第10話 なつをの夏の物語」カテゴリーアーカイブ

なつをの夏の物語(14)|恋愛ドクターの遺産第10話

「さて、なつをさん。」
「はい。」
「このイメージの世界の中で、現実の世界では、今まで無かったことや、今まで自分でやっていなかったことを探してみて下さい。何かありますか?」

「あの・・・」イメージしているときに言葉が次々と出てきたのとは対照的に、口ごもりながらなつをは答えた。「彼が私の、何の役にも立たない話をにこにこして楽しそうに聞いてくれているのが新鮮でした。私も、何の疑問も持たずに、自分の話をしていました。それも、今までの人間関係ではなかったことです。」

一呼吸置いて、ドクターが言った。「なるほど。」少し間があって、続けた。「なつをさんのことを大切に思っている人は、なつをさんの話が、自分の役に立つかどうか、といったことに関係なく、話を聞きたいと思うものですよ。」
「そう・・・なんですね。」なつをはまだ半信半疑といった様子だ。
「なつをさんは、自分が大事に思う人の話を聞きたいと思いますか?」湯水ちゃんが言葉を挟んだ。
「ええ・・・はい。聞きたいと思います。」
「ちょうど、それと立場を逆にして考えてみたらいいと思います。」
なつをは、少し考えている様子だったが、やがて、はっと気がついたように言った。「あっ、そうですね。私、何か相手の役に立つことを、常に言わなければいけないと思っていました。」
ドクターは、にこにこしながら「そんなこと、ないんですよね。ただ、大切な相手が、何を考えているのか、何に興味があるのか、どんな気持ちなのか、知りたいだけなんですよ。それが、親密さ、というものです。」そう言った。
「なんか・・・肩の力が抜けました。」なつをが言った。実際に肩の力がふっと抜けたように見えた。

「さて。」話がまとまってきたところで、椅子に座り直しながらドクターが促した。「では、理想の一日の中ではやっていて、現実の世界ではやっていなくて、でも、やればできそうなことを、実際にやってみるという課題を出したいと思います。」
「はい。」
「先ほどの、『何の役にも立たない話を楽しそうに聞いてくれている』というところを上手く使いたいと思うのですが・・・」ドクターが言いかけたとき、なつをが割って入ってきた。
「あの、では、相手の話を、にこにこしてきいてあげるというのはどうでしょう?それならできそうです。」
ドクターは、少しにやりと笑って言った。「いや、残念ながら、それはあまり良い行動課題ではありません。もちろん、相手の話を聞いてあげるというのは、とても良い習慣だと思いますし、大事にしてほしいことでもあります。でも、なつをさんがほしいのは、自分の話を聞いてもらうこと、なんですよね?」
「えっ?相手の話を聞いてあげることは、自分の話も聞いてもらえることにつながらないんですか?」
ドクターは、またにやりと笑った。湯水ちゃんも同時ににやりと笑ったように見えた。それに気づいたのか、ドクターは湯水ちゃんに説明を任せるようだ。「湯水ちゃん、では、なつをさんに説明してあげてください。」
「はい、先生。」そう言って、なつをの方に向き直ってから、湯水ちゃんは話し始めた。「あのね。私も昔、そう考えていたの。実際、女友達の間では、そうやって話を聞いてあげること自体が、『私も話を聞いてほしいんだけど』というサインになっているようなところもあるし、それで上手く行くことが多いんですよね。でも、恋愛となると、全然上手くいかなくて。」
「えっ?どうしてですか?」なつをはそのギブ・アンド・テイクのルールが通用しないということが納得できない様子だ。
「理論的には、あとで先生に解説してほしいんだけど、私の実体験をお話ししますね。私の場合、男性の話を色々聞いてあげることをしていたら、自分の話ばかりしたい男性が集まってしまったの。本当は私も、自分の話をしたいのに、男性との関係では、なぜか、聞き役ばかりになってしまって。それがとてもストレスで。でも何でそうなってしまうのか全然分からなかった。男って所詮そんなものかな、ってずっと思ってたんだけど、恋愛がうまく行っている友達の話とか聞くと、彼氏が話を聞いてくれるって言うし、なんで私だけこうなってしまうんだろうって。それで、私も以前、先生に相談したんだけど、そこで言われたのがさっきの話なのね。話を聞いてほしいのに、まず自分が相手の話を聞く、という関わり方をすると、こと男女関係においては、オレの話をしたい、という男性が寄ってきてしまうわけ。」
「えーっ」なつをは力なくそう言った。

(つづく)

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なつをの夏の物語(13)|恋愛ドクターの遺産第10話 記憶のないトラウマを癒す

第五幕 安心と自信と自由

「先生、こんにちは。」なつをが入ってきた。
「なつをさん、こんにちは。」ドクターがにこやかに挨拶した。

今日はなつをのセッションの日だ。(といっても、これはまだ2年前の話)

