恋愛ドクターの遺産(5)セッション−1

恋愛ドクターの遺産 第一話 第三幕 「セッション」

(クライアントを前にすると、先生、迫力が違う)
なつをはいつもそう思う。別に怖い顔をしているわけではない。あくまで優しく話し、穏やかに聞いている。それがAのスタイルだ。時には談笑もし、冗談も言う。はた目から見たら、ただの雑談にしか見えない、そういう瞬間だってある。
でも、何かが違うのだ。それは、鋭さ、というひと言で表現するには軽すぎる「何か」だ。クライアントが話す話の、本当に些細なひと言や、場合によってはまぶたの小さな動きさえも、先生は確実に拾う。

「本当に綱渡りだったんです。」
わずかに震えているような声で、こばやんは言った。
「会社の売上が減って、新規顧客を開拓する取り組みも、失敗続きで。社運をかけて営業に行った大手の取引先との交渉も、相手の担当者がポーカーフェイスというか、本当にどう考えているのか腹の内を見せない人で・・・結局はこちらが少し折れて値引きをする形で交渉は成立したんですけど、最後の最後まで冷や汗ものでした。」
話しているうちに、いく分落ち着いてきたのか、最後は声の震えもなく、淡々と語った。

「その頃、こばやんは、気晴らし、というか、何か自分の心身の元気補給のための取り組み、というか活動は、何かされていましたか?」

(あ、ここ、大事なところなんだ)なつをはそう思った。今日先生が積極的に質問したのはこれが初めてだ。先生はクライアントがどんなに力説しても、そこは問題解決と関係ないと思ったら、丁寧には聞くが、その後、その話題に触れることすらない。華麗にスルーするのだ。
逆に、ここが核心、というポイントにさしかかったら、獲物に食らいついた猛獣が噛みついて離さない、ぐらいの強い意志で、絶対に離さない。食いつくところと流すところのメリハリがはっきりしているのだ。
いや、食らいついて離さない、というのとは、ちょっと違う。なつをは思い直した。以前先生が言っていた。クライアントは、核心に近づくとジタバタすることがある。その話題が動揺の元なので、無意識に話題を変えようとしたり、関連していそうだが微妙に関係ない話題を滔々とまくし立てたりして、核心に触れられることを避けようとすることがある。
そんなとき、クライアントが進もうとする方向に、無理せず従っていくことが大事なのだそうだ。関係ない話題だと分かっていても、しばらくその話題につき合うのだ。たとえば、今日のクライアントではないが、先日は、離婚するかしないかの話だったのだが、結婚生活のどこが決め手になって離婚を考えたのか、という話題になったら、その女性のクライアントは、新婚当初に、彼と一緒にベッドを買いに行ったときの話をし始めた。結局その話は現在の悩みと関係ない話だったのだが・・・
こんなとき、先生はクライアントの流れに逆らわず、しかし、確実に大事なポイントは押さえて会話を進めていく。まるで一旦捕らえた獲物に縄をつけて放し、しばらく自由に走らせたあと、再びたぐり寄せて確実に仕留める、といった感じだ。先日の女性クライアントの時は、しばらくベッドの話題、つまり脱線につき合ったあと、夜の生活が離婚を考えた原因ですか、と核心を突く質問をしてクライアントを驚かせていた。ベッドから連想したにしても鋭すぎる、となつをは思った。

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