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なつをの夏の物語(4)|恋愛ドクターの遺産第10話

「お友達にはひょっとして『高望みしすぎなんじゃない?』みたいなことを言われたりしましたか?」ドクターが優しく尋ねた。
「あ、はい、言われました。でも、私がお断りしたような自己中心的な方と、平然と付き合える人っているのかな?と思いました。たぶん、私に『高望み』と言った、私の友人も、その、自己中心的な男性を見たら、断ると思います。」なつをはドクターにも「高望み」と言われることを警戒しているのだ。だからつい、自分の判断は当然だ、という主張をするような言い方になってしまう。
「なるほどね。でも、安心して下さい。私は、なつをさんが高望みだから恋人が出来ないのではなくて、そもそもその人とは、大抵の女性はやっていけない、と想定しています。詳しくはお話を伺いながら考えていきます。一緒に解決策を考えていきましょう。」ドクターは丁寧な調子で受け答えしている。

なつをはこのとき、こう思った。ああ、この人は私の立場をちゃんと分かってくれる人だ、と。人は自分の見ている世界から、他人のことを判断しがちだ。たとえば、自己中心的な男性があまり寄ってこない女性は、男性とは、色々お願いしたらそれを聞いてくれるものだ、と思っていたりする。一方で私のように、自己中心的な男性が寄ってきてしまうと、断るのも気疲れするし、かといって熱心に口説いてくれるからといってお付き合いすれば、それもまた本当に疲れることになる。そして、そういう悩みを、自己中心的な男性に悩まされていない女友達に相談すると、ほぼ、分かってもらえない。高望みなんじゃないの? みたいに言われることもある。
出会いの質や量は、本人の意識的な努力ではどうにもならない部分もあって、そもそも不公平に出来ている。私は不公平の、残念な側に属していると思う。
ただ、この先生は、そういうことを分かってくれる人だと思った。私のワガママだとか、高望みと決めつけず、話を聞いて、真実に迫ろうとしてくれている。その安心感が、本当にありがたかった。今日は来てよかった。

ここで湯水ちゃんがなぜか突然咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」なつをが声をかけた。
「あ、(ごほんごほん)、だ、大丈夫です。お気遣いなく。なぜか(ごほんごほん)突然むせてしまって。」
「なつをさん、大丈夫ですよ。お気遣いなく。」ドクターも言った。「湯水ちゃん、外してもいいですよ。」
湯水ちゃんが一旦席を外した。壁の向こうから咳き込む声が聞こえる。

「ところでなつをさん、こういう風に、自己中心的な人が寄ってきて、恋愛の始まりが難しい、というケースの場合、さらにさかのぼると、オレサマ的、自己中心的な人と交際してしまって、本当にしんどい恋愛をした、という経験をお持ちの場合が多いのですが、どうでしたか?」
なつをは図星を指されて少し驚いた表情になって、それから言った。「はい。おっしゃるとおりです。ここ一年半ぐらいは恋人がいない状態が続いているのですが、その前は、何もかも自分の思い通りにしないと怒鳴ったり、怒鳴らないときもとても怖い目でこちらを見ながら、理路整然と私の間違いを指摘し続ける、というようなことをしてくる彼氏で、交際が続くにつれてどんどん生気が無くなっていく私を見るに見かねて、友達が何人か介入してきて、それで別れることになったんです。私も始めは、辛くて苦しいのに更に別れが来るのが怖くて、友達にも抗議したのですが、今となっては、強制的に別れさせてもらって、感謝しています。あそこで別れたことはとても辛かったけれど、続けていたらもっと傷は深かったと思います。」

ここで湯水ちゃんが戻ってきた。
「大丈夫ですか?」なつをがやはり声をかけた。
「いえいえ、失礼しました。大丈夫ですよ。本当にお気遣いなく。」と湯水ちゃん。

 

