月別アーカイブ: 2016年12月

恋愛ドクターの遺産(4)

「先生、これって結局、愛情飢餓からくる問題ですよね?」
なつをは言った。なつをは20代後半ぐらいの、細面の女性だ。白衣を着ている。
Aはしばらく黙っていた。このAというのが、恋愛ドクターだ。
Aは少し首をかしげ、しばらくしてから小さい声で答えた。
「君は、見るべきところを見ていないね。」
「だって先生、どう考えても、この症状は、先日のMさんとも一緒ですし、先日先生に勧められて読んだ「恋愛依存症」の本にも、そう書いてありますよ?本を薦めたのは先生じゃないですか!」

Aは黙って席を立とうとした。
「先生!ちょっと!どうなんですか!」
「もう少し落ち着いてくれないか。」
「・・・すみません。」

Aは仕方ないな・・・という様子で、再び革張りの椅子に座り、なつをに説明を始めた。
「君が「愛情飢餓」と判断したとき、君の意識は、どこに向いていた?」
「意識が・・・って・・・ここにありますけど。」
「君がそこに居るのは分かってるよ。そうではなくて、自分の意識を、どこに向けていたか、ということを聞いているんです。」
「意識をどこに向けるか・・・考えたことありませんでした・・・あ、でも、昨日読んだ本のことを思い出していました。」
「そう、それが間違っている、と言っているんだ。」
「本を読んではいけないということですか?先生が読めとおっしゃっ・・・」

Aはややいらだったような早口でかぶせるように言った。
「読むことはいいことだ。ただ、診断を下すときに、君は本のことばかり考えて、目の前のクライアントから意識がそれている、と言っているんだ。」

「えっ・・・!?」
それまで強い口調でドクターにくってかかっていた助手のなつをが、ここで急に黙り込んだ。

なつをはドクターAの助手だ。ホームズとワトソンのように、一緒に事件・・・この場合は男女問題だが・・・の解決に当たっている。
この日は、通称「こばやん」というクライアントが相談に来ていた。関西出身で苗字が小林、先生は親しげに呼ぶのが好きで、このクライアントのことは「こばやん」と呼んでいた。先生自身は関東の出身なのだが。
こばやんは30代後半の男性で、妻から離婚を突き付けられて、「離婚したくない」「なんとか修復したい」と相談に来たのだった。

恋愛ドクターの遺産(3)恋愛ドクター

恋愛ドクターの遺産 第一話 第二幕 「恋愛ドクター」

ゆり子は自宅に帰って来た。日頃は気にならないが、よその家・・・実家・・・から帰ると「わが家の匂い」がハッキリと分かる。ゆり子の家はリビングに大きな窓があって太陽が差し込むせいか、布団を太陽に当てて干したときのような、少しほこりっぽいような匂いがした。
ゆり子は、夫がまだ帰宅していないのを確かめると、自分の部屋にこもって例のノート「恋愛ドクターの遺産(レガシー)」を開いた。どうやらこのノートは、予想していた恋愛相談のカルテのようなもの、あるいは勉強のためのテキストのようなものとは違うことが分かった。

(物語なんだ・・・)

全編、小説のように書かれている。これが「恋愛ドクター」のフィクションなのか、それとも、実は小説風に書いてある「カルテ」や「記録」なのか、それは今となっては確かめようもない。そういえばある小説だったかマンガだったかで読んだことがある。錬金術師は、己の秘伝が盗まれないように、自らの実験ノートを、それと分からないように偽装して書くことがあった、と。そもそもその話自体、実話かフィクションかわからないのだが、もしかしておじいちゃんが、恋愛相談の秘伝を隠すために小説風に記録を付けていたら・・・と想像するとついニヤニヤしてしまった。

(おじいちゃん・・・)

今までほとんど実体のない、霧かかすみのような存在だったおじいちゃんが、急にゆり子の心の中で存在感を増してきているのを感じた。

(お父さんも、こんな風におじいちゃん・・・いやお父さんにとってはお父さんか・・・の存在を感じていたんだろうか。)

ゆり子はそんな風に想像してみた。でも、ノートの中に書いてある話を早く読みたい、早く知りたいという衝動が勝ち、お父さんのことより、物語を読む方へと気持ちが向かっていった。

恋愛ドクターの遺産(2)

