恋愛ドクターの遺産(6)変化−1

「最近いかがですか?」
先生が尋ねた。今日はこばやんがまた来ている。

「そうですね。相変わらず苦しいときはあります。」
「まだ、一番の問題が未解決ですからね?」
「そうですね。そのことを思うと、やっぱり気持ちが重くなります。」
「そうですよね・・・こういう状況の時は、どうしても心に負担がかかります。」

「はい・・・あ、でも、例のごほうび付きのウォーキング、最近はよくやるようにしています。歩いているときは結構忘れていられるというか、むしろ元気に歩けますね。」
(その言葉、さては気に入ったな)なつをは思った。
こばやんは今日は「ごほうび付きのウォーキング」という言葉をすらすらと言った。おそらく前回のセッションで気に入って、自分の中でも、この言葉を何度も使っていたのだろう。

「そうですか。それは何よりです。一番しんどかった時を0点、何もかも良くなった時を100点としたら、今は大体何点ぐらいですか?」

「そうですね・・・40点ぐらいじゃないでしょうか。」
「なるほど。40点。それって何の40点分なんでしょうね。何があるから、40点なのですか?」

出た!スケーリングクエスチョン。なつをは思った。
先生はこの質問を使うことが結構多い。今何点ですか、と状況を聞きながら、同時にポジティブなことに目を向けさせるという、カウンセリングの高等テクニックだ。

以前、なつをは初めてこの質問を教わったとき、ドクターに「その質問、私もよく使います」と生意気な発言をして・・・例によってダメ出しをもらったことがある。なつをが言及したのは、例えばフィギュアスケートの演技を終えた選手に「今日の出来は何点ですか?」と訊くような、あの質問だった。点数を数字で表すなんて、よくあること、と、知ったかぶりをしたのだった。今でもそのときの、ドクターのがっかりした顔が忘れられない。「その質問とは似ているが本質的なことが違う。たとえば90点と答えたら、なぜ100点じゃないのか、減点したのは何なのかを訊くことが一般には多い。減点法だ。でも、カウンセリングでは絶対にそれをしてはいけない。完璧主義で自分を苦しめているクライアントも多いが、その質問をすればますますその傾向を強めてしまう。そうじゃあなくて、『何があるから○点なんですか?』と、あるものに意識を向ける、加点法の質問をすることが大事なんだ。」
そう、加点法で「何があるから・・・」とあるものに意識を向けさせるような質問をするのが、このスケーリングクエスチョンのコツなのだ。ドクターは質問の達人だ。さりげないが、大事なポイントは絶対に間違えない。
「えぇと・・・最近は、美味しくご飯が食べられることが多くなりました。」
「それは何よりです。」
「それから、例のウォーキング。歩いているときは、わりと清々しい気持ちになっている気がします。」
「そうですか・・・そんなところですか?」

「あと、意外と職場の人・・・あ、実は、離婚の危機かもしれない、ということを同僚に話したのですが、男性の同僚はもちろん、女性も結構味方になってくれて、親身に話を聞いてくれたりして、ここのあたりが固くギューっとなっていたのがほぐれたというか、温かくなったというか・・・」

こばやんは胸のあたりを手のひらで示した。そして続けた。

「とにかく、味方が結構多いと感じたことは大きかったですね。人って優しいな、というか。」

「それはきっと、こばやんのお人柄ですね。今までの仕事や人付き合いで、良い関係を築いていらっしゃったんですね。」

「あぁ・・・ありがたいことです。」

こばやんは、はっとした様子で顔を上げて、ドクターを見て言った。
「あ、なんか、65点ぐらいな気がしてきました。」

「ほう、65点! 結構いい線行ってますね!」
「そうですね。なんか、結婚の問題は、まだ解決していないですけど、支えてくれる人もたくさんいるし・・・と思ったら元気が出てきました。」

何も基礎知識がない人がふたりの会話を見たら、何気ない会話、何気ない質問と回答を繰り返しているように見えるかもしれない。でも、こんな短時間で、明らかにこばやんは気持ちが明るく変わっている。やっぱり先生はスゴい、なつをは思った。

「なつを君。椅子を用意してください。」
「え・・・あ、はい。」
突然こちらに話しかけられて咄嗟に返事が出なかった。なつをはいつもドクターのセッションを観客みたいな気持ちで聞いてしまうのだ。

なつをが椅子をもうひとつ持ってくると、ドクターは立ち上がり、その椅子を自ら持って、こばやんの横に、こばやんの方を向けて置いた。
「こばやん、こちらの椅子の方を向いていただけますか? 椅子ごとお願いします。」

こばやんが椅子の向きを変えると、ちょうど、こばやんが座っている椅子と、新たな椅子とが向かい合った状態になった。なつをは知っていた。これはエンプティーチェアという、カウンセリングの技法だ。ドクターはこれからそれを実施するのだろう。

しかし、それから10分間ぐらいの先生の質問、そしてこばやんとのやりとりは、なつをにはよく理解できなかった。先生は色々ホワイトボードに絵を描いて質問したり、こばやんに何かを言わせたりしていたが、それが何を探るためのもので、結局何を探し当てたのか、よく分からなかった。

しばらくして、空の椅子を手のひらで指し示しながらドクターが言った。
「ここに、そうですね。仕事のストレス・・・そうですね。会社がもしかして立ちゆかなくなるかもしれない、というストレスが最大だった頃のあなたがいるとイメージしてみてください。」
「はい。」

なつをは、こばやんの表情がみるみるこわばってきたことに気づいた。心理セラピーにおけるワークは、想像の世界で、ある意味、虚構の世界ではあるが、それが本人にとっては、相当のリアリティーのあるものだったりする。この場合も、すでに過去の出来事なのに、その当時のような緊張感がよみがえってきている。

(つづく)

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