「前回、トラウマの根っこを見つけて、ある程度まで癒すワークを行いましたね。」ドクターが話し始めた。
「はい。おかげさまで、ずいぶん毎日の生活が、気楽というか、緊張感が減ったと思います。」なつをが答えた。心なしか、目が潤んでいる。
「それは何よりです。それで、今日は、トラウマが解消しても残る課題というのがあるので、そこに取り組んで行ければと考えています。」
「はい・・・まだ何かあるんですか?」なつをは少し不安そうだ。
「ええ。まあ、ここからは時間が解決してくれると言えばくれるんですが、骨折に例えて説明しますね。まず、トラウマというのは、折れた骨が治っていない状態です。だからそこに触れたら痛い。心理的なことなら、そこに触れると、例の『得体の知れない怖さ』を感じたりするわけです。次に、それが治ったあとの話をします。体の例えに戻ると、長いこと古傷を治さずにいると、そこをかばって歩く、かばい歩きのクセがついたりします。たとえば右足を強くつかないように歩いたり。骨折が完全に治っても、かばい歩きのクセはそのままになっていることもあります。そうすると、転びやすいとか、膝や腰が痛くなりやすい、などの別の問題が起こることがあるわけです。心理的な問題でも同じように、心のかばい歩きをしてしまって、それが、恋愛の引き寄せなどの別の問題を作り出すことがあります。」一気に説明して、ドクターはふう、とひと息ついた。
「では、私の『かばい歩き』はどんなものなのでしょうか?」なつをは自分の課題を早く知りたくて興味津々だ。
「ええ。まだ明確になっていないので、それをしっかり見つけるのが、今日のテーマ、ということになると思います。」

よろしくお願いします、とお互いに挨拶をして、セッションが始まった。

「もし明日、朝起きたら奇跡が起きていて、理想のパートナーシップが手に入っていたとします。その、理想の一日を、今から想像してみましょう。」
「はい。」
「今日は色々やることがありそうなので」ドクターは前置きして、改めて座り直して続けた。「理想の一日の中で、とくに大事そうだと思う部分を、ピックアップして話してもらいましょうかね。」
「えと・・・はい。では、彼とデートに来ています。」なつをが答えた。
「なるほど。彼とデート。そこはどんな場所ですか?」
「はい。何か、港町みたいな感じです。近代的でおしゃれな場所です。」
「彼のほかに、知っている人はいますか?」
「いえ、いません。」

「二人は、どんなことをしていますか・・・」
こんな風に、ドクターの質問に促されて、なつをの中の理想の彼との一日のイメージが膨らんでいく。

二人は、ある港町にデートに来ているのだった。
彼氏(といっても想像の中の)は取り立ててイケメン、という訳でもないが、好感の持てる温かい雰囲気の人だ。なつをの方を向いて、始終ニコニコしている。その笑顔になつをはとても安心感を感じる。
デートの中では、なつをが興味を持ったことを、あれこれ話している。といっても、あそこのお店のスイーツが美味しそうだとか、このお店入ってみたいとか、そんな日常のありふれた会話ばかりだ。
なつをは、彼がニコニコしてなつをの好きなものの話、行きたいお店の話、感じたことの話を受け止めて聞いてくれる、今このときの時間が、とても貴重で、温かいものに感じていた。その温かい感じをしっかり味わっていたら、熱い涙がひとすじ、頬を伝った。

ドクターは、なつをが自然に語り始めてからは、軽く相づちを打つ程度で、成り行きに任せて話を聞いていたが、やがて言った。「なつをさん、ではそろそろ、名残惜しいですが、元の世界に戻ってきましょうか。」

「はい。」
「3,2,1」パン、とドクターが手を叩いた。「では、軽く深呼吸しましょうか。」
ふう、と、ドクターとなつをは一緒に深呼吸をした。湯水ちゃんも少し遅れて深呼吸をしたようだ。

(つづく)

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なつをの夏の物語(12)|恋愛ドクターの遺産第10話 記憶のないトラウマを癒す

「では、なつをさん。今から、右手の上のそのエネルギーを持ったまま、ビデオのスクリーンの中の世界、過去の世界に入っていきます。湯水ちゃんは連れて行きますか?」
「はい。お願いしたいです。」
「では、湯水ちゃんも一緒に、過去の世界に入っていきます。画面を通ってすぅーっと入っていったとイメージして下さい。そして、ひとりで心細かった、赤ちゃんのなつをちゃんの目の前に、ストンと降り立って下さい。」
「はい。」
「なつをさん、空いている方の手で、赤ん坊の自分を、そっとなでてあげてください。」
「はい。やっています。」そう答えると、なつをの目から大粒の涙がぽろぽろっとこぼれた。
「そして、右手に乗せて持ってきた、そのエネルギーを、赤ん坊の自分にかぶせるようにして、」そう言いながらドクターは、何かに布をかぶせるようなジェスチャーをした。「包んであげましょう。」
なつをもドクターと同じように、何かに布をかぶせるようなしぐさをした。その瞬間、なつをの表情の険しさが一気に消えて、穏やかで、優しく、幸せそうなほほえみに変わったのが分かった。涙がひと筋、なつをのほおをつたった。
ドクターはそれを見て、癒しが進んでいると判断したのか、安心した表情になった。「なつをさん、今どんな感じですか?」
「はい、何だか急に力が抜けたような。赤ん坊の自分は寝てしまいました。」
「では、また会いたいときはこうしていつでも会えますから、今は一旦、元の世界に戻ってきましょう。」
「はい。」

