見守る愛が足りないケースとその対処法

 

恋愛の問題や人間関係の問題といった、表面で起きている出来事と、心の内面の関係を考えるとき私は、4つの愛の形に沿って考えていきます。
 
1.母親的な「包む」愛
2.父親的な愛のうち「ほめる(長所を認める)」働きかけ
3.父親的な愛のうち「叱る・諭す(欠点を直す)」働きかけ
4.見守る(手出しをせず自立を促す)愛
 
1.については、母親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方、2.については父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(1)、3.については父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(2)をご参照下さい。
 
 
見守る愛が足りないというのは、どういうことかというと、
・いつも包んでくれた。
・ほめてもくれた。
・叱ってもくれた。
 
30歳になった今でも、私は子供扱いされている気がする…
親はいつまでも、私に関わろうとしてくれていて、それは嬉しいようなめんどくさいような…
 
 
こういう関係は、健全とは言えないんですね。
 
実は、見守るというのは「働きかけをしない愛」ということです。
愛することの最終段階では、親が何か手出しをするのではなく、子供の自主性に任せて、何かあったときに戻ってくる場所と、助言を求められたときに答える心の準備だけしておいて、あとは放っておくことが必要です。
 
 
見守る愛が欠けているかどうかを判定するには…
実は、親に「見守る」意識が欠けているかどうかは、あまり問題ではありません。
 
自問すべきことは、自分で決めて、自分で行動し、自分で責任を取る、という姿勢が身についているかどうかです。何かあったときに、必ず親に相談して、親の意見に従って決めるのが基本、となっているなら、親から離れて、自分で決められるように成長しなければいけません。
 
親が過干渉で、こちらは自立したいのに、ずっと口出ししてくる、というケースもあります。
 
 
いずれにしても、大人になったのに、親がいつまでも干渉してきて、「見守る」関係になっていない場合、物理的に、あるいは精神的に距離を取ることが必要です。
 
ひとり暮らしが、親の影響下から離れて、自分で考え、自分で決めて、自分で行動し、自分で責任を取る習慣を身につける第一歩になることは多いようです。親の過干渉がひどい場合は、私は親と別居することを勧める場合が多いのですが、大抵相談にいらっしゃる前にひとり暮らしを始められている方が、実は多いです(自分に必要な行動が直感的に分かっているんですね)。
 
 
こういう状況下に居続けることが、心と体に与える悪影響の大きさを考えたら、寮のある会社に仕事内容は問わずに就職したり、シェアハウスのような家賃の安い借家に移るなどの方法を採ってでも親元を離れた方がよい(=逃げた方がよい)と、私は思うのですが(なお、親元から逃げるための結婚は、夫と新たな共依存関係を作りがちなので、お勧めはしません)、どうしてもひとり暮らしが不可能というなら、精神的な距離を取る努力をするしかありません。繰り返しますが、こちらの方が難しい道です。
 
精神的な距離というのは、簡単に言えば、断り上手になるということです。相手の要求に、全部応えようとするのではなく、私の幸せは私の責任、あなた(たとえば母)の幸せはあなたの責任、という原則に照らして、相手の干渉を、不要だと思ったらきっぱり断る、ということです。
 
こうして、相手からの影響を受けなくなれば、それはひとり暮らしの代わりに、十分、自分で考え、自分で決めて、自分で行動し、自分で責任を取るという大人の行動習慣を身につけるための、役に立ちます。
 
 
なお、過干渉な親で、嫌だと思っているのに、ひとりになるのが怖くて家を出られない。
そう感じる場合、根本的な問題は、見守る愛が足りないことではありません。
 
根本的な問題は、ひとりで生きていくことが出来ない、心の弱さです。
そして、その原因は、母親的な愛の欠如および、父親的な愛の欠如です。
 
ここに当てはまる場合、自分ひとりで取り組むことは、極めて難しいのではないかと思います。母親的な愛情を補う段階、父親的な愛情を補う段階などの、始めの段階ぐらいは、セラピストの助けを借りた方がよいと思います。

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恐怖症治療の事例?ハチ恐怖症を例として?

