのあたりについて、どう考えたらよいのか。
そして、婚外恋愛にはまり込んでしまった場合、どうやって心理面の解決を図ったらよいのか。
そのあたりについて、熱く語りました。
個人的には、今回のねとらじは、珠帆美汐さんの聴く姿勢や、このテーマに関しての理解力が非常に高く、語っていくうちにどんどん議論が深まっていった、名作だと思っています。
ぜひぜひ、聴いてみてほしいと思います。
PCで普通に聴きたい方は、こちらの珠帆印ねとらじ過去ログのページから。
iPhoneからPodcastで聴きたいという方は、動画で聴き方を解説しましたので、こちらのページから。
ぜひぜひ、聴いてみてくださいませ。
あづまです。
先日、7/18に珠帆印ねとらじに出演して、
「婚外恋愛」について語りました。
単に「良い悪い」の話にはせず、人間が何を求めて生きていて、どんな状態の時に婚外恋愛になるのか、そして抜け出したいのに抜け出せない場合の解決方法は、など、深い話を語りました。
それで、実は過去ログを聴くのは、Podcastが一番便利なのですが、ちょっとクセがあって慣れるまでは分かりにくいので、動画でダウンロードから聴くところまでを解説しました。
【iPhone上からダウンロードする方法】
下記のリンクをiPhoneからタップしても同様のことができます(iPhoneのiTunesアプリが起動します)。「珠帆印」をかな漢字変換して検索するのが面倒だという方向け。
http://itunes.apple.com/jp/podcast/2012-7-18fang-song-fen-zhu/id445340891?i=118268563&mt=2
以前、5/23に語った「過去も他人も変えられる」の回はこちら。
http://itunes.apple.com/jp/podcast/2012-5-23fang-song-fen-zhu/id445340891?i=117808951&mt=2
【PCのiTunesからPodcastをダウンロードし、iPodと同期する方法】
iPodを使われている方で、iPodのメモリー容量には余裕があるという方、あるいはiPhoneをiPodとしても使われていて、iTunesの音楽を全部同期しているという方は、次のようにしてダウンロードしても、聴くことができます。
PCのiTunesで、iTunes Store→Podcastと開き、右上の検索窓から「珠帆印」と検索。
珠帆印ねとらじのPodcastのページに入り、該当する回をダウンロード(今回は7/18分)
検索する代わりに、こちらのリンクをPCのブラウザからクリックしても大丈夫です。
http://itunes.apple.com/jp/podcast/2012-7-18fang-song-fen-zhu/id445340891?i=118268563&mt=2
以前、5/23に語った「過去も他人も変えられる」の回はこちら。
http://itunes.apple.com/jp/podcast/2012-5-23fang-song-fen-zhu/id445340891?i=117808951&mt=2
ここで注意点があります。始めて使っている方は、iPodなどのデバイスを接続した状態で、「デバイス」下のあなたのデバイス(たとえばiPod)を選択します。そして、画面上部の「Podcast」をクリック(Podcastという言葉がそこら中にあってまぎらわしいので、かならずこの手順で!)
