あづまです。こんにちは。
先日、夫公認で妻が婚外恋愛。それをあづまが円満夫婦と呼ぶ理由。 という記事を書きまして。
それに対して、反論が来ました。
短文なので、全文載せておきます(編集なし)。
仮にSさんとしておきます。女性の方だと思います。
はじめまして。
どうしても一言お伝えしたくメール致しました。婚外恋愛は、倫理に反します。
どんな理由があっても、今の日本の社会倫理と結婚制度では倫理から外れています。
たまちゃんだかなんだか分かりませんが、人前にだけは出さないで下さい。
婚外恋愛に真実があるなら、日本では隠しながら大切に育てて下さい。
そうやって育てている友人が私にもいます。婚外恋愛をすべて否定はしません。
ただし、公の場に出ることは間違いだと思います。ここは日本です。
よろしくお願い致します。
論点は、
「どんな理由があっても、婚外恋愛は今の日本の倫理からは外れている」
「それでも婚外恋愛するなら、公の場に出ないで、隠して行え」
ということですね。
えーと。割と予想していた反論でしたので、
むしろ、ありがとう、と思っています。
では、この点について、あづまがどう考えているのか、
それについて、書いてみたいと思います。
まず、そもそも論として、
夫婦円満を目指すのは、もちろん、当然ではあるのですが、
努力しても、やっぱり、この人とはムリ、って思うこと、ありますよね。
男性の方は、分からない人もいるかもしれませんが、
女性の方は、「この人とはセックス無理」って思う感覚、
よく分かるんじゃないかな。
そこまで至ってしまった夫婦は、どうしたら良いのでしょう?
日本の倫理に照らしたら
これが、あづまの、一点目の疑問です。
一応、離婚理由としてセックスレスは、正当な理由とされています。
というわけで、そこまで至ったら、婚外恋愛する前に離婚しましょう。
というのが、今の日本の倫理であり、法律だと、私は解釈しているのですが。
これなら、倫理に反していないし、不法行為(犯罪とは言えないが、法律的に間違っているとされる行為)でもありません。でも、子供もいるわけだし、それで円満解決ヤッター、とは行かないはずです。
というわけで、往々にして、親は子供のために我慢して、結婚という形を維持せよ、という話になりがちです。本当にそれで良いのでしょうか? 私のもとには「お母さんが【子供のために】離婚しないで我慢していたために、私(相談者)は結婚生活に暗いイメージを持つようになってしまった」という相談が、それなりに多く来ます。親が自分を殺して生きることは、次世代にマイナスの遺産を受け継ぐ行為です。
現状の日本では、要するに【離婚する】【我慢する】の二択しか「倫理的な道」はない、のが社会常識であり、社会の道徳・倫理ですよね、本当にそれでいいんですか? と、私は問うているのです。
私は基本的に、倫理とか道徳というのは、(一定の意味・意義は認めますが)前の世代が作った遺物だと考えていまして、大抵の場合、倫理や道徳は時代遅れなもの、だと感じています。
だからといって、軽んじていいと言っているわけではありませんが、社会の「常識」とされているような倫理や道徳というのは、全然万能ではなく、むしろ、極めて限界の低い代物であると、見なしているわけです。
いま、同性愛の人を、倫理に反するとか、不道徳だとか、そういう言葉で責めたら、「言っているあなたがおかしい」と言われるでしょう。でも、それが社会の常識だった時代もあるのです。
倫理や道徳は、前の世代が作った社会の遺物。
一定の敬意や配慮は必要だけど、基本的に時代遅れだし、万能でもなく、極めて限界の低い代物である。
時代に、適合しなくなってきた倫理は、新しく作り直していくしかない。
それもまた、常識となった頃には、また、時代遅れになっていくのだと思いますが、
その繰り返し。ずっと、新しく作り続けていくしかない。
では、
「不倫は悪である」という倫理観が時代遅れだとしたら、
あづまは、新しい倫理観とは、どういうものであるべきだと考えるのか。
それを、書いていきたいと思います。
新しい倫理観が、
「不倫もOKだよね♪」
だったら、最悪です。私は大反対です、こういうの。
ここから先は、少し時代を先取りしすぎているというか、勇み足の部分はあると思いながら、書いています。
新しい倫理観とは、たとえばこういう基準であるべきです。
「自分の気持ち、そして、相手の望みに、とことん誠実に向き合ったか?」
では、用語が長くなりそうなので、
ふたつの倫理観にAとMという記号をふって、考えてみたいと思います。
Aは「不倫は悪」的な倫理観。これを守っているのがA○、破るのがA×。
Mは「自分、相手と向き合う」倫理観。同じく守るのがM○、破るのがM×。
A○ :婚外恋愛はしない
A× :婚外恋愛をしている
M○ :自分の気持ち、そして、相手の望みに、とことん誠実に向き合う
M× :自分の気持ち、そして、相手の望みに、誠実に向き合わない