こうして、ワークは終わった。
「確認をしたいのですが。」ドクターは言った。「最初に思い出したときのように、ふつうに、赤ん坊の時のことを思いだしてみて下さい。」
「はい。」なつをは天井の方を見ながら、思い出しているようだった。
「いま、どんな感覚になっていますか?」
「あの。最初に思い出したときは、本当に、怖くて、吐き気もしていて、ひどい気持ち、得体が知れなくて触れたくない感じだったんですが、今は全然平気になりました。むしろ、恭子と湯水さん、」
言いかけたところで「湯水ちゃんでいいですよ。」湯水ちゃんが言葉を挟んだ。
「湯水ちゃんからもらった、温かくてほわほわしたエネルギーに包まれている感じになっています。もう怖くはないです。」
「それは良かった。」ドクターも安心したのだろう。優しい調子で言った。

その後、ドクターからの説明があったのだが、それは以下のようなことだった。
なつをは、赤ん坊の頃に助けを求めても誰も来てくれなくて、怖い思いをした。そのことで、他人に助けを求めることと、この恐怖心が結びついてしまい、助けを求めることへの心理的抵抗が、人一倍高くなった。
一方、このような怖い感覚が、なつをが世界や他人を見るときの基調、ベースとなってしまい、相手に対して過度の警戒心を抱くような、他人との関わり方・・・平たく言えば性格・・・を作る元となった。
その後、両親も温かい人だったし、ある程度友達にも恵まれて、普通に大人になったのだが、このような乳児期のトラウマを持っているために、根っこの部分でどうしても他人に警戒する心が抜けず、他人の顔色をうかがうようなクセがついた。大人になると、トラウマ的なものを持っていても、冷静なときはある程度はその影響から離れて、合理的に、冷静に行動できることが多いものだが、恋愛のように心理的距離が近く、感情も揺さぶられやすい人間関係においては、小さい頃のクセが出やすいのだ。

ここからは、ドクターが既に話したこととつながってくる。
相手に過剰に気を使う、という関わり方をするということは、【女性から気を遣われたい】男性に気に入られやすい状況を作り出す。オレサマタイプ・暴君タイプが居着いてしまう典型パターンだ。ここに、他人に助けを求めない、という行動パターンが重なって、ますます、恋愛でいい男性を引き寄せることが、できなくなっていた。と、こういうわけだ。もちろん、全てが赤ん坊の時のトラウマが原因、というのは言い過ぎだ。それが重要なきっかけとなったのは事実だが、気づいて行動を直すチャンスはたくさんあったはずなのだ。といっても、中々自分では気づきにくいもの。というわけで、なつをは行動のクセを直すことなく大人になり、そのまま恋愛に突入してしまったので、うまくいかなくなった、というわけだ。

こうして、この回のセッションは終わった(といっても、これは2年前の話だ)。

(つづく)

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なつをの夏の物語(11)|恋愛ドクターの遺産第10話 記憶のないトラウマを癒す

「先ほど出てきた体の感じは、泣いて、吐いて、寝てしまって、という段階の、どの段階だとするとしっくり来るような気がしますか?」
なつをは呼吸が乱れ始めた。でも必死で自分を保ちながら、ドクターの質問に答えた。「ええと、部屋に誰もいなくて、とても不安になる段階と、それで激しく泣いて、吐いて、混乱している感じと、両方が混ざっているかな、と思います。でももちろん、ハッキリと覚えていないので、当てはめてみるなら、そうかも、という感じですけど・・・」
「いやいや、それだけ答えられたら上出来ですよ。なるほど、なつをさん。やはりこの辺が、あの『得体の知れない感じ』の原体験と言えそうです。逆に言うと、この原体験をしっかり癒してあげれば、なつをさんの問題は大きく解決に向かうと期待できるわけです。」
「はい。お願いします・・・でも、どうすれば・・・」
「大丈夫ですよ。具体的なやり方は任せてください。」そして、ドクターはこれから行うワークについて簡単な説明を始めた。当時のことをビデオのスクリーンの向こう側の出来事として思い出して、同時に、今元気の元になっていることを思いだして手に載せる。そして、その元気を持って、ビデオの向こう側の世界に行って、当時の自分にその元気をあげる、とざっくり言うとそういう感じのことをする、という説明だった。

「さて。」ドクターが姿勢を正してからそう言った。「今から当時の出来事を癒すワークを行います。」
「はい。お願いします。」なつをは少し不安そうだ。
「では、最近の生活の中で、これをしていると元気が出る、ここにいると安心する、など、なつをさんにとってプラスのエネルギーになることを何か挙げてみて下さい。」
「ええと・・・最近悩みを友達の恭子に聞いてもらうことがよくあったのですが、恭子とごはんしたりお茶したりしている時間は、とても安心します。」
「なるほど。では、そのお店を想像して、隣に恭子さんがいるところを想像して、どんな気持ちになるか、思い浮かべて下さい。」
「安心して、温かい気持ちです。」
「では、その温かい気持ちのエネルギーを、こうして」ドクターはそう言いながら自身の右手を胸の前に出した。「胸の前に右手を出して、その上に載せたとイメージしてみて下さい。」
「はい。」
「手の上に載せたエネルギーに色や形があるとしたら、どんなものですか?」
「ピンク色で・・・少しサーモンピンクかな・・・ほわほわして、丸い感じです。」
「ピンク色でほわほわしている・・・温度はありますか?」
「温度は、温かいです。温かめの人肌みたいな感じです。」
「これは、いい感じのものですね?」
「はい。」

