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シングルを卒業(7)|恋愛ドクターの遺産第5話

「安全の感覚が育ってくると、『アレが好き』『これが嫌い』『アレはやりたい』『コレはやりたくない』といった、自分本来の好き嫌いの感情が自由に出るようになってきます。」ドクターは先ほど書いた「安全の感覚を・・・」の方に①と番号を振り、その下に「②好き嫌いの感情に敏感になる」と書き、矢印で①→②とつないだ。
「へええ、そうなんですか?」
「今はまだ、自分の中にある、とくに『好き』『やりたい』の気持ちの方は、なかなか感じられないのではないかと思うのですが、」
「はい、4D(ロックバンド)の音楽以外は、なかなか『好き』や『楽しい』を感じられないです。あと、人に嫌なことを言われても、その場ではよく分からず、あとになって嫌味を言われたと気づいたりして激しく腹が立つことがあります。友達からは『鈍いねアンタ』と言われたこともあります。」
「そうですね。そういう、自分の好き嫌いに敏感になっていくこと。」これが次のステップでの課題になります。
「ああ、そうなんですね。でも、そうなると私、結構他人に対して怒ってしまうと思うんです。」
「そうですね。人は、自分が安全でないと感じているときは、他人に対して怒ったりできないものですからね。結構ため込んでいるかもしれません。」
「はい。ためていると思います。」
「この、ためている怒りをしっかり吐き出して整理していくのも、好き嫌いに敏感になっていくステップでは、必須です。」そう言いながらドクターは②の下に「ネガティブな感情(怒りなど)を吐き出し、整理することも大事」と書いた。
「ゆるすとかではなく、怒りを吐き出すことが大事なのですか?」
「おそらく。」
気が重い、という表情をしているみさおに対して、ドクターは言葉を足した。
「まあ、その時が来たらきっと、怒りを出したら楽に、スッキリすると思いますよ。それに、むしろ『怒りを出したい』って思うようになっていると思いますよ。今は想像できなくても、変化のタイミングが来たときは、自分の衝動も変化するものですから。」
「そうなんですか?」
「ええ。だから、あまり先のことを考えすぎないことが大事です。今日帰ってからやってもらう課題の目的は『安全の感覚を育てていくこと』なのですよ。」
「そうでした。」

そうなのだ。ここが先生のすごいところだと思う。なつをは思った。先生は相談者に対してかなり先のこと・・・たとえば半年先とか一年以上先とか・・・まで計画を提示することがよくある。「相談者にとっては、先の計画は知りたいところでもあり、しかし本当に出来るのだろうかと不安になるところでもあるのです。」以前先生は言っていた。実際その通りだと思う。以前、少し自慢も込めてだったと思うが、「並のカウンセラーの場合、ここで、目先の行動課題だけ提示してお茶を濁すことが多いわけです。」と言っていた。ちなみに逆はないそうだ。相談者を不安にさせてでも未来の計画をバッチリ提示するというカウンセラーはお客が寄りつかなくなるから廃業につながるらしい。本当に「解決する」という信念に従えば客離れのリスクと直面し、お客さんの安心を優先すれば、目先のことだけ言うカウンセラーになってしまう。商売として成り立たせながら、大事な仕事を行っていく。もうそれだけでかなり難しいことなのだと、なつをはその時思ったのだった。
ただ、先生はそれほど難しそうな顔をしていなかった。「そのために、図で書くんです。」と楽しそうに語っていた。「いま問題で行き詰まっている人ほど、目の前の人、たとえばカウンセラーに『今言われたこと』に囚われてしまう傾向があります。つまり一年先の計画をこちらは話しているつもりでも、聞いている方は『今すぐその課題をしなくてはいけないのか。自分にはとてもできない』と暗い気持ちになってしまう、ということです。」どうすればいいんですか、と聞いたなつをに先生は「だから、図にして、いま全体の中のどこを話しているのか目で見て分かるように説明することが大事なのです」と答えた。
なつをはその時、こんなことも質問したのだった。「そもそもだいぶ先の計画を、なぜ言う必要があるのですか?」先生の答えはこうだった。「なぜって、それは、相談者を否定しないためですよ。たとえば、彼氏ができないという相談にいらっしゃったとします。こちらとしてはたとえば『運命の相手メソッド』とか、直接出会いにアプローチする方法論は持っているわけですが、話を聞いていくと、どうも今はまだ、この人は、それにチャレンジするには心が十分回復していない、と感じたとします。たとえば目先の解決策として、話を聞いてもらい、フォーカシングをして自分の心を回復させる取り組みが、今は大事、ということを提案することは、必要としても、そういうとき、なつを君なら、始めにクライアントが望んでいた『いい出会いを作るにはどうしたらいいか』という相談内容は、どうするのですか? それは今のあなたには無理だからやめたほうがいい、って言いますか? それとも、完全にその話題はタブーにして話さないことにする?」そうなのだ、クライアントが自ら求めているからこそ、それは今はやらない方がいい、このような手順でそこまでたどり着きましょう、という全体計画を言う必要があるのだった。
このようなジレンマの中、先生が試行錯誤の末、編み出したのが「図解すれば、いま不安な相談者も、意外と冷静に未来の計画を聞くことができる」という法則なのだった。これは心理学の教科書や心理カウンセリングの講座ではほぼ教えてもらえない現場の知恵だ。

なつをの気が散って、先生との過去の会話を回想している間に、セッションは進んでいた。

「そして、自分の好き嫌いに対して敏感になってきたら、もう一度今日行った『運命の相手メソッド』を実践していきましょう。」
「先は長いですね。」
「確かに、長いですね。だから、全体像は一度ざっと把握したら、あとは、目の前の課題に集中すること。これが継続するコツです。」
「・・・はい。分かりました。」

(つづく)

