「幼少期の愛情飢餓問題。そのことで、少し相談があるんですが。」ドクターは言った。
(えっ! なんと!)
なつをは心底驚いた。先生がなつをに対してあれほど明確に否定した愛情飢餓説を、クライアントを前にして堂々と言ってのけたのだ。
(そんな・・・やっぱり、自分が言うのは良くて、私が言うのは許さない、ということなの・・・?手柄を独占したいってこと? 尊敬できる先生かと思ったけど意外に器が小さいのかも・・・)
なつをの脳裏に、以前一度浮かんだ疑念がまたよみがえってきた。
「幼少期の愛情飢餓。私にはそういう問題がある、ということでしょうか?」
こばやんが尋ねた。ひとつ課題をクリアしてスッキリしたばかりで、また次の課題があると言われて、戸惑っているようだった。しかしドクターは全く動じることもなく、いつも通りの調子でこう言った。
「いや、そうではありません。愛情飢餓の問題を持っているのは、奥さまではないかと考えているのです。」
「えっ?」
「えっ?」
こばやんとなつをは同時に声を上げた。ドクターはなつをの方をチラッと見た。助手は静かにしていなさい、という意味だった。なつをは心の中で「すみません」といいながら軽く頭を下げた。
「さきほど、こばやんの課題については、一番大きいものが、会社の危機に十分力を発揮できなかったと自分を責めていたことによる罪悪感・無力感、と申し上げましたが、それは、それでよいと思っています。但し、ご夫婦の関係がうまく行かない原因として一番大きな要因、ということになりますと、実は奥さまの側の問題・・・幼少期の愛情飢餓の問題・・・が、こばやんの課題よりも少しだけ大きいのではないかという印象を持っています。」
「えっ?そうなんですか?」
「えぇ。でも今日は、色々ワークもしましたし、全部こと細かく説明する時間もありません。そこで、この仮説は私を信用して頂いて、ひとつ試して頂きたいことがあるのですが。」
「はい。先生の仮説なら、信じて進める気がします。」
「奥さまは、ときどきご実家にお帰りになっているのですよね。その奥さまに、毎日メールか電話をする。そして、ここが大事なところですが、あえて、サンドバッグ役になって電話してください。変な話ですが、たとえばご自分が本物のサンドバッグになって、奥さまのパンチやキックを受け止める、というイメージを頭の中で作ってから、メールをする、電話をする、ということを、一ヶ月ぐらい続けてみてください。」
「・・・はーぁ。なるほど。これ、結構キツイ修行やね。」
「そうですね。ただ、今のこばやんなら、ある程度頑張れるかもしれない、と思うので、提案しているんです。」
「先生はどうしてそう思われるのですか?」
ドクターは質問には直接答えず、さらに話を続けた。
「以前険悪になった頃には、奥さまから色々言葉で責められたことがあったのではないかと思うのですが。」
「えぇ。ありました。あれはキツかったですわ。」
「もし、奥さまがお家に帰っていらっしゃった場合、それと同じように、奥さまの言葉を受け止めることを、またやってみてほしいのです。」
「はい。頑張ります・・・でも結構しんどいかもしれません。」
(いきなりこんな大変な宿題を出して大丈夫なんだろうか・・・?)
サンドバッグになれ、とかなり精神的にキツイ行動課題を、平気で出している先生に対して、なつをはそう思った。
「まあまあしんどいとは思いますが、実は以前ほどじゃないと思いますよ。」
怪訝そうな顔をしているこばやんに対して、ドクターはさらに続けて言った。
「では、奥さまが以前のように、こばやんを責め立てる、という場面を想像してみてください。」
「・・・はい。」
少しだけ、こばやんの表情が曇る。
「今どんな感じですか?とてもしんどくて耐えられない感じ?」
こばやんは、意外そうな顔をしながら答えた。
「いや、意外と出来るかもしれへん、と思いました。前はほんまにしんどかったのに、なぜなんでしょう?」
「詳しくは、そのうちお話ししますよ。でも、人は、目の前の出来事から直接影響を受けるわけではないのです。それを心の中で解釈して、それで、どんな気持ちになるかが決まる。こばやんは、以前は、ご自身を責めていらっしゃったわけですよね?」
「そうですねぇ。」
「ということは、同じように責められても、以前の方が、自分で自分を責めて苦しくなる、という度合いが大きかったわけです。自分を責めるのが止まった今、以前より、他人から責められることに、強くなったわけです。」
「はぁ・・・そういうもんですか。いつも勉強になりますわぁ。」
そろそろ時間だ。セッションは終わり、こばやんは、先生ありがとうございました、と言って、深々と頭を下げて帰っていった。先生も同じぐらい深々と頭を下げていたのがなつをには印象的だった。
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