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シングルを卒業(11)|恋愛ドクターの遺産第5話

「今度は、過去のことを質問します。今の感覚と同じ、あるいはとても似ている感覚を、過去に経験したことはありますか?なるべく古い経験を、頑張って思い出してみてください。」

みさおは一瞬体を「びくっ」とさせて、それからゆっくりと答えた。「あの・・・家に父がいて、機嫌が悪い時の感じに似ています。」
「なるほど。お父様がいらっしゃって、しかも機嫌が悪い、と。その時に・・・ええと、みさおさんは何歳ぐらいでしたか?」
「5歳ぐらいだと思います。」
「なるほど。5歳ぐらいのみさおさんが感じていた感覚と、仕事でプレッシャーがかかった時に感じる緊張感は、似ている、と。」
「はい。ほとんど同じ感じです。」
「そしてそれは、前回から扱ってきている『安全の感覚が足りない』というテーマに沿っている感じですかね?」
「はい、まさに、安全の感覚がないです。」
「どうやら、そのあたりがこの問題の根っこのようですね。」
「そうなんですね、やっぱり父のことだったんですね。」
「そうですね。お父様から受けた影響は、そういう意味では大きかったということです。」

「はぁ・・・やっぱりお父さんか・・・」みさおはため息をついた。もううんざりだという様子だ。

ドクターは、みさおのそんな様子にはおかまいなしに、質問を続けている。
「みさおさんは、お父様のような人の逆、つまり、場の安全を作り出してくれる人、公正さを大事にしていたり、人を大切にしていたり、そんな人を、ここしばらく観察してきましたね?」
「はい。職場にも何人かいますし、友達の中にも・・・女性ですけど・・・何人かいました。」

「では・・・」ドクターは少し間を取って、そして言った。「これから、過去の印象を変えるワークを行っていきます。一度深呼吸をしてみましょう。」そう言ったあとに深呼吸をした。
「はい。」みさおも深呼吸をした。
「それでは、こちらに」そう言いながら部屋の一角を手のひらで示した。「過去の世界があるとイメージして下さい。」
「はい。」
「こちらには、あの当時のみさおちゃん・・・でいいかな?」ドクターはそう言いながらみさおの方をチラッと見て、みさおがうなずくのを見て続けた。「みさおちゃんがいるとイメージして下さい。ここには、お父様もいます。」
「はい。」みさおの表情がこわばり始めた。
「ちょっとこの世界に近づいてみて・・・」そう言いながらドクターは、「過去の世界」への窓ガラス・・・実際には何もないが・・・に手を当てながら顔を近づけて向こうの世界をのぞくようなしぐさをした。「どんな感覚があるかを、感じてみて下さい。」
「はい。」みさおもドクターの真似をして、同じしぐさをした。「とても嫌な感じです。」
「そうですよね。この世界の明るさは、どうですか?」
「暗いです。」
「空気の温度は、暖かいですか、肌寒いですか?」
「寒いです。」
「空気の重さは、軽いですか、重いですか?」
「重くて、張り詰めた感じで、痛いです。」
「では、この世界から離れてください。」
「はい。」みさおは過去の辛い世界から離れられてほっとしたように見えた。
「お疲れさまでした。ちょっと一度深呼吸しましょう。」ドクターはそう言って自分も深呼吸をした。
「はぁーーーー」みさおは深呼吸ともため息ともつかない、大きな息を吐いた。
「続いていきます。今度は、あの世界に足りなかったもの、つまり、この場に安全、公正さ、公平さをきちんともたらそうという人のエネルギーをイメージしていきます。」
「はい・・・どうすれば・・・」
「職場の人でも良いですし、お友達の方でも良いです。そのような人を思い出してみてください。」
「はい。」みさおは目を閉じて思い出しているようだった。
「その人たちから、安心感、安全の感覚のエネルギーを受け取っているとイメージしてみましょう。」
「はい。」
「そのエネルギーに色があるとしたら、どんな色ですか?」
「落ち着いたグリーンです。」
「グリーンですね。では、その受け取ったエネルギーを、こうして、両手の上に載せてみたとイメージしてみてください。」そう言いながらドクター自分の両手を目の前に出し、水を汲むときのような形にした。
「はい。」みさおも倣って、両手を水を汲むような形にした。
「なにか、形のようなものはありますか?」
「ええと・・・丸い形をしています。」
「なるほど。触った感じ・・・質感や温度はありますか?」
「少しひんやりして気持ちいいです。わりとずっしりした感じで、弾力のあるおもちみたいな感じです。冷やしぜんざいに入っている白玉のようなもちもち感です。」
「なるほど・・・美味しそうな表現ありがとうございます。」ドクターはそう言ってくすっと笑った。
みさおもクスッと笑った。
「では、この緑色のひんやりずっしりて、モチモチしたエネルギーをこうして両手に持ったまま、」そう言いながらドクターは「その世界」の方へと近づいていき、さらに言った。「その世界に入っていったとイメージしてみてください。」
「はい。」意を決したような表情で、みさおも、そのエネルギーを両手に持って、さきほど「過去の世界」とドクターが示した方に近づいていく。イメージの中では本当に過去の世界に入っているのだろう。表情が少しだけこわばっている。しかし、一回目とは明らかに違う。目つきにも、表情にも、どこか強さがある。

(つづく)

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シングルを卒業(10)|恋愛ドクターの遺産第5話

第五幕 インナーチャイルドの課題

数週間後、今日は色々取り組んでいるみさおさんが、次のステップに進むための話をしに来る日だ。

「なつを君、今日は確か、みさおさんがいらっしゃる日だったと思いますが。」
「はい、先生。どうなっているか、楽しみですね。」
「そうですね、結構行動はしてくれている気がしますので、変化が楽しみです。」

ノックの音がして、みさおが入ってきた。
「先生こんにちは。」
「こんにちは、みさおさん。」ドクターはにこやかに応対している。
みさおが着席すると、ドクターは早速質問を始めた。前回の行動課題はやってみたかとか、やれなかった場合はどんな気持ちが邪魔をしてできなかったのかとか、細かく聞いている。

「それで、最近はどうですか?」
「どうって・・・何がですか?」
ドクターは、ああ、と少し苦笑いして言葉を足した。「前回は確か、安全の感覚が足りない、という話になったと思うのですが、色々取り組みをされたようですので、そこに変化があったのか、それとも、大して変わらない感じがするのか、率直なところが知りたいのです。」

「あ、はい・・・どのくらい変化があったのか、それは分かりませんけど・・・それほど時間も経っていないですし、出会いもまだないですから・・・ただ、自分がネガティブな出来事にばかり気を取られていたことに気づきました。」
「ほう、なるほど。ネガティブな出来事に気を取られていると。」
「はい。頂いた課題のように、平等で人間として尊敬できる人を観察しようとしてみたら、そうじゃない人、ズルをしたり、大声を出して脅しみたいなことを言ったり、そういう人のことばかり、日頃気にしていることに気がつきました。」みさおは少し暗い表情でそう言った。
「なるほど。それは大事な気づきですね。」対照的に、ドクターは明るい表情、そして明るい声でそう応じた。
「でも、それをやめられたかというと、難しいです。気になってしまうので。」
「そうでしょうね。すぐには変われなくても、それは気にしなくていいと思います。気づいただけでも大事な進歩ですよ。」ドクターは、一貫して明るい声、明るい表情でそう言った。
「そうなんですね!では、そう考えておくことにします。」みさおも影響されたのか、少しだけ明るい声になって、そう答えた。

