なつをの夏の物語(9)|恋愛ドクターの遺産第10話

「ではまず、普通のフォーカシングから練習していきましょう。」ドクターが言った。
「はい。」
「お店をなつをさんの判断で変更したとき、その彼氏さんに、確か、『何で勝手に変えるわけ?何で勝手に決めるわけ?』って怒られたのでしたよね?」
「はい、そうです。」
「そのときのことを思い出しながらワークをしていきましょう。そのとき、なつをさんは、どんな気持ちになりましたか?言い換えると、体にどんな感覚を感じましたか?」
「えと・・・私の勝手な判断で怒らせちゃったかな、とか、元のレストランに戻せるかなとか、先に連絡して確認した方がよかったかな、とか・・・」
「ちょっと待った!」そこでドクターが止めた。「いま、私は【なつをさんはどんな気持ちになりましたか?】【体にどんな感覚を感じましたか】と質問したのですが、なつをさんは、彼の話ばかりしていましたね?」
「あ、すみません。」なつをはとても不安そうな表情で答えた。
「いえいえ。別に責めているわけではありません。でも、ここが、今回の問題を解決する上で、とても大事なポイントなのです。」
「・・・そうなんですか。」
「もう一度やってみましょう。今度はもう少し頑張って【自分の体の感覚を感じて】、それを言葉にしてみてください。」
「はい。」
「では、行きますよ。あのとき彼氏さんが『何で勝手に変えるわけ?何で勝手に決めるわけ?』と言いました。そのときに、なつをさんは【どんな体の感覚】を感じましたか?いま思い出して、もう一度感じてみてください。」
今度は、なつをはしばらく黙って、目を閉じて、顔を上の方に向けて考えていた。
「なつをさん、顔は下に向けた方が、体の感覚を感じやすくなりますよ。より正確には、目線を下に向けるとよいです。」
ドクターに促されて、なつをは顔を下に向け、相変わらず目は閉じていたので目線の向きははた目には確認できなかったが、おそらく下を向いているのであろう。そして、しばらくして、言葉を発した。「すごく感じるのが嫌な感覚があります。得体の知れない何かがある感じです。」
「お、頑張って、少し近づきましたね。その調子で、つかず離れずで、その感覚を、感じ続けましょう。」ドクターは、穏やかな調子でありながら、独特のリズムでそう言った。ドクターはエリクソン催眠の素養があり、ワークに入ると相手の呼吸のリズムに合わせ、誘導していくのだ。予め誘導文(スクリプト)がなくても、即興で作って誘導できるらしい。
なつをはしばらく、自分の中にあるその「得体の知れない感覚」を感じるように頑張っていたが、やがてかなり疲れ切った表情で言った。「先生、もうこれ以上無理です。」
「湯水ちゃん、ちょっと背中をなでてあげて。」ドクターが言った。
湯水ちゃんがなつをに寄り添い、肩や背中をなで始めたら、なつをの目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「しばらく休憩にしましょう。」

・・・
休憩中、ドクターと湯水ちゃんは別室で方針について話し合っていた。
「先生、なつをさんは彼から受けたダメージが予想以上に大きいみたいですね。そこを何とかしないと。」湯水ちゃんは心配そうな表情でそう言った。感情移入してしまったのか、声が少し震えている。
「いや、私はそうは思いませんが。」ドクターは淡々と返した。意外にも、ドクターの見解は彼氏から受けたダメージではない、ということのようだ。
「だって、あんなに激しく反応していたし、まだ感情を感じ切れていないですよ!」ドクターのあまりの楽観に湯水ちゃんはイライラしてきた。だって、なつをさん、あんなに苦しんでるのに!
「いや、あのね、私は決して、なつをさんの現在の状態を軽く見ているわけではありませんよ。確かに、得体の知れない、恐ろしい感覚が胸の奥にあって、それがまだまだ、未解決である、という点には同意しますよ。でも、その感情が作られた原体験は、彼との関係ではない、と読んでいるのです。」
「えっ?」湯水ちゃんは呆気にとられて、間の抜けた表情をした。
「私はおそらく、」ドクターは構わず続けた。なつをを別室で待たせているので、のんびり議論している時間はないのだ。「幼児期のトラウマが関係していると読んでいます。」
「えっ?」湯水ちゃんはそこで固まってしまった。なぜなら、幼児期の話など、ここまで全く出ていないからだ。「先生、なつをさんから幼児期の話って・・・」
「いや、全く出ていないですね。」相変わらず淡々とドクターは答えた。
「では、どうしてそうだと分かるのですか?」
「うーん。確信はないですよ。ただ、これだけ大きな負の感情が生まれるというのは、それなりに大きな出来事があったか、あるいは、それだけ傷つきやすい時期に何かがあったか、のどちらかのはずです。前者ならきっと話の中で出てくると思うのですが、本人の記憶の中にも、原因と思しき出来事が思い当たらない、となれば、記憶に残らないぐらいの小さい頃の出来事が傷になっている、という想定をするのは、それほどおかしいことではないと思いますけどね。」
ここで湯水ちゃんは、ドクターの推理力に圧倒されて何も言えなくなってしまった。確かにここまで説明されれば、そうかな、と思えるが、一切話題に出ていないことを「原因」と推定するのは、自分にはとても無理だ、と思ったのだった。
・・・

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