 

子供の頃に怖い思いをしたことが、きっかけとなって、
ある状況の時に体が固まってしまう。
 
それが典型的な「恐怖症」です。
 
心理療法には、その恐怖症を治療する有効な方法があります。
 
・暴力的なシーン
・けが
・命に関わること(大量の出血を見た、とか)
 
傷が深いほど、じっくりと時間をかけて、慎重に取り扱う必要がありますが、
基本的に、軽くしていくことは、必ず可能だと考えています。
 
 
クライアントさんの事例は、なかなか深刻な話も多いですので、
ここでは、手法を理解して頂くために、
 
私が自分のハチ恐怖症を治した話を書きたいと思います。
 
 
小学校二年生ぐらいの時に、ハチに刺されたことがありました。
それは、みんなで遠足に行ったときですね。
刺したハチは、アシナガバチみたいなハチでしたね。
 
それ以来、ちっちゃなミツバチが目の前を横切っても体が固まる。
それって過剰反応だし、何かちょっと異常だと感じていました。
 
 
セラピスト養成講座の中で、受講生さんと組んで練習していたんですね。
私の課題として「ハチ恐怖症」を選びました。
 
 
まず、そのときの出来事を、ビデオのスクリーンで見ているように思い出します。
 
 ?森の中の道
 ?小学校二年生の自分
 ?脇道にそれて茂みの中に入っていく
 
 …イテッ!
 
 ?周りに大人が集まってきて、(恥ずかしい…)
 ?「毒を出した方がいい」 (ハチより、毒出しで押してることが痛い)
 …(なんだか、居心地が悪い。恥ずかしい…)
 
当時の自分の心の声を探ってみると、
痛い・怖い、よりも「恥ずかしい」「ばつが悪い」のほうが強いことが分かりました。
 
そう、本当に癒されたかった感情は、
怖いという感情よりも、みんなで遠足のようなものに行ったとき
に、一人だけハチに刺されて、衆目を集めてしまった恥ずかしさ。
だったのです。
 
 あれ?そういうことだったの?
 
ポイントが「怖さ」「痛さ」ではなかったことに気づいて、
「恥ずかしさ」を意識して、過去のやり直しをしました。
 
ビデオを巻き戻すように、出来事を巻き戻して…
今度は、気持ちを分かってもらえるシーンに書き直しました。
 
 
それを、念のため、
巻き戻しては再生し、巻き戻しては再生し、と、
三回行います。
三回目は、ビデオの中の世界に入って、当時の自分として、
書き直した方のシーンを実際に体験するようにイメージします。
 
 
その後。
 
 
実は先日結構大きなハチが目の前を横切ったのですが、
ほんと、嘘みたいに何も感じなかったです。
 
「恐怖」「怖い」と思ってきた過去の記憶が、
本当は別の感情が根っこにあるものだと気づく瞬間。
 
驚きと、安堵と、とまどいと…複雑な思いがありました。
そして、その後確実に、その「恐怖心」は薄らいでいきました。
 
面白い体験でした。
 
 
 
ハチよりも、もっと?一般的な基準でいえば?深刻な経験をされている方にも、このワークを行っています。より慎重に扱う必要はありますし、一回で解決しないので複数回にわたって取り組みをする必要がある場合もあります。
 
ですが、基本は同じ。
当時の出来事を、客観的に、ビデオ観察し、当時の自分がどんな心の声を持っていたのか、それを改めてよくよく探って、その後、巻き戻して好きなように書き直したり、ビデオの中の世界に入っていって、当時の自分を助けてあげる。これを念のために三回行う、というものです。
 
 
これは私の治療観ですが、恐怖体験だと思い込んでいても、ハチの例の「恥ずかしさ」のように別の感情が隠れていることがあります。すると、隠れている感情が一種の「糊」になって、メインの感情が癒されないことがあるのです。本当の感情に気づくと、解決が非常に早くなります。
 
暴力を受けたケースなどでは、現在の自分がスーパーマン的な存在として入っていって、加害者をぶっ飛ばすというシーンをイメージしてもらうことがあります。これは、恐怖がメインの感情、無力感が糊になっている感情、という場合が多いからです。
 
 
恐怖体験にフタをして、そこに触れないように生きている方へ。
恐怖症治療のための、有効な解決方法があります。
ぜひ、勇気を出してセラピーに足を運んで下さい。
 
 
なお、この文章だけを読んで、生兵法で取り組むことは、絶対に避けて下さい。
中途半端に過去の感情を開いてしまうと、しばらく感情的に混乱してしまうことがあります。
 
あづまは、セラピスト養成講座でこのワークを指導していますが、様々な心理学的なワークを七日間に渡って学んだ後、八日目にようやくこのワークを学習しています。それだけ心理学の知識やワークの習熟度が求められる手法だからです。
 
