第五幕 ゆり子のVAK
(私は、視覚、聴覚、体感覚、どれなんだろう?)ノートを閉じて、ゆり子は考えていた。(そして、幸雄さんは、どれなんだろう?)今日もまた、ノートに教えられた。コミュニケーションは愛情の深さや真剣さがあれば通じるものと信じ切っていたゆり子にとって、そもそも視覚・聴覚・体感覚、という得意なチャンネルがあり、チャンネルがずれていると通じにくい、という要素があるなんて、脳天をなぐられたような衝撃的な気づきだった。
(私と幸雄さんも、単にチャンネルがズレているから通じないのだろうか・・・だとしたら、別居を決めてしまったのは時期尚早だったのかしら・・・)ゆり子は、夫の幸雄に一方的に別居を申し渡したことを思い出していた。あの時は真剣に考え抜いて出したと思っていた結論が、実は早まった行動だったのかもしれない、という考えが湧き上がっていた。そのことを考えると、胸のあたりがずーんと重くなる。そして娘のさくらの人生も含め、家族の人生がかかった決断を、自分はあまりに無知な状態で下したのかもしれない。そう思うと背筋に冷たいものを感じ、体中から嫌な汗が出てくるのを感じた。
「今それを考えても仕方ない。」ゆり子はひとりごとを言った。祖父の残したノート「恋愛ドクターの遺産」を読むようになって、色々自分の至らないことや、無知なことに気づかされることも多いが、実は一番プラスになっているのは、こうして、今考えても仕方ないことを、棚上げにすることができるようなったことだった。
人生は難問の連続だ。お金のこと、仕事のこと、人間関係のこと、とくに濃密な人間関係である恋愛や家族の問題は難しい。気にし始めたら、いくらでも気になることがあるし、完璧な安全、完璧に問題が起こらない状況を望んだら、それこそどれだけエネルギーをつぎ込んでも足りはしない。
ゆり子はノートを読むようになって、ノートの中の登場人物がいつも、自分と重なるような気がした。読み終わると必ず自分と重ね合わせて考える習慣が出来た。ノートの中に書いてあることそのものよりも、こうして自分のことを客観的に考えるクセがついたことの方が大事なのかもしれない。明確に言葉に出来たわけではないが、ゆり子は、漠然とそんなことを考えた。
「そう、今、そのことを考えても仕方ない。」ゆり子は再び自分に言い聞かせるようにそう言った。ノートを読んだ成果がこれだ。今考えても、人生にプラスにならない考えに、ぐるぐる囚われ続ける・・・これは以前別の心理学講座で学んだ「自動思考」というものらしいが・・・その自動思考の無限ループから抜け出すのが早くなった。その時にゆり子が自分を方向付けるために考え出した言葉が「いま、それを考えても仕方ない。」であった。
ゆり子自身は割と論理的なタイプだ。どこかの心理学講座に出たとき「まあいっか」と言う言葉を言って、細かいことに囚われることから抜け出そう、みたいに教わったことがあった。ゆり子も早速実践してみたが、始めの数回は良かったが、なんだか嘘くさいと思うようになってしまい、次第に効果が無くなってきて、やめた。そして、例のノートを読みながら結局自分でこの言葉にたどりついた。
たどり着いてみて思うことは、「まあいっか」はどこか、永久に棚上げするようなニュアンスがある。そこが嘘くさく思えてダメなのだ。講座で隣に座っていた女性は「すごく役立つ!」と言っていたが、ゆり子は元来、先のことをきちんと考えるタイプである。心の中に「永久に『まあいっか』とか言って放置して良いわけないでしょ!」という声が湧いてきて、その言葉では棚上げする気分になれないのだった。それで結局、「今は」という言葉を入れて、「今はそのことを考えても仕方ない」という、論理的に矛盾がない言葉にしてようやく、ゆり子自身の心に届く言葉になったわけだ。
では、今は何を考えるときなのか。ゆり子は、一旦、幸雄と自分の「チャンネル」について考えてみることにした。そういえば幸雄は、ノートの中の和義に少し似ている。「見える」「見通し」といった視覚的な表現をよく使うし、思考も早い。少し着心地が悪そうだがデザイン的にはとても良い服を、頑張って着ている。
(幸雄さんは、視覚派だ・・・)ゆり子はそう思った。そして、自分はどうだろう、と考えてみた。服は肌触りが大事だし、英子さんのようにコミュニケーションで自分の「感覚」を伝えたくて仕方なくなる。でもそれを表現する言葉が足りなくていつももどかしいのだが。
(私はやっぱり、体感覚派かも・・・)ゆり子はそう結論づけた。(そう考えると、英子さんと和義さんの関係は、私と幸雄の関係に似ているのかもしれない)ゆり子はノートの中の出来事が、またしても今自分が直面している問題に酷似していることに、驚いた。
(ただ、私は英子さんのように踊りは得意ではないけれど・・・)タイプは似ていても、やはり細かい部分で人は違う。そして、解決策も同じではない。踊って伝えるなんて、そもそも自分に出来るとは思えなかった。
「やっぱり、ここから先は、自分で考えないといけないんだろうなぁ・・・」ゆり子はつぶやいた。
(つづく)
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