「ところで・・・ネガティブな方に反応してしまうのは、人間の性みたいなものなので、どうしてもすぐには変わらないものなので、まあ、じっくり変えていければよいと思うのですが、平等で人間として尊敬できる人を観察する、つまり、ポジティブなことにも目を向ける、というのは、できていますか?」
「ええと・・・いつもではないですが、やるようにはしています。意識しているときはできていると思います。でも、ネガティブな方の人が近くに来ると、そっちに意識を持って行かれるというか、とにかく気になってしまって、うまくできません。」
「なるほど!そこまで出来ていれば、今日の時点ではかなりの上出来だと思いますよ。」
「えっ!?そうなんですか?全然うまく出来ていないと思っていました。」

今日も先生は絶好調だ、なつをはそう思った。先生は人の「できる部分」を見るのが得意だ。出来ていないことではなく、出来ていることに目を向ける。どうやら、これは意識していやっているのではないらしい。以前なつをと先生が話していたときに、こんな事を言っていた。「僕はね、人の能力を見る、人が『できる』という風に解釈する、そういうクセがあるみたいです。もちろん、他人のよいところを見る、長所をちゃんと見るというときには、良いことなんですが、ときどき、相手の能力を過大評価して『君ならここまでできるはずだ』と考えてしまい、相手にしてみれば過大なプレッシャーをかけられたと感じることがあるようなんです。」と。
私も身に覚えがある。先生が「じゃあなつを君、任せたから。」と言って、それほど丁寧に説明もせず、初めての仕事を「ぽんっ」と任された。そのときは先生のこのような性格をよく知らなかったから、締切間近になって大慌てになった。
このように、時々は相手にプレッシャーを掛けすぎてしまうという形で裏目に出ることもある先生の性格だが、基本的に、心理学では相手の能力を高く見積もることは「良いこと」とされている。
ピグマリオン効果、と言うのだが、人は相手から期待されているような行動をしたり、能力さえ、相手の期待通りになっていく、という効果のことだ。但し、あまりに本人の能力とかけ離れた期待を持ったり、客観的な実力が伴っていないのにほめちぎったりすると、逆効果になったり、悪影響が出たりするらしい。それに、語源となった「ピグマリオン」はギリシャ神話のピグマリオン王が女性の彫像に恋い焦がれて、人間になってほしいと願ったら、本当に人間になったという神話が由来となっている。その神話自体も、少しゆがんだ愛の形だなぁ、と私なつをは、実は思っている。ともあれ、相手に期待をかけ、ピグマリオン効果で相手を導く、というのは、さじ加減の難しい作業ではあるようだ。

なつをが勝手に回想しているのをよそに、セッションは進んでいた。

「みさおさん、今日は、もう少し踏み込んで、みさおさんの世界観を、少しずつでもポジティブにしていけるかどうか、そのチャレンジをしてみたいと思います。」
「はい、なんか怖いですけど。大丈夫ですかねぇ。」
「ええ、大丈夫ですよ。潜在意識は、本当に変われない、無理、という場合は、自ら先に進まないようにブレーキをかけるものですから。無理やり何かをしない限り、心配することはありません。必要な変化が、起きていきます。」
「はい。少し安心しました。」

「では・・・」そう言ってドクターは少し真剣な顔になった。「先日からテーマになっている『安全の感覚』についてですが、それが脅かされている、それが今はない、と感じるときは、特にどんな時ですか?」

「えぇと、仕事でプレッシャーがかかった時などは、そうだと思います。」
「なるほど。では、仕事でプレッシャーがかかった時のことを想像してみてください。」
「はい。」みさおの表情がみるみるこわばっていくのが分かる。
「その時の感覚・・・今の感覚でもありますが・・・それを、少し言葉にしてみましょう。」
「はい・・・なんだかものすごく緊張して、胸のあたりが『ギューッ』と締め付けられるような感じがあります。」
「なるほど。胸のあたりが『ギューッ』と締め付けられるような感じですね。」
「はい。」
「その感じを、しっかり覚えておいてください。」
「はい。」
「今度は、過去のことを質問します。今の感覚と同じ、あるいはとても似ている感覚を、過去に経験したことはありますか?なるべく古い経験を、頑張って思い出してみてください。」

みさおは一瞬体を「びくっ」とさせて、それからゆっくりと答えた。「あの・・・家に父がいて、機嫌が悪い時の感じに似ています。」

(つづく)

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シングルを卒業(9)|恋愛ドクターの遺産第5話

第四幕 恋人が出来ない問題〜ドクターとなつをの議論

「先生、みさおさんの『彼氏ができない問題』の原因は、彼女の生育歴にある、と、そういう解釈なのですね?」
「そうですね。今のところ私は、そう捉えています。」
控え室では、恒例の、恋愛ドクターと、助手のなつをの議論が始まっていた。今日の議題は、「彼氏ができない問題では、どのような場合に、原因がインナーチャイルド課題と考えるのか」というテーマだ。なつをにとっては、先日来訪した女性に対してはドクターはインナーチャイルド課題を一切取り扱わず、「美人問題」と言い切って対応した。それに対して、いま通ってくれているみさおさんについては、ドクターはインナーチャイルド課題と決め打ちして、対応しているように見える。
ドクターの中では確信を持っているであろう、この判断の分かれ目について、なつをはとても興味をそそられて、そして、例のごとく質問責めにしているのだった。

「先生、どうして先日の方はインナーチャイルド課題にほとんど触れずに、『美人問題』のような個性の問題を中心に扱うカウンセリングをして、みさおさんは逆に、迷わずインナーチャイルド課題だと分かったのですか? ほとんど試行錯誤もせずに、真っ直ぐに問題に向かっていった感じがしたのですが?それと、『暴言を吐かない人』『暴力を振るわない人』のような『卒業ポイント』ばかり多く出てくる人の場合、頭の中で『暴言を吐く人』『暴力を振るう人』をイメージしている、とのことでした。イメージするものを変えてみる、という方法ではダメなんですか?」なつをは息をつく暇もないぐらい次々と質問を投げかけた。
「ええと、質問は一度に一つにしてください。」ドクターは笑いながら答えた。
「はい、すみません。つい・・・」
「では、後者の方から答えますかね。ええと、卒業ポイントが多く出てくる人は、頭の中でネガティブな男性イメージを持っている。だから、イメージをポジティブに変えれば解決するのではないか。と、こういうことですね?」
「はい。」
「考え方としては、シンプルで良いと思います。何の経験もなく、何の事前知識もなかったら、一度は試してみたい考え方ですよね。」
「そうなんですね。」
「まあ、そうですね。ただ、経験上、あまりうまく行かないと思います。」
「それは、なぜなんですか?」
「よく『考え方を変える』『ビリーフを変える』などのセッションを行うセラピストがいますが、実は、これは、言うほど簡単なことではありません。」
「そうなんですね。」
「はい。そもそも、例えば彼女の場合、現状では、人一倍『怖い!』と感じるわけです。だから、男性を怖いものと見なして、自分が傷つかないために警戒しながら生きているわけです。ここで、無理やり『怖くない』ということにして、警戒心を解いたら、問題は解決するのでしょうか?」
「あ、そうか、良いときもあると思いますけど、もし本当に『暴言を吐く人』や『暴力を振るう人』に出会ってしまったら、気を許している分だけ、衝撃を受けるかもしれませんね。」
「そういうことです。つまり、人一倍『怖い!』と感じる、『感じ方』を直してから、そのあと、ネガティブな考え方の方を直していく、という順番が必要なんです。考え方を直したら簡単に解決する、なんてことは、そうそうありません。」
「なるほど。では、『感じ方』を直すにはどうしたらいいんですか?」なつをはさらに質問を重ねている。
「なつを君、自分で少し考え・・・」ドクターが少しあきれたという表情で言いかけたとき、なつをが言った。
「あ、そうですね。つまり、怖い感情は、幼児期の経験から来ているから、それを癒せば、怖さが薄れる。そうなれば、そのあとは考え方をポジティブに変えることも容易になる、と、そういうことなのですね。」
「そういうことです。そして、もうひとつの質問の方ですが、確か、なぜ一直線にインナーチャイルド課題だと決め打ちしたような方針で進んだか、というような質問でしたね?」
「はい。」
「なるほど、なつを君にはそう見えたのですね。これは『運命の相手メソッド』を数多く手がけてきた私にはほとんど直感的に分かることなのですが・・・メソッドの中で、相手に求めるものをリストアップしていきましたね。」
「はい。」
「その、個々の項目を見るのではなく、全体的にどんな傾向があるかを見ます。」
「はい・・・」
「みさおさんの場合、全体的に、男性が近づいてくることに対して警戒している感じがしました。」
「はい。」
「いや、『はい』じゃなくてなつを君はどう感じたのですか?」
「あ、はい、確かに、みさおさんが持っている男性のイメージがネガティブだな、と感じました。」
「その感覚が大事なんです。ある項目があった、とかなかった、とか、機械的に判定できるようなポイントがあるわけではないです。全体を眺めて、どんな傾向があるか、どんな印象を持つか。それを判断するのがカウンセラー・心理コンサルタントの大事な役割なのです。簡単なコンピュータプログラムで判定出来るような、機械的な判定基準ではなく、経験を積んだ人間が見るからこその、全体的な印象、全てを俯瞰した視点からの判断が大事になるのです。」
「・・・まだまだ私には難しいです。」
「精進してください。」
「・・・はい。」