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シングルを卒業(6)|恋愛ドクターの遺産第5話

ここまで色々質問をしてきたドクターが、ここでハッキリと意見を述べ始めた。
「ええと、みさおさん。」
「はい。」
「少し、残念なお知らせをしなければいけません。」
「恋人、できなさそうな人、てことですよね?実際そうですから、覚悟は出来ています。」
「まあ、広く捉えれば、そういうことになりますが、もう少し細かく見てポイントをお伝えしようと思っています。」
「あ、失礼しました。お願いします。」
「ここで、『優しい人』を具体的にどんな人か言葉を足してもらったら『暴言を吐かない人』『暴力を振るわない人』『大声を出さない人』と、ネガティブな項目の否定形が並びました。」
「あ、そうですよね。」
「これを、我々は『卒業ポイント』と呼んでいます。こういうネガティブなイメージは卒業すべき、という意味を込めて、そう呼んでいます。」
「友達にも言われました。ポジティブに考えることが大事だ、って。」
「ポジティブに考える、といういわゆるポジティブシンキングは、お勧めしません。」
「え、そうなんですか?」
「ちょっと説明が難しいのですが、ポジティブシンキングというのはポジティブな方に『意識』を向ける、というような取り組みのことです。しかし、恋愛が絡むときは『表層意識』ではなく『潜在意識』がどちらを向いているかが大事になります。」
「潜在意識、ですか。」
「平たく言えば、『男性をイメージしてください』とだけ言われたときに、温かい感覚と共に男性を想像するのか、それとも何か冷たい印象や、怖い印象と共に想像してしまうのか。どちらの印象が自動的に出てきやすいのか、というような部分です。」
「あ、私はネガティブな方ですね。怖いイメージが出てきます。」
「そう、その、自動的に想像するイメージこそが『潜在意識』レベルで、みさおさんが持っている男性のイメージです。」
「先生、私のこの、ネガティブな男性イメージが、これまでずっと、恋人が出来なかった原因、ということですか?」
「ええ。その原因だけ、かどうかはまだ分かりませんが、かなり重要な要因になっていることは、間違いないと思います。」
「こうなってしまったのは、父親の影響だと思うのですが、それって治せるんでしょうか?」
「えぇ、治せますよ。」

相変わらず、問題解決力には自信がある受け答えだ。なつをはこういうときの先生の、軽く「できますよ」と言ってしまうときの口調が好きだ。重いテーマなのだが、軽く言われる事でかえって希望が湧いてくる。

「どうやって・・・」
「まあ、どうやって取り組むかは、あとでじっくり考えたいのですが、もう少し質問させてください。」
「あ、はい、すみません。」
「『尊敬できる人』を詳しく説明してもらったときに出た項目も、『人をバカにしたり見下したりしない人』という『何々でない人』になっていますが、これもお父様みたいな人は嫌だ、という感じなのですか?」
「はい。父は人のことをバカにした発言が多い人で、いつも私や母、あと、弟もいるのですが、家族のことを見下した発言が多かったです。だから、つき合うならそういう人だけは絶対に嫌だ、と思っているんです。」
「なるほどね。お父様は約束をよく破る人だったんですか?」
「はい。その場の気分だけで約束をして、結局守ってくれないことが、しょっちゅうありました。どこどこに連れて行ってくれる、と約束しては、結局なんだかんだ言って行かなかったり、買ってくれる約束をしたものも、買ってもらえなかったことの方が多かったです。そのくせ、次は本当に買ってくれるの?みたいに言うと起こるので、嘘でも喜ばなければならないのが、いつも辛かったです。」
「なるほどね。嘘が嫌なのに、自分の気持ちには嘘をつかなければならない。これは苦しいですね。」

そう言われたとき、みさおの両目からは、大粒の涙がぽろぽろっとこぼれた。

「五分ぐらい休憩を入れましょう」ドクターが提案した。「なつを君、すみませんが、お茶を淹れてくれますか?」

お茶を淹れたあと、なつをは考えていた。このまま「運命の相手メソッド」を実践していっても、ネガティブな影響を受けすぎていて、まだ十分癒されていないみさおさんは、理想のパートナーを見つける行動にまで進むのは難しいだろう。先生もきっと、そう考えているに違いないけれど、どこでそのような提案をするのだろう、そして、先生は一体、どんな解決策を提示するのだろうか。

なつをがふと先生の方を見ると、先生はただ、お茶を味わっているだけで、ぼうっとしていて何も考えていないように見えた。

・・・

「そろそろ、再開しましょうか。」ドクターが提案した。
「はい、お願いします。」

「さて、少し提案があるのですが。」
「はい。」
「先ほどまでのワークで、卒業ポイントがとても多いことが分かりました。」
「はい、私にもよく分かりました。」
「休憩前にはあまり話しませんでしたが、ほかにも『私のひとり時間を大切にしてくれる人』という項目があります。これは、ひとりの方が安全、と感じている人がよく出す項目なのです。」
「確かに、そうですね。同じ部屋に男性と一緒にいたら、いつも邪魔される、というような感覚があります。」
「そうですよね。その感覚を潜在意識が持っているうちは、恋人を作る取り組みがうまく行かないと思います。」
「・・・先生、ハッキリおっしゃいますね。」
「ええ、私は事実はハッキリ言うべきだと思っていますので。」
「その感覚を潜在意識が持っているうちは、ということは、その感覚を潜在意識が持たなくなったら・・・」
「そう、持たなくなったら・・・つまり、卒業できたら、その時は、理想のパートナーを見つける行動を起こす時だ、という意味です。」
「どうやったら、卒業できるのでしょうか。」

「そうですね。そろそろ、今必要な取り組みについて話し、決めていきましょうか。」
「はい、お願いします。」
「まず、現状の分析ですが、みさおさんは、自分がこの世界で『安全ではない』と感じていらっしゃる。」
「はい、とても不安です。」
「自分の中に、安全の感覚を育てていくことを、最優先課題として取り組みましょう。」
「はい・・・どうすればよいのでしょうか?」
「具体的な方法の前に、ちょっと取り組みの全体像を説明させてください。」
「あ、はい、お願いします。」
「まずは、安全の感覚を心の中に育てる。」ドクターはホワイトボードに板書しながら説明していく。
「はい。」
「安全の感覚が育ってくると、『アレが好き』『これが嫌い』『アレはやりたい』『コレはやりたくない』といった、自分本来の好き嫌いの感情が自由に出るようになってきます。」ドクターは先ほど書いた「安全の感覚を・・・」の方に①と番号を振り、その下に「②好き嫌いの感情に敏感になる」と書き、矢印で①→②とつないだ。
「へええ、そうなんですか?」