この文章は、恋愛セラピーでどんな方法を使っているのか知って頂き、安心してセラピーを受けて頂くために書きました。見よう見まねでこのワークを行うことは絶対に避けて下さい。自己流で行った結果については、あづまは一切責任を負いません。

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父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(2)

 

恋愛の問題や人間関係の問題といった、表面で起きている出来事と、心の内面の関係を考えるとき私は、4つの愛の形に沿って考えていきます。
 
1.母親的な「包む」愛
2.父親的な愛のうち「ほめる(長所を認める)」働きかけ
3.父親的な愛のうち「叱る・諭す(欠点を直す)」働きかけ
4.見守る(手出しをせず自立を促す)愛
 
1.については、母親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方、2.については父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(1)をご参照下さい。
 
さて、父親的な愛のひとつ目が、基準を満たしたとき(社会的に通用する行動をしたとき)にほめる、ということでした。それによって子供は客観的に自分の良いところはどこなのか知ることが出来ます。
 
「ほめる」ことと必ず組になっているのが「叱る・諭す」です。
良いことをしたときにほめることと、悪いことをしたときに叱ったり諭したりすることは、両方とも大事です。
 
なお、自分の気に障ったから怒る、みたいな親もいますが、これは子供を成長させるしかり方にはなっていません。単に自分の感情を爆発させただけです。
 
 
自分が育った過程で、「叱る・諭す」働きかけが欠けているかどうかを判定するには、「親は自分に真剣に関わってくれたか」と自問してみるとよいでしょう。
 
親が気分屋で、怒ったり当たったりすることはよくあったけれど、私が問題行動を起こしたときには、どうやって世間体を取り繕うかだけに奔走して、私に本気で関わってくれることはなかった、そういうケースは確実に「叱る・諭す」という種類の愛情が欠けていると考えて良いと思います。
 
 
いつも安定して、同じ基準で叱られたり、諭されたりすることで、
子供は、自分の中に規範の感覚を作り上げることが出来ます。行動の軸が出来ると言ってもいいでしょう。
 
軸がないと、目の前の人の顔色をうかがうだけの人間になってしまいます。
怒りっぽい人には従う。
弱気な人は利用する。
 
 
軸があるというのは、
相手は怒るかもしれないが、大事なことなので、あえて言う。
相手は文句を言わない、気が弱い人かもしれないが、利用したりしない。
 
そういうことです。
 
 
父親的な愛情のふたつ目、「叱る・諭す」が足りないまま大人になった場合の補い方ですが、一番有効なのは、仕事でも何でもいいので、人間味があって、叱ってくれる人から、実際に叱ってもらうことです。
 
自分で取り組む場合には、コミュニケーションの基本や心理学を学び、何が正しいことなのか勉強してみることも、役に立つと思います。(但し実践しないと身につきません)
 
また、取り組むときのコツですが、いきなり100点を目指すのではなく、今の自分をまっすぐに見て、今の自分に無理なくできるレベルを設定します。それをクリアしたら自分をほめる。そのサイクルを繰り返していくことが有効です。

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父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(1)

 

恋愛の問題や人間関係の問題といった、表面で起きている出来事と、心の内面の関係を考えるとき私は、4つの愛の形に沿って考えていきます。
 
1.母親的な「包む」愛
2.父親的な愛のうち「ほめる(長所を認める)」働きかけ
3.父親的な愛のうち「叱る・諭す(欠点を直す)」働きかけ
4.見守る(手出しをせず自立を促す)愛
 
1.については、母親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方をご参照下さい。
 
 
母親的な愛というのが、わがままや理不尽なことを言っている子供でも、無条件に受け入れることであるのに対して、父親的な愛というのは、むしろ、社会の規範をしっかり教え込むこと、子供が自分勝手に行動しているときに、良い行動と悪い行動をきちんと教え込むことです。
 
しつけという言い方をしても良いと思います。
 
一見のびのびした心を曲げるような感じもしますが、実際に社会に出たときに通用しない習慣を身につけたまま大人になってしまえば、苦労するのは本人です。やはり、将来を考えれば、その子のための行動、愛情と言えるでしょう。
 
 
父親的な愛のひとつ目は、ほめる(長所を認める)ことです。
良いことをしたときに「よくやったね。」
結果を出したときに「がんばったね。」
能力を発揮したときに「すごいね。」
他人のために行動できたときに「えらいね。」
などなど。
 