そもそも、なつをが恋愛ドクターのことを知ったのは、友人から教えてもらったからなのだった。

・・・

なつをが恋愛ドクターのことを知るきっかけになったのが、この一件だった。暴君のような彼氏との交際で、日々心労が溜まり、どんどん生気が失われていくなつをを心配してくれた友達に、つい実情を話してしまったのだ。

「あのね、恭子」
「うん」
「私ね、彼に会うのが怖い。」
「どうしたの?なつを。」
「・・・・・怖い。」
なつをはただ涙をぽろぽろこぼすだけで、言葉が出て来なかった。

なつをの夏の物語(3)|恋愛ドクターの遺産第10話

「譲り合いすぎている、と私は今確かに言いましたが、もう少し違う気がしています。気を遣い合っている、というか、相手の出方をお互いにうかがっている、というか、そのあたりです。」
「あ、それ、ぴったりです。お互いの出方をお互いにうかがっている、という感じです。」なつをが先ほどより大きい声で答えた。
ドクターは、無言で数回、深くうなずいた。
「結局その時は、中華料理になったんですが、セットメニューにするか、好きな単品料理を頼んでシェアするか、という方針が決まるまでに10分ぐらいかかりました。」言いながらなつをは苦笑した。「私が『セットメニューにしますか?それとも、単品料理をいくつか頼みますか?』って聞いたら、彼は『なつをさんはどうしたいですか?』って逆に聞いてきて、食べたいもの次第かなぁ、みたいなことを色々言っているうちに、かなり時間が経ってしまったんですよね・・・」
「そうですか、ここでも、お互いの出方をうかがっている、という表現がピッタリですか?」ドクターはどんな話でも、極めて真面目に聞く。友達なら「早く頼めよ!」のひと言で終わりかもしれない話だが、こんな些細な出来事からも、二人を特徴付ける行動パターンを見つけられるかどうか、考えているのだ。
「はい。お互いの出方をうかがっている、という感じです。」なつをが答えた。
「なつをさんは、現在の、二人のこの距離感に対して、どう感じていますか?」
「ええと・・・なんかまどろっこしいというか、もやもやするというか、早く進んでほしいって思います。」
「そうですか。なつをさんとしては、先に進みたいという気持ちなのですね?」
「えと・・・基本、そうなのですが、いざ、自分から彼の・・・たとえば手を・・・握ってみようとか・・・考えたことはあるんですけど・・・」そう言いながらなつをは顔が真っ赤になった。「なんだか恥ずかしいというか、ちょっとためらってしまって、先に進めないのは自分の問題でもあるのかな、と思っているんです。」
「なるほどそういうことですか。確かに、一歩踏み出さない、踏み込まないのは、彼もそうだし、なつをさんもそうみたいですね。今回のご相談の中で、なつをさんの踏み込み問題については、扱った方が良いと思いました。」
「はい、お願いします。」

その後も、なつをと新しく知り合ったその彼との関係を色々ドクターは質問し、なつをは最近の出来事を答える、という形でしばらく話が続いた。

やがて、ドクターがひと言つぶやいた。「以前はもっと警戒心強かったよね。」
「えっ?」なつをは驚いた声を出した。
「確かに、お互いに踏み込みができず、足踏み状態になっているという様子ではありますし、そこは解決すべき課題だと思います。でも、昔は、そもそもなつをさんから気になる男性をデートに誘ったりすることさえ、なかったですよね。」
「ああ、そう言われてみれば、そうだったかもしれません。」

 

第三幕 オレサマとの過去

・・・
遡ること二年ほど・・・ドクターとなつをの初めての出会いは、こんな感じだった。

ノックの音がして、ドアが開いた。
「先生・・・あの・・・よろしくお願いします。」どこかおどおどした様子の女性が入ってきた。
「よろしくお願いいたします。」こんなとき、ドクターは必ず丁寧に応対する。以前、持論を語っていたことがある。「挨拶やマナーは、お互いに緊張感を持っていたり、警戒心を持っているときほど、安心感、つまりお互いに攻撃し合わないだろうという良い期待を作り出す効果があるものです。打ち解けてきたら丁寧すぎる必要はありませんが、最初は丁寧すぎるぐらいから始めて丁度良いものです。」と。