そして、開いた画面上で、?ポッドキャストを同期、にチェックを入れます。これを入れておかないと、PCのiTunes上でしか聴けません。チェックすると、iPodに入れて持ち歩けます。
(上の動画のようにiPhoneやiPod touch上から直接ダウンロードした場合は、今の話は関係ありません)
婚外恋愛に限らず、人間心理と心の成長について、深く語りましたので、
ぜひぜひ、聴いてくださいませ。
iPhoneなどの、ポッドキャストが、便利でオススメです。
先日、読売新聞に、医療情報部の加納昭彦氏の記名記事で、男女産み分けに関して「倫理置き去り」とする記事が掲載されていました。あまりに残念な記事なので、ここに今の考えを書いておきます。
私は、読売新聞を愛読しているんですが(というほどでもないですが)、まあ、よく読んでいるコーナーが人生案内と将棋の欄だけだというのは、いいのか悪いのか、という話なんですが。
その記事の中には、タイで90組の日本人夫婦が男女産み分けを実施していたことが分かった、女児を望む親が多い(男女産み分けの9割ほど)、という話と、そうやって男女産み分けをするのは「親のエゴ」であるので、それは認められない、という話が書いてありました。
一見まともな意見に見えますが、これはひどい話だと思いました。よく全国紙で書けたものだと思いました。10年後にご本人がこの記事を読み返したら、恥ずかしくて破りたくなるんじゃないかと思うんですが…
明らかにひどい意見なら、だれでも心の中でツッコミを入れられますが、一見まともに見えるひどい意見というのは、一番厄介ですね。だまされちゃう人もいるでしょう。
私の論点はこうです。
親のエゴで、女児を望んだら、何がいけないのでしょうか。
親のエゴという言葉で、この記者が何を表現したかったのか、そこまで深く書いてなかったので、詳細は不明ですが、まあおそらく、一般的な文脈として受け取るなら、親が自分の希望だけで、社会的な意義などを考慮せず、男の子がほしい、女の子がほしい、と言うのはけしからん、とまあ、その程度の意味だと思われます。
でも、それなら、
子供を作るか、作らないか。
これだって、親のエゴ(自分の感情が中心の決定)ではないのでしょうか。
そもそも、子供を産むか生まないかという話は、親の自由意思(これって要するに親のエゴってことでしょう?)に任されていて、男女産み分けになったときだけ、親のエゴだからけしからん、て論点は、はっきり言って、筋が通ってないです。
カトリックの国のように、そもそも、避妊も積極的なもの(コンドームとか)は倫理に反する、セックスをしたら自然に子供が授かる、そういう形が倫理的であり道徳的である、という話が始めにあって、
子供を持つか持たないか、ということすら、自分で決めちゃったら、親のエゴだ。
同様に、男女産み分けも、親のエゴだ、という話なら、筋は通っています。
(ちょっと堅苦しい考え方だとは思いますが、まあ、筋は一応、通っています)
しかし、日本では、避妊も(中絶さえも)自由意思で行われていますし、コンドームを使おうなんて話は、むしろプラスのこととして報道もされています(病気を防ぐという文脈で語られることの方がおそらく多いですが)。
その一方で、男女産み分けだけ、親のエゴだというのは、まったく筋が通っていないでしょう。
それとも、人たるもの、義務感から子供を産め、とでも言うのでしょうか、この記者は。
第一、
男の子でも女の子でもほしい
ー女の子(男の子)ならほしい
ー男の子でも女の子でもほしくない、
は、一連の考えのはずです。両端は倫理的にOKで、中間はNGというのは、明らかに自己矛盾です。
それで、私の、男女産み分けに関する考え方ですが、
この少子化のご時世、女児だったらほしい、という、条件付きではあるけれど、子供をほしいし育てる気もあるという親は貴重な存在ですから、むしろ公認したらいいと思っています。
もちろん、倫理的に、微妙な問題をはらんでいるという点について、異論はありません。
そこは、大いに議論したらよいと思いますが、その場合でも私の立場は、推奨せよ、です。
その一番の根拠なんですが、これは、あまり倫理的とは言えない根拠ではありますが…
少子化の解消に少しでも役立つから、です。
社会のルールというのは、必ずしも倫理的かどうか、道徳的かどうかだけで決まるわけではないですよね。
たとえば、女性が家のことをやり、子供の教育や親の介護なども担うべきだ。
これも、今となっては、そろそろ捨てた方がいい考え方になってはいますが、日本はそういう考えでやってきました。そして、そのために、専業主婦であるサラリーマンの妻は年金を自分でかけなくても掛けたことにしてくれるという制度があったりして、バランスを取ったわけです。
最近のテーマで言えば、太陽光発電を1KW時あたり40円で買い取るなんて、著しく経済合理性に反しているので、結果的に公平性にも反しているし、すでに太陽光発電利権を手にして、エコ目的じゃなくて儲け目的で、一山当ててやろう、なんて輩も出てきています。それでも、国として、そういう問題にうまく対処しつつ、一部は黙認しつつ、自然エネルギー推奨という大義のために、軸足をそちらに移して頑張っている、ということですよね。
ここでは、年金制度の是非や、自然エネルギーの買い取り制度の是非を議論するつもりはありませんが、若干公平性やバランスを欠くルールであっても、社会にとって必要と判断すれば、それを採用する。それは、どんな社会でも行っていることです。
そうやって考えた場合、
多少の倫理的問題があったとしても、今の日本では、
男女産み分けであっても、子供をほしいと言ってくれる親はありがたい!!!