「とは言え、いくつか判断のポイントはあります。たとえば、相手に求めている要素を聞いたとき、すぐに具体的な項目が出てきませんでした。」
「そういえばそうでした。」
「たとえば『優しさ』や『尊敬できる人』みたいな、あまりに一般的な、漠然とし過ぎている言い方をしていました。」
「そうでしたね。でもそれがインナーチャイルド課題があることの証拠になるんですか?」
「わりと、そうです。もちろん、そのことだけで、機械的に判断してはいけません。でも、今まで何度か恋愛をしてきて、どんな人が自分は好きなのか、逆にどんな人は嫌なのか、色々経験して、自分の頭で考えたことがある人なら、もっと具体的に答えられると思いませんか?」
「そうですね。」
「試しにひとつ聞いてみましょう。なつを君は、『あなたは【彼】に何を求めていますか?』と聞かれたら、たとえばどんなことが浮かんできますか?」
「私は、わりと、ひとりで落ち込んだりすることが多いので、そういうときに、いい距離感で話しかけてくれたり、話を聞いてくれたり、でも、私がそれ以上入ってきてほしくないときには、それを察して、根掘り葉掘り聞かないでそっとしておいてくれたり、そんな風に扱ってくれる人・・・ほかにもありますけど、これがとても大事な気がします。」
「ありがとう。一個あげただけで、みさおさんの挙げた項目と、具体性が格段に違うの、分かりますよね?」
「あっ!そうですね!私がいま言ったこと、すごく具体的です。ちょっと詳細すぎて元カレがどんな人だったのか詮索されそうで恥ずかしくなります。」なつをはそう言って少し顔を赤らめた。
「そういうことです。」
「なるほど・・・確かによく分かりました。」先生すごい、今の質問と説明でものすごくよく分かった、となつをは思った。そして深くうなずいた。
考えている様子で黙っていたが、一、二分たっただろうか。なつをはゆっくりと口を開いた。「そうやって考えてみると、具体性がない、ということよりも、具体性がない、ということは、今まで男性と近い距離で過ごしたことがない、ということは、男性と心の距離が遠いのではないか、という推測の方がピッタリくる感じがしてきました。」
「そう!そこなんですよ。こうして、相手がどんな人生を歩んできて、だから、どんな感じ方をしていて、だから、どういう発言をするのか。そこまで感じ取れるようになれば、機械的に判断するレベルを卒業して、全体感に基づいて直感で見抜くことが出来る領域に進歩できます。」
「いやいや・・・長い道のりです、まだまだ。」
「そうですかね。今の理解は、なかなかでしたよ。今後はもっと、クライアントのことを理解できるようになっていると思いますよ。」
「先生・・・ありがとうございます。」

「さて、今日はもう遅くなってきましたから、そろそろ帰りましょうか。」
「はい。」

「たまにはご飯でも食べて帰りますか?」
「先生、奥さまは大丈夫なのですか?」
「ははは。別になつを君とどうこうなろうという訳ではないですから、大丈夫ですよ。家内は、いちいち詮索することはしないし、私も公明正大、堂々といつ誰とどこに行く、と言っていますので。心配はご無用です。」

「では、お言葉に甘えて。」
「それでは、ちょっと待って下さい。家に電話入れておきますので。」

(つづく)

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シングルを卒業(8)|恋愛ドクターの遺産第5話

「というわけでの、今日の行動課題ですが、」
「お願いします。」

「まず、安全の感覚を育てるためには、誰かが『守ってくれる』という感覚を感じて味わうことが必要なのです。」
「そう感じることは、あまりありません。」
「そうですよね。小さい頃から『誰も私を守ってくれない』という思いの中で生きていると、自分の身は自分で、必死に守らなければならない、という感覚になるので、必死で守る→他人は頼らない→他人から守ってもらえた感覚はますます育たない、という風になりやすいのです。」
「まさにそんな感じです。」
「そこを、少しずつでも変えていく必要があります。」
「はい。」
「まず、職場の上司や同僚でも、友人知人のどなたかでもいいですから、人間を平等に見て、ズルをしたりだれかを踏みつけにしない人をピックアップしてください。」
「・・・・・」
「はじめは、そんな風に人を見ていないですから、なかなか見つからないように思うかもしれません。その場合は、じっくり探すところから始めましょう。」
「えぇと・・・女性でも良いんですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。但し、最終的には男性の中でもそのような人を見つけてくださいね。はじめは、女性でもOKです。」
「はい。」
「まずは、しばらくそのような人を観察するところから始めましょう。」
「観察・・・ですか。」
「はい。人間は、自分の意識が向いたものを体験して生きています。たとえば美味しい料理を食べていても、本を読みながらだったら、半分も体験していないことになるわけです。」
「はい、分かります。」
「身近に、人間を平等に見てくれる人・・・そのような人が場の安全を作り出せる人なのですが・・・そういう人がいたとしても、みさおさんが全く意識を向けず、むしろズルをする人とか声の大きい人にばかり意識を向けているとしたら、みさおさんの主観にとっては『この世界は安全ではない』という方の事実ばかりを体験していることになるわけです。」
「ああ、それ、やってますね、いつも。でも、やめられないんです。」
「そうですよね。だからまずは、『安全だ、という事実もある』という方にも意識を向ける努力をしてみましょう、という課題の方からやってみましょう。」
「ああなるほど、今までのように、大声を出す人などが気になってしまっても、それはそれでいいということなんですか?」
「そうそう。いつか気にするのをやめられたら、もちろん良いことだけれど、いま急に無理してやめようとしない。それが大事です。」
「分かりました。これなら、できそうな気がします。」