A○ かつ M○ が問題ないのは、だれでも同意することだと思います。
A× かつ M× だと、問題多すぎ。ちょっとこの夫婦、大変そうです。
議論が分かれるのは、
A○ かつ M× と A× かつ M○ の場合でしょう。
少し、例を挙げてみたいと思います。
A○ かつ M×
:婚外恋愛はしないが
自分の気持ち、そして、相手の望みに、誠実に向き合わない
こういう夫婦、結構いるんじゃないでしょうかね。
たとえば、夫は自分の素直な気持ちを表現するのが全然下手くそ。
おかげで、主婦の奥さんが友達との集まりで出かけて「今日はごはん自分でよろしく」って言ったら、義務を放棄しているだとか、あれこれ難癖つけたりして。
こういうとき、ひとこと「寂しい」って言えれば自分も癒されるし、奥さんも「そうだよね、ごめんね♪」ってハグして、で、気持ちよく出かけられるのに。
もうひとつ例を挙げると、もう少し、相手の望みに向き合わないケース。
ちょっと、夫婦仲がだいぶ傾いていて、奥さんの方は、旦那との夜の生活が既に苦痛になっている。やんわりと何度も伝えたが、相手の望みに、誠実に向き合わない夫は、当然の権利とばかりに夜の生活を要求してくる。妻も「結婚という形を維持すること」が優先で、自分の気持ちと向き合うことをあきらめ、嫌々夫婦関係を続けている。
この両方とも、現状の日本の倫理には、(若干微妙だとは思うが)反していないことになります。
少なくとも、法律的には、生活の相互扶助の義務はあるが、相手を「愛する」義務は規定されていませんから、この夫たち、法律的には、まったくもって、正しい人たちなんですね。
私が「社会常識となっている倫理観は、実は時代遅れ」と言うのは、こういう話になってしまうからです。
で、一方、
A× かつ M○
:婚外恋愛はするが
自分の気持ち、そして、相手の望みに、とことん誠実に向き合う
そしてこれが、たまちゃんの夫婦の話。
夫公認で妻が婚外恋愛。それをあづまが円満夫婦と呼ぶ理由。
現状、やはり、法律的には「不法行為」にあたるわけです。
婚外恋愛している側が、夫婦破たんの理由を作ったと見なされます。
但し、自分の気持ち、相手の望みに誠実に向き合い続けていって、
やっぱりこういう形でいくしかないのかな、って結論を出せたとしたら、
Aの倫理観に基づくと×だけど、
Mの倫理観に基づくと○になる。
私は、要するに、
不倫したかしないか、というような、マニュアル的、チェックリスト的、ロボット的な判定基準に基づく倫理観は、いずれ時代遅れになっていって、
本当に自分の気持ち、相手の望みに、誠実に向き合い続けたかどうか、というような、極めて人間的で、深いレベルの倫理観に、時代が移行していくと考えているのです。
先ほどの、AとMの記号でまとめると、
現状、社会の常識というのは、
A○M× (不倫したかしないか、の倫理観を優先)
と
A×M○ (誠実に向き合ったか、の倫理観を優先)
であれば、前者の方が、確かに、常識だと思います。
ですが、社会が豊かになり、寿命も延び、夫婦生活も長丁場になり、という現在の社会状況の中、前者の倫理観は、限界を露呈しつつあり、時代遅れになってきている、
とも感じています。
そして、不倫は悪、という倫理観に変わるルールは、
不倫も善、ではないことは、先に述べたとおりです。
それではダメなのです。
前の時代の倫理観を、単に裏返すのでは進歩ではありません。
前の時代の倫理観を、超越していかないと、意味がない。
で、どのように超越するのかというと、たとえば、先ほどから書いている、
自分の気持ち、そして、相手の望みに、とことん誠実に向き合う
ことが善。
これです(あ、これは一案ですので、必ずこうでなくてはいけない、というものではないです。但し、表面的な判定基準よりも、もっと、内面や動機を問うものになるべきだ、という点は大事だと考えています)。
さて、私の持論を展開したところで、
二点目の「それでも婚外恋愛するなら、公の場に出ないで、隠して行え」
にお答えしましょう。
もし仮に、たまちゃんの姿勢、動機、行動が単に、
「不倫は悪」→「不倫は善」としたいだけだったとしたら、
私も、「そういう婚外恋愛は、隠して行ってください」と言うでしょう。
でも、たまちゃんの姿勢は、こういう批判を食らうことも覚悟の上で、
「不倫は悪」(Aの倫理観)から、
「向き合うことが善」(Mの倫理観)への、
パラダイムシフトを起こそうとしている行動なのです。
次の時代の、新しい倫理観に向けてのチャレンジです。
もちろん、とても大変すぎるので、
私は、自分の身で、社会実験するのはごめんです。
ほんと、あづまは、無理です。
(してないですが)もし不倫してても、たぶん隠します。
だれかが、身を削って、
新しい倫理観に向けてのチャレンジをする。
賛否両論を浴びながらも、前に進んでみる。
その価値は、私はよく分かります。
自分では大変すぎてできないとしても。
だから、たまちゃんを応援しているんです。
そういうことです!
ではでは!