「では今度は、右手はそのまま持っていてくださいね、そして、目の前にビデオのスクリーンがあるとイメージして下さい。」
「はい。」
「そのスクリーンの中に、先ほど思い出した、0歳か1歳ぐらいの頃の、あの部屋があるとイメージして下さい。」
「はい。」
「そして、その部屋の中には、その当時のなつをちゃんがいます。」
ここで、なつをの表情が曇った。眉間にしわが寄っている。
「この、スクリーンに、スピーカーが付いていると想像してみて下さい。そのスピーカーから、当時言えなかった、当時のなつをちゃんの心の叫びが、言葉になって聞こえてくるとしたら、どんな言葉になって聞こえてくるか、今代わりに表現してあげてください。」
「・・・怖い。」なつをはか細いかすれ声でそう言った。
「・・・怖い。」ドクターが繰り返す。「他にはありますか?」
しばらく沈黙があったあと、急に大きな声でなつをは言った。「たすけて!」
「たすけて!!!」ドクターはなつをより大きな声で繰り返した。
「助けて!助けて!助けて!」なつをは泣き出した。
「なつをさん、右手に持ったそのエネルギーをしっかり意識してください。」ドクターが落ち着いた調子で指示を出した。
「湯水ちゃん、なつをさんの後ろについて、肩と背中に触れてあげてください。」
「はい。」湯水ちゃんがなつをのそばによって、肩と背中に手を当てた。
なつをは少し落ち居着いた様子だ。
「では、なつをさん。今から、右手の上のそのエネルギーを持ったまま、ビデオのスクリーンの中の世界、過去の世界に入っていきます。湯水ちゃんは連れて行きますか?」
「はい。お願いしたいです。」

(つづく)

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なつをの夏の物語(10)|恋愛ドクターの遺産第10話 記憶のないトラウマを癒す

セッションが再開して、ドクターがまず方針を述べた。
「なつをさん。今私が考えている方針を説明させて下さいね。」
「はい、先生。お願いします。」
「実は、なつをさんがまだ物心つく前の時期、たとえば2歳とか、そんな時期に作られたトラウマが、現在の人間関係に影響していると想定しています。」
「えっ・・・そうなんですか・・・でも、そう言われてもよく分かりません。」
「そうですよね。人間が出来事を記憶できるのは4歳ぐらいからと言われています。ですから、それ以前の出来事は、いわゆる『記憶』には残らないのです。」ドクターは理路整然と説明した。出来事の記憶とは「エピソード記憶」とも呼ばれ、日記に書くような何が起きて、次に何が起きて、という物事の展開をストーリーにして覚えている記憶のことだ。もっと小さな頃の記憶は、たとえば、ある場面の映像だけが記憶に残っていて、但しそれが何が起きたときの記憶なのかは覚えていない、といった形では、残ることもある。そして、ドクターによると一番大事なのは、出来事の記憶が残らないような時期のことであっても、感情の記憶は残るというポイントだ。だから、その時期に怖い思いをした経験が、意識的には何の出来事かは覚えていないけれど、なぜか心の奥底にある恐怖心、という形で心に傷跡を残すことはあるわけだ。ドクターは話を続けている。「出来事の記憶は残らなくても、感情の記憶が残っていることは多いのです。そしてそれを頼りに、癒すべき心の奥底の感情を見つけ出すことは、十分に可能です。」
「はい。」なつをは先ほどの「得体の知れない」感情を感じたことと、いまドクターに言われた「記憶のない時期の体験」を扱う話とで、とても不安そうな顔をしている。
「なつをさん、大丈夫ですよ。任せて下さい。取り組んだ分だけ、確実に気持ちが軽くなりますから。」ドクターは落ち着いた調子でそう言った。
(こんなとき、先生はホント頼りになるなぁ)湯水ちゃんはそう思った。

「では、始めていきたいと思います。」ドクターはそう言って深呼吸をした。
なつをもつられて深呼吸をした。
「まず、先ほど感じた、『得体の知れない感じ』をもう一度感じてみて下さい。」
「はい。」なつをはそう言って目を閉じ、しばらく自分の内側を感じている様子だったが、やがて、静かにうなずいた。
「では、ここからは、事実でなくて構いません。もし、なつをさんが、1歳頃、あるいは2歳頃に、そんな感情を感じるようなできごとを経験していたとしたら、それはどんな出来事でしたか?勝手に作ってみて下さい。」
その瞬間、なつをは急に目を大きく見開き、はっとした表情になった。そして、何か言葉を探しているようだった。
「何でもいいから、言葉にしていきましょう。」ドクターは促した。「何か映像や、記憶の断片みたいなものが出てきたのなら、まずそれを言葉にしてみてください。」
「はい。薄暗い部屋です・・・ものすごく怖い・・・。」
「誰かいますか?」
「誰もいません。」
「体の感じから、今自分が何歳ぐらいか分かりますか?」
「ベッドに寝ている感じです。まだ1歳か、0歳の頃かもしれません。あの・・・思いだしたことがあるんですけど。」
「では、一旦深呼吸してみましょう。」
ドクターとなつをは一緒に深呼吸をした。
「その、思い出したことを教えてください。」ドクターは促した。
「はい、これは覚えているというよりは両親から聞いた話なのですが、私を寝かせていた部屋が、両親が生活している居間や食堂から少し遠くて、私の泣き声が聞こえづらくて、気づいたときには私が激しく泣いたあとで、吐いて、そのまま寝てしまっていた、ということが何度かあったそうです。」
「思い出した部屋の空気感は、その部屋に似ていますか?」
「はい。細部はもちろん覚えていないのですが、空気感は似ています。」
「先ほど出てきた体の感じは、泣いて、吐いて、寝てしまって、という段階の、どの段階だとするとしっくり来るような気がしますか?」
なつをは呼吸が乱れ始めた。でも必死で自分を保ちながら、ドクターの質問に答えた。「ええと、部屋に誰もいなくて、とても不安になる段階と、それで激しく泣いて、吐いて、混乱している感じと、両方が混ざっているかな、と思います。でももちろん、ハッキリと覚えていないので、当てはめてみるなら、そうかも、という感じですけど・・・」
「いやいや、それだけ答えられたら上出来ですよ。なるほど、なつをさん。やはりこの辺が、あの『得体の知れない感じ』の原体験と言えそうです。逆に言うと、この原体験をしっかり癒してあげれば、なつをさんの問題は大きく解決に向かうと期待できるわけです。」
「はい。お願いします・・・でも、どうすれば・・・」

