「ウソをつかない人」をパートナーに求めるダサさ

あづまです。

私は常々思っていることなんですが、
パートナーに「ウソをつかない人」という要素を求めることは結構ダサいというか、考えが浅いと思ってしまうんです。

別に相手が嘘つく人であっても我慢しろとか、ウソぐらいどうってことないでしょとか、そういうことを言いたいわけじゃないんです。

そうじゃなくて、そもそも「ウソ」と「ホント」の境界って結構あいまいで、どこまでがウソなのか、突き詰めて考えるとかなり難しいもののはず。

たとえば、あなたが彼氏と同棲している女性だとして、彼に、今日は「仕事で遅くなる」と伝えたとします。
実際に、仕事という事実はあるんだけど、実は自分から志願した仕事で、その動機の重要な一部には、憧れの先輩(もちろん男性)と一緒に外回りできるから、というものがあったとします。

このときの「仕事で遅くなる」は、真っ赤なウソでは、もちろんないけれど、「心の底からの本音」でもないですね。

実は、ウソって、難しいですよね。ウソか否か、というような二択で計れるものではないですからね。

真っ赤なウソ⇔かなり赤に近いが解釈の余地ともギリギリ言えるウソ⇔本当に大事な部分を隠しているがウソではない言葉(このあたりが方便と言うのかな)⇔上位概念でぼかしてごまかした言葉⇔自分が気づく限りの、心の底からの本音

なんてウソ度、ホント度には幅があるように思います。
それから、コーチングなどをしていると、本人もまだ気づいていない思いに気づく、なんて瞬間があります。つまり、その気づきが起きる前まで、自分の本音だと思っていたことの、さらに下から本当の本音が出てくることだってあるってこと。自分がまだ気づいていない自分の本音があるってことです。

そう考えると、本当に自分が本音、心の底からの本音を言っているのか、ということも、確信が持てなくなりますね。

確かに、世の中には浅はかなウソをつく人がいるので、
(浮気しているのがバレバレのウソとか)

まあ、ここまで「ウソとは何か」についてよく考えた上で、
「すぐばれるような浅いウソをついたりせず、
上位概念を上手に使ってぼかして表現したり、
問い詰められても最後まで「捉え方の違い」と
言えるように予め知恵を絞った言葉を言える程度には、
頭のいい人をパートナーに求める。」

というのなら、確かに納得、と私は思うのですが。

「ウソをつかない人を引き寄せるにはどうしたらいいですか?」といった、引き寄せの法則的なアドバイスを求められたときには、私はこう言っています。
「あなたは、真っ赤なウソはつかないのだろうが、もしかしたら、方便を使ってその場しのぎをすることは、日常になっているかもしれない。【自分と同等のものが引き寄せられる】法則に照らして考えるなら、ちょいウソを言う人が、大嘘を言う人を引き寄せたに過ぎない。だから、あなたも、勇気はいるが、できるだけ「できる限りの本音」で生きる努力をすべきだし、自分がまだ気づいていない心の底の本音に気づき続ける努力をすべきだ。それをしていないで、相手にだけ「ウソをつかない人」を求めても、受け止める自分ができていないことになる。」

これ、結構大事なことだと思うけどな。

「ウソをつかない人」をパートナーに求めるダサさ」への2件のフィードバック

  1. やくしたろう

    相手のためにつくホワイトライは、許容範囲にしないと、せちがらい世の中になってしまいますよね…人間は弱い生き物だから、弱さから来る見栄や言い訳も、できるなら認めてあげたい。一方、詐欺師の様に、人を騙して平気でいられる人は、やはり許されないでしょう。悪意の有無が境界線なのでしょうかね…

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    1. azmax777 投稿作成者

       コメントありがとうございます。
       ホワイトライを認めるのは、同意。そして、何でもかんでもバカ正直に表現するのではなくて、少しぼかした表現をしたり、上位概念(具体的に言うと角が立ちそうな断り理由を「先約が」と言うなど)でごまかしたり、そういうのも、大人の知恵だと思います。
       ただし、この記事の主旨は、それとは少し逆方向です。あまりにそういう形に慣れっこになってしまって、方便やぼかしが日常化して、自分がいつもごまかしの言動の中で生きていることに、気づかなくなってしまうことの危険性を訴えることです。
       自分は無自覚に方便やぼかし表現を多用している(薄いウソをついている)。で、いながら、相手の浅いウソを責め立てる、という構図。これは気をつけなければいけない罠なのではないか、と思うわけです。相手に気を遣いすぎる人ほど、この罠に落ちやすいと思うんです。

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