「はい。そして、もうひとつやってみてほしいことがあるのですが。」
「はい、それは何でしょう?」
「人間以外のものから、エネルギーを受け取るという取り組みですね。」
「・・・はい・・・?」

「具体的には、自然、動物、芸術、子供の頃に楽しかったこと、の4つのカテゴリーのうち、取り組みやすいものを見つけて、そこからエネルギーをもらう、ということをします。」
「ちょっとまだ分からないのですが。」
「たとえば自然なら、実は神社が好きです、みたいな。で、神社巡りをして、木々から感じる安心感、清浄な感じをしっかり味わう。こういうことも、安全の感覚が育っていない場合、とても大事なエネルギー源になります。」
「なるほど!神社巡りは好きです。いま先生がおっしゃったようなことも、やっている気がします。」
「そうですか。それなら話は早い。今までと同じように、ただ、少し意識したり、実際に神社に行く頻度を増やしたりして、心の中で体験する量を増やしてみて下さい。」
「はい、分かりました。」
「少し安全の感覚を『味わう』という課題をやってから、次のステップに進もうと思います。」

「はい。わかりました。」

「今日はありがとうございました。」
「先生、ありがとうございました。」

(つづく)

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シングルを卒業(7)|恋愛ドクターの遺産第5話

「安全の感覚が育ってくると、『アレが好き』『これが嫌い』『アレはやりたい』『コレはやりたくない』といった、自分本来の好き嫌いの感情が自由に出るようになってきます。」ドクターは先ほど書いた「安全の感覚を・・・」の方に①と番号を振り、その下に「②好き嫌いの感情に敏感になる」と書き、矢印で①→②とつないだ。
「へええ、そうなんですか?」
「今はまだ、自分の中にある、とくに『好き』『やりたい』の気持ちの方は、なかなか感じられないのではないかと思うのですが、」
「はい、4D(ロックバンド)の音楽以外は、なかなか『好き』や『楽しい』を感じられないです。あと、人に嫌なことを言われても、その場ではよく分からず、あとになって嫌味を言われたと気づいたりして激しく腹が立つことがあります。友達からは『鈍いねアンタ』と言われたこともあります。」
「そうですね。そういう、自分の好き嫌いに敏感になっていくこと。」これが次のステップでの課題になります。
「ああ、そうなんですね。でも、そうなると私、結構他人に対して怒ってしまうと思うんです。」
「そうですね。人は、自分が安全でないと感じているときは、他人に対して怒ったりできないものですからね。結構ため込んでいるかもしれません。」
「はい。ためていると思います。」
「この、ためている怒りをしっかり吐き出して整理していくのも、好き嫌いに敏感になっていくステップでは、必須です。」そう言いながらドクターは②の下に「ネガティブな感情(怒りなど)を吐き出し、整理することも大事」と書いた。
「ゆるすとかではなく、怒りを吐き出すことが大事なのですか?」
「おそらく。」
気が重い、という表情をしているみさおに対して、ドクターは言葉を足した。
「まあ、その時が来たらきっと、怒りを出したら楽に、スッキリすると思いますよ。それに、むしろ『怒りを出したい』って思うようになっていると思いますよ。今は想像できなくても、変化のタイミングが来たときは、自分の衝動も変化するものですから。」
「そうなんですか?」
「ええ。だから、あまり先のことを考えすぎないことが大事です。今日帰ってからやってもらう課題の目的は『安全の感覚を育てていくこと』なのですよ。」
「そうでした。」

そうなのだ。ここが先生のすごいところだと思う。なつをは思った。先生は相談者に対してかなり先のこと・・・たとえば半年先とか一年以上先とか・・・まで計画を提示することがよくある。「相談者にとっては、先の計画は知りたいところでもあり、しかし本当に出来るのだろうかと不安になるところでもあるのです。」以前先生は言っていた。実際その通りだと思う。以前、少し自慢も込めてだったと思うが、「並のカウンセラーの場合、ここで、目先の行動課題だけ提示してお茶を濁すことが多いわけです。」と言っていた。ちなみに逆はないそうだ。相談者を不安にさせてでも未来の計画をバッチリ提示するというカウンセラーはお客が寄りつかなくなるから廃業につながるらしい。本当に「解決する」という信念に従えば客離れのリスクと直面し、お客さんの安心を優先すれば、目先のことだけ言うカウンセラーになってしまう。商売として成り立たせながら、大事な仕事を行っていく。もうそれだけでかなり難しいことなのだと、なつをはその時思ったのだった。
ただ、先生はそれほど難しそうな顔をしていなかった。「そのために、図で書くんです。」と楽しそうに語っていた。「いま問題で行き詰まっている人ほど、目の前の人、たとえばカウンセラーに『今言われたこと』に囚われてしまう傾向があります。つまり一年先の計画をこちらは話しているつもりでも、聞いている方は『今すぐその課題をしなくてはいけないのか。自分にはとてもできない』と暗い気持ちになってしまう、ということです。」どうすればいいんですか、と聞いたなつをに先生は「だから、図にして、いま全体の中のどこを話しているのか目で見て分かるように説明することが大事なのです」と答えた。
なつをはその時、こんなことも質問したのだった。「そもそもだいぶ先の計画を、なぜ言う必要があるのですか?」先生の答えはこうだった。「なぜって、それは、相談者を否定しないためですよ。たとえば、彼氏ができないという相談にいらっしゃったとします。こちらとしてはたとえば『運命の相手メソッド』とか、直接出会いにアプローチする方法論は持っているわけですが、話を聞いていくと、どうも今はまだ、この人は、それにチャレンジするには心が十分回復していない、と感じたとします。たとえば目先の解決策として、話を聞いてもらい、フォーカシングをして自分の心を回復させる取り組みが、今は大事、ということを提案することは、必要としても、そういうとき、なつを君なら、始めにクライアントが望んでいた『いい出会いを作るにはどうしたらいいか』という相談内容は、どうするのですか? それは今のあなたには無理だからやめたほうがいい、って言いますか? それとも、完全にその話題はタブーにして話さないことにする?」そうなのだ、クライアントが自ら求めているからこそ、それは今はやらない方がいい、このような手順でそこまでたどり着きましょう、という全体計画を言う必要があるのだった。
このようなジレンマの中、先生が試行錯誤の末、編み出したのが「図解すれば、いま不安な相談者も、意外と冷静に未来の計画を聞くことができる」という法則なのだった。これは心理学の教科書や心理カウンセリングの講座ではほぼ教えてもらえない現場の知恵だ。

なつをの気が散って、先生との過去の会話を回想している間に、セッションは進んでいた。

「そして、自分の好き嫌いに対して敏感になってきたら、もう一度今日行った『運命の相手メソッド』を実践していきましょう。」
「先は長いですね。」
「確かに、長いですね。だから、全体像は一度ざっと把握したら、あとは、目の前の課題に集中すること。これが継続するコツです。」
「・・・はい。分かりました。」