(つづく)

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シングルを卒業(5)|恋愛ドクターの遺産第5話

第三幕 卒業ポイント

「失礼いたします。」
「どうぞ。」

三十代半ばらしい女性が入ってきた。笑顔を作っているがどこかぎこちない印象に見える。緊張しているのかも、となつをは思った。

「おかけになって下さい。」
「はい、ありがとうございます。」
「本日は、ご相談いただき、ありがとうございます。」
「あ、いえ、こちらこそ、こんな悩みの相談で良かったのかどうか・・・」

先生は、相手が緊張しているときは、本当に形式通り、決まり切った始まり方をする。着席を勧め、相手と一緒に座る。これは「ミラーリング」というのだそうで、相手と動作を合わせることで少しでも親近感がわくように、という配慮だそうだ。そのあと、必ず丁寧に、今日来てくれたことへのお礼を言う。いつも、私に対して使う言葉遣いとは全く違う、ともすれば丁寧すぎて嫌味になるのではないかと心配になるほど、丁寧に話す。以前質問したら「とても緊張している相手には、そのぐらいで丁度いいのですよ。」と言っていた。

「えぇと」ドクターが手元の紙を見ながら話し始めた。「みさおさん、でよろしいんですね。」
「はい。」
「このセッションの中では、私は、みさおさん、って呼ばせて頂いて大丈夫ですか?」
「はい。私は、先生、Aさん、えぇと、なんとお呼びしたらよろしいのでしょう?」
「先生でも、Aさんでも、なんでもいいですよ。」
「じゃあ、先生と呼ばせていただきます。」
「はい、お願いします。」

セッションが始まった、今日のセッションは、理想のパートナーを明確にするワークから入るようだ。これは先生の十八番で、このワークをしていると、その人がどんな恋愛パターンをしているのかかなりハッキリ分かるのだそうだ。それも、ワークをしている受け答えとなどの生の様子を見なくても、ワークをした後の記録用紙をちらっと見ただけで、かなり分かるのだそうだ。先生は、以前自信満々にそう言っていた。実際・・・今日は個人セッションだが・・・このワークを中心としたワークショップを開いたとき、先生から席の遠い受講生が書いた用紙を先生がチラッと見て、こういう恋愛が多くないですか?と言い当てていたのを見たことがある。あのときは確か「立派な人だと思ってつき合ったけど、仕事が忙しくてかまってもらえなくて寂しいというパターンありませんか」って聞いていた気がする。とにかく、いきなり恋愛パターンまで当てられたその女性はかなりびっくりしていたし、その後先生の分かりやすい解説の効果もあって、その日の講座では、みんな、真剣に取り組んでいた。今日もそんな「神業」が見られるのか、ワクワクしてきた。

ドクターは白紙の紙の上の方に【私は「彼」に何を求めているのか?】と書いた。

「みさおさんは、この質問、【私は「彼」に何を求めているのか?】と聞かれたら、どんな答えが頭に浮かびますか?」

いよいよ始まった。ベストパートナーを見つける・・・「運命の相手メソッド」と先生は呼んでいるのだが・・・この技法は、かならず今の質問から始まるのだ。シンプルなのに本質を引き出す、極めて有効な質問だ。

「えぇと・・・『優しさ』かな。」
「なるほど・・・優しさ・・・と。」
ドクターは付箋紙に「優しさ」と書いて、紙に貼っている。

「それから、『尊敬できる人』ですね。」
「『尊敬できる人』と。」

こんな風に、しばらくはみさおが答え、その答えをドクターがふせんに書いて紙に貼っていく、という作業が続いた。10項目ぐらいが紙に貼られて、しだいに紙がピンク色のふせんで賑やかになってきた頃、ドクターが一旦流れを止めた。

「なるほど・・・『優しさ』『尊敬できる人』『一緒にふつうのデートができる』『私のひとり時間を大切にしてほしい』『話を聞いてくれる人』『仕事ができる人』『家族を養えるだけの収入』『お金に汚くない人』・・・あとこの『ディバインダンス・アンド・デッドリーデスのライブに一緒にいってくれる人』これは、みさおさんが好きなバンドか何かですか?」
「はい。ロックバンドです。英語でDが続くので『4D』と略して呼ばれるんですが、年に何回もライブに行っているんで、一緒に来てくれる人がいいです。」※架空のバンドです。

ドクターは少し考え込んだ風の表情になって、少し黙っていた。そして、おもむろに質問をした。
「この『優しさ』というのは、もう少し具体的に言うと、どんなことですか?」
「ええと・・・私を安心させてくれる人」です。
「なるほど。私を安心させてくれる人、ね。実はそれでは、相手の説明になっていないんですね。安心感を感じたのは私。で、その私は、どんな相手が目の前にいたら安心するのでしょうか?このワークでは、そこをしっかり言語化することが大事なのです。」
「ええと・・・安心させてくれる人は・・・ええと・・・あの、暴言を吐かない人が良いです。」
「なるほど。暴言を吐かない人。確かに、暴言を吐く人が目の前にいたら、安心できませんからね。」

