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恋愛ドクターの遺産(8)現実と夢

こんな時間か・・・ノートを閉じて時計を見たゆり子は、時間が随分経っているのに気づき、少し慌てた。

(幼稚園にお迎えに行かなきゃ・・・)

お迎えの自転車を漕ぎながら、ゆり子はまだノートの中の話を反芻していた。自分もサンドバッグになるイメージをして、相手の話を聞いたら、修復できるのだろうか・・・少し想像してみて、あまりに苦しいのですぐにやめた。
(あのこばやんという人は、とりわけ意志の力が強い人なんだよね、きっと。)
ゆり子はそう思って、自分とは関係ない世界の話にしようとしたが、ゆり子の意思に反して、ノートの中の出来事はずっと心に引っかかっていた。

「さくら、お待たせー。」

さくらはゆり子の一人娘だ。幼稚園の黄色いスモックを着て、髪はふたつ結びにしている。最近の子らしく、ドラえもんに出てくるしずかちゃん、というよりは、どこか初音ミクっぽい結び方だ。子どもを家に連れて帰る途中も、どうしてもノートの中のことが引っかかっていて、「ママ、今日ね・・・」と話しかけてくるさくらの話も、どこか上の空で聞いていた。

「・・・ママ、ママ、起きてよ!」

さくらの声で目が覚めた。
(もう4時半か・・・)ゆり子は壁の時計を見てそう思った。どうやら帰ってきて寝てしまったらしい。2時間ほど寝ていた計算になるか。でも、ゆり子は不思議な感覚に包まれていた。

(私、本当に寝ていたの・・・?)
先ほど、さくらに起こされたとき・・・いや、起きたというより、別世界からこちらの世界に「呼び戻された」という感覚だったが・・・ゆり子は、ドクターのセッションルームにいた。いや、そんなはずはないから、ドクターのセッションルームにいた夢を見ていた・・・と、一般的には言うのだろう。
(でも、リアルだった。生々しかった)

どうやら、夢の中で、あの世界に行ってきたみたいだ、とゆり子は思った。目の周りが濡れていた。どうやら、夢の中で涙を流したらしい。

そう、先ほどまで、ゆり子が体験していたのは・・・

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恋愛ドクターの遺産(6)「変化」−3

「では今度は、現在のあなたのまま、当時の世界に入っていく、とイメージしてみましょう。椅子を立って、向かいの椅子にいる、当時のあなたに近づいていってください。」

先生が誘導すると、こばやんが椅子を立ち、向かいの椅子の前に立った。

「私がこれから言う言葉を、今実際に声に出しながら、当時のあなたに伝えてあげてください。」

「はい。」

「呼びかけの言葉は『こばやん』でいいですか?」
ドクターが確認した。
「はい。」

「では、いきます。『こばやんは、悪くないでぇ』」
ドクターはこのときだけ、関西弁になってそう言った。

こばやんは、すぐには言葉を発しなかった。言おうとしているが言えない、そんな感じだ。頭が小刻みに、不規則に震えている。しばらくして、はぁ、とため息をついた。

「言えないもんですねぇ。」

なつをは、あぁ、ゆるしのワークを実践しているんだな、と思った。空椅子を置く「エンプティーチェア」のワークは一般的なセラピーの技法だが、いま先生は一般的なエンプティーチェアのワークをしているのではない。形だけエンプティーチェアの形式を借りているが、ゆるしのワークという別の技法だ。「悪くないんだよ」とゆるしの言葉を、自分を責めてしまっている過去の自分に対してかける。これは先生が編み出した技法だそうだ。

「もう一回やってみたら、言えるかもしれません。」
ドクターは続けた。
「こばやんは、悪くないでぇ。」

「こばやんは、悪くない・・・。」
こばやんの喉から、うっうっ、と嗚咽が漏れる。このワークは、自分を強く責めているほど、例のせりふを言うときに反応が出る。こばやんはどうやら、自分を無意識にかなり責めていたようだ。

「次は、この言葉を言ってあげてください。『よう頑張ったな』」
「よう頑張ったな・・・ほんと、よう頑張った。よう頑張ったな。」

こばやんの目から涙が落ちた。
ふとみると、表情が随分穏やかになっている。というより、笑っているようにも見える。大きな心の負担を抱えて苦しんでいた人が癒されていくとき、独特の明るい表情を見せる。以前、先生が「多くの人は負の感情を怖がって感じないようにするが、ため込んでいた負の感情を出すというのは、喜びに近いものだ」と言っていたのをなつをは思い出した。