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シングルを卒業(6)|恋愛ドクターの遺産第5話

ここまで色々質問をしてきたドクターが、ここでハッキリと意見を述べ始めた。
「ええと、みさおさん。」
「はい。」
「少し、残念なお知らせをしなければいけません。」
「恋人、できなさそうな人、てことですよね?実際そうですから、覚悟は出来ています。」
「まあ、広く捉えれば、そういうことになりますが、もう少し細かく見てポイントをお伝えしようと思っています。」
「あ、失礼しました。お願いします。」
「ここで、『優しい人』を具体的にどんな人か言葉を足してもらったら『暴言を吐かない人』『暴力を振るわない人』『大声を出さない人』と、ネガティブな項目の否定形が並びました。」
「あ、そうですよね。」
「これを、我々は『卒業ポイント』と呼んでいます。こういうネガティブなイメージは卒業すべき、という意味を込めて、そう呼んでいます。」
「友達にも言われました。ポジティブに考えることが大事だ、って。」
「ポジティブに考える、といういわゆるポジティブシンキングは、お勧めしません。」
「え、そうなんですか?」
「ちょっと説明が難しいのですが、ポジティブシンキングというのはポジティブな方に『意識』を向ける、というような取り組みのことです。しかし、恋愛が絡むときは『表層意識』ではなく『潜在意識』がどちらを向いているかが大事になります。」
「潜在意識、ですか。」
「平たく言えば、『男性をイメージしてください』とだけ言われたときに、温かい感覚と共に男性を想像するのか、それとも何か冷たい印象や、怖い印象と共に想像してしまうのか。どちらの印象が自動的に出てきやすいのか、というような部分です。」
「あ、私はネガティブな方ですね。怖いイメージが出てきます。」
「そう、その、自動的に想像するイメージこそが『潜在意識』レベルで、みさおさんが持っている男性のイメージです。」
「先生、私のこの、ネガティブな男性イメージが、これまでずっと、恋人が出来なかった原因、ということですか?」
「ええ。その原因だけ、かどうかはまだ分かりませんが、かなり重要な要因になっていることは、間違いないと思います。」
「こうなってしまったのは、父親の影響だと思うのですが、それって治せるんでしょうか?」
「えぇ、治せますよ。」

相変わらず、問題解決力には自信がある受け答えだ。なつをはこういうときの先生の、軽く「できますよ」と言ってしまうときの口調が好きだ。重いテーマなのだが、軽く言われる事でかえって希望が湧いてくる。

「どうやって・・・」
「まあ、どうやって取り組むかは、あとでじっくり考えたいのですが、もう少し質問させてください。」
「あ、はい、すみません。」
「『尊敬できる人』を詳しく説明してもらったときに出た項目も、『人をバカにしたり見下したりしない人』という『何々でない人』になっていますが、これもお父様みたいな人は嫌だ、という感じなのですか?」
「はい。父は人のことをバカにした発言が多い人で、いつも私や母、あと、弟もいるのですが、家族のことを見下した発言が多かったです。だから、つき合うならそういう人だけは絶対に嫌だ、と思っているんです。」
「なるほどね。お父様は約束をよく破る人だったんですか?」
「はい。その場の気分だけで約束をして、結局守ってくれないことが、しょっちゅうありました。どこどこに連れて行ってくれる、と約束しては、結局なんだかんだ言って行かなかったり、買ってくれる約束をしたものも、買ってもらえなかったことの方が多かったです。そのくせ、次は本当に買ってくれるの?みたいに言うと起こるので、嘘でも喜ばなければならないのが、いつも辛かったです。」
「なるほどね。嘘が嫌なのに、自分の気持ちには嘘をつかなければならない。これは苦しいですね。」

そう言われたとき、みさおの両目からは、大粒の涙がぽろぽろっとこぼれた。

「五分ぐらい休憩を入れましょう」ドクターが提案した。「なつを君、すみませんが、お茶を淹れてくれますか?」

お茶を淹れたあと、なつをは考えていた。このまま「運命の相手メソッド」を実践していっても、ネガティブな影響を受けすぎていて、まだ十分癒されていないみさおさんは、理想のパートナーを見つける行動にまで進むのは難しいだろう。先生もきっと、そう考えているに違いないけれど、どこでそのような提案をするのだろう、そして、先生は一体、どんな解決策を提示するのだろうか。

なつをがふと先生の方を見ると、先生はただ、お茶を味わっているだけで、ぼうっとしていて何も考えていないように見えた。

・・・

「そろそろ、再開しましょうか。」ドクターが提案した。
「はい、お願いします。」

「さて、少し提案があるのですが。」
「はい。」
「先ほどまでのワークで、卒業ポイントがとても多いことが分かりました。」
「はい、私にもよく分かりました。」
「休憩前にはあまり話しませんでしたが、ほかにも『私のひとり時間を大切にしてくれる人』という項目があります。これは、ひとりの方が安全、と感じている人がよく出す項目なのです。」
「確かに、そうですね。同じ部屋に男性と一緒にいたら、いつも邪魔される、というような感覚があります。」
「そうですよね。その感覚を潜在意識が持っているうちは、恋人を作る取り組みがうまく行かないと思います。」
「・・・先生、ハッキリおっしゃいますね。」
「ええ、私は事実はハッキリ言うべきだと思っていますので。」
「その感覚を潜在意識が持っているうちは、ということは、その感覚を潜在意識が持たなくなったら・・・」
「そう、持たなくなったら・・・つまり、卒業できたら、その時は、理想のパートナーを見つける行動を起こす時だ、という意味です。」
「どうやったら、卒業できるのでしょうか。」

「そうですね。そろそろ、今必要な取り組みについて話し、決めていきましょうか。」
「はい、お願いします。」
「まず、現状の分析ですが、みさおさんは、自分がこの世界で『安全ではない』と感じていらっしゃる。」
「はい、とても不安です。」
「自分の中に、安全の感覚を育てていくことを、最優先課題として取り組みましょう。」
「はい・・・どうすればよいのでしょうか?」
「具体的な方法の前に、ちょっと取り組みの全体像を説明させてください。」
「あ、はい、お願いします。」
「まずは、安全の感覚を心の中に育てる。」ドクターはホワイトボードに板書しながら説明していく。
「はい。」
「安全の感覚が育ってくると、『アレが好き』『これが嫌い』『アレはやりたい』『コレはやりたくない』といった、自分本来の好き嫌いの感情が自由に出るようになってきます。」ドクターは先ほど書いた「安全の感覚を・・・」の方に①と番号を振り、その下に「②好き嫌いの感情に敏感になる」と書き、矢印で①→②とつないだ。
「へええ、そうなんですか?」

(つづく)

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シングルを卒業(5)|恋愛ドクターの遺産第5話

第三幕 卒業ポイント

「失礼いたします。」
「どうぞ。」

三十代半ばらしい女性が入ってきた。笑顔を作っているがどこかぎこちない印象に見える。緊張しているのかも、となつをは思った。

「おかけになって下さい。」
「はい、ありがとうございます。」
「本日は、ご相談いただき、ありがとうございます。」
「あ、いえ、こちらこそ、こんな悩みの相談で良かったのかどうか・・・」

先生は、相手が緊張しているときは、本当に形式通り、決まり切った始まり方をする。着席を勧め、相手と一緒に座る。これは「ミラーリング」というのだそうで、相手と動作を合わせることで少しでも親近感がわくように、という配慮だそうだ。そのあと、必ず丁寧に、今日来てくれたことへのお礼を言う。いつも、私に対して使う言葉遣いとは全く違う、ともすれば丁寧すぎて嫌味になるのではないかと心配になるほど、丁寧に話す。以前質問したら「とても緊張している相手には、そのぐらいで丁度いいのですよ。」と言っていた。

「えぇと」ドクターが手元の紙を見ながら話し始めた。「みさおさん、でよろしいんですね。」
「はい。」
「このセッションの中では、私は、みさおさん、って呼ばせて頂いて大丈夫ですか?」
「はい。私は、先生、Aさん、えぇと、なんとお呼びしたらよろしいのでしょう?」
「先生でも、Aさんでも、なんでもいいですよ。」
「じゃあ、先生と呼ばせていただきます。」
「はい、お願いします。」

