シングルを卒業(16)|恋愛ドクターの遺産第5話

でも、幸雄の動機はあくまで「合理的に行動すること」であって、「ゆり子という特別な存在に対して、いつも味方であること」ではないのだった。

たとえば、結婚してすぐの頃、こんなことがあった。当時はまだ、二人とも働いていて、ゆり子も事務職だったが、忙しく働く毎日だった。仕事の内容は資料作りなど得意な内容がメインで、好きだったのだが、職場の空気を乱す同僚Fがいて、どうにもその人が苦手だった。
それまではなんとか、うまく受け流しながらやってきていたのだったが、いよいよ、一緒のグループに入って仕事をすることになり、逃げられなくなってしまった。
Fを知らない人にその息苦しさを説明するのは、とても難しい。実際、Fの微妙な嫌がらせを全く意に介しない人もいる。だから、Fだけの一方的な問題というよりは、微妙な嫌がらせをするFと、それを敏感に感じ取る側との、合わせ技、相性の問題で起こるといった方が、客観的に見たら適切なのだろう。
Fの行動は、たとえば、こんな感じなのだ。ゆり子がコピー機を使いそうな気配を見せると、先回りしてコピー機を使う。Fはゆっくりコピーを取ったり、やり直したりして、待っているゆり子をイライラさせる。しかしその行動を単独で見たら、オフィスにおいて問題ありな行動とは言えない。ときどきは「ゆずってやろうか?」的なオファーがあることもあった。自分で先回りしておいてお恵みを与える、的な腹立たしい親切である。同僚も、同じような「嫌がらせ」をされていて、その場合の対応はふたつに分かれていた。心の中で「しょーもないやつだ」と思いながら「ああ、どうもありがとう。」と気持ちよく言って、実を取る現実主義の人と、ギロッとにらみつけたり、怒った声を出したりして不快感をあらわにしつつ「結構です」と断る、人間性重視の人。ゆり子はこの対応についてもどっちつかずだった。
まあそんなことが繰り返されていて、そのことを幸雄にこぼしたときのことだった。今となっては予想できる返答だったが、幸雄の答えはこうだった。基本、自分なら前者のような対応をする。わざわざ感情的なゲームを仕掛けてきているFにつき合っているほどヒマではない。しかし、実害も、業務の効率が下がるなど、わずかとは言え出ている。この行動が目に余ると思うなら、彼が嫌がらせを仕掛けている人数をざっと調べ(正確な調査はしていないが、毎日目にしている感じからすると大体7、8人だった)、ひとりあたりに仕掛けている嫌がらせの種類と頻度をざっと調べ、結果的に1人あたり平均してどのぐらい事務作業が遅滞するのかを見積もり、最後に人数を掛ければ、職場として潜在的にロスが生じている分が、金額で見積もることが出来る。時給をかけ算することを忘れずに。だいたいひとり一日多くて10分程度。平均すると5分程度邪魔されているような感じだったので、計算しやすいように時給2400円として、8人分で3200円。20日の出勤として毎月64000円の損失になっている、と、ここまでゆり子に聞き取って幸雄が見積もったのだが・・・これを上司に突き付け、それでも解決しないなら会社のコンプライアンス委員などに上申し、きちんと物事を動かす、そう動くべきだ。
まあ、幸雄らしいと言えば幸雄らしいが、そういう解決策を提示してきて、どっちつかずになっているのはおかしい、と言われた。ゆり子は「責められた」と感じた。
実は後日談で、そのFは、やはり職場の空気を乱し、業務効率を下げたという、ほぼ幸雄が主張していたような理由で、肩たたきに遭い、結局職場を去っていた。だから、幸雄の言うような行動を取った人が他に誰かいたということになるし、幸雄の言っていることは、やはりここでも、職場全体の秩序を保ち、効率よく働くという目的に照らして言えば、正しかったことになる。
しかし、しかしなのだ。この動機が、どうしても、ゆり子は受け入れられないのだった。

「私だけの味方でいてくれる、それって幻想なのかなぁ。」ゆり子はつぶやいた。

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