なつをは、先生の表情が少し曇ったのを見逃さなかった。先生はいま、きっと「卒業ポイントが多そうだなぁ」と感じているに違いない。以前このテーマのワークショップを開催したときに、先生が解説していた。相手に求めるものをリストアップしていくのがこのワークの基本なのだが、その日のワークショップでは「暴力を振るわない人」「暴言を吐かない人」「大声を出さない人」などのネガティブな項目の否定形、「何々しない人」のオンパレードになった受講生がいた。
それに対して先生は、「このように、何々しない人、という否定形でネガティブな項目の否定形ばかり出てくる人は、無意識レベルで、この世界は危険なところで、安全がないと感じています。だから必死でそれを否定しようとして、このような項目が出てくるのです。」と明快な解説をしていた。このようなネガティブな項目のことを先生は「卒業ポイント」と呼んでいる。
なつをが思い出しているうちに、実際のセッションでも、やはり卒業ポイントの列挙が始まった。

「ほかには?」ドクターが尋ねた。
「暴力を振るう人はいやです。」
「なるほど。それはそうですよね。」
「あと、大声を出す人も苦手です。」
「なるほど。『大声を出さない人』と。」ドクターは受け答えをしっかりしながらも、ふせんに項目を手際よく書いている。
「では次に、『尊敬できる人』についても具体的にお聞きします。尊敬できる人と結婚したい、というのは、ある意味当然なのですが、みさおさんは、どんな相手なら『尊敬できる』と感じるのでしょうか?」
「ええと・・・人をバカにしたり、見下したりしない人、ですね。」
「なるほど。人をバカにしたり、見下したりしない人。ほかにも大事な要素はありますか?」
「あと、約束を守る人。」
「なるほど。約束を守る人、と。」
「あ、あと、嘘をつかない人。」
「あぁ、そうですね。嘘をつかない人。嘘つく人は嫌ですよね。」
「はい。そう思います。」

いつもながら見事だ、なつをはそう思い、感心しながら先生のセッションを見ていた。先生は大事なポイントはきちんと書き留めたり、ふせんに書いて似た項目をグループ分けして整理しながら話をきいていく。しかし、だからといって、もしもこのセッションを録音したとしたら、不自然な沈黙などの間は、ほとんどない。話を聞いて受け答えする方の脳味噌と、話の中身を整理していく方の脳味噌、両方を同時に使えるのだろう。すでに、先生が整理している紙の上は、ずいぶん分かりやすくまとまってきている。

ここまで色々質問をしてきたドクターが、ここでハッキリと意見を述べ始めた。
「ええと、みさおさん。」
「はい。」
「少し、残念なお知らせをしなければいけません。」

(つづく)

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シングルを卒業(4)|恋愛ドクターの遺産第5話

しばらくたって、なつをが淹れたお茶を飲みながら、なつをとドクターの恋愛談義はまだ続いていた。
「あの、私、恋人が出来ないのが三年ぐらい続いているんですけど、どうしてなんですかね?」
「なるほど。なつを君、恋人が出来ない理由を知りたい、と。」
「えぇ。」
「解決したいということですか?」
「そりゃ、もちろん。」
「前の恋人と、何かあったんですか?」
「えぇと・・・別に・・・いや、もちろん、お互いに気持ちがすれ違うようになって別れたわけですけど、暴力を振るわれたとか、浮気をされたとか、そういうことは特になかったんですよね。」
「なつを君は、お別れした後、ちゃんと心の中で『お葬式』をしましたか?」
「はい?」
「いや、だから、彼と別れたことを、しっかり悲しむという儀式をしましたか、という意味です。」
「えっ?・・・そう言われてみると、友達からも『意外と平気そうだね』って言われてましたし、確かに、そんなに泣いたりとか、しなかった気もします。」
「その彼との別れの後、恋愛に対してアクセルを踏まなくなった、そういうことはありますか?」
「ありますね。それまでは・・・というか彼と出会う前は、と言った方が正確ですけど・・・かなり積極的に・・・えぇと、大学時代だったので、コンパとか、出会いのある場に出て行っていました。彼と別れた後は、断ることが多くなった気がします。」
「そう聞くと、お別れがちゃんと済んでいない、という要因は、あるかもしれませんよ。」
「お別れが済んでいない・・・?」
「そう、人は、別れたら心が傷つくものです。その傷を癒すためには、やはり悲しんで涙を流す、そのような儀式が必要なんです。それをせず、気持ちにフタをしたまま先に進もうとすると、傷つきそうな出来事が起こらない方へ、起こらない方へと、守りの行動ばかりしてしまうようになります。」
「・・・あたってるかも。」
「もうひとつ、気になるポイントがあります。」
「はい。」
「そもそも、その彼とは、相性が合っていたのか、という問題です。」
「えっと・・・どう答えたらいいんでしょう?」
「まあ別に、なつを君のカウンセリングをしているわけではないので、答えなくてもいいですし、どう答えてもいいですよ。」
「あぁそうでした。でも、確かに、彼は私のことをよく見ていてくれて、私の変化にすごく気づいてくれる人だったんですが、一方で自分で決めて自分で進むことが出来ない人で、最後の頃はそれが嫌になって、でも言っても変わらないしケンカっぽくなったり険悪な雰囲気になったりするので、あまり言わなくなって、でも結局何だかがまん大会みたいになって、結局別れてしまいました。」
「なるほどね・・・最初のうちは魅力に見えていた、彼の『顔色をうかがう能力』が、あとで、嫌な面としてなつを君の目に映るようになっていった、と。そういうわけですか。」
「なんか、そう聞くと、私がワガママな人間みたいですね。」
「そうですか。そもそも、そういうものじゃないですかね。人間とは。」
なつをは、先生は本当にドライだなぁ、と今日も思った。ドクターは今はカウンセラーをしているが、元々理系の大学を出たそうだ。人間が嫌いというわけでもないし、人の温かさを信じているところもある。でも、何か、ヒューマニズムというか、そういうものをあまり信じていないというか、冷めている。愛情であっても、「所詮、脳内ホルモンの働きと、快楽を司る神経細胞の興奮だろう」と割り切っているところがある。
「なんか、自分にがっかりするじゃないですか、そう言われると。」
「そうですかね? 自分のことを分かってほしい、気にかけてほしい、かまって欲しい、という欲求が自分にある、と自分で気づいていて、さらに、相手に、自分のことは自分で決める程度の自立を求めているんだなぁ、と自分で気づいていれば、それで問題ないと思いますよ。」
なつをは、ドクターの持論を突き付けられて、返す言葉が何も見つからなかった。その通りなのだ。ドクターの持論は、相手に何かを求めるのは自然なこと。それ自体は悪ではない。ただ、無自覚にやっているとトラブルが起こる、というものだった。
たとえば、先ほど話題に上がっていた、なつをの過去の恋愛の話なら、こうなる。
なつをは元々、彼にかまってもらいたい、自分のことを見ていてほしい、その想いが強かったから、それを満たしてくれる彼を選んだのだ。但し、些かバランスを欠いていて、本当は自立していることも、相手に求めていたのだが、そちらの思いは「自分でも気づかず」に、交際を始めたのだった。そして、始めに強かった方の「かまってほしい」は交際の中で満たされ、気づかなかった方の「自立していてほしい」が頭をもたげてきた、と、こういうことだ。
ドクターの持論は常にこうだ。自分自身を知ることがまず大事。そして、極端な不満など、バランスを崩す要因は気づいて恋愛前に対処して、バランスの取れた自分であろうとすること。それが出来ていない状態でパートナーを選ぶから、自分に合わない相手を「好き」と思ってしまうのだ、と。