そのあと、同様にいくつかのせりふを言ってもらって、ゆるしのワークは終了した。初めのせりふが一番の反応を引き出したようだ。感情が激しく動くと疲れるものだ。こばやんは少しぼうっとしているように見えた。

「最後に、確認のために、もう一度最初のように、当時のあなたになったとイメージしながら、そちらの椅子に座ってみて下さい。」

「はい。」

「当時のあなたになってみると、世界の明るさは、明るいですか暗いですか?」
「明るいです。」
「空気の温度は、暖かいですか、肌寒いですか?」
「ふつうやけど・・・少しぬくいです。」
「空気の重さは、軽いですか?重いですか?」
「あっ・・・重くないですね。軽いですわ。」
最後の質問に答え終わったあと、こばやんは「にっ」と笑った。

「先生・・・不思議ですね。あんなに重うて苦しかったのに・・・消えてしまいました。」

「そうですね。もう終わったことなので、こういう問題は解決が早いです。」
「そういうもんですか。」

ドクターはそれにはあまり答えず、まとめに入った。
「今日のセッションのポイントなんですが、これは、会社の危機に対して、十分に力を発揮してそれを救うことが出来なかったという罪悪感や無力感が、ずっと心にのしかかっていて負担になっていた、ということだと思います。」
「確かに、それはありました。ずっと不安で、苦しくて、でも業績は一向に良くならんし。ほんまに苦しかったですわ。あの頃は。」
「その時期に、みんなの期待に応えられず、十分に力を発揮できず、会社を救えず・・・となっていた自分自身を、徐々に責めるようになってしまったのだと思います。」

「そうですね。納得です。その通りだと思います。」
こばやんは、セッションに納得していたようだった。そして、大事な質問をした。
「先生、私のこのストレスが、夫婦仲がうまく行かなかった原因だった、ということなんですね?」

こばやんはそう尋ねた。なつをが「あぁ、このセッションもこれでまとめに入るのだな」と思ったそのとき、ドクターが意外なことを言いだした。

「いや、実はそうではないかもしれない、と思っているんです。
幼少期の愛情飢餓問題。そのことで、少し相談があるんですが。」

(えっ! なんと!)

なつをは心底驚いた。先生がなつをに対してあれほど明確に否定した愛情飢餓説を、クライアントを前にして堂々と言ってのけたのだ。

恋愛ドクターの遺産(6)変化−2

なつをは、こばやんの表情がみるみるこわばってきたことに気づいた。心理セラピーにおけるワークは、想像の世界で、ある意味、虚構の世界ではあるが、それが本人にとっては、相当のリアリティーのあるものだったりする。この場合も、すでに過去の出来事なのに、その当時のような緊張感がよみがえってきている。
こばやんの表情がこわばるにつれて、その場の雰囲気もピリピリと張り詰めたようになってきた。そんな中でもドクターは特に表情を変えることなく、相変わらず、穏やかな調子で指示を出していく。

(こういうところ、ホント先生はスゴイ・・・)

「こばやん、当時のあなたは、どんな服を着ていますか?」
「えと・・・スーツ姿です」
「髪型はどんなですか?」
「今と近いですけど・・・すこしボサボサな感じです。」

こばやんは髪のボリュームのあるタイプだ。髪が少しカールしているせいかもしれない。なつをにも、そこにはいないはずの、少し髪がボサボサな、当時のこばやんが見えたような気がした。

「どんな表情をしていますか?」
「かなり張り詰めた感じです。深刻そうな表情をしています。」

「では、当時のあなたになってみましょう。実際に椅子を移動して、そちら側に座ってみてください。」

ドクターが手で、向かいの空椅子の方を示して、こばやんを促した。こばやんが椅子に座る、絶妙なタイミングで、こう続けた。

「その椅子に座ると、当時のあなたになる、とイメージしてください。」

(意外とすんなり座るものだな・・・)
なつをは、以前このワークを勉強のために実践したことがある。大抵、向かいの空椅子には、自分にとって心地よくないものを座らせるため、空椅子に移動するときには、ものすごく心理的抵抗がある。なつをは一度「できません」と断ったことがある。その時も誘導役はドクターだったが、「そっかー、できないよねー。何か抵抗あるみたいだねー。」「はい。」「あ、でも、もう一回やってみたらできるかも。」「えっ!・・・」こんな感じで押し切られて、「えいっ!」と座ったのだった。座ってみると先ほどまでの抵抗感は急に消えていた。あれは本当に不思議な体験だった。
でも、こばやんは、はた目には、特に抵抗もなく、すんなり座ったように見えた。それがなつをには意外だった。