セッションが始まった、今日のセッションは、理想のパートナーを明確にするワークから入るようだ。これは先生の十八番で、このワークをしていると、その人がどんな恋愛パターンをしているのかかなりハッキリ分かるのだそうだ。それも、ワークをしている受け答えとなどの生の様子を見なくても、ワークをした後の記録用紙をちらっと見ただけで、かなり分かるのだそうだ。先生は、以前自信満々にそう言っていた。実際・・・今日は個人セッションだが・・・このワークを中心としたワークショップを開いたとき、先生から席の遠い受講生が書いた用紙を先生がチラッと見て、こういう恋愛が多くないですか?と言い当てていたのを見たことがある。あのときは確か「立派な人だと思ってつき合ったけど、仕事が忙しくてかまってもらえなくて寂しいというパターンありませんか」って聞いていた気がする。とにかく、いきなり恋愛パターンまで当てられたその女性はかなりびっくりしていたし、その後先生の分かりやすい解説の効果もあって、その日の講座では、みんな、真剣に取り組んでいた。今日もそんな「神業」が見られるのか、ワクワクしてきた。

ドクターは白紙の紙の上の方に【私は「彼」に何を求めているのか?】と書いた。

「みさおさんは、この質問、【私は「彼」に何を求めているのか?】と聞かれたら、どんな答えが頭に浮かびますか?」

いよいよ始まった。ベストパートナーを見つける・・・「運命の相手メソッド」と先生は呼んでいるのだが・・・この技法は、かならず今の質問から始まるのだ。シンプルなのに本質を引き出す、極めて有効な質問だ。

「えぇと・・・『優しさ』かな。」
「なるほど・・・優しさ・・・と。」
ドクターは付箋紙に「優しさ」と書いて、紙に貼っている。

「それから、『尊敬できる人』ですね。」
「『尊敬できる人』と。」

こんな風に、しばらくはみさおが答え、その答えをドクターがふせんに書いて紙に貼っていく、という作業が続いた。10項目ぐらいが紙に貼られて、しだいに紙がピンク色のふせんで賑やかになってきた頃、ドクターが一旦流れを止めた。

「なるほど・・・『優しさ』『尊敬できる人』『一緒にふつうのデートができる』『私のひとり時間を大切にしてほしい』『話を聞いてくれる人』『仕事ができる人』『家族を養えるだけの収入』『お金に汚くない人』・・・あとこの『ディバインダンス・アンド・デッドリーデスのライブに一緒にいってくれる人』これは、みさおさんが好きなバンドか何かですか?」
「はい。ロックバンドです。英語でDが続くので『4D』と略して呼ばれるんですが、年に何回もライブに行っているんで、一緒に来てくれる人がいいです。」※架空のバンドです。

ドクターは少し考え込んだ風の表情になって、少し黙っていた。そして、おもむろに質問をした。
「この『優しさ』というのは、もう少し具体的に言うと、どんなことですか?」
「ええと・・・私を安心させてくれる人」です。
「なるほど。私を安心させてくれる人、ね。実はそれでは、相手の説明になっていないんですね。安心感を感じたのは私。で、その私は、どんな相手が目の前にいたら安心するのでしょうか?このワークでは、そこをしっかり言語化することが大事なのです。」
「ええと・・・安心させてくれる人は・・・ええと・・・あの、暴言を吐かない人が良いです。」
「なるほど。暴言を吐かない人。確かに、暴言を吐く人が目の前にいたら、安心できませんからね。」

なつをは、先生の表情が少し曇ったのを見逃さなかった。先生はいま、きっと「卒業ポイントが多そうだなぁ」と感じているに違いない。以前このテーマのワークショップを開催したときに、先生が解説していた。相手に求めるものをリストアップしていくのがこのワークの基本なのだが、その日のワークショップでは「暴力を振るわない人」「暴言を吐かない人」「大声を出さない人」などのネガティブな項目の否定形、「何々しない人」のオンパレードになった受講生がいた。
それに対して先生は、「このように、何々しない人、という否定形でネガティブな項目の否定形ばかり出てくる人は、無意識レベルで、この世界は危険なところで、安全がないと感じています。だから必死でそれを否定しようとして、このような項目が出てくるのです。」と明快な解説をしていた。このようなネガティブな項目のことを先生は「卒業ポイント」と呼んでいる。
なつをが思い出しているうちに、実際のセッションでも、やはり卒業ポイントの列挙が始まった。

「ほかには?」ドクターが尋ねた。
「暴力を振るう人はいやです。」
「なるほど。それはそうですよね。」
「あと、大声を出す人も苦手です。」
「なるほど。『大声を出さない人』と。」ドクターは受け答えをしっかりしながらも、ふせんに項目を手際よく書いている。
「では次に、『尊敬できる人』についても具体的にお聞きします。尊敬できる人と結婚したい、というのは、ある意味当然なのですが、みさおさんは、どんな相手なら『尊敬できる』と感じるのでしょうか?」
「ええと・・・人をバカにしたり、見下したりしない人、ですね。」
「なるほど。人をバカにしたり、見下したりしない人。ほかにも大事な要素はありますか?」
「あと、約束を守る人。」
「なるほど。約束を守る人、と。」
「あ、あと、嘘をつかない人。」
「あぁ、そうですね。嘘をつかない人。嘘つく人は嫌ですよね。」
「はい。そう思います。」

いつもながら見事だ、なつをはそう思い、感心しながら先生のセッションを見ていた。先生は大事なポイントはきちんと書き留めたり、ふせんに書いて似た項目をグループ分けして整理しながら話をきいていく。しかし、だからといって、もしもこのセッションを録音したとしたら、不自然な沈黙などの間は、ほとんどない。話を聞いて受け答えする方の脳味噌と、話の中身を整理していく方の脳味噌、両方を同時に使えるのだろう。すでに、先生が整理している紙の上は、ずいぶん分かりやすくまとまってきている。

ここまで色々質問をしてきたドクターが、ここでハッキリと意見を述べ始めた。
「ええと、みさおさん。」
「はい。」
「少し、残念なお知らせをしなければいけません。」

(つづく)