ある基準を満たしたときに、ほめる。
これが、父親的な関わり、ということです。
 
※生物学的父親が、それをすべき、という意味ではありません。
 子供には「父親役」をする身近な誰かが必要だ、という意味です。
 
 
父親的な関わりというのは、子供を社会に適応できる人間に育てるために「導く」ということです。これがないと、子供は、自分の中に善悪の基準が出来ず、軸がなくてぐらぐらして、いつも目の前の人の顔色をうかがう人間になってしまいます。
 
母子家庭だったり、父親が忙しくて不在の場合、父親的な関わりが不足する場合もありますが、実は母親が「立派に育てよう」と肩に力が入ってしまい、十二分に父親役をやった結果、むしろ「母親役が不在になってしまう」ことが多いように思います。
 
父親がいなかった結果、母親的な愛情に飢えている子供が育つ。
そういうことも、あるのです。
 
 
父親的な愛情のうち「ほめる」が欠けているかどうかは、子供の頃にほめられた経験があったかどうか思い出してみると良いと思います。また、大人になった今、ほめ言葉を受け取るのが苦手だという場合、子供の頃にほめられることが少なく、なれていない可能性があります。
 
 
さて、父親的な愛情のうち、ほめられること、長所を認められることが欠けているとき、それを補う方法です。実はシンプルで、ひとりでも取り組めます。
 
大人になれば、他人から「ありがとう」を言われることが結構あるはずです。
その「ありがとう」をしっかり受け取ることです。
 
実は自分の長所を自分で認めていない人は「ありがとうを受け取る」ことが苦手です。ついつい「いえいえいえいえ(汗)(汗)」とリアクションしてしまったり(つまり「私はそんな風に言われるのにふさわしい人間じゃありません」と思ってしまうのですね)、なかなか、心から相手のほめ言葉や「ありがとう」を受け取ることが出来ません。
 
やってみると、意外と受け取っていないことに気づくと思います。
 
なお、この行動課題の目的は、自分の心に「私って、こんな素敵なところがあるんだよ」と教えることです。「ありがとうを受け取りましょう」という課題だけが一人歩きすると、「せっかく言ってもらっている『ありがとう』を受け取らないなんて、言ってくれた人に失礼だ」という別の動機にすり替わってしまうことがあります。それでは効果も半減です。
 
ほめ言葉や感謝の言葉を心から受け取って、自分の素敵なところを一つ一つ宝探しのように見つけていく作業。子供の頃に親からそれをしてもらえなかったとしても、大人になってからでも、十分取り組むことが出来るのです。
 
 
もしも、受け取ることに、どうしても抵抗がある場合、それは父親的な愛情が足りない状態の前に、無条件に自分を受け入れること(=母親的な愛情)が足りない場合が多いです。そちらから先に取り組む方が、結果的に近道です。
 
 
ありがとうを受け取って、あなた自身の心に「私にもこんないいところがあるんだよ」と教えてあげて下さい。
 
 
話は、では「叱る・諭す」が足りない場合は? 父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(2)へと続きます。

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母親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方

 

恋愛の問題や人間関係の問題といった、表面で起きている出来事と、心の内面の関係を考えるとき私は、4つの愛の形に沿って考えていきます。
 
1.母親的な「包む」愛
2.父親的な愛のうち「ほめる(長所を認める)」働きかけ
3.父親的な愛のうち「叱る・諭す(欠点を直す)」働きかけ
4.見守る(手出しをせず自立を促す)愛
 
まず、母親的な愛について説明します。
 
これは、ひとことで言えば
「よい子のあなたも、悪い子のあなたも、ここにいていいのよ。」
という関わりのことです。
 
子供が安心感と、この世界に自分の居場所があると感じる土台になります。
 
■母親的な愛を与え、子供の心に「居場所」をつくる親の行動
・抱きしめる
・スキンシップをする
・子供の話を聴く
・子供の顔を見る
・子供の楽しかった話を「よかったね」と一緒に喜ぶ
・子供が失敗しても、アドバイスの前に「辛かったね」と気持ちを受け止める
 
 
■母親的な愛が失われ、子供が「居場所がない」と感じる親の行動
・触れ合うことをしない
・話を聴かない(逆に親が自分の愚痴や自分の話ばかりする)
・顔を見ない
・子供の楽しかった話を喜ばない。「浮かれるな」などと否定する。
・子供が失敗したら「それ見たことか」と責める
 
 
もしあなた(大人)が、子供時代に母親的な愛を、家族の誰からももらえなかったと感じているとしたら、今あなたの周りで起きている恋愛・結婚生活・人間関係の問題の根っこは、母親的な愛を、あなたがもらい損ねてきたことかもしれません。
 