こばやんは、相変わらず厳しい表情をしている。ドクターは質問を続ける。

「世界の明るさはどうですか?」
「全体的に、薄暗く、グレーな感じです。」
「空気の温度は、温かいですか?肌寒いですか?」
「ふつう・・・ですかね。」
「空気の重さは、軽いですか?重いですか?」

これは先生必殺の質問法だ。空気の重さをきくと、その本人の持っている罪悪感の重さが分かるのだ。そもそも、罪悪感は非常に重たく、感じることに苦痛を伴う感情なので、人間は罪悪感を感じないように生きている。
先生は「罪悪感は感じない感情です」とよく言っている。感じないからない、のではなくて、感じないけど、潜在的にはそこにある感情、と禅問答みたいなことを言われたことがある。その、なかなか感じなくて、捕らえどころのない罪悪感を、質問一発であぶりだすことができる、先生の発明が「空気の重さは?」なのだそうだ。以前「どこの心理学の教科書にも書いてないけど」と自慢げに説明してくれた時の先生の得意げな表情を、なつをは今でも鮮明に思い出せる。実は友達が自分を責めて落ち込んでいるようなとき、なつをはこっそりこの質問を使っている。

「空気は・・・重いです。」

空気だけではない。こばやんの表情も、体も、全てから「重い」感じがにじみ出ている。

「ほんと・・・重そうですね。」

こういうとき、先生は、驚くほど軽い言い方をする。なつをには、その軽さが、クライアントの深刻さとミスマッチなようで、いつも気になる。先生自身が重い空気感に呑み込まれないために意識的にやっていることなのか、それとも、これも何かの、セッションの効果を高めるための「発明」なのか・・・一度聞いたことがあるが、そのときは適当にはぐらかされた。

「では一度、現在のあなたに戻ってきてください。」

ドクターは、先ほどまでこばやんが座っていた方の椅子・・・現在は逆に空椅子になっている方・・・を手のひらで指し示した。こばやんがゆっくりとそちらの椅子に戻る。

「当時の世界に入ってみて、どんな感じがしましたか?」
「えらいびっくりしました。ものすごい暗くて、重苦しゅうて・・・当時の感覚が全部よみがえってきましたわ。」

(つづく)

恋愛ドクターの遺産(6)変化−1

「最近いかがですか?」
先生が尋ねた。今日はこばやんがまた来ている。

「そうですね。相変わらず苦しいときはあります。」
「まだ、一番の問題が未解決ですからね?」
「そうですね。そのことを思うと、やっぱり気持ちが重くなります。」
「そうですよね・・・こういう状況の時は、どうしても心に負担がかかります。」

「はい・・・あ、でも、例のごほうび付きのウォーキング、最近はよくやるようにしています。歩いているときは結構忘れていられるというか、むしろ元気に歩けますね。」
(その言葉、さては気に入ったな)なつをは思った。
こばやんは今日は「ごほうび付きのウォーキング」という言葉をすらすらと言った。おそらく前回のセッションで気に入って、自分の中でも、この言葉を何度も使っていたのだろう。

「そうですか。それは何よりです。一番しんどかった時を0点、何もかも良くなった時を100点としたら、今は大体何点ぐらいですか?」

「そうですね・・・40点ぐらいじゃないでしょうか。」
「なるほど。40点。それって何の40点分なんでしょうね。何があるから、40点なのですか?」

出た!スケーリングクエスチョン。なつをは思った。
先生はこの質問を使うことが結構多い。今何点ですか、と状況を聞きながら、同時にポジティブなことに目を向けさせるという、カウンセリングの高等テクニックだ。

