現在の社会では、自分の行動に責任を持つのは当然と考えられています…いまからする話は、そのような、現在の社会の原則を逸脱しています。すなわち、今後の成熟した社会を目指すには、自分の意識的な行動だけでなくて、自分の無意識にも責任を持つということが大事になる、という話をします…無意識の働きで大事なのは、感情と信念です。自分が気づかずに持っている信念に責任を持つこと。自分の感情に責任を持つこと。
現在の社会では、自分の行動に責任を持つのは当然と考えられています。
たとえば、何らかの犯罪を犯したら、その責任を刑罰という形で取るわけです。
あるいは、他人に損害を与える行動をしたら、賠償をする必要があります。
しかし、どんなに残虐な犯罪を「想像」したとしても、それを実行に移さなければ、罪に問われることはありません。つまり今の社会においては、基本は、行動に責任を持つことであって、頭の中で何をしていても、責任を問われない、ということなのです。
いまからする話は、そのような、現在の社会の原則を逸脱しています。
すなわち、今後の成熟した社会を目指すには、自分の意識的な行動だけでなくて、自分の無意識にも責任を持つということが大事になる、という話をします。
無意識に責任を持つ/持たない、とはどういうことか、少し例を挙げて説明していきます。
無意識の働きで大事なのは、感情と信念です。
自分が気づかずに持っている信念に責任を持つこと。
自分の感情に責任を持つこと。
そう、言い換えても、大体いいと思います。
自分の「信念」に責任を持つ、ということ。
さて、まず、夫婦の問題を、女性の側から眺めてみます。
夫との間に些細な口論があったときに、夫が急に妻との距離を取ったという一件があったとします。
妻は、自分が相手との距離を取るときは、相手を無視して苦しめてやりたいときなので、夫が自分に対して、無視をすることで私を苦しめようとしている、と解釈しました。
自分の信念体系にしたがって、夫の行動を解釈し、そして、被害を受けたと感じたわけです。
今度は同じ問題を、夫の側から眺めてみます。
実は、夫は、妻と向き合うのが気が重いので、なんとなく避けていた(罪悪感から距離を取りたくなった)だけであって、攻撃したいという気持ちはありませんでした。
そして、夫の方も、自分の中に、問題が起きてヒートアップしそうになったら距離を取って冷却すればいい、という自分の信念体系があり、【当然】(by夫の信念による)の行動を取ったわけです。
夫は自分の行動が間違っているとは考えていないでしょう。確かに、明らかな犯罪行為などはしていません。自分の信念に従って行動しているし、正しい行動なのだから、何の問題があるのだ、と考えているかもしれません。
しかし、結果的に、妻の気持ちを傷つけていますし、その信念そのものが、効果的に働いていないわけです。
こうした「信念」の多くは、子供時代に親や周りの大人から刷り込まれるものなので、まるで、天から降ってきたルールのように感じているものです。そのルールを持っているのは自分であるにもかかわらず、親など、誰か別の人の責任のように感じているものなのです。
この一件で言えば、妻の側は、自分が勝手に、自分の持っている信念に沿って、「無視された、攻撃された」と解釈したにもかかわらず、自分のものの見方、解釈の仕方には責任を持たず、被害者意識になっているわけです。
もし自分の信念に十分責任を持っていたとするなら、この妻は、夫が自分と距離を取った理由について、短絡的に「無視された。攻撃された」などと解釈することはなく、「その考え方は、自分の偏ったものの見方によるものではないか?」と一旦客観的になれます。
夫の側も、距離を取って何が悪い?一旦離れてお互い頭を冷やすのが当たり前ではないか? という自分の信念に何の疑問も持たないことが、妻の気持ちを傷つけているという真実に気づく必要があります。
もし自分の信念に十分責任を持っていたとするなら、この夫は、距離を取って冷却するという自分の行動パターンを、いつも自動的に実行してしまうのではなく、「確かに自分は、距離を取るという行動を自動的に取りがちだが、今回はそれでいいのだろうか?」と考えられるわけです。
その結果、自分と違う感じ方、考え方の相手には、接し方も変える必要があると気づくことができます。
自分の感情に責任を持つ、ということ。
次に、自分の感情に責任を持つ、という話をします。
感情に責任を持つことで、まず大事なのは、たとえ相手の行動で湧き上がってきた感情であっても、その感情は自分のものである、という点です。