そういう方向に軸足を移すべきではないかと、思うわけです。
そもそも、産むか産まないかの時点で、親のエゴが認められているこの日本で、新技術にだけ罪をなすりつけるのは公平ではないと思います。
まあそんなわけで。
男女産み分け、いいじゃないの。
夫の浮気が発覚。あるいは、彼氏の浮気が発覚。
色々状況が分かってくると、
「彼女とは本気じゃないから」
「でも今は別れられない」
「仕事のストレスから、浮気に走ってしまった」
などなど、彼のあっさ???い言い訳が出てきて、それにもさらに腹が立つ、という状況があったりします。
友達に相談すると、「そんな彼、もう別れちゃいなよ!」というアドバイスがほとんど。
でも、つきあってきて、彼のそんな面を理解してあげられなかった自分にも後悔と悔しさがあり、自分が十分できなかったことも、彼の浮気を誘発した原因なのかな、なんて考えてしまって、別れにも踏み切れない…
ネットで色々調べていると、共依存だと書いてある。
・・・そうなのかもしれない。
なんて考えて悩んでしまうパターンって、実は良くあるんですが、
このメカニズムが、かなり明快に分かり、
かつ、悩みが軽くなることが分かったので、
今日はそれを解説したいと思います。
まず、この図を見てください、
人間のパーソナリティーを分類すると、おそらく、4つに分けてみるというのが、分かりやすいのではないかと思います。脳内ホルモンでもドーパミン、テストステロン、セロトニン、エストロゲン、それぞれが優位なタイプが存在する、とされていますし、
神田昌典さんの起業の話でも4種類のプレーヤー(起業家・管理者・実務家・まとめ役)が会社を動かしていると考えると説明がつく、とされていますし、さらに、タロットに4種類のスート(棒・剣・コイン・カップ)があるのも、ちょうど4種類の人格を表していることで、さらに、交流分析でもCP、NP、FC、ACのどれが優位なタイプなのかでその人の正確が特徴付けられます(Aの高い低いで、良い面が出たり悪い面が出たりはありますが)。
それぞれ別のところで発展してきたパーソナリティーの分類法だと思われますが、少しずつ違いはあるものの、実は非常に共通点がありまして、人間の本質をうまく表しているのではないか、とあづまは現在考えています。
これらの先人たちの分析を踏まえ、
「冒険者(FC・ドーパミン)」
「管理者(CP・テストステロン)」
「実務家(AC・セロトニン)」
「お母さん(NP・エストロゲン)」
という四つのパーソナリティーに分けて考えてみることにします。
実は、交際1?2年ぐらいまでの間に浮気する人は、おそらくパーソナリティーで言うと冒険者。退屈は嫌いで、新しいこと、楽しいこと、刺激が好き。
そこに、幼少期のスキンシップ不足などの「過去の承認不足」の要因が加わると、浮気をしやすいメンタリティーが完成します(もちろん、気づいて努力すれば修正できるのですが、大抵修正にチャレンジしない人が多いようです)。
ところで、冒険者タイプの男性は、図では管理者タイプと対極に位置しています。管理者タイプは自己を深く見つめ、自分の行動が道徳的か、正義と公正さがあるか、美学があるか、というようなことを深く考え、自分を律して生きようとするタイプです。
で、冒険者タイプはそこが基本的に欠けているわけ。
そして、幼少期の承認不足を持っている冒険者タイプの男性は、大抵、その頃の愛情をとりもどしたいと願い、お母さんタイプの女性と交際しようと試みます。
(つまり、この記事を読まれているあなたは、お母さんタイプである可能性が高い、という話なのですが)
お母さんタイプの人は、生きとし生けるものに対する深い愛情を持っています。人を生まれや容姿はもちろんのこと、能力で差別することすら、ためらいを感じる。全ての人には、かけがえのない価値があると信じたい、という理想主義的な面を持っています。そして、内面と内面が触れあえるような、深いつながりを求めます。ソウルメイトを求めると言ってもいい。