どうやらいよいよ、今日のクライアント、みさおさんがやって来たようだ。

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シングルを卒業(3)|恋愛ドクターの遺産第5話

「ところで、彼女の『恋人がいない期間』はどのぐらいですか?」
「えぇと、相談申込の時に頂いた情報によると、これまでの人生で一回も恋人ができたことがないそうです。」
「そうですか。これは結構骨が折れる話になるかもしれませんね。」
「えっ? そうなんですね。」
「そうです。美人問題では、三十何年も恋人が出来ない、という問題にはならないですね。せいぜい社会人になってから、ぐらいでしょうか。それでも長いかな。えぇと、みさおさん、でしたっけ・・・逆に彼女の場合、人生で一度も恋人が出来ていないわけですから、おそらくは、何らかの生育歴的なテーマではないでしょうか。」
「恋人がいない期間の長さで、分かるんですか?」
「えぇ、そうですよ。」
「どうして分かるんですか?」
「まあ、いま答えたからといって、なつを君が今すぐ判定できるようになるわけではないと思いますが、考え方として大事なので、覚えておいて下さい。私は、問題の根っこにどんなものがあるかを記憶する際に、その根っこがどのぐらい『重たい』原因なのかも覚えるようにしています。」
「重たい原因、ですか・・・」
「病気にたとえて考えると分かりやすいですね。たとえば、下痢の原因には色々なものがあります。お腹が冷えた、というものから、食中毒、そして、赤痢に感染した、というようなものまで。」
「はい。」
「なつを君が昨日、下痢をしたとします。そして今日はけろっと治ったとしますね。そういうときに『私は赤痢かしら』と考えるでしょうか。」
「いえ、それは考えないと思います。」なつをは、クスッと笑いながら答えた。
「ではなぜ、考えないのですか?」ドクターは、あくまで真面目な質問をしているのだ。
「えぇと・・・それは・・・大げさすぎると思うからです。」
「大げさすぎる・・・」
「はい。赤痢だったら、もっと症状が深刻に出るんじゃないでしょうか。」
「そう!そこなんです!」ドクターは話す声に力が入った。「いいですか、何かの原因と結果を本で読んで勉強した場合、欠けてしまいがちなのは、原因の『重さ』に関する感覚・見識です。」
「はい・・・」
「赤痢がもし原因だとしたら、かなり深刻な症状が出るはずだ、となつを君は考えたわけです。」
「そうですね。」
「しかし、自分の症状は、そこまでじゃなかった。」
「えぇ。」
「したがって、赤痢という線は、除外しても良さそうだと考えた、そういうことですね?」
「そうですね。ハッキリと意識はしていなかったですけど、そういうことになりますね。」
「その逆も言えます。もし、何日も下痢が続くようなら、お腹が冷えただけかな、とは考えないはずです。症状に対して、想定する原因が軽すぎるわけです。」
「そうですね。何かの食中毒とか・・・発症した場所が外国であれば赤痢のような感染症も考えますね。」
「そして、すぐに医者に行こうとするはずです。」
「そうですね。」
「同じ『下痢』という言葉でも、その程度・深刻度には幅があるわけです。そして、症状が深刻である場合、原因もそれに対応した強力なものがあるはず、と考える必要があります。」
「なるほど。」
「心理や恋愛に関する原因と結果も、同じように学ぶ必要があります。インナーチャイルド的な課題が原因で・・・たとえば人間不信で子供の頃から対人恐怖もある、という原因などですが・・・これは比較的『重い』方に入りますが・・・その場合、たとえば、恋人が今までの人生で一回も出来なかった、という症状と、深刻度で考えると釣り合います。一方、ここ3年、恋人が出来ない、という症状に対してインナーチャイルド課題を原因推定したとすると、今度は、症状に対して、原因が重すぎるわけです。」
「なるほど。確かにそう言われてみたら分かりました。」

・・・

しばらくたって、なつをが淹れたお茶を飲みながら、なつをとドクターの恋愛談義はまだ続いていた。
「あの、私、恋人が出来ないのが三年ぐらい続いているんですけど、どうしてなんですかね?」
「なるほど。なつを君、恋人が出来ない理由を知りたい、と。」
「えぇ。」
「解決したいということですか?」
「そりゃ、もちろん。」
「前の恋人と、何かあったんですか?」
「えぇと・・・別に・・・いや、もちろん、お互いに気持ちがすれ違うようになって別れたわけですけど、暴力を振るわれたとか、浮気をされたとか、そういうことは特になかったんですよね。」
「なつを君は、お別れした後、ちゃんと心の中で『お葬式』をしましたか?」