もう一人、ここには助手の湯川みずほ(通称「湯水ちゃん」)がいる。相談者が入ってきたときにドクターと共に起立して待ち受けていたが、挨拶が終わって、皆と同時に着席した。
着席して、セッションは静かに始まった。始めに口を開いたのはドクターだった。「さて、なつをさん・・・でしたね。今日はご相談ありがとうございます。出会いがあまりないということでお悩みだそうですね。」
「はい。でも、出会いが全くないというわけではないのですが、オレサマ系と言いますか、自己中心的な人が寄ってくることが多くて、もちろんそのような方はお断りしているのですが、そうすると今度は、恋人が出来ない、ということになってしまっています。」
「お友達にはひょっとして『高望みしすぎなんじゃない?』みたいなことを言われたりしましたか?」ドクターが優しく尋ねた。

(つづく)

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なつをの夏の物語(2)|恋愛ドクターの遺産第10話

第二幕 なつをの夏 つづき

「さて。」ドクターが言った。「なつをさん。今回のご相談は、ついに気になる男性と少しお近づきになれて、ここからどうしたらよいか、というお話でしたよね?」
「はい。おかげさまで、今度こそは長く付き合えそうな、いい人を見つけたと思ってます。でも、何だかそこから進展しなくて、それで思い切って相談に来ました。」
「なるほど。このタイミングで相談・・・こじれたり問題が大きくなったりしていない段階、という意味ですが・・・これはいい心がけです。今なら色々な手を打てると思いますので。」ドクターが自信ありげに微笑みながら、そう言った。
「では、最近どういう感じのことが起きているのか、ざっくばらんに、思い出した順で構いませんので、お話ししてもらえますか?」ドクターが訊いた。
「はい。実は、彼とは半年前に共通の友人を通じて知り合って、初めて会ったのは飲み会だったんですが、たまたま席が近くて、色々話しているうちに、科学の話や、心理学の話、それから好きなテレビ番組の話など、色々お話しして、それが、結構趣味が合うというか興味の方向が似ていて、話がとても盛り上がったんですよね。そこから、連絡先を交換して、よく会うようになりました。」
「なるほど。出だしは順調な感じですね。」
「はい。おかげさまで・・・でも、そのあと、全然進展しないんですよ。」
「全然進展しない、とは、どんな感じなのですか?もう少し具体的に『こんなことが起きました』的に説明して頂けますか?」
「先日、こんなことがありました。彼からお誘いがあって、一緒に横浜にお出かけすることになったんです。いわゆるデートコース、みたいな感じだったんですが、私たち、終始科学の話や、心理学の話、好きなテレビ番組の話などをしていて、確かにそれはそれで楽しかったんですけど、周りを見るとカップルがたくさんいて、みんな手をつないでいたり、腕を組んでいたり、もっとくっついていました。私たちは、肩と肩の距離が50センチ以内には近づかない感じで、どことなく距離感がありました。」

「なるほどそうですか。お互いに遠慮している感じ、なのかな?」ドクターが質問した。
「はい。そういう感じがします。でも、遊びにはどちらからも誘うんです。私から誘ったこともありますし、彼からもお誘いがあって、出かけたことは何度もあります。だから、消極的、という感じもしないんですけど、でも、このままずっと行ってしまうと、友達止まりのまま、自然消滅してしまったりしたら残念だなぁ、と思うんです。」なつをはしょんぼりした雰囲気でそう言った。
「そうですね・・・確かに、気の合う同士のようですし、進展したらいいですね。このまま消滅したらもったいないですね・・・」ドクターは少し考え込むような素振りを見せて、やがて言った。「具体的な話をもう少し聞きたいのですが、ほかに、どんなことがありましたか?」
「ええと・・・デートしていたときに、どこでお昼にしようか、という話になって、良さそうなお店が、和食と、中華と、イタリアンっぽい感じの洋食と、あったんですね。それで私が彼に『どこがいい?』って聞いたら、彼は『なつをさんが好きなお店で良いですよ』って。お互いにゆずり合いすぎているんですかね?」なつをが答えた。
それを聞いて、ドクターは何か分かったかのように深くうなずいた。「なるほど、そうですか。譲り合いすぎている、それはあるように思いますね。」
「それが原因、ということですか?」
「まあ、焦らないでください。もう少し問題をしっかり定義しましょう。」
「あ、はい。お願いします。」
「譲り合いすぎている、と私は今確かに言いましたが、もう少し違う気がしています。気を遣い合っている、というか、相手の出方をお互いにうかがっている、というか、そのあたりです。」
「あ、それ、ぴったりです。お互いの出方をお互いにうかがっている、という感じです。」なつをが先ほどより大きい声で答えた。
ドクターは、無言で数回、深くうなずいた。