以前、なつをは初めてこの質問を教わったとき、ドクターに「その質問、私もよく使います」と生意気な発言をして・・・例によってダメ出しをもらったことがある。なつをが言及したのは、例えばフィギュアスケートの演技を終えた選手に「今日の出来は何点ですか?」と訊くような、あの質問だった。点数を数字で表すなんて、よくあること、と、知ったかぶりをしたのだった。今でもそのときの、ドクターのがっかりした顔が忘れられない。「その質問とは似ているが本質的なことが違う。たとえば90点と答えたら、なぜ100点じゃないのか、減点したのは何なのかを訊くことが一般には多い。減点法だ。でも、カウンセリングでは絶対にそれをしてはいけない。完璧主義で自分を苦しめているクライアントも多いが、その質問をすればますますその傾向を強めてしまう。そうじゃあなくて、『何があるから○点なんですか?』と、あるものに意識を向ける、加点法の質問をすることが大事なんだ。」
そう、加点法で「何があるから・・・」とあるものに意識を向けさせるような質問をするのが、このスケーリングクエスチョンのコツなのだ。ドクターは質問の達人だ。さりげないが、大事なポイントは絶対に間違えない。
「えぇと・・・最近は、美味しくご飯が食べられることが多くなりました。」
「それは何よりです。」
「それから、例のウォーキング。歩いているときは、わりと清々しい気持ちになっている気がします。」
「そうですか・・・そんなところですか?」

「あと、意外と職場の人・・・あ、実は、離婚の危機かもしれない、ということを同僚に話したのですが、男性の同僚はもちろん、女性も結構味方になってくれて、親身に話を聞いてくれたりして、ここのあたりが固くギューっとなっていたのがほぐれたというか、温かくなったというか・・・」

こばやんは胸のあたりを手のひらで示した。そして続けた。

「とにかく、味方が結構多いと感じたことは大きかったですね。人って優しいな、というか。」

「それはきっと、こばやんのお人柄ですね。今までの仕事や人付き合いで、良い関係を築いていらっしゃったんですね。」

「あぁ・・・ありがたいことです。」

こばやんは、はっとした様子で顔を上げて、ドクターを見て言った。
「あ、なんか、65点ぐらいな気がしてきました。」

「ほう、65点! 結構いい線行ってますね!」
「そうですね。なんか、結婚の問題は、まだ解決していないですけど、支えてくれる人もたくさんいるし・・・と思ったら元気が出てきました。」

何も基礎知識がない人がふたりの会話を見たら、何気ない会話、何気ない質問と回答を繰り返しているように見えるかもしれない。でも、こんな短時間で、明らかにこばやんは気持ちが明るく変わっている。やっぱり先生はスゴい、なつをは思った。

「なつを君。椅子を用意してください。」
「え・・・あ、はい。」
突然こちらに話しかけられて咄嗟に返事が出なかった。なつをはいつもドクターのセッションを観客みたいな気持ちで聞いてしまうのだ。

なつをが椅子をもうひとつ持ってくると、ドクターは立ち上がり、その椅子を自ら持って、こばやんの横に、こばやんの方を向けて置いた。
「こばやん、こちらの椅子の方を向いていただけますか? 椅子ごとお願いします。」

こばやんが椅子の向きを変えると、ちょうど、こばやんが座っている椅子と、新たな椅子とが向かい合った状態になった。なつをは知っていた。これはエンプティーチェアという、カウンセリングの技法だ。ドクターはこれからそれを実施するのだろう。

しかし、それから10分間ぐらいの先生の質問、そしてこばやんとのやりとりは、なつをにはよく理解できなかった。先生は色々ホワイトボードに絵を描いて質問したり、こばやんに何かを言わせたりしていたが、それが何を探るためのもので、結局何を探し当てたのか、よく分からなかった。

しばらくして、空の椅子を手のひらで指し示しながらドクターが言った。
「ここに、そうですね。仕事のストレス・・・そうですね。会社がもしかして立ちゆかなくなるかもしれない、というストレスが最大だった頃のあなたがいるとイメージしてみてください。」
「はい。」

なつをは、こばやんの表情がみるみるこわばってきたことに気づいた。心理セラピーにおけるワークは、想像の世界で、ある意味、虚構の世界ではあるが、それが本人にとっては、相当のリアリティーのあるものだったりする。この場合も、すでに過去の出来事なのに、その当時のような緊張感がよみがえってきている。

(つづく)