なつをの夏の物語(9)|恋愛ドクターの遺産第10話

「ではまず、普通のフォーカシングから練習していきましょう。」ドクターが言った。
「はい。」
「お店をなつをさんの判断で変更したとき、その彼氏さんに、確か、『何で勝手に変えるわけ?何で勝手に決めるわけ?』って怒られたのでしたよね?」
「はい、そうです。」
「そのときのことを思い出しながらワークをしていきましょう。そのとき、なつをさんは、どんな気持ちになりましたか?言い換えると、体にどんな感覚を感じましたか?」
「えと・・・私の勝手な判断で怒らせちゃったかな、とか、元のレストランに戻せるかなとか、先に連絡して確認した方がよかったかな、とか・・・」
「ちょっと待った!」そこでドクターが止めた。「いま、私は【なつをさんはどんな気持ちになりましたか?】【体にどんな感覚を感じましたか】と質問したのですが、なつをさんは、彼の話ばかりしていましたね?」
「あ、すみません。」なつをはとても不安そうな表情で答えた。
「いえいえ。別に責めているわけではありません。でも、ここが、今回の問題を解決する上で、とても大事なポイントなのです。」
「・・・そうなんですか。」
「もう一度やってみましょう。今度はもう少し頑張って【自分の体の感覚を感じて】、それを言葉にしてみてください。」
「はい。」
「では、行きますよ。あのとき彼氏さんが『何で勝手に変えるわけ?何で勝手に決めるわけ?』と言いました。そのときに、なつをさんは【どんな体の感覚】を感じましたか?いま思い出して、もう一度感じてみてください。」
今度は、なつをはしばらく黙って、目を閉じて、顔を上の方に向けて考えていた。
「なつをさん、顔は下に向けた方が、体の感覚を感じやすくなりますよ。より正確には、目線を下に向けるとよいです。」
ドクターに促されて、なつをは顔を下に向け、相変わらず目は閉じていたので目線の向きははた目には確認できなかったが、おそらく下を向いているのであろう。そして、しばらくして、言葉を発した。「すごく感じるのが嫌な感覚があります。得体の知れない何かがある感じです。」
「お、頑張って、少し近づきましたね。その調子で、つかず離れずで、その感覚を、感じ続けましょう。」ドクターは、穏やかな調子でありながら、独特のリズムでそう言った。ドクターはエリクソン催眠の素養があり、ワークに入ると相手の呼吸のリズムに合わせ、誘導していくのだ。予め誘導文(スクリプト)がなくても、即興で作って誘導できるらしい。
なつをはしばらく、自分の中にあるその「得体の知れない感覚」を感じるように頑張っていたが、やがてかなり疲れ切った表情で言った。「先生、もうこれ以上無理です。」
「湯水ちゃん、ちょっと背中をなでてあげて。」ドクターが言った。
湯水ちゃんがなつをに寄り添い、肩や背中をなで始めたら、なつをの目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「しばらく休憩にしましょう。」