(つづく)

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なつをの夏の物語(1)|恋愛ドクターの遺産第10話

第一幕 別れる前に婚活!?

「ゆり子さぁ、どうせなら今から婚活始めれば?」香澄が言った。
香澄はゆり子の友人だが、いつもハッキリとものを言う。相変わらず物事に囚われない自由な発言だ。
「それいいね。」割と慎重派の順子も、その案には同調した。
「えっ・・・それって・・・いけないことなんじゃ・・・」ゆり子は大胆な提案に、さすがに及び腰だ。そのまま、はいそうですか、じゃあやります、とはとても言えなかった。
いつもの面々で、いつものようにランチをしているところだ。ゆり子は既に、夫婦関係が冷え切っていることを言ってしまったので、こうして一緒に食事をしているときの話題に、ゆり子の夫婦関係のことや、今後のことがよく出てくる。始めは夫婦問題をカミングアウトしてしまったことに後悔していたが、最近では、ひとりで抱え込むよりも、この方が気が紛れていいのかも、と思うようになった。それに、香澄も放言しているように見えて、面白半分ではなく、結構ゆり子のことを考えて言ってくれているのだ。
それにしても、まだ離婚も成立していないのに次の相手を探すなんて、節操がないと思った。その昔「別れても〜好きな人〜」の替え歌で「別れたら〜次の人〜」というシニカルな歌詞があったけれど、それを地で行くみたいじゃないか、とゆり子は思った。
「まだ、離婚の話も進んでるわけじゃないし、気持ちも決まっていないのに、婚活って・・・」ゆり子はそう答えるのが精一杯だった。
「あ、いや、今すぐ相手を決めよう、って言うんじゃないんだけどね、ゆり子、結構美人だし、そういうところに出て行ってみたら、男性から交際を申し込まれたりして、自信がつくって言うか、少し夫婦関係の狭い部屋から出て、広い視点でものを見るようになるんじゃないかな、って思って。その上で、やっぱり旦那さんが大事って思ったら、戻ればいいわけだし。」香澄は軽い調子でそう言った。ハッキリとものを言うように見えて、ゆり子を傷つけないよう気を使っているのがよく分かる。こんな友達がいてくれてありがたいと思った。
「そうね・・・」順子も今回は同意見だ。「決して、離婚の準備のひとつとして次の相手を見つけておこう、というわけじゃないんだけど・・・なんて言うのかな・・・別れた後も、色々明るい未来がある、とか、そこで終わりじゃない、って思えると、いいと思うんだよね、色々な意味で。」
「そうそう、それが言いたかったの。」香澄が言った。
「そうね・・・でも、今すぐに始める気には、なれないのよね。」ゆり子は言った。
「まあ、ゆり子の人生だから、無理強いはしないけど。」と香澄。

そんな話をして、時間はあっという間に過ぎてしまった。
さくらのお迎えの時間が近づいてきた。それで、このランチもお開きになった。
娘のさくらを迎えに行って、そのあとはいつものルーティーンが待っている。バタバタと家事をこなし、さくらを寝かしつけて、一息ついたときはもう夜になっていた。