この種類の愛を補うためには、私は、家族彫刻からゆるしのワークへとつなげてワークを行います。またはインナーチャイルドの癒しのワークを行うことが多いです。
 
詳しく解説すると丸一日かかるぐらい奥深い話ですので、ここでは簡単に述べますと、子供時代の意識状態に戻るきっかけ(家族彫刻や、子供時代の自分の姿を思い浮かべるなど)があり、そのときに感じたマイナス感情などを、ゆるしのワークの「ゆるしの言葉」などを使って癒していく。
こういった取り組みが有効であると考えています。
 
愛とは、他人との関わりの中で感じるものですので、ひとりで癒すことは、比較的難しいのですが、セラピストの助けを借りるのが難しい場合は、鏡を見ながら毎日自分に「○○ちゃんは悪くないんだよ」「よく頑張っているね」「○○ちゃんは優しい子だね」というゆるしの言葉をかけ続けるなどの取り組みを根気強く続けていくと良いでしょう。
 
 
 
※母性愛という言い方もありますが、私は意図的に使用を避けています。それは、
「母性愛」=「生物学的母親による愛」というニュアンスがあるためです。
ここで私が問題にしているのは「愛の質」です。
多忙などの理由で父親が家庭に不在で、母親が代わりに父親役をしていて、結果的に母親的な「包む」愛が欠如した家庭というのも、現実には少なくないわけです。
 
 
話は父親的な愛の必要性と、足りない場合の補い方(1)へと続きます。

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信じる=思考停止、のことがあるのでご注意を。

 

信じていたのに裏切られた!
こんなはずじゃなかった!
 
具体的なシチュエーションは色々でしょう。
夫の浮気、彼が仕事を急に辞めた、彼がお金を使い込んだ、借金が発覚。などなど…
 
「信じていたのに!」
そう言いたくなるシチュエーションは、確かにあります。
 
 
しかし。
 
 
信じるということが、何か崇高なことだという思い込みを持っている人もいるようですが、大事なポイントは一つだけ。
 
自分の責任で、決めたことなのかどうか。
 
もしも「あなたのせいで、こんなことに!」という気持ちばかり強いのだとしたら、
その「信じる」は、
 
・自分で決めるのをやめて、相手任せにする。
・本当は不本意だけど、捨てられるのが怖いから相手に合わせる。
・何が正しいのか分からないので、とりあえず従ってみる。
 
こんな風に、自分の中に基準や軸がなくて、思考停止し、相手任せにしたことを「信じる」と勘違いしていることがあります。でも、何かことが起こったときに「裏切られた」と言うなら、それは自分の決断に責任を持っていなかったということです。
 
これは、相手が間違いを犯してもただ受け入れ、全部水に流すという意味ではありません。たとえ相手が間違った方向に進んだとしても、言いにくいこともちゃんと言って、問題と向き合い、二人で解決していく覚悟を持っているかどうか。それが大事なことです。
 
失敗しても、この人とだったら二人で反省し、やり直せる、そう信じられるかどうか。
 
 
そう信じるためには、相手が「自分の中に軸を持っている段階まで成長している」ことを見抜ける必要があります。なぜなら、自分の中に軸を持っていない、他人の顔色をうかがっているだけの段階(中期の自我)の人は、そういったトラブルを起こしがちだからです。
 
そして、相手の成長の段階を見抜けるためには、自分がその段階まで成長している必要があります。
 
 
そう考えると、相手を信じる力の強さは、自分の精神的な成長の段階と深く関係していることが分かります。しっかり自分の精神的成長を進め、相手を本当の意味で信じることが出来るよう、努力していきましょう。

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自我の発達と、精神的成長

 

私は、人間関係の問題を考えるときに「自我の発達モデル」を中心に据えて考えています。
 
浮気を繰り返す、依存症から抜けられない、などのトラブルが多い人は、自我の発達という観点で見ると問題を抱えている場合が多いからです。
 
 
人間の自我の発達は、4段階で進むと考えられています。
 

初期の自我

初期の自我は、いわゆる「イヤイヤ期」「反抗期」の頃に芽生えるものです。
それまでは、自我がないのかというと、ないのです。ただ目の前にあるものに反応しているだけです。
 