相手の暴言で傷ついたとしても、傷ついたと感じている、自分の感情には自分で責任を持つということ。感情にまかせて反撃したり、感情的で極端な行動に出たり(家出とか)して、不利益を被ったとして、それは結局、自分の責任だということです。
「元の原因を作ったのはあなたの行動だから、私が怒っているのはあなたの責任」、ではないよ、ということ。
あくまで、感情は自分のもの。相手の行動がきっかけであっても、自分の感情は自分の責任なのです。
(※相手の行動を、冷静に判断して、問題アリなら、きちんと責任を取らせることも、もちろん大事ですし、基本ですが、これは今後の社会というよりむしろ、現在の「行動にだけ責任を持てばいい」社会のルールですから、ここではこれ以上は取り上げません。)
さて、自分の無意識に責任を持つ、という観点から見ると、「感情に責任を持つ」ことの、もう一つの側面が見えてきます。それは、
いま自分が感じていない【無意識の中に抑圧している感情】にも責任を持つ、ということです。
これは、ここまでの話と比べて、より難しく、より高度であると思います。
たとえば、自分が、子供時代の愛情飢餓や、過去の辛い経験などから、無意識の中に怒りを抱えて生きていたとします。怒りを表に出している人は付き合いにくいですから、本人も怒らないようにフタをしているわけです。
現在の社会では、怒らないようにフタをする、という努力で、表面的な行動だけ取り繕えば、それ以上の責任は問われない、というのがルールですが、このコラムの主旨は、それだけでは不十分だよ、ということなのです。
無意識の中に閉じ込めた(抑圧した)怒りは、周りの人からいじめられたり嫌がらせを受ける、という現象になったり、ある特定の人に対して激しい嫌悪感を感じたり、本人が女性であれば、男性からなぜか避けられたり、といった形で、悪影響が広がるんです。
あるいは、自分に自信がない(無価値感)を強く持っているが、人一倍頑張ることでそれを埋め合わせようとしている(=その感情にフタをしようとしている)人が職場のマネージャーになって、部下たちを指導することになると、
いつのまにか、その人の持っている「頑張らない人には存在価値はない」という無価値感(これは感情と信念が複合したものですが)がその部署全体に広がっていき、メンタルな耐性が低い人から脱落して、病気になったり職場を辞めたりします。
現在の社会のルールから考えると、怒りを封印した人がもし、職場で嫌がらせを受けていたら、嫌がらせをした人の行動のみが注目されます。いじめられた人にも原因があるなんて言おうものなら、お前は悪魔か、ぐらいの扱いを受けるでしょう。
同じように、自分の無価値感を頑張ることでフタしてきた上司の下で病気になったり、会社を辞めたくなった部下が出た場合、会社としての対応は大抵、その部下の指導であったり、理解のある会社でも、その部下にカウンセリングを受けさせる、などに留まり、実績を上げて出世した(が、その根っこには無価値感の反動がある)上司のメンタルケアをする会社は、ほとんどないでしょう。
自分の無意識に、自ら責任を持つ、ということ。
さて、行動は誰の目から見ても明確ですから、自分の行動に対して周りからの強制力で「責任を取らされる」つまり、犯罪を犯したら逮捕【されて】刑罰を受け【させられる】、という形も、可能なんですね。
しかし、無意識の中のことは、他者が強制的に責任を取らせることは、できません。
「あなたは怒りを抱えているから、特殊教育課程を受けなさい」
なんて、どこかの全体主義的な国の洗脳プログラムのようです。
だから、自分の無意識に責任を持つ、ということは、意識の高い人からまず、自分で実践する、ということしかないと思うんですね。
・いつも俺の怒りのスイッチを入れるアイツ
→じゃなくて
→自分の中に怒りの地雷がある。それを見つめよう。
・Aさんは、私を軽く扱って、私のことを傷つける。
→じゃなくて
→自分の中に、軽く扱われると傷つくというパターンがある。それを見つめよう。
自分が、客観的に見ても被害者になりやすい場合は、若干解釈が難しくて、とらえ方を変えるだけでなくて、自己認識自体を変えて、結果的に自分の主張をするときにおどおどせず、堂々とできる自分になる、というような行動面まで変わっていく必要があります。
たとえば、
・私は職場でいつもいじめられる
→これを
→私の中に、いじめられやすい要素がある、それを見つめよう。
→とやると、ますます自己否定になりやすいので、
→私は、きちんと自己主張しているだろうか?