・・・
休憩中、ドクターと湯水ちゃんは別室で方針について話し合っていた。
「先生、なつをさんは彼から受けたダメージが予想以上に大きいみたいですね。そこを何とかしないと。」湯水ちゃんは心配そうな表情でそう言った。感情移入してしまったのか、声が少し震えている。
「いや、私はそうは思いませんが。」ドクターは淡々と返した。意外にも、ドクターの見解は彼氏から受けたダメージではない、ということのようだ。
「だって、あんなに激しく反応していたし、まだ感情を感じ切れていないですよ!」ドクターのあまりの楽観に湯水ちゃんはイライラしてきた。だって、なつをさん、あんなに苦しんでるのに!
「いや、あのね、私は決して、なつをさんの現在の状態を軽く見ているわけではありませんよ。確かに、得体の知れない、恐ろしい感覚が胸の奥にあって、それがまだまだ、未解決である、という点には同意しますよ。でも、その感情が作られた原体験は、彼との関係ではない、と読んでいるのです。」
「えっ?」湯水ちゃんは呆気にとられて、間の抜けた表情をした。
「私はおそらく、」ドクターは構わず続けた。なつをを別室で待たせているので、のんびり議論している時間はないのだ。「幼児期のトラウマが関係していると読んでいます。」
「えっ?」湯水ちゃんはそこで固まってしまった。なぜなら、幼児期の話など、ここまで全く出ていないからだ。「先生、なつをさんから幼児期の話って・・・」
「いや、全く出ていないですね。」相変わらず淡々とドクターは答えた。
「では、どうしてそうだと分かるのですか?」
「うーん。確信はないですよ。ただ、これだけ大きな負の感情が生まれるというのは、それなりに大きな出来事があったか、あるいは、それだけ傷つきやすい時期に何かがあったか、のどちらかのはずです。前者ならきっと話の中で出てくると思うのですが、本人の記憶の中にも、原因と思しき出来事が思い当たらない、となれば、記憶に残らないぐらいの小さい頃の出来事が傷になっている、という想定をするのは、それほどおかしいことではないと思いますけどね。」
ここで湯水ちゃんは、ドクターの推理力に圧倒されて何も言えなくなってしまった。確かにここまで説明されれば、そうかな、と思えるが、一切話題に出ていないことを「原因」と推定するのは、自分にはとても無理だ、と思ったのだった。
・・・

なつをの夏の物語(8)|恋愛ドクターの遺産第10話

「いい、ダメ、という話ではないのですが、わりと、自己中心的な人を周りに居着かせやすいタイプではあります。」
「え、それ、嫌です〜。」とても悲しい寂しい調子で、なつをが嘆いた。

ドクターはなつをの嘆きに構わず話を続けた。「湯水ちゃん、なつをさんとこうしてお話をしてみて、何か気づいたことはありましたか?」
「はい。なつをさんと話をしていると、なんだかとても温かい気持ちになるというか、こちらのことを心から気遣ってくれるのがよく分かるので、とても居心地が良かったですし、話しやすかったです。」
「なるほど。今のワークでは、湯水ちゃんは聞き役だったわけです。それでも『話しやすかった』と言いましたね。」
「はい、そうなんです。私もなつをさんの話に乗って、今川焼きのことについて自分の話を少しだけさせて頂いたのですが、その瞬間に、なつをさんは私の考えていることや気持ちなどを全身全霊で受け取ってくれたように感じました。」
「えっ・・・!?」なつをは少し驚いたような表情をした。
一方で、ドクターと湯水ちゃんは、そうそう、確かにそうだ、と言うかのようにゆっくりと幾度かうなずいた。
「湯水ちゃん、もし湯水ちゃんがオレサマ・・・つまり自分の考えを相手に言いたい一方、相手の考えなんて全く興味がない人だったら、なつをさんとの会話はどう感じるでしょうかね?」
この瞬間、湯水ちゃんは「待ってました!」と言わんばかりに元気な声で語り始めた。「そうそう!私も自分の話を差し挟んだとき、それを想像しながら話していたんですけど、もし私がオレサマだったら、こんなに自分の話に関心を向けてくれるなつをさんのことを『ホントにいい奴だ〜』って感じたと思います。」
「あっ!」なつをは少し青ざめた。「いい奴だ、って何人ものオレサマな人から実際に言われました・・・」
「やっぱりね。私がオレサマだったら、こんないい奴、絶対離さないって思うと思うもの。あ、いや、オレサマだったら、自分のものにしたい、自分の支配下に置きたい、という考え方かもしれないけれど。」
「というわけなんです。」ドクターが落ち着いた調子でそう言って、このワークは終わった。

「先生のおっしゃりたいことは、よく分かりました。でも、どう解決したらよいのかが全く分かりません。」少し不安そうに、なつをはそう言った。

 

第四幕 引き寄せの間違い

「ではここで、」ドクターが言った。ドクターとなつをのセッションはまだ続いている。「なつをさんへの行動課題をお伝えしたいと思います。」
「はい、お願いします。」
「それは、フォーカシングです。」
「フォーカシング・・・ですか。」なつをはきょとんとしている。
「はい。フォーカシングはご存知ですか?」
「・・・いいえ。」なつをは小さな声で答えた。
「まあ、いま知らなくても大丈夫です。すぐに覚えられると思いますよ。」
それを聞いて、なつをの表情が少し明るくなった。
「但し、私がオススメしたいのは、ただのフォーカシングではありませんので、少し段取りを踏みつつ覚えていってほしいのです。」
「・・・練習が必要ってことですか?」なつをが不安そうに聞いた。
「まあそういうことです。でも、取り組みそのものはシンプルですし、きっとできるようになると思います。それに、身につけたら出会いの流れが変わるはずですから、スキルそのものが一生の財産になると思うんですよ。」
「それを聞いてやる気が出てきました。」
「そうそう、その意気です!」

(つづく)