「また、ノートを開いてみるかな・・・」ゆり子はひとりごとを言った。

恋愛ドクターの遺産・・・父から譲り受けたたくさんのノート。古ぼけた段ボールにどさっと入っている。元々は恋愛ドクターと異名を取っていた祖父の手記だ。祖父から父に渡り、そして父から受け継いで今はゆり子が持っている。中は手記だけれど記録というよりは、小説風に書いてある。悩んだらランダムにノートを一冊取り出して開くと、不思議と今の悩みにピッタリの内容が書いてある。その使い方も父から受け継いだのだが、ゆり子は今もその方法を守っている。

今日もゆり子は、目をつぶって、ノートを一冊つかんで抜き出した。手に取った瞬間に「あっ」と声を上げてしまった。なんだか、その一冊だけ他のノートと比べても、ひときわ古い感じがしたのだ。一瞬、このノートでいいのか、戻してやり直そうかと考えたが、それではランダムに選び出している意味がないと思って、その、ひときわ古いノートを、今回は読んでみることにした。

 

第二幕 なつをの夏

コンコン。ノックをして、なつをが先生の部屋に入った。
「先生、ご無沙汰しております。その節はお世話になりました。今日もよろしくお願いいたします。」
「おお、なつをさん、お久しぶり。あの頃より、ずいぶん元気そうに見えますよ。」
「ありがとうございます。おかげさまで、色々進んでいます。」

そう、今回のクライアントは、なつをだ。
「えと・・・こんにちは・・・湯川さん・・・みずほさんでしたっけ?」なつをが助手の女性に向かって挨拶をした。
「はい、こんにちはなつをさん。湯川みずほです。湯水ちゃんでいいですよ。」助手の湯水ちゃんが答えた。「外は暑かったでしょう。ここに来るだけで、お疲れさまです。」
「はい、実はとても暑かったです。ここに入って、生き返りました。」
「まあお茶でもどうぞ。」ドクターが言って、冷たいお茶を勧めた。
「ありがとうございます。」そう言ってなつをはひと口飲んだ。
今はちょうど真夏。今日はカンカン照りの晴れ。外は猛暑だ。この部屋は空調が利いていて涼しい。ドクターたちは、なつをと軽い雑談をしながら、なつをの汗が引くのを待ってくれた。

(つづく)

