第一幕 メール
ゆり子は、手元にプリンターから出力した「資料」を1センチメートルぐらいの厚みに積み上げていた。夫との関係を修復するために、インターネット上から情報収集したもののうち、役に立ちそうだと思った記事をプリントアウトしたものだ。
(厳選したけれど・・・それでもこんなに沢山あるのか・・・)
この「資料」は、A4サイズの紙で、脇から色とりどりのふせんがはみ出ている。ゆり子は、一度は「もう無理」と思って夫との関係改善をあきらめたけれど、恋愛ドクターのノートを読んでいるうちに、ふと心が軽くなって、夫にしがみつく気はないけれど、やるだけやってみるかな、という気持ちになっていた。
ゆり子は、夫宛に、久しぶりに長いメールを書いた。これまでは「ごはんいる?」「何時?」みたいな、メールと言うよりチャットのような短文や挨拶文だけのメッセージが多かったので、少し時間がかかった。
幸雄さん
こんにちは。最近会話がなくなってしまったから、こうしてメールを書くのも少しヘンな感じです。今日もお仕事大変ですね。お疲れさま。いつも、家族のため、そして社会のために働いてくれてありがとう。
今日は、さくらが、お友達と一緒に遊ぶときに、上手にリーダーシップを発揮していた、とリナ先生に褒められました。親にとってはいつまでも小さい子ども、と感じるけど、少しずつ成長しているみたいです。
ごはんは、いつも通り用意しておきます。体に気をつけて、今日も頑張ってね。
さくらは幼稚園児。ゆり子たち夫婦の一人娘だ。ゆり子はこのあとさらに、過去の楽しかったこと・・・具体的には幸雄さんと一緒にディズニーランドに行った思い出や、一緒に行った温泉の話など・・・を続けて書いていたのだが、なんとなく違和感があって、今回は送らないことにして削除した。ネット上の「男女関係修復のテクニック」の中には、「ふたりが楽しく過ごした頃の思い出の話をする」というアドバイスもあった。そのページには何枚もふせんが貼られ、蛍光マーカーで線が引かれていた。
(でも・・・)ゆり子は、マニュアル通りに行動することに、なぜか違和感を感じていて、結局今現在の、夫への感謝の言葉と、さくらの近況報告だけを送ることにしたのだった。
幸雄からは、1時間ほどして返事が返ってきた。
ゆりちゃん
メールありがとう。仕事は相変わらず多忙です。今日も遅くなります。では。
「はぁ・・・」ゆり子はため息をついた。
(メールを送ったらすぐに何か変わるわけじゃないよね・・・)予想はしていたけれど、やはりがっかりした。こちらはあれこれ考えて、資料まで積み上げて、それで送ったメールなのに、幸雄はそんなこと、まったく気づいていないだろう。
そもそも、夫婦のすれ違いから、ゆり子が夫に離婚の話まで切り出したのは、夫の幸雄があまりに共感力のない人だからだ。ディズニーランドに行った思い出を文章にしてメールで送ろうとしてためらった理由も、ここにある。確かに楽しい時間も過ごしたのは事実だったが、ゆり子が歩き疲れて「休もう」と言ったときに、夫は事前に立てた計画のことを話し始めた。つまり、この時間にあれとこれに乗って、そのあとなんちゃらパスを取っておいたあれに乗って、そうすると一番効率的に回れる、みたいな話。確かに夫の言っていることは理屈としては正しいし、事前にそういう計画を二人で立てたのも事実だった。
ただ、ここには楽しい時間を過ごすために来ているのに、しんどいと言っている妻の気持ちよりも、計画の遂行が優先という思考回路に、ゆり子は激しく違和感を感じ、ショックを受けてもいた。
ディズニーランドの出来事は氷山の一角で、とにかく、毎日毎日、些細なことかもしれないけれど、この、幸雄の共感力のなさ、配慮のなさに、ゆり子は小さな傷を受け続けてきた。
恋愛ドクターの遺産(レガシー)は、父がゆり子に渡してくれたノートだ。祖父は有名なカウンセラーだったらしい。恋愛や結婚生活の悩みに対して、明快でかつ独創的な解決策を提示することで、数々の夫婦の危機を救ってきたそうだ。ゆり子が小さい頃に祖父は他界しているが、その祖父が残した手記が「恋愛ドクターの遺産」だ。ノートをそう名付けたのは父だ。
(また読んでみようかな・・・)ゆり子はノートを前にしてそう考えていた。実は先日「恋愛ドクターの遺産」を読んで、色々な変化を経験したゆり子は、そのことを父に報告した。父は自分と同じような体験をした仲間が増えたことが嬉しいらしく、今度はまとめて段ボールで送ってきたのだった。ノートは何十冊かある。前回は、ゆり子の状況に合わせて、一番内容がピッタリのノートを父が選んでくれたのかと思ったが、父も「適当につかんで渡した」そうだ。
「このノートの使い方はな、悩んだら、適当に一冊選ぶんだ。そしてその内容を読む。すると、不思議なことに、なぜか今自分が直面している課題に役立つ話が必ず書いてある。お父さんも、そんなはずはない、理屈から言えば、関係ない内容が書いてあることだってあるはずだ、と何度も考えた。まあ人の悩みなんて結局みんな根っこは同じ、ということかもしれないけど、とにかく、こうやって『エイヤっ』と一冊選んで読んでみると、今の悩みに適切なヒントが必ず書いてあった。ゆり子もそんな風に使ってみるといい。」
父から箱が送られて来てゆり子がかけた電話で、ゆり子の父はそう説明した。
「えいっ」ゆりこは、先日読んだノートとは別のノートを一冊つかんだ。やはり表紙にはAとだけ書いてある。
(どのノートも表紙には識別する記号すらない・・・おじいちゃんは、このノートを書いたあと、自分で内容を読み返したいとき混乱しなかったんだろうか・・・)ゆり子はそんなことを考えながら、ノートを読み始めた。
そこには、「『鎖骨にほくろフェチ』の男性が、性癖を治療しに来た」と書いてある。
そんなこと、変えられるのかしら、ゆり子はそう思いながら、ページをめくっていった。
(つづく)