実は、ゆり子はいま、離婚を真剣に考えはじめたところだ。夫はどことなく宇梶剛士似の、とても仕事のできる人で、職場ではとても輝いていたしかっこよかったのだが、つきあい始めてみると、話を聞かない、共感力のない人で、何度も悲しい思いをしてきた。結婚したらよくなるかもと思ってそのまま結婚したが、結婚してもまったく変わらなかった。
たとえば、ゆり子が職場で、わりと有名なトラブルメーカーの男性社員と仕事上の交渉をしなければならなかったとき、相手の理不尽な要求に振り回されて自職場を巻き込んだ大ごとになったことがあった。結局は相手の問題ということで事態は収拾したのだが、その渦中にいるときに、支えてもらいたくて、家に帰って夫にその話をしたら、「お前さぁ、そういうところ、脇が甘いんだよなぁ」のひと言。
確かに、脇は甘かったし、次に同様のことがあったら、もっと気をつけると思う。ただ、ほしかったのは、そういう言葉じゃなかった。ほしかったのは・・・「大変だったな」とか、「お前よく頑張ってるな」とか、そんな共感の言葉だった。一番の味方でいてほしい人から、一番いたわってほしい瞬間にダメ出しの言葉を食らう。大変な痛手だった。今でも、その時のこと・・・職場でのことではなくて、夫の言葉・・・を思い出すと涙がにじんでくる。
夫は、浮気をしたわけでも、ギャンブルにのめり込んだわけでも、アルコール依存なわけでもない。離婚の「一発アウト」の条件に当てはまっているわけでは、ない。だからこそ、ゆり子は今まで何とかなるかも、と思って頑張ってきたのだが、そんな、一発アウト条件には当てはまっていなくても、毎日、共感がなく、愛情を感じられない生活をずーっと続けていくことは、自分の魂がゆっくり死んでいくようなものだった。次第に毎日の生活に喜びが失われていき、見る景色も、不思議なもので本当にモノトーンになっていった・・・
もう無理・・・そう思って、ゆり子は意を決して両親に相談したのだった。両親はゆり子の決意を察したのか「ゆりがそうしたいなら、いつでも戻っておいで」と言ってくれた。ゆり子は、ほっとして、声を上げて泣いてしまった。
そんなことがあって、何度か実家に相談・・・実態は避難かもしれない・・・に来ていたときのことだった。父が例のノート「恋愛ドクターの遺産(レガシー)」とやらを渡してくれたのだった。

ゆり子は実家から自宅へと帰路についた。同じ沿線なのだが、それぞれマイナーな駅で、各駅停車で20分ぐらいの距離にあった。ゆり子は電車の中でノートを開きたい衝動に駆られたが、祖父の個人的な記録でもあるノートを他人に見られるのも嫌だったし、万が一読みながら自分が泣いてしまうようなことがあっても困ると思って、じっとがまんした。
何もすることがないと、電車の中は手持ち無沙汰で退屈だ。向かいに乗っている人たちを観察することにしてみたが、中に、仲の良さそうなカップルがいて、楽しそうに談笑していた。(私もあんな風になっているはずだったのに・・・)見ていると胸の痛みが強くなるような気がして、人間を観察するのはやめた。
ゆり子はさらに気を紛らわそうと、車窓から外を眺めた。夕焼け空に飛行機雲が輝いて見えた。そんなものを改めてまじまじと眺めたのは久しぶりだった。○○駅から××駅までの間が、今日は格別長く感じた。

恋愛ドクターの遺産(1)ノート

恋愛ドクターの遺産 第一話 第一幕 「ノート」

「ゆり、このノートをあげるよ。」

ゆり子は、父が差し出した黄ばんだノートを受け取り、表紙を、そして裏返して裏表紙を眺めた。(埃っぽいな)ゆり子は思った。表紙には「A」とだけ書いてある。そのときちょうど「ボーン・ボーン・・・」柱時計の音が鳴った。文字通りそれはおじいちゃんの時計だ。もちろんゆり子自身はそんな時計を家には置かないが、実家は物持ちがいい方で、両親はその時計をいまだに手入れして使っている。

「お父さん、これって・・・」
「ああ、おじいちゃんのノートだよ。」

曰く、ゆり子の祖父(つまりゆり子の父親の父親だ)はカウンセラーをやっていたそうで、頭脳明晰、当時「恋愛ドクター」の異名を取っていたのだとか。一度親戚が集まったときにそんな噂を聞いたことがあったが、父も末っ子、ゆり子も父親が40過ぎで生まれた子なので、物心ついた頃には祖父は他界していて、ゆり子は直接話した記憶はない。赤ん坊の頃に抱っこされた写真だけが、唯一、祖父との関係を示す証拠だった。

「おじいちゃんのノート・・・これを・・・」

ゆり子がどう受け取っていいのか戸惑っていると、父が言った。

「ああ、ゆり子のおじいちゃんは、恋愛ドクターと言われていたんだよ。恋愛とか結婚生活の悩みに、鋭く切り込んだアドバイスをしていて、評判だった。それと、その傍ら、どこまで本当の話なのか、どこまでフィクションなのか分からないノートを残していたんだ。」
「それがこのノート・・・?」
「そう。恋愛ドクターの遺産(レガシー)だ。お父さんは勝手にそう呼んでる。お父さんも若い頃、恋愛で悩んだときに、おじいちゃんのこのノートをこっそり見て、色々勉強させてもらったんだ。役に立ったこともあったし、的外れのこともあったけど、このノートがあって良かった。今はそう思う。」

ゆり子はノートを開いて、ぱらぱらとめくった。丁寧な文字でびっしりと書き込まれている。

「ありがとう。お父さん。」