2歳頃になると、自分の意思が出てきます。やりたいことを主張したり、それができないと泣いたり、自己主張が始まるわけです。これが、初期の自我です。
 
但しこの初期の自我、まだ自分のことしか分かりません。他人の立場を理解できるわけではないのです。だから、目の前のお皿においしそうなお菓子があったら食べるし、隣のこのお皿においしそうなお菓子があったら、それにも手を出してしまいます。
 

中期の自我

中期の自我というのは、自分の思い通りになんでもできるわけではない、ということを学び始めた段階です。分かりやすく言うと、他人の顔色をうかがうようになる、ということです。
 
自分のやりたいこと(たとえば隣の子のお菓子が欲しい)と、怒られるのが嫌だ(これも結局自分基準)とが葛藤している段階です。
 
実は大人でも、この段階のまま生きている人がいます。たとえば、
 
・おとなしくて文句を言えない人を、うまく利用する。
・ばれなければ浮気をしてもいい、と考える。
・威圧や経済力で「モノを言わせない」体制を作り、自分の思い通りに振る舞う
 
などの行動は、「相手から怒られたり文句を言われたりしなければ、何をしてもいい」というルールが共通しています。この「怒られなければ何をしてもいい」「見つからなければ何をしてもいい」というルールが、中期の自我に特徴的なルールです。
 
 

後期の自我

後期の自我まで成長するというのは、どういうことかというと、相手の顔色をうかがうのではなく、自分の中に行動の規範つまり、やっていいこととダメなことが内在化された状態です。
 
つまり、
・おとなしくて文句を言えない人であっても、利用したり踏みにじったりしない。
・ばれなくても、浮気はいけないことだ考えられる。
・自分と相手を入れ替えても納得できる行動をする
 
ということです。
普遍的なルール、道徳、倫理観などが自分の中にあり、目の前の相手が、たとえ気が弱くて何をしても文句を言わなそうな人であっても、だましたり利用したり、相手に不利な条件を強制したり、そういうことはしない、という自分の行動の軸、規範を持っている状態です。
 
これは別の言葉で言うと、精神的に「自立した」「ひとり立ちした」段階と言うことが出来ます。
 
社会の中でうまく生きていくためには、最低限この段階まで成長しないと、生き辛いことになります。
 
 
但し後期の自我の段階は、ある意味「ケチ」な状態です。
自分が本当にやりたいことを「いけないことだから」「ダメなことだから」と我慢している状態なので、中期の自我の人などが、その、「ルール破り」をしていると、かなり腹が立つし、責めたくなります。
 
自分の基準を、他人にも強制したくなるのです。
他人を許したり、受け入れたりすることが、まだ難しいのが、この段階です。
 
 

成熟した自我

成熟した自我は、本来のありたい自分と、社会に合わせて作ってきた仮面の自分が、統合されて、自分の意思で、社会に合わせた行動を取ることも出来るし、自分の責任で、あえて自分の主張を通すこともできるようになった状態です。
 
この段階まで成長した人は、たとえ自分の欲求に反した行動をとらなければいけない場合でも、それが社会で生きていくために「自分に必要なこと」と理解し、自分の責任でその行動を取るわけですから、人のせいにすることがありません。
 
また、道徳、倫理観などを身につけていない中期の自我の人を見ても、「ルールを守れないヤツはけしからん」などと憤慨することなく、それがその人の今の段階だと理解することが出来ます。
 
この段階は、別の言葉で言うと、自立を超えて、「人を育てる段階」に至ったと言えると思います。
自分自身は成熟した精神をしっかり持っていて、
自分はあくまで、道徳、倫理観などの行動の規範・軸は持って行動できる。
 
まだ自分の内側に行動規範を持っていなくて「顔色をうかがっている」人に対しては、
自分と同レベルをいきなり強要することはないけれど、
安易な妥協や迎合もせず、相手が成長して、内側に規範を持つよう願うことが出来る。
 
そんな段階です。
 
 

相手に成長して欲しい!そんなときどうすれば?