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シングルを卒業(4)|恋愛ドクターの遺産第5話

しばらくたって、なつをが淹れたお茶を飲みながら、なつをとドクターの恋愛談義はまだ続いていた。
「あの、私、恋人が出来ないのが三年ぐらい続いているんですけど、どうしてなんですかね?」
「なるほど。なつを君、恋人が出来ない理由を知りたい、と。」
「えぇ。」
「解決したいということですか?」
「そりゃ、もちろん。」
「前の恋人と、何かあったんですか?」
「えぇと・・・別に・・・いや、もちろん、お互いに気持ちがすれ違うようになって別れたわけですけど、暴力を振るわれたとか、浮気をされたとか、そういうことは特になかったんですよね。」
「なつを君は、お別れした後、ちゃんと心の中で『お葬式』をしましたか?」
「はい?」
「いや、だから、彼と別れたことを、しっかり悲しむという儀式をしましたか、という意味です。」
「えっ?・・・そう言われてみると、友達からも『意外と平気そうだね』って言われてましたし、確かに、そんなに泣いたりとか、しなかった気もします。」
「その彼との別れの後、恋愛に対してアクセルを踏まなくなった、そういうことはありますか?」
「ありますね。それまでは・・・というか彼と出会う前は、と言った方が正確ですけど・・・かなり積極的に・・・えぇと、大学時代だったので、コンパとか、出会いのある場に出て行っていました。彼と別れた後は、断ることが多くなった気がします。」
「そう聞くと、お別れがちゃんと済んでいない、という要因は、あるかもしれませんよ。」
「お別れが済んでいない・・・?」
「そう、人は、別れたら心が傷つくものです。その傷を癒すためには、やはり悲しんで涙を流す、そのような儀式が必要なんです。それをせず、気持ちにフタをしたまま先に進もうとすると、傷つきそうな出来事が起こらない方へ、起こらない方へと、守りの行動ばかりしてしまうようになります。」
「・・・あたってるかも。」
「もうひとつ、気になるポイントがあります。」
「はい。」
「そもそも、その彼とは、相性が合っていたのか、という問題です。」
「えっと・・・どう答えたらいいんでしょう?」
「まあ別に、なつを君のカウンセリングをしているわけではないので、答えなくてもいいですし、どう答えてもいいですよ。」
「あぁそうでした。でも、確かに、彼は私のことをよく見ていてくれて、私の変化にすごく気づいてくれる人だったんですが、一方で自分で決めて自分で進むことが出来ない人で、最後の頃はそれが嫌になって、でも言っても変わらないしケンカっぽくなったり険悪な雰囲気になったりするので、あまり言わなくなって、でも結局何だかがまん大会みたいになって、結局別れてしまいました。」
「なるほどね・・・最初のうちは魅力に見えていた、彼の『顔色をうかがう能力』が、あとで、嫌な面としてなつを君の目に映るようになっていった、と。そういうわけですか。」
「なんか、そう聞くと、私がワガママな人間みたいですね。」
「そうですか。そもそも、そういうものじゃないですかね。人間とは。」
なつをは、先生は本当にドライだなぁ、と今日も思った。ドクターは今はカウンセラーをしているが、元々理系の大学を出たそうだ。人間が嫌いというわけでもないし、人の温かさを信じているところもある。でも、何か、ヒューマニズムというか、そういうものをあまり信じていないというか、冷めている。愛情であっても、「所詮、脳内ホルモンの働きと、快楽を司る神経細胞の興奮だろう」と割り切っているところがある。
「なんか、自分にがっかりするじゃないですか、そう言われると。」
「そうですかね? 自分のことを分かってほしい、気にかけてほしい、かまって欲しい、という欲求が自分にある、と自分で気づいていて、さらに、相手に、自分のことは自分で決める程度の自立を求めているんだなぁ、と自分で気づいていれば、それで問題ないと思いますよ。」
なつをは、ドクターの持論を突き付けられて、返す言葉が何も見つからなかった。その通りなのだ。ドクターの持論は、相手に何かを求めるのは自然なこと。それ自体は悪ではない。ただ、無自覚にやっているとトラブルが起こる、というものだった。
たとえば、先ほど話題に上がっていた、なつをの過去の恋愛の話なら、こうなる。
なつをは元々、彼にかまってもらいたい、自分のことを見ていてほしい、その想いが強かったから、それを満たしてくれる彼を選んだのだ。但し、些かバランスを欠いていて、本当は自立していることも、相手に求めていたのだが、そちらの思いは「自分でも気づかず」に、交際を始めたのだった。そして、始めに強かった方の「かまってほしい」は交際の中で満たされ、気づかなかった方の「自立していてほしい」が頭をもたげてきた、と、こういうことだ。
ドクターの持論は常にこうだ。自分自身を知ることがまず大事。そして、極端な不満など、バランスを崩す要因は気づいて恋愛前に対処して、バランスの取れた自分であろうとすること。それが出来ていない状態でパートナーを選ぶから、自分に合わない相手を「好き」と思ってしまうのだ、と。

どうやらいよいよ、今日のクライアント、みさおさんがやって来たようだ。

(つづく)

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シングルを卒業(3)|恋愛ドクターの遺産第5話

「ところで、彼女の『恋人がいない期間』はどのぐらいですか?」
「えぇと、相談申込の時に頂いた情報によると、これまでの人生で一回も恋人ができたことがないそうです。」
「そうですか。これは結構骨が折れる話になるかもしれませんね。」
「えっ? そうなんですね。」
「そうです。美人問題では、三十何年も恋人が出来ない、という問題にはならないですね。せいぜい社会人になってから、ぐらいでしょうか。それでも長いかな。えぇと、みさおさん、でしたっけ・・・逆に彼女の場合、人生で一度も恋人が出来ていないわけですから、おそらくは、何らかの生育歴的なテーマではないでしょうか。」
「恋人がいない期間の長さで、分かるんですか?」
「えぇ、そうですよ。」
「どうして分かるんですか?」
「まあ、いま答えたからといって、なつを君が今すぐ判定できるようになるわけではないと思いますが、考え方として大事なので、覚えておいて下さい。私は、問題の根っこにどんなものがあるかを記憶する際に、その根っこがどのぐらい『重たい』原因なのかも覚えるようにしています。」
「重たい原因、ですか・・・」
「病気にたとえて考えると分かりやすいですね。たとえば、下痢の原因には色々なものがあります。お腹が冷えた、というものから、食中毒、そして、赤痢に感染した、というようなものまで。」
「はい。」
「なつを君が昨日、下痢をしたとします。そして今日はけろっと治ったとしますね。そういうときに『私は赤痢かしら』と考えるでしょうか。」
「いえ、それは考えないと思います。」なつをは、クスッと笑いながら答えた。
「ではなぜ、考えないのですか?」ドクターは、あくまで真面目な質問をしているのだ。
「えぇと・・・それは・・・大げさすぎると思うからです。」
「大げさすぎる・・・」
「はい。赤痢だったら、もっと症状が深刻に出るんじゃないでしょうか。」
「そう!そこなんです!」ドクターは話す声に力が入った。「いいですか、何かの原因と結果を本で読んで勉強した場合、欠けてしまいがちなのは、原因の『重さ』に関する感覚・見識です。」
「はい・・・」
「赤痢がもし原因だとしたら、かなり深刻な症状が出るはずだ、となつを君は考えたわけです。」
「そうですね。」
「しかし、自分の症状は、そこまでじゃなかった。」
「えぇ。」
「したがって、赤痢という線は、除外しても良さそうだと考えた、そういうことですね?」
「そうですね。ハッキリと意識はしていなかったですけど、そういうことになりますね。」
「その逆も言えます。もし、何日も下痢が続くようなら、お腹が冷えただけかな、とは考えないはずです。症状に対して、想定する原因が軽すぎるわけです。」
「そうですね。何かの食中毒とか・・・発症した場所が外国であれば赤痢のような感染症も考えますね。」
「そして、すぐに医者に行こうとするはずです。」
「そうですね。」
「同じ『下痢』という言葉でも、その程度・深刻度には幅があるわけです。そして、症状が深刻である場合、原因もそれに対応した強力なものがあるはず、と考える必要があります。」
「なるほど。」
「心理や恋愛に関する原因と結果も、同じように学ぶ必要があります。インナーチャイルド的な課題が原因で・・・たとえば人間不信で子供の頃から対人恐怖もある、という原因などですが・・・これは比較的『重い』方に入りますが・・・その場合、たとえば、恋人が今までの人生で一回も出来なかった、という症状と、深刻度で考えると釣り合います。一方、ここ3年、恋人が出来ない、という症状に対してインナーチャイルド課題を原因推定したとすると、今度は、症状に対して、原因が重すぎるわけです。」
「なるほど。確かにそう言われてみたら分かりました。」