幼少期に傷のある冒険者タイプの人は、比較的交際の初期に、幼少期の寂しかった思い出などを「事実として」語ることが多いので、ここでお母さんタイプの人が「ああ、この人は心を開いてくれている」と勘違いしてしまうんですね。
実のところ、冒険者タイプの人は、相手と深く分かり合いたいとは感じていません。わりと外面的・表面的なものの考え方をします。そこは、お母さんタイプの人とは根本的に違っているのです。
そして、冒険者タイプの人が、自分を律して生きるという管理者タイプの要素、CPの高い行動パターンを本当に放棄して、浮気に走ってしまうと、何が起こるか。
パートナーが、本人が降りた役割を、背負わされてしまいます。
ここ、大事なところです。
冒険者タイプの彼が、自分を律して、自分の行動に美学があるというこだわりを放棄して、簡単に安直な浮気に走ってしまえば、パートナーの女性が、彼本人が放棄した役割を、担わなければならなくなるのです。
つまり、彼自身がやらなくなった、自分を律する係を、彼女が担わされるわけです。
しかも、自分で自分を律するのと違い、携帯チェックをしたり、彼の行動を監視したりして、外側から圧力をかける形になりますから、お互いに非常に嫌な気分を味わいます。
もちろん、女性の側は、この時点で、彼の仕掛けてきたある種の心理ゲームに巻き込まれていることに気づき、何らかの打開策を考える、という冷静な方向に進む必要があるのですが、でも、彼の浮気がなぜ苦しいのか、という根本的な部分を考える時、
彼が、自分が背負うべき責任である、
「自分を律して生きる」という要素を、
自ら放棄して、それを、彼女が背負わなければならなくなった、
という要因が、一番深く関わっている、ということを前提として押さえておく必要があります。
だから、冒険者タイプの彼が、得意の表面的・外面的な話で、「もうその女性とは別れたよ。これで解決だろ?」と言ったとしても、深いつながりを求め、相手の動機などの内面を重視する、お母さんタイプの女性は、「それでは解決になってない!」と、思うわけです。
この構図が、なぜよくないかと言えば、
人は、自分の責任をきちんと背負って生きるべきで、
自分の責任を他人に背負わせてしまうと、その荷物はより重くなってしまうんですね。
たとえネガティブな部分であっても、自分で背負うからこそ、解決もできるし、背負いきれるわけです。他人の人生の責任は、そもそも肩代わりしてあげることはできないのですから。
友達は、客観的な立場からのアドバイスですし、ひょっとすると、実務家的なパーソナリティーが強かったり、管理者的なパーソナリティーが強かったりして、「その関係、ムリじゃん?」「もうその彼、バッサリ切っちゃいなよ!」って普通に考えられるのではないでしょうか。
でも、人と人との深いつながりを大切にする、お母さんタイプのあなたは、その優しさゆえに、なかなか、冷酷にバッサリ切ることができない。
一緒にいれば、自分がかなり苦手な、管理者の役割を(しかも彼が自分で背負うべき部分を)担わされる心理的圧力がある。
別れようとすれば、生きとし生けるものを大切に考え、人と人との深いつながりを大切にする、自分の本質の部分が、痛む。
こんな風に、悩んでしまうのではないですか?
まずは、自分の優しさを、十二分に認めてあげてください。
その優しさは、彼がちゃんと心を開いて受け取ってくれたかどうかは分かりませんが(そこは彼の課題ですし)、彼の癒しに十分役立つものだったはずです。受け取らなかったとしたらそれは彼の責任。
あなたは、十分やりました。
まずそう思うこと、自分の良さを十二分に認めることが、その先に進むための第一歩です。
そしてやはり、彼が放棄した、自分を律して生きるという生き方を、彼に求めていく必要があります。よい求め方を解説すると本一冊分ぐらいになってしまうので、ここでは割愛しますが、まずは、自分の「彼の主張はおかしい」と感じる感覚を大事にしてください。
その感覚は、100%正しいのです。
その上で、今後どうするかを考えて見てください。
・・・なかなか、ひとりでは決断できない場合は、相談してくださいね。
その方が近道のことは多いですから。