自分が成熟した自我の段階、つまり「人を育てるレベル」まで成長することが、まず大事です。
 
成熟した自我を持った人と接していると、相手も良い影響を受けて、変化し始めることがあります。逆に言うと、成熟した自我を持った人と接する機会を持てなかった人は、中期自我ぐらいで止まったままになっている場合もあると言うことです。
 
相手に要求するのではなく、自分がまず成長し、生きる姿勢、姿で相手を導いていくことを考えて下さい。
 
 
もちろん、いい歳になってまだ中期の自我(他人の顔色をうかがっている段階)の人の成長をうながそうという場合、子供をひとり育てるような、相当の根気が必要です。そこまでする覚悟を決められるかどうか。それが一番始めに必要な決断かもしれませんね。

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一緒にいて疲れる女性の特徴ランキングから考察。

 

COBS ONLINEのコラムで、一緒にいて疲れる女性の特徴ランキングが発表されていました。
 
回答者が男性のケース
1位 会話が続かない 31.0%
2位 気を遣わない 24.9%
3位 言動がわざとらしく、かわいこぶる 24.4%
4位 買い物に時間がかかる 23.6%
5位 自分の好きな話題にしか乗ってこない 22.3%
 
回答者が女性のケース
1位 人の話を聞かずにしゃべり続ける 50%
2位 言動がわざとらしく、かわいこぶる 49%
3位 自分の好きな話題にしか乗ってこない 36%
4位 会話が続かない 35%
5位 気を遣わない 32%
 
 
詳しくは当該記事を見ていただくとして。
 
 
一緒にいて「疲れる」というのは、どういうことなのか。
それを考えてみたいと思います。
 
 
実は、ほとんどの特徴が、同じことを言っているのです。
それは、柔軟性のなさ、融通の利かなさです。
 
気を遣わない、というのは、裏を返すと「相手に気を遣わせる」こと。
かわいこぶる、というのも、「相手に好反応を要求している」こと。
自分の好きな話題にしか乗ってこないとか、しゃぺりつづける、というのは、言わずもがなです。
 
相手が、もう決まった行動しか取れなくなるわけ。
相手に対して「こう行動してほしい」という極めて高い期待があって、相手はその期待を裏切って違う行動をすることができない(違う行動をしたら不機嫌になるわけなので)。
 
 
これが「疲れる」と言われることの本質です。
 
同類の言葉に「重い」もあります。男性がよく感じる感覚です。
 
 
自分を大切にすることと、相手に期待通りの反応を押しつけることは、全く違います。
自分を大切にするというのは、自分で自分を大切にすること。相手の反応が悪くても、いちいち不機嫌にならないのが、本当に自分を大切にしている人です。
 
 
もしも、自分が該当するところがあるなと感じたら、他人にしてもらいたいと思っていることを、自分で自分にしてみて下さい。話を聞くのはひとりでは出来ませんが、大抵気持ちを分かってもらいたいから話す訳なので、自分で自分の気持ちを受け止めることが、課題になります。カワイイと言ってもらいたいなら、毎日鏡の前で自分に「かわいいね!」と言う。
 
そうやって、【自分で】自分を大切に出来るようになると、他人に無言の圧力をかけて、自分を承認してもらう必要がなくなります。
 
すると、「一緒にいて疲れる人」の汚名は返上、ということになります。
 
 
逆にもしも、相手に該当するところがあるなと感じるなら、一言ぐらい、このコラムの内容を伝えても良いと思います。そして、あなたが出来る範囲でいいので、相手を認めてあげて下さい。彼(彼女)は自分で自分を認められずに苦しんでいるのです。
 
但し、結婚相手を選ぶときは、生活や子育ての負担がかかっていますから、ずっとお世話しなければならない相手を選ぶにはリスクがありすぎます。「一緒にいる限り、愛は出し惜しみしない。しかし、一緒にいるかどうかは、よくよく考えて結論を出す」というスタンスで行きましょう。

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「いい子」と「思いやりのある子」は違う。

 

あなたは、子供時代「いい子」だったでしょうか?
 
ここでは「いい子」をプラスの意味にも、マイナスの意味にも使っていません。
大人の言うことをよく聞く、扱いやすい子のことを一般的に「いい子」と表現することが多いはずです。
 
「いい子」=「従順な子」
 
悪いこと言われる子は、その逆ですね。
 
 
ジョン・グレイ著 「頑張らない子育てのコツ」によれば、現代の子育ては、「いい子」を育てるべきではなく、「思いやりのある子」を育てるべきだ、とのことです。
 
氏の著書はいつも、言葉一つ一つに重みがあり、多くの意味が込められています。
 
「いい子」と「思いやりのある子」の違いについて、私が思うことを書いてみます。
 
それは、
自分の気持ちに基づいて行動しているか、
他人に従っているか、
 
ということです。
 
 
いい子というのは要するに、親の希望に沿って行動している人です。
根っこには、捨てられたら生きていけない、従っていることが安全、という恐れがあります。
 
子供の時は、自分一人で生きていくことは出来ませんから、いい子でいることも一つの生き延びる戦略だと言えます。
 
 
それに対して、思いやりがあるというのは、あくまで自分の喜びとして、相手の気持ちをくみ取り、理解する(必要であれば行動する)ということです。
 
自分基準でありながら、自分の中に、相手の幸せも願う気持ちが大きく育っているということ。
 
 
 