・・・

しばらくたって、なつをが淹れたお茶を飲みながら、なつをとドクターの恋愛談義はまだ続いていた。
「あの、私、恋人が出来ないのが三年ぐらい続いているんですけど、どうしてなんですかね?」
「なるほど。なつを君、恋人が出来ない理由を知りたい、と。」
「えぇ。」
「解決したいということですか?」
「そりゃ、もちろん。」
「前の恋人と、何かあったんですか?」
「えぇと・・・別に・・・いや、もちろん、お互いに気持ちがすれ違うようになって別れたわけですけど、暴力を振るわれたとか、浮気をされたとか、そういうことは特になかったんですよね。」
「なつを君は、お別れした後、ちゃんと心の中で『お葬式』をしましたか?」

シングルを卒業(2)|恋愛ドクターの遺産第5話

第二幕 恋愛哲学

ゆり子は「恋愛ドクターの遺産(レガシー)」ノートを開いた。このノート、元々はゆり子の祖父の手記である。ノートは父から受け継いだのだが、今は受け継いだまま、段ボール一杯に入っている。いつも、悩んだときはそのうちの一冊を「えいやっ」と抜いて、開くのだった。このやり方も、父から受け継いだ。すると、今悩んでいることと、不思議なぐらい符合する内容が書いてあるのだった。
今回選び出したノートは、他のノートよりいくぶん厚いようだった。「まあいっか。流れに任せるのがこのノートの使い方だったっけ。」ゆり子はつぶやいて、早速ノートを読み始めた。
・・・

「先生、やっぱり頭の悪い女性は嫌いだ、ということなんですか?」なつをが恋愛ドクターに、食ってかかるような調子で質問をしている。もうありふれた日常だ。
「まあ、良い悪いは置いておいて、私は自分が色々考えたことを話して、それが通じるような相手でないと、一緒にいてもがっかりの連続になってしまう。だから、私にとっては知的な女性である、という要素は、はずせないものなんです。」
「なるほどねー、才色兼備な人が良いってことですねー。」なつをはメモを取っている。
「なつを君、そこのメモは必要なんですか?」
「もちろん、大事です。」
「べつになつを君が、私とつき合うわけではないのだから、私の好みを把握しても役に立たないと思いますが。」
「うーん。うまく言えないけど、大事なんです。」

いま、二人は、恋愛談義の真っ最中だ。といっても、議論というよりは、なつをが一方的に恋愛ドクターA(ゆり子の祖父)に、恋愛哲学・・・というよりもっと実用的なもの・・・即ち、長続きするパートナーシップの秘訣を聞いているところだ。なつをの質問責めに対して、ドクターが堂々と持論を展開する、という、おなじみの光景だ。

「先生は、奥さまのどこが気に入って結婚されたんですか?」
「・・・いきなり直球ですね。いろいろありますよ。・・・でも、一番は自己肯定感があって・・・これはつまり、本人が自分を好き、っていう感覚をしっかり持っているということですが・・・基本的にポジティブ、というところだと思いますね。そういう人は、一緒にいて安心感がありますから。」
「なるほど。」
「そこはメモを取っても良いところだと思いますよ。」
「あっ」なつをは慌ててメモを取った。「でも、自己肯定感があってポジティブだったら、誰でも良い、というわけではないと思うんですよね。外見とか、趣味が合うとか、そういう面は関係ないんですか?」
「あぁ、関係あると思いますよ。外見は、人それぞれ好みがあるから、一般化するのは難しいですが、女性は概して、外見に凝り過ぎだとは思います。最新のファッション雑誌に載っているような微妙なニュアンスの差が分かる男性はあまりいません。それこそ10年前のファッション雑誌に載っているような、ちょっと古い、というかトラディショナル、というんでしょうかね、そのぐらいの外見をした方が、男性には通じることが多いと思うんですよね。」
「先生もそうですか?」
「私は、そうですね。ファッションには割と疎い方なので。」
「外見はあまり凝らない方がいい、と。」メモを取りながらなつをはつぶやいた。
「なつを君は、もう少し凝っても大丈夫だと思います。」少しニヤッと笑ったような表情を浮かべながら、ドクターが言った。
「えっ!? あぁ確かに、私、あんまり化粧っ気ないですしね。」なつをはそう言いながら少し頬が赤くなった。そして、ドクターが何か言おうとするのを遮るように質問をかぶせた。「先生、奥さまはわりと可愛らしい雰囲気の方ですが、美人系と可愛い系では可愛い方が好みなんですか?」
やれやれ、といった表情でドクターが答えた。「それを知っても、なつを君の恋愛には役立たないと思いますが・・・どちらの顔立ちのタイプともつき合ったことはあります。基本的に、内面的には気持ちが明るく、見た目的には健康的な美しさがあることは大事かな、とは思いますが、美人系か可愛い系かと言われると・・・そんなに好みに偏りはないですよ。」今度はドクターがみさおの次の質問を封じるかのように、持論をさらに話し始めた。
「基本的に、自分が好き、自分は可愛い、って思っていたら、そのセルフイメージにふさわしくあろうとするものです。無理はせず、自然な感じで可愛らしくするし、必要に応じてお化粧やファッションを活用するはず。逆に、今の自分が嫌い、自信がない、可愛くない、というセルフイメージがあると、自分を塗りつぶして消すためのお化粧をしてしまったり、自分を隠すための服を着てしまったりすると思います。」
「あ、なるほど。分かります。」
「お化粧をするのがいい、しないのがいい、という話ではなくて、自分は可愛いから、その可愛い自分にふさわしい外見で出かけよう、と思うのか、自分は可愛くないから、素の自分を塗りつぶしたり、隠したりして、別の外見を作ろうとしているのか、その違いは大きいと思いますよ。」
「あぁ、なるほど、だから、先生の話の最初に、自己肯定感の話をされたんですね。」
「そういうことです。同じようなメイクやファッションをしていたとしても、自分はこれでいい、という前提を持っているのか、自分はそのままでは全然ダメ、という前提を持っているのかで、違いが出てくると思いますよ。まあ、若い男性などは、最初は外見に騙されますけどね。」
「騙される・・・?」
「そうですね。内面は、確かににじみ出るものですが、ただ、内面的には自己否定が強くても、美しくメイクをしていれば、それを見抜けない男性もいる、ということですね。ちょっと言葉が悪かったかな。」
「先生、私と話していると時々、相談者さんには言わない毒舌、言われますよね?」
「まあそれは、時と場合をわきまえた発言をしている、ということで。」ニヤニヤしながらドクターが言った。

会話はこのあと、少し毒のある雑談の応酬になったが、ほどなくして、なつをが口調を真面目に戻して、言った。
「先生、今日の相談者さんは、みさおさん36歳、恋人が出来ない悩みだそうです。」
「そうですか。」
「そういえば先日、美人なので恋人が出来ない、という方がいらっしゃいましたが、また同じようなお悩みなんでしょうかねぇ・・・」
「それは分かりません。恋人が出来ないという悩みの原因は、本当に千差万別なので、よくよく話を聞いてみるまでは、勝手な判断は禁物です。」
「はい、そうでした。」
「ところで、彼女の『恋人がいない期間』はどのぐらいですか?」
「えぇと、相談申込の時に頂いた情報によると、これまでの人生で一回も恋人ができたことがないそうです。」
「そうですか。これは結構骨が折れる話になるかもしれませんね。」
「えっ? そうなんですね。」

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