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なつをの夏の物語(7)|恋愛ドクターの遺産第10話

「では、なつをさん、こちらの椅子におかけになってください。」ドクターは左手で片方の椅子を示した。
「はい。」なつをは返事をすると、示された椅子に腰かけた。どことなく不安げな様子だ。
「では湯水ちゃんは、こちらの椅子でお願いします。」今度は右手で、なつをの向かいの椅子を示した。
「はい、先生。」湯水ちゃんは笑顔で、その椅子に座った。
「さて。」ドクターは改まった調子で言った。「これから、なつをさんは、何か自分の好きなものの話を湯水ちゃんにしてください。終わったあとに、私から、ある質問をしますので・・・といってもそんなに難しいことではないので大丈夫です・・・話している最中のことを思い出して、質問に答えてください。」
「・・・はい。」やはりなつをは少し不安げな様子だ。
「大丈夫大丈夫。簡単なワークだし。本当に話をするだけですから。」湯水ちゃんはなつをに親しげに話しかけた。いつもこうやって相談者をなごませているのだ。

なつをが少し落ち着くまで待って、ワークがスタートした。このワークは、なつをが好きなものを、湯水ちゃんに色々説明したり、どんな風に好きかを、熱く語ったりする、というもの。なつをは今川焼きが好き、という話をネタとして選んだようだ。時々話に詰まることがあり、たびたび沈黙があったが、今川焼きを自分はどのように好きか、というテーマについて頑張って話し終えた。
「はい、ここで一旦止めましょう。」5分ぐらい話をしたところで、ドクターがストップをかけた。「ではここで、本題を発表します。なつをさんは、今の会話をしているときに、自分の意識がどこに向いていたかを思いだして答えてみてください。意識が向いているものというのは、たとえば、過去に食べた今川焼きのことをありありと思い出していたなら、過去の記憶に意識が向いていたことになりますし、一方、話している最中の湯水ちゃんの反応が気になっていたのなら、湯水ちゃんの反応に意識が向いていたということになります。どこに、意識が向いていましたか?」
「ええと・・・」なつをは天井の方に視線を向けながら、思い出している様子だ。「一番は、湯水ちゃんの反応でした。ちゃんと伝わっているかな?湯水ちゃんは今川焼き好きなのかなぁ?私の話をつまらないと思ってないかな?どう感じてるのかな? ・・・そんなことを考えていました。」

「なるほど、相手の反応や相手の受け取り方が気になっていて、そこに一番意識が向いていた、ということでいいんですかね?」ドクターが確認した。
「はい、そういうことだったと思います。」
「ひょっとして途中で詰まったときは、話の内容を思い出すよりも、湯水ちゃんの反応に意識が向きすぎて、次何をいえばいいか分からなくなってしまったから、ですか?」
「えっ? あ、確かにそうですね。詰まったときは、湯水ちゃんの反応がとても気になって、それで、次に何を話せばいいか分からなくなってしまいました。」
「なるほどね・・・なつをさんはやはり、自分の話をしていても、相手の反応の方に、意識が偏っている感じですね。」
「それって、ダメなんですか? やっぱり。」
「いい、ダメ、という話ではないのですが、わりと、自己中心的な人を周りに居着かせやすいタイプではあります。」
「え、それ、嫌です〜。」とても悲しい寂しい調子で、なつをが嘆いた。

(つづく)

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なつをの夏の物語(6)|恋愛ドクターの遺産第10話

なつをとドクターのセッションは続いている。(といってもこれは2年前の話)
「そうですか、辛いことがあったのですね。厳しくも愛情のあるお友達、ありがたいですね。」
「はい、本当にそう思います。」

「それで、最近はそういう『オレサマ系』の男性は避けているのですね?」ドクターが尋ねた。ドクターは相手の話から推測できることや、もう当たり前と思えるようなことでも、言葉に出して確認することが多い。「言葉に出して確認してみると、意外とよく考えていなかったり、ディテールの部分(=細部)で違っていることを本人が言い出したりすることがあるのです。そういう部分が、カウンセリング上、意外と大事だったりするのです。」とはドクター本人の談だ。
なつをは少し考えてから答えた。「はい、ただ、そういう男性がなぜか寄ってくることが多くて。交際はお断りしているのですが、何か私の中からオレサマに好かれるフェロモンでも出ているのではないかと思うんですよね。」
「フェロモンですか。なるほどおっしゃりたいことは分かります。」ドクターは少し笑いながらそう言った。
「例えば、先ほどの話に出てきた恭子は、あまりオレサマに言い寄られたりしないんです。『なんでなつをはオレサマに好かれるんだろうね〜。なんかオレサマホイホイみたいな、好かれる匂いでも出てるのかね〜』なんて言うんです。」ちょっと不満そうな表情をしながら、なつをが言った。
ドクターはくすっと笑ってから、真顔に戻った。「匂いは知りませんが、心理学的には、その理由はわりと明快に説明できますよ。」
「えっ!? ぜひ教えて下さい!!」
「ええ、もちろんです。まず、答えから言うと、意識の使い方にポイントがあるのです。」
「意識の・・・使い方・・・ですか?」
「ええ、そうです・・・そうですね・・・たとえば・・・」ドクターは自分の頭の中から何かを探るかのように、上方を見上げ、目を左右に動かした。頭もつられて左右揺れた。「たとえば、今日なつをさんは、湯水ちゃんが咳き込んだとき、もう自分の話はそっちのけで、湯水ちゃんのことが気になっていましたね?」
「えっ!? あ、確かにそうでした。大丈夫かな、って。」
「そう、そこなんです。確かに咳をした人がいたら、少しは気になります。でも、カウンセリングというのは意識を自分の内側に向ける時間です。なつをさんのカウンセリングなら、なつをさんが自分の内側に意識を向けることが、必要なこと、というわけです。」
「えと・・・気が散っていたということですかね?」
「別に、責めたいわけではありません。人によっては、そのような雑音は気にせず、自分の内側に意識を向け続け、話を続ける人もいます。」
「・・・すみません。」
「いえ、何度も申し上げているように、責めたり、咎めたりしているわけではありません。ただ、なつをさんは、目の前の人をつい気遣ってしまう。目の前の人を察したり、気遣ったりする方に意識を向けてしまう、そういう意識の使い方をしてしまう。そのような、意識の傾向がありますね、ということを確認したかったわけです。」
「あ、はい。ようやく分かりました。確かに、先生のおっしゃるように、私は、常に目の前の人に意識を向けて生きていると思います。それで人といると気疲れするんですかね。」
「ええ、そうだと思いますよ。」
「あっ!? そのことと、オレサマな人が寄ってくることと、関係あると言うことですか?」なつをはひときわ大きな声で言った。
「そう、そこなんです。」ドクターはどこか得意げだ。「そこなんですよ。匂いなんて出てはいないのですが、相手に意識を向ける、常に相手を気遣うスイッチが入っている、という意識の使い方をしているとオレサマタイプを引き寄せてしまうんです・・・おっと、そうそう、説明するよりも、実際にワークをしてみた方が深く理解できると思います。ちょっと、ワークをしてみましょう。」ドクターは手早くワークをするためのスペースを作った。椅子がふたつ、向かい合わせに置いてある。