→私は、自分の存在価値を、自分で肯定しているだろうか?
(自分に自信があるだろうか)
・私はいつもモラハラっぽい彼と付き合ってしまう
→これを
→私の中に、モラハラされる要素がある、それを見つめよう。
→とやると、ますます自己否定になりやすいので、
→私は、自分の望みを、恋愛が始まる前から表現しているだろうか?
→私は、自分の存在価値を、自分で肯定しているだろうか?
(自分に自信があるだろうか)
というように。
自ら、自分の無意識に気づくための有効な取り組み
ではどうしたら、自分の無意識に気づくことができるのでしょうか。
気づかないからこそ無意識なので、「う????ん」と気合いを入れたところで、気づくことはできないものなんですね。それに、何か問題が起きるときには、自分の側の要因と、相手の側の要因と、両方が影響し合って問題が表面化するものなので、問題が起きたときに、いったいそれはどっちの心の問題か?なんて考えても、きっと結論が出ないと思うんです。
しかし、無意識の中に持っているものは、必ず、日常的に、行動や言葉の端々ににじみ出ているものです。表情、声のトーン、反応する話題とスルーする話題、ストレスがかかったときに取りがちな行動、絶対に着ない服、人間関係における「天敵」、恋愛のパターン、などなど。
結局何らかの形で、表面に出てきているものです。
たとえそれがそのときはトラブルに発展していなくても。
そこで、日頃の行動から分析していこうという方法は、比較的有効です。その意味で、交流分析を学ぶことは、自分の無意識のパターンに気づくためには、とても有効だと考えています。
但し、分析だけしても、解決することは難しいんですね。「分かったけど、だからどうすればいいんだ!」ということになりやすい。
そこでやはり、過去の感情を解放していく心理療法や、過去のことは一旦脇に置いておいて、自分の行動のクセをトレーニングによって修正していく行動療法が役に立ちます。
1年前に起きた嫌なことが、感情と共に生々しく思い出せる人は、感情の記憶力が高い人で?女性に多いのですが?そのような人は、心理療法によって過去の感情を解放し、かつ、過去に足りなかった喜びを補っていく取り組みが有効です。
参考:このような取り組みの代表例としてはゆるしのワークなどがあります。
一方で、1年前に起きた嫌なことが、事実は思い出せても、そのときの感情はほとんど思い出せないという人は、感情の記憶力があまり高くない人で?男性に多いのですが?そのような人は、過去の感情を頼りに心理療法を行おうとしても、あまり効果が出ないことが多いのです。
そこで、感情を忘れてしまう人の場合、現在の行動のクセから、過去に何がほしかったのかを推測し、それを、現在の生活の中で補っていく、言い換えると過去のやり直しを現在行うような形で、行動療法的アプローチで解決を図ることが有効です。
参考:このような取り組みの代表例としては解決志向ブリーフセラピーの例1/解決志向ブリーフセラピーの例2などがあります。
まとめ
これまでの社会では、自分の行動にさえ責任を持てばよい、という考えが主流でしたし、それぞれの個々人の考え方は、その人の中で一貫していればOK、という考え方が主流でした。
たとえ、成果を上げることが大事、という考え方の裏に、成果を上げられないやつには存在価値はない、という激しい人間否定の考え方が潜んでいても、実際にその人が仕事で成果を上げていれば、内面に持っている否定的な考え方が問題視されることはなかったわけです。
でも、これからの社会では、そのような、内面に持っている否定的信念や、過去のわだかまりのような、過去のネガティブな感情なども、人間関係に大きな影響力を持つ、その人の「持ち物」として重要視するようになっていくべきだと考えます。
そして、内面のことは、他人が指図することが非常に難しいため、現時点では、自分自身が、自らの無意識に対して責任を持つという心がけが大事になります。
以上、なかなか難しいテーマについて、できるだけ分かりやすくなるように書いてみましたが、やはり少し、チャレンジングなテーマでしたね。こなれきっていない部分もあるように思います。質問やご意見なども、歓迎いたしますので、どしどしお寄せください。
では。
“自分の無意識にも責任を持つ、という高い意識を。” の続きを読む