シングルを卒業(2)|恋愛ドクターの遺産第5話

第二幕 恋愛哲学

ゆり子は「恋愛ドクターの遺産(レガシー)」ノートを開いた。このノート、元々はゆり子の祖父の手記である。ノートは父から受け継いだのだが、今は受け継いだまま、段ボール一杯に入っている。いつも、悩んだときはそのうちの一冊を「えいやっ」と抜いて、開くのだった。このやり方も、父から受け継いだ。すると、今悩んでいることと、不思議なぐらい符合する内容が書いてあるのだった。
今回選び出したノートは、他のノートよりいくぶん厚いようだった。「まあいっか。流れに任せるのがこのノートの使い方だったっけ。」ゆり子はつぶやいて、早速ノートを読み始めた。
・・・

「先生、やっぱり頭の悪い女性は嫌いだ、ということなんですか?」なつをが恋愛ドクターに、食ってかかるような調子で質問をしている。もうありふれた日常だ。
「まあ、良い悪いは置いておいて、私は自分が色々考えたことを話して、それが通じるような相手でないと、一緒にいてもがっかりの連続になってしまう。だから、私にとっては知的な女性である、という要素は、はずせないものなんです。」
「なるほどねー、才色兼備な人が良いってことですねー。」なつをはメモを取っている。
「なつを君、そこのメモは必要なんですか?」
「もちろん、大事です。」
「べつになつを君が、私とつき合うわけではないのだから、私の好みを把握しても役に立たないと思いますが。」
「うーん。うまく言えないけど、大事なんです。」

いま、二人は、恋愛談義の真っ最中だ。といっても、議論というよりは、なつをが一方的に恋愛ドクターA(ゆり子の祖父)に、恋愛哲学・・・というよりもっと実用的なもの・・・即ち、長続きするパートナーシップの秘訣を聞いているところだ。なつをの質問責めに対して、ドクターが堂々と持論を展開する、という、おなじみの光景だ。

「先生は、奥さまのどこが気に入って結婚されたんですか?」
「・・・いきなり直球ですね。いろいろありますよ。・・・でも、一番は自己肯定感があって・・・これはつまり、本人が自分を好き、っていう感覚をしっかり持っているということですが・・・基本的にポジティブ、というところだと思いますね。そういう人は、一緒にいて安心感がありますから。」
「なるほど。」
「そこはメモを取っても良いところだと思いますよ。」
「あっ」なつをは慌ててメモを取った。「でも、自己肯定感があってポジティブだったら、誰でも良い、というわけではないと思うんですよね。外見とか、趣味が合うとか、そういう面は関係ないんですか?」
「あぁ、関係あると思いますよ。外見は、人それぞれ好みがあるから、一般化するのは難しいですが、女性は概して、外見に凝り過ぎだとは思います。最新のファッション雑誌に載っているような微妙なニュアンスの差が分かる男性はあまりいません。それこそ10年前のファッション雑誌に載っているような、ちょっと古い、というかトラディショナル、というんでしょうかね、そのぐらいの外見をした方が、男性には通じることが多いと思うんですよね。」
「先生もそうですか?」
「私は、そうですね。ファッションには割と疎い方なので。」
「外見はあまり凝らない方がいい、と。」メモを取りながらなつをはつぶやいた。
「なつを君は、もう少し凝っても大丈夫だと思います。」少しニヤッと笑ったような表情を浮かべながら、ドクターが言った。
「えっ!? あぁ確かに、私、あんまり化粧っ気ないですしね。」なつをはそう言いながら少し頬が赤くなった。そして、ドクターが何か言おうとするのを遮るように質問をかぶせた。「先生、奥さまはわりと可愛らしい雰囲気の方ですが、美人系と可愛い系では可愛い方が好みなんですか?」
やれやれ、といった表情でドクターが答えた。「それを知っても、なつを君の恋愛には役立たないと思いますが・・・どちらの顔立ちのタイプともつき合ったことはあります。基本的に、内面的には気持ちが明るく、見た目的には健康的な美しさがあることは大事かな、とは思いますが、美人系か可愛い系かと言われると・・・そんなに好みに偏りはないですよ。」今度はドクターがみさおの次の質問を封じるかのように、持論をさらに話し始めた。
「基本的に、自分が好き、自分は可愛い、って思っていたら、そのセルフイメージにふさわしくあろうとするものです。無理はせず、自然な感じで可愛らしくするし、必要に応じてお化粧やファッションを活用するはず。逆に、今の自分が嫌い、自信がない、可愛くない、というセルフイメージがあると、自分を塗りつぶして消すためのお化粧をしてしまったり、自分を隠すための服を着てしまったりすると思います。」
「あ、なるほど。分かります。」
「お化粧をするのがいい、しないのがいい、という話ではなくて、自分は可愛いから、その可愛い自分にふさわしい外見で出かけよう、と思うのか、自分は可愛くないから、素の自分を塗りつぶしたり、隠したりして、別の外見を作ろうとしているのか、その違いは大きいと思いますよ。」
「あぁ、なるほど、だから、先生の話の最初に、自己肯定感の話をされたんですね。」
「そういうことです。同じようなメイクやファッションをしていたとしても、自分はこれでいい、という前提を持っているのか、自分はそのままでは全然ダメ、という前提を持っているのかで、違いが出てくると思いますよ。まあ、若い男性などは、最初は外見に騙されますけどね。」
「騙される・・・?」
「そうですね。内面は、確かににじみ出るものですが、ただ、内面的には自己否定が強くても、美しくメイクをしていれば、それを見抜けない男性もいる、ということですね。ちょっと言葉が悪かったかな。」
「先生、私と話していると時々、相談者さんには言わない毒舌、言われますよね?」
「まあそれは、時と場合をわきまえた発言をしている、ということで。」ニヤニヤしながらドクターが言った。

