文系と理系では「エゴ」の捉え方が違う、という仮説

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Photo by Yasushi Azuma

あづまです。

実は私、
エゴを見つめろとか、自分の醜いところと向き合わねばとか、
そういう「カウンセラー系の人が言いそうな表現」に、
かなりの違和感を持っていたんですね(今でも)。

で、なぜそう感じるのか少し分かってきたので、ここで書こうと思います。

始めにお断りしておきますが、エゴが自分勝手で、とか、何かの基準を持ってきてそれと照らしたときに「醜い」という評価になることとか、そこに違和感を持っているのではありません。そうではなくて、「なんでそんなこと、わざわざ声を大にして」(あるいは文字を大にして)言わなきゃいけないの? という違和感の方です。

ここで仮説:文系と理系では、そもそも「エゴ」の捉え方が違うのではないか?

昔、あるテレビ番組に出演していた医学系のリケジョの方が、こうおっしゃってました。

Q:恋愛とは?
A:自律神経の高ぶり

(笑)

【文系】
人間中心主義の人は、人ってすばらしい、というところからスタートするので、
醜いエゴと直面することに抵抗がある。

【理系】
自然科学絶対派の人は、人間は特別ではない。あらゆる生物のうちの(特別ではない)ひとつと見るし、心もあらゆる化学反応、あらゆる物理現象のうちの(特別ではない)ひとつと見るので、エゴが醜いみたいな話に対して、「なぜそんな議論をする必要があるのか分からない」という感覚。

で、私は割と、後者の感覚で生きていたわけ。

だから、攻撃されたら反撃体勢を取るために、脳内でノルアドレナリンが出て(つまり怒る)、そういう反応になる、って、まあ当たり前だよね、みたいに思っている。そこにそもそも(ヒューマニズム的な意味で)美しいとか醜いとかいう感覚はない。別に左の頬を差し出したからエライとか思わない(話の筋を分かりやすくするために少し誇張してますが)

さらに言っちゃうと、エライかエラくないかじゃなくて、生き残りやすいかそうでないか、って話でしょ? って思ってる。他人に親切にすることも、進化論では、回り回って自分が生き残りやすいからそうするのだ、って説明されている。ヒューマニズムのかけらもない(笑)

それでなぜ、わざわざこんな記事を書いているのかというと、私が理系だからなのか、私のところに相談や講座で来て下さるお客さんには結構、理系の方がいらっしゃるんですね。

そろそろ、理系の人にも響く言葉が必要かなぁ、と思い始めています。

少なくとも私は、醜いエゴが、とか、わざわざ言うことに、とっても違和感があるし。

「そもそも【醜い】とかいう評価をつけることがエゴなんだよ」と言いたい。

これ割と、カウンセラー的な人の中では異端的な意見かなぁ・・・

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