ノートにはまだ続きがあって、まだ丁寧な字でびっしりと何かが書かれている。ここまで心に響く内容だったので、ゆり子はこのノートを最後まで読むことにした。
・・・
「先生、実際にやってみて、できました!」なつをが嬉しそうに報告した。
今日はカウンセリングではないが、なつをは先生に、特別に会う機会をもらって、報告している。場所もドクターのいつものオフィスではなくて、落ち着いたカフェだ。湯水ちゃんもいる。ただ、仕事ではないのでとてもリラックスした表情だ。
「そう、それは良かった。1回目からできたのですか?」ドクターは、仕事ではないときも、論理的だ。
「いえ・・・1回目はダメでした。なんか、恥ずかしくなってしまって。」なつをはそう言いながら恥ずかしそうにしている。
「そう・・・じゃあ、何回目までチャレンジしてみたんですか?」ドクターは、ニコニコしながら聞いている。そもそも、できた、という報告なのだから、何回目であってもいいのだ。最終的には「できた」という報告になることが、もう分かっているのだから。
「3回目です。」なつをが、まだ少し恥ずかしそうに答えている。
「そう、じゃあ、3回目まで頑張ったんですね。」
「・・・そうですね。」
実はドクターとなつをは、前回のセッションの最後に出された行動課題をやってみた結果について話しているのだ。その時に設定した行動課題は、「彼の手を握ろうとする」というものだった。既にお互いに、人間的にはある程度信頼し合っているところまで関係ができていて、ただ、二人とも遠慮がちで、そこから「恋愛」という意味での進展がない。そういう状況であったので、ドクターが提案したのが「機を見て彼の手を握る」というものだったのだ。
但し、「手を握る」という課題だと、不成功に終わる可能性がそれなりにある。タイミングが悪い、踏ん切りがつかない、などなど、様々な要因によって。そうすると、何度か試みる際に「ああダメだった」という失敗体験を繰り返してしまうことになる。人は失敗体験を繰り返し、ネガティブな感情が積もった出来事を無意識に避けるようになる。手を握ろうとする→できなかった→少し重い気持ちで手を握ろうとする→できなかった→もう少し重い気持ちで、頑張って手を握ろうとする→できなかった→そろそろ、挑戦するのが嫌になったり怖くなったりする→やめてしまう、まあこんな風にマイナス感情は徐々に人の行動力を奪っていくものだ。そこで、ドクターが提案していたのは「手を握る」ではなく「手を握ろうとする」という行動課題だ。心理学をよく知らない人にとっては、どっちでも同じように感じるかも知れない。しかし、ドクターによればこの両社は「大きく違う」のだ。
頭の中で起きている事まで含めて、先ほどの感情の降り積もりを表現すると、こんな感じだ。手を握ろうと考える→この時点で課題成功→ただ、やっぱり実際に握って恋愛を進展させたいので行動を起こそうとする→(たとえば)恥ずかしくてできなかった→前回課題は成功しているので、次も軽い気持ちで手を握ろうと考える→この時点で課題成功→実際に握ってみようとする→タイミングが合わなくてできなかった・・・以下繰り返しになるが、ネガティブな感情の蓄積が少ないので、心が折れにくく、継続して取り組みやすいのだ。
「本当に、たったの3回で手を握れたんですか?」今度は、ドクターは、オフィスにいるときと口調が違った。なんだか、興味本位に訊いているような雰囲気だ。「ひょっとして、デートの3回目、とかそういう感じ?」
「えと・・・あ、はい。そうですね。」なつをは修正した。
「ああなるほどね・・・でも、1回のデートの中で、何回かタイミングを図ったりしたでしょ?」
なつをは「はっ」とした表情になり、しばらく目線を上の方に泳がせていたが、やがて答えた。「えと、あの、あ、はい。そうですね。あのあと、初めてのデートの時には、そういえば4、5回、手を握ろうと頑張ってみました。1回もできなかったんですけど。」
「まあ、課題は『握ってみようとする』でしたから、あのあと最初のデートから4、5回も課題に成功した、てことになるわけですね。」ドクターはニコニコしながらコメントした。
「はい。そうなんです!」なつをはここで一段と声が大きくなった。「これが『手を握る』という課題だったら、初回で4、5回失敗して、次の回に、彼とデートに出かけること自体が、怖くなっていたかも知れません。でも、課題は成功したんだ、と思うと、彼に会いたかったこともあって、次回会う約束を自然にしていました。」
「いいですね。大事なポイントをよく理解されています。4、5回の小さな成功体験を積み重ねたか、4、5回の小さな失敗体験を積み重ねたかは、そのあと、自発的に行動できるかどうか、ということに対して、バカにできないほどの差を生み出します。なつをさんは、このことを実体験から学んだわけですね。」ドクターは、今日は仕事ではないのだが、説明となると、オンの時も、オフの時も調子が変わらない。
(つづく)
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