会話はこのあと、少し毒のある雑談の応酬になったが、ほどなくして、なつをが口調を真面目に戻して、言った。
「先生、今日の相談者さんは、みさおさん36歳、恋人が出来ない悩みだそうです。」
「そうですか。」
「そういえば先日、美人なので恋人が出来ない、という方がいらっしゃいましたが、また同じようなお悩みなんでしょうかねぇ・・・」
「それは分かりません。恋人が出来ないという悩みの原因は、本当に千差万別なので、よくよく話を聞いてみるまでは、勝手な判断は禁物です。」
「はい、そうでした。」
「ところで、彼女の『恋人がいない期間』はどのぐらいですか?」
「えぇと、相談申込の時に頂いた情報によると、これまでの人生で一回も恋人ができたことがないそうです。」
「そうですか。これは結構骨が折れる話になるかもしれませんね。」
「えっ? そうなんですね。」

(つづく)

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シングルを卒業(1)|恋愛ドクターの遺産第5話

第一幕 相談

「そんなの昔から、『亭主元気で留守がいい』って言うじゃない。それでいいのよ。大丈夫だって。」香澄が言った。
香澄はゆり子の友達だ。よくランチをしたり、お茶をしたりする仲である。今日は喫茶店に入り、おしゃべりをしているうちに、現在の夫婦仲の悩みを、ゆり子はつい話してしまったのだった。そして、香澄の回答が、それだ。
「そうかなぁ、私はそこまで割り切れないけど。」ゆり子が応えた。
「いつまでも愛が長続きする、って、かなり無理があると思うよ。一緒に住んだら相手に幻滅することもたくさん出てくるし、それを受け入れていかないと、結婚生活は続かないと思う。結婚って結局、がまんの連続だよ。」香澄の持論は強固で、一歩も引く様子はない。
「まあね・・・」ゆり子は、この話題、出さない方が良かったかな、とちらっと思ったが、今さらそれを悔やんでも仕方ない。覆水盆に返らず。もうこの話題を出したことを取り消すことは出来ない。そして「そうかもね・・・」と、お茶を濁した。
ここでこの話題は終わりになる、そう思ってゆり子が安心しかけたとき、「私は違うと思う。」毅然と言い放ったのは順子(よりこ)だ。「私は、相手の話をちゃんと聞くことが大事だと思う。信頼関係があれば、仲良し状態は続くよ。」
この一言が、火に油を注ぐ格好になった。香澄は一段と声のトーンが高くなって、順子に質問を投げた。「順子はさぁ、だんなさんに不満とかないわけ? 相手の話を聞く、って言うけど、順子が話を聞くの?それとも、だんなさんが順子の話を聞くの?」
「えぇと、両方かな。私も話を聞くように心がけてるし、彼も話を聞いてくれるから。不満、というか、その時その時で、相手に言いたいことはあるけど、それはちゃんとお互い伝えているし、確かにお互い欠点はあると思うけど、そんなに気にならないのよね。」
「それって、単に順子が我慢してるのと同じじゃないの?」香澄はあくまで持論に固執している。
「違うと思うけど・・・我慢って言うのは、受け入れていないのを、受け入れたフリするって言うか、不満を溜めたままフタをするっていうか、そういうことでしょ?」
「え!?何? 私が不満を溜めたままフタしているって言いたいわけ?」
「だって、『我慢』しているんでしょう?」
険悪なムードが漂い始めて、ゆり子はこの話題をこの場で出したことを心底後悔した。(あぁ、こんな話になるんだったら、言うんじゃなかった・・・)
「私、そろそろさくらのお迎えだから、行かなくちゃ。」ゆり子はこの場にいるのがあまりに辛くて、本当はあと30分ぐらいは大丈夫だったのだが、そう言って席を立った。

・・・

買い物、お迎え、夕飯、などなど、日々の雑用(ルーティーン)を終えて、ひとりになった。忙しいときは忘れていられたが、全て終わって、夜一人ぼうっとしていると、つい考えてしまう。果たして自分は、夫の幸雄を本当に「受け入れて」いたのだろうか、と。それとも単に「不満を溜めているがフタをしていた」に過ぎなかったのだろうか。もちろん、関係がこじれて、今は一緒にいるのが辛いから、別居しているわけで、今は受け入れているとは言えない。でも、結婚生活を普通に続けていたときも、いや、もっとさかのぼって、交際していたときであっても、本当に彼のことを「受け入れて」いたのだろうか。それとも単に「不満を持っていたが、別れるのが怖くて、フタをしていた」だけなのだろうか。
昼間の香澄と順子の議論は、確かに居心地が悪かったが、今振り返って考えてみると、香澄の持論にも一理あると、ゆり子は思った。香澄はいつも正直で率直だ。「言ってはいけない」というタブーが嫌いで、みんなが遠慮して言わないようなことも、堂々と言う。まあ、どちらかというと、思ったことを我慢できず言ってしまう性格とも言えるのだが。
不満を溜めてしまい、どこかでそれが、修復不可能なレベルに達して、別居や離婚に至る。そうならないために、香澄は「留守がいい」つまり、距離を取ることで壊滅しないようにコントロールしているのだろう。そのやり方を「後ろ向き」と批判する資格は自分にはない、とゆり子は思った。まだ同居している香澄のところと、すでに修復不可能になりかけている自分たち夫婦を比較して、そう考えてしまう。
順子のところは、お互い、話を聞き合うことができていて、きっと、不満をため込まずにいられるのだろう。話をすることが、いいガス抜きになっていることも大事な要因だろうし、順子が「それがうまく行く秘訣」と言うのも嘘ではないと思うけれど、そもそも、二人が一緒にいるときに、いつも楽しそうに見える。元々相性が良いのかもしれないな、と思わずにはいられない。今まであまり考えたことはなかったが、こうして改めて考えてみると、相性がいい相手と結婚することのメリットは計り知れない、と思った。
「相性ってあるのかなぁ。」ゆり子はひとりつぶやいた。「相性ってなんだろう?」

(つづく)