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シングルを卒業(16)|恋愛ドクターの遺産第5話

でも、幸雄の動機はあくまで「合理的に行動すること」であって、「ゆり子という特別な存在に対して、いつも味方であること」ではないのだった。

たとえば、結婚してすぐの頃、こんなことがあった。当時はまだ、二人とも働いていて、ゆり子も事務職だったが、忙しく働く毎日だった。仕事の内容は資料作りなど得意な内容がメインで、好きだったのだが、職場の空気を乱す同僚Fがいて、どうにもその人が苦手だった。
それまではなんとか、うまく受け流しながらやってきていたのだったが、いよいよ、一緒のグループに入って仕事をすることになり、逃げられなくなってしまった。
Fを知らない人にその息苦しさを説明するのは、とても難しい。実際、Fの微妙な嫌がらせを全く意に介しない人もいる。だから、Fだけの一方的な問題というよりは、微妙な嫌がらせをするFと、それを敏感に感じ取る側との、合わせ技、相性の問題で起こるといった方が、客観的に見たら適切なのだろう。
Fの行動は、たとえば、こんな感じなのだ。ゆり子がコピー機を使いそうな気配を見せると、先回りしてコピー機を使う。Fはゆっくりコピーを取ったり、やり直したりして、待っているゆり子をイライラさせる。しかしその行動を単独で見たら、オフィスにおいて問題ありな行動とは言えない。ときどきは「ゆずってやろうか?」的なオファーがあることもあった。自分で先回りしておいてお恵みを与える、的な腹立たしい親切である。同僚も、同じような「嫌がらせ」をされていて、その場合の対応はふたつに分かれていた。心の中で「しょーもないやつだ」と思いながら「ああ、どうもありがとう。」と気持ちよく言って、実を取る現実主義の人と、ギロッとにらみつけたり、怒った声を出したりして不快感をあらわにしつつ「結構です」と断る、人間性重視の人。ゆり子はこの対応についてもどっちつかずだった。
まあそんなことが繰り返されていて、そのことを幸雄にこぼしたときのことだった。今となっては予想できる返答だったが、幸雄の答えはこうだった。基本、自分なら前者のような対応をする。わざわざ感情的なゲームを仕掛けてきているFにつき合っているほどヒマではない。しかし、実害も、業務の効率が下がるなど、わずかとは言え出ている。この行動が目に余ると思うなら、彼が嫌がらせを仕掛けている人数をざっと調べ(正確な調査はしていないが、毎日目にしている感じからすると大体7、8人だった)、ひとりあたりに仕掛けている嫌がらせの種類と頻度をざっと調べ、結果的に1人あたり平均してどのぐらい事務作業が遅滞するのかを見積もり、最後に人数を掛ければ、職場として潜在的にロスが生じている分が、金額で見積もることが出来る。時給をかけ算することを忘れずに。だいたいひとり一日多くて10分程度。平均すると5分程度邪魔されているような感じだったので、計算しやすいように時給2400円として、8人分で3200円。20日の出勤として毎月64000円の損失になっている、と、ここまでゆり子に聞き取って幸雄が見積もったのだが・・・これを上司に突き付け、それでも解決しないなら会社のコンプライアンス委員などに上申し、きちんと物事を動かす、そう動くべきだ。
まあ、幸雄らしいと言えば幸雄らしいが、そういう解決策を提示してきて、どっちつかずになっているのはおかしい、と言われた。ゆり子は「責められた」と感じた。
実は後日談で、そのFは、やはり職場の空気を乱し、業務効率を下げたという、ほぼ幸雄が主張していたような理由で、肩たたきに遭い、結局職場を去っていた。だから、幸雄の言うような行動を取った人が他に誰かいたということになるし、幸雄の言っていることは、やはりここでも、職場全体の秩序を保ち、効率よく働くという目的に照らして言えば、正しかったことになる。
しかし、しかしなのだ。この動機が、どうしても、ゆり子は受け入れられないのだった。

「私だけの味方でいてくれる、それって幻想なのかなぁ。」ゆり子はつぶやいた。

シングルを卒業(15)|恋愛ドクターの遺産第5話

第七幕 私にとって相性とは

ゆり子はノートを閉じた。
そもそも、順子(よりこ)のところは夫婦仲がよく、ケンカもしないがお互いの意見を聞き合うことが出来ていて、一方香澄のところは、仲の良さはちょっと微妙だが、お互いケンカしてでも意見を言い合うことが大事、ぶつかり合うことこそが夫婦の証と信じている。そんな友達とのランチのひとときに、自分の夫婦の現状をぽろっと話してしまったことから、夫婦とはどうあるべきかの議論になったのだった。あの日のランチでは、香澄と順子の意見は延々平行線のまま、あまり嬉しくない雰囲気になってしまった。ゆり子はそれに疲れて、友達に相談するのをやめて「恋愛ドクターの遺産」ノートを開くことにしたのだった。

「はぁ。」ノートを閉じた今、やはりため息が出た。自分は本当に「相性」についてきちんと考えた上で結婚相手を選んだのだろうか。いや、考えるまでもない。その答えはNOだった。幸雄とは共通の趣味もないし、あまり味覚も合うとは言えない。ではなぜ好きになったのか。思い返してみると、大学時代に仲間から攻撃されそうになっていたゆり子を、冷静で客観的な物の見方で幸雄が守ってくれたのがきっかけだった。
集団ヒステリーと呼ぶのだと後で知った。確証はないが、状況証拠とみんなの思い込みで誰かを犯人に仕立て上げてしまうような集団心理のことだ。実際、ゆり子にとってはぬれぎぬだったのだが、自分の