(つづく)

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なつをの夏の物語(5)|恋愛ドクターの遺産第10話

なつをが恋愛ドクターのことを知るきっかけになったのが、この一件だった。暴君のような彼氏との交際で、日々心労が溜まり、どんどん生気が失われていくなつをを心配してくれた友達に、つい実情を話してしまったのだ。

「あのね、恭子」
「うん」
「私ね、彼に会うのが怖い。」
「どうしたの?なつを。」
「・・・・・怖い。」
なつをはただ涙をぽろぽろこぼすだけで、言葉が出て来なかった。

「あのね・・・」しばらくしてなつをは彼との間の出来事を訥々(とつとつ)と語り始めた。「この前彼からきつく責められたの・・・原因は私が始めの約束と違うことをしたからなんだけど・・・」
「うん、何をしたの?」恭子は尋ねた。
「デートの日に、私が知っているお店を予約する、ってことになってて、先に言ってあったお店が、予約がいっぱいで、それで別のお店にしたんだけど・・・」
「うん、そうしたら?」
「そうしたら『何で勝手に変えるわけ?何で勝手に決めるわけ?』って怒り始めて・・・」
「それ、おかしいよ。なつをに任せたんでしょ?それなのにそうやって怒るなんて、それなら自分でお店ぐらい予約すれば良いのに。」恭子はかなりイラッときたので、つい声が大きくなった。
「でも、先に彼に言えば良かったの。私が言わなかったから、勝手にお店を変えたから、怒られたの。」

なつをはこのあと、彼に延々一時間ほど説教された話、街に出て1日過ごし、夜になってから午前中の些細な出来事について怒られた話、待ち合わせに1分遅れて激怒された話など、彼からひどく怒られ、攻撃された話を次々と恭子に話した。ため込んでいた気持ちを一気に吐き出したので、話し終わった後は、放心状態だった。

この一件があって、心配した友達数人が、デートの尾行を決行。なつをにも内緒だったが、このままではなつをが心労から病気で倒れてしまいそうだったから、「あとでなつをに恨まれてもいい」と皆で覚悟を決めて、尾行したのだった。いや、尾行というよりは監視と言った方が適切だ。

尾行したデートでも、彼はなつをに対して些細なことで責めることを繰り返していた。一部録音することも成功し、そうでない部分も気づかれないように少し離れた場所から聞き取れた部分をメモして、必要な証拠は集めてから、捜査陣は彼に対峙した。
もちろん彼は普通のデートだと主張。なつをを責めたという事実はどこにもない。とシラを切った。これは捜査陣にとっては想定の範囲内であった。彼の主張を全部聞いてから、証拠の録音を出し、これでも責めた証拠はないと言い張るのか?認めないのなら、まだあるぞと脅しをかけたところ、分が悪いことを悟った彼はなつをから退散した(つまりはさっさと逃げて、なつをの元から去ったということだ)。
高圧的でひどい男であったとは言え、彼氏を失ったなつをはしばらく不安定だったので、友達みんなで、毎日交代で電話をかけた。もちろん、なつをからの恨み節もたくさん出た。
「その都度、『本当にごめんね。どうしても見ていられなかったから。』と自分たちの勝手な判断でやったことにして、一切感謝されなくてもいい、悪者扱いでいい、という姿勢で接するしかなかったのが苦しかった。」とは恭子の弁だ。

そして、友達みんなでなつをを支えることと合わせて、恋愛依存だろうということで専門家を紹介したのだった。それが恋愛ドクターA。なつをはそれでも、しばらくは他人に相談する気になれなかったようで、ドクターのセッションを受けることを躊躇していた。半年ぐらいして、だいぶ落ち着いてきて、友達が主催する飲み会(男女ともに参加するタイプの)に、顔を出せるぐらいに回復してきて、そしてようやく、ドクターに相談、という流れだった。

(つづく)

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