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婚難(8)|恋愛ドクターの遺産第3話

「それから。」ドクターは続けた。「美人問題があると、自然体の自分で居るかどうか、という条件が、より厳しくなります。」
「そうなんですね? 美人って、それほど得していないような・・・」苦笑しながらかおりは言った。
「まあ、苦労もありますよね。ただ、うまく舵取りできれば、印象が何倍にもなる、という特性は、人によっては喉から手が出るほどほしい「素質」になると思います。」
「そうなんですね。私はいままでうまく舵取りできていなかった、ということなんですか?」
「恋愛に関しては、そうだと思います。」
「先生、はっきりおっしゃって下さるところがイイです。」
「はは。ありがとうございます。思っていないことは言えないタチなので。」

ドクターは少しの間黙っていて、そして、もうひとつ質問した。
「ところで、オッサンぽいところは、家に居るときも発揮されていますか?」
「それが、自分ではよく分からないんですが、友達に言わせると、家では意外なほど女性っぽいらしいです。」
「へぇ。それはどんなところを見て、お友達はそうおっしゃるのですか?」
「忙しいときはできないんですが、料理をしたり、家の中をキレイに片付けていたり。豪快な飲みっぷりとは裏腹に部屋が女っぽい、と友達に言われました。」そう言ってかおりはくすっと笑った。
「それも、何かの機会に表現するといいですよ。」ドクターは言って、しばらく考えた後、さらに続けて聞いた。「そう、部屋汚す人、いやでしょ?」
「あぁ、まあ、使えば汚れるものですけど、極端に部屋が汚い人は嫌ですね。自分で使ったものぐらいは自分でゴミ箱に入れられるぐらいでないと・・・」
「そういうことも、話題に出すといいですよ。」
「・・・どんな風に?」
「たとえば、居酒屋でデート、あるいはその前の段階で、何人かで集まって飲み会をしたとしますね。そのときに、『部屋をきれいにするのが趣味で』『趣味の合う人がいい』って言ってみるわけです。」

「私、以前、男の人の部屋を見ないと信用できないとか思って、何かと口実を作って部屋に上がり込んで観察する、ということをしてみたことがあるんですが・・・」
「それ、結構煙たがられたんじゃ?」
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婚難(5)|恋愛ドクターの遺産第3話

「そこが、もうひとつの罠、なのです。」
「もう何を言われても驚きません。」少し苦笑しながら、かおりは言った。「先生、続けて下さい。」
「実は、美人問題というのは、あなたの印象を何倍にも増幅するという性質があります。」
「印象、ですか・・・」
「そうです。ここに、もうひとつの『できる人』問題がくっつきました。女性でここまでやっている人は、まだまだ少ないですから、当然、目立つわけです。」
「はい、確かにそう思います。」
「そこに、『美人』がつくと、印象が何倍にも増幅されるわけです。」

「ものすごくできる人、に見える、ということですか?」なつをが割って入った。
「そういうこと。なつを君、ここに、二人の女性がいたとして、一人は普通の顔立ちの司法書士、もう一人はこの、美人司法書士。もし『片方はものすごく敏腕なんですよ』と言われたら、どっちの人だと思いやすいですか?」
「確かに、ぱっと思い浮かべるのは、美人さんの方です。」
「そう、こんな風に、顔の印象がハッキリしていると、そのほかの部分の印象を、何倍にも増幅する効果があるのです。」

「言われて・・・納得です。」
「つまり、かおりさんは、美人であるがゆえに、そして、司法書士という、固くて、仕事をキッチリやりそうな感じのする肩書きを持っているがゆえに、ものすごく仕事ができて、お堅い性格の人なんじゃないか、そういう先入観で見られる立場に、常に置かれている、ということなんです。」
「言われて、少しほっとした部分と、でも、これって自分の問題というわけでもなさそうなので、一体どうしたらいいのか、という不安と、混ざった気持ちになりました。」

「そうですね。ですが、この問題の解決は、ポイントさえ分かってしまえば、意外と簡単です。」

「そうなんですね! あぁ、今日は来てよかった!」

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婚難(4)|恋愛ドクターの遺産第3話

「あともうひとつぐらい、大事な理由がありそうです。」ドクターは続けた。
「かおりさんは、自分のことを『男っぽい』と思いますか?」
「え、はい。結構『オッサン』だと思います。」
「なるほど、やっぱり。」

先生、言うことが失礼じゃないか、となつをは思った。クライアントに対して、オッサンだというのが「やっぱり」だとか、そんなこと言っていいのか、なつをが思った瞬間、かおりの反応は意外だった。

「やっぱり先生、見抜いていらしたんですね。そうですよね。私もこの『オッサン』な性格は問題じゃないかと、うすうす思っていたんです。」

ドクターは少し考えている様子で、言葉を選びながら話し始めた。
「確かに、女の中の女、女子の中の女子、みたいな女性の方が、男性から好かれ、選ばれるチャンスの数が多いのは事実です。かおりさんは、おそらく10代から、もしかすると20代前半ぐらいまでは、結構男性が寄ってきてモテたのではないかと思うんですが。」
「はい、自分で言うのもアレなんですが、結構モテました。」
「ですよね。若いときは割と男女共に、ですが、相手を見た目で選ぶ傾向があるのです。」
「わかります。でも、自分に合う人はなかなか居なかったです。」
「以前、私のところに、もう40代ぐらいでしたが、今でもお綺麗な方が相談に見えたことがあります。その人に、若い頃はモテましたよね。でも、自分に合わない人まで来て大変じゃありませんでしたか、と質問したのですが、その答えが面白くて。」
「なんとおっしゃっていたんですか?その方は。」
「『無駄モテって呼んでいました。』と。」
「なるほど、私の場合も、私に合わない人がいっぱい来ていたのは『無駄モテ』だったんですね。」かおりはそう言って笑った。
「そうですね。全然男性が寄ってこない女性から見たら、『無駄モテ』なんて、憤慨したくなる言葉でしょうけどね。」
「そうですね。」そう言いながら、かおりは何だか嬉しそうだ。
「モテる側の悩み、というのもあるんですよ。でも、大体、モテる側は少数派ですから、孤独だし、この悩みを分かってくれる人は、なかなか居ないんです。」
「そう!そうなんですよ!」かおりはひときわ大きい声を出した。

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