なつをの夏の物語(10)|恋愛ドクターの遺産第10話 記憶のないトラウマを癒す

セッションが再開して、ドクターがまず方針を述べた。
「なつをさん。今私が考えている方針を説明させて下さいね。」
「はい、先生。お願いします。」
「実は、なつをさんがまだ物心つく前の時期、たとえば2歳とか、そんな時期に作られたトラウマが、現在の人間関係に影響していると想定しています。」
「えっ・・・そうなんですか・・・でも、そう言われてもよく分かりません。」
「そうですよね。人間が出来事を記憶できるのは4歳ぐらいからと言われています。ですから、それ以前の出来事は、いわゆる『記憶』には残らないのです。」ドクターは理路整然と説明した。出来事の記憶とは「エピソード記憶」とも呼ばれ、日記に書くような何が起きて、次に何が起きて、という物事の展開をストーリーにして覚えている記憶のことだ。もっと小さな頃の記憶は、たとえば、ある場面の映像だけが記憶に残っていて、但しそれが何が起きたときの記憶なのかは覚えていない、といった形では、残ることもある。そして、ドクターによると一番大事なのは、出来事の記憶が残らないような時期のことであっても、感情の記憶は残るというポイントだ。だから、その時期に怖い思いをした経験が、意識的には何の出来事かは覚えていないけれど、なぜか心の奥底にある恐怖心、という形で心に傷跡を残すことはあるわけだ。ドクターは話を続けている。「出来事の記憶は残らなくても、感情の記憶が残っていることは多いのです。そしてそれを頼りに、癒すべき心の奥底の感情を見つけ出すことは、十分に可能です。」
「はい。」なつをは先ほどの「得体の知れない」感情を感じたことと、いまドクターに言われた「記憶のない時期の体験」を扱う話とで、とても不安そうな顔をしている。
「なつをさん、大丈夫ですよ。任せて下さい。取り組んだ分だけ、確実に気持ちが軽くなりますから。」ドクターは落ち着いた調子でそう言った。
(こんなとき、先生はホント頼りになるなぁ)湯水ちゃんはそう思った。

「では、始めていきたいと思います。」ドクターはそう言って深呼吸をした。
なつをもつられて深呼吸をした。
「まず、先ほど感じた、『得体の知れない感じ』をもう一度感じてみて下さい。」
「はい。」なつをはそう言って目を閉じ、しばらく自分の内側を感じている様子だったが、やがて、静かにうなずいた。
「では、ここからは、事実でなくて構いません。もし、なつをさんが、1歳頃、あるいは2歳頃に、そんな感情を感じるようなできごとを経験していたとしたら、それはどんな出来事でしたか?勝手に作ってみて下さい。」
その瞬間、なつをは急に目を大きく見開き、はっとした表情になった。そして、何か言葉を探しているようだった。
「何でもいいから、言葉にしていきましょう。」ドクターは促した。「何か映像や、記憶の断片みたいなものが出てきたのなら、まずそれを言葉にしてみてください。」
「はい。薄暗い部屋です・・・ものすごく怖い・・・。」
「誰かいますか?」
「誰もいません。」
「体の感じから、今自分が何歳ぐらいか分かりますか?」
「ベッドに寝ている感じです。まだ1歳か、0歳の頃かもしれません。あの・・・思いだしたことがあるんですけど。」
「では、一旦深呼吸してみましょう。」
ドクターとなつをは一緒に深呼吸をした。
「その、思い出したことを教えてください。」ドクターは促した。
「はい、これは覚えているというよりは両親から聞いた話なのですが、私を寝かせていた部屋が、両親が生活している居間や食堂から少し遠くて、私の泣き声が聞こえづらくて、気づいたときには私が激しく泣いたあとで、吐いて、そのまま寝てしまっていた、ということが何度かあったそうです。」
「思い出した部屋の空気感は、その部屋に似ていますか?」
「はい。細部はもちろん覚えていないのですが、空気感は似ています。」
「先ほど出てきた体の感じは、泣いて、吐いて、寝てしまって、という段階の、どの段階だとするとしっくり来るような気がしますか?」
なつをは呼吸が乱れ始めた。でも必死で自分を保ちながら、ドクターの質問に答えた。「ええと、部屋に誰もいなくて、とても不安になる段階と、それで激しく泣いて、吐いて、混乱している感じと、両方が混ざっているかな、と思います。でももちろん、ハッキリと覚えていないので、当てはめてみるなら、そうかも、という感じですけど・・・」
「いやいや、それだけ答えられたら上出来ですよ。なるほど、なつをさん。やはりこの辺が、あの『得体の知れない感じ』の原体験と言えそうです。逆に言うと、この原体験をしっかり癒してあげれば、なつをさんの問題は大きく解決に向かうと期待できるわけです。」
「はい。お願いします・・・でも、どうすれば・・・」

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