相手に従うことと、思いやりを持って行動することは、表面を見ればとても似ていますが、内面は大きく違います。
 
嫌われたくない、言うことを聞かないと損をする、捨てられたくない…このような動機は、相手に従っていると言うことです。
 
思いやりを持って行動するというのは、
・j相手が嫌がることはしたくないからしない、
・相手の言うことを尊重はするが決めるのは自分、
従わないと関係を切ってくる相手と仲良くしたいかどうかは自分で決める
ということです。
 
 
自分の中にある、自発的な、相手にも幸せになってもらいたいと願う気持ち。
これを育てることが、真に思いやりのある自分を育てることになるのだと、思います。

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精神的成長とは何か(1) 困った人を「自我の発達」から見ると…

 

心理学を少しでもかじったことのある人、あるいは心理学系の人のコラムを少しでも読んだことのある人なら「他人は変えられない」という言い方を必ず目にしていると思います。
 
そして、おそらく多くの人が、それに続いて、精神的に(あるいは魂が)成長することが必要、という言葉を目にしているかと思います。相手に変わってもらおうとするのではなくて、自分が成長することが必要、という話です。
 
しかし、その、「成長」っていったい何なんでしょうか。
 
 
漠然と、「子供っぽく振る舞うのをやめること」ぐらいに思っている人が多いのではないでしょうか。
確かに子供っぽく、自分の感情のままに、相手に不平不満をぶつけ、自分に責任が及ぶと逃げる、という態度が良い態度とは言えません。
 
では、自分の感情にフタをして、我慢して、衝突を回避して、その場を収めたら、精神的に成長したということなのでしょうか?それは単なる問題の先送りなのでは?
 
 
そうやって考えていくと、精神的に成長するって、いったいどういうことなんだろう?と、分からなくなってしまって当然だと思うんですね。実際正解のある問題ではないですし。
 
 
一つのガイドラインになるのが、自我の発達モデルに即して考えるということです。
 
・初期の自我
・中期の自我
・後期の自我
・成熟した自我
 
初期の自我というのは、2歳頃、いわゆる「反抗期」「イヤイヤ期」に現れるものです。それ以前の子供は、まあ言ってみれば目の前にものに「反応」しているだけで、自分の意思をはっきり持っているわけではないんですね。
 
じゃがりこをもっとくれと泣く子に、子供だましを試みて「ほらアンパンマンだよ」と言っても「それじゃない」ときちんと意思を表示する。それが自我です。
 
但しこの時点の自我は、自分の都合のみです。食卓で隣の人のお皿においしそうなものが置いてあったら、手を出して食べてしまう。まだ、他人の立場を理解するには至っていません。
 
 
中期の自我というのは、他人のものに手を出したら「相手が怒る」「親に叱られる」ということを経験して、自分が思ったことを全部やっていい訳ではないんだと理解する段階です。
 
分かりやすく言うと「顔色をうかがう」ということ。相手の顔色をうかがうことが出来るようになったら、子供も進歩している、ということなんです。
 
但しこの時点の自我は、基本的に損得勘定と、顔色伺いのみです。気が弱い相手がいたとして、その相手が「いいよ」と言ったら、相手のお皿から食べてしまう。そういうことです。
 
 
後期の自我というのは、たとえ相手が「いやだ」と言うのが苦手だったとしても、基本的なルールを自分の中に内在化して持っていて、いけないことは、相手が怒らないとしても、やらない。それが出来る段階です。
 
大体早い子で小学生のうちに、ここまで発達すると考えられているようです。実際、小学生でも学級委員でしっかりした子とか、いますよね。
 
しかし、大人であっても、実はこの後期の自我まで発達していない人がいるのです。自分の中に善悪の基準とか、行動の規範とか、そういったものが内在化できず、常に相手の顔色伺いの中で生きている人は、実は大人でありながら、中期の自我から先に成長していない、ということになります。
 
 
カップルの間でのもめ事が多かったり、職場でのトラブルが多い人というのは、自我の発達に照らして考えると中期の自我ぐらいの人が多いんですね。
 
行動の規範がしっかりしていないから、周りから見ていると行動が場当たり的で、よく人とぶつかるので、周りも困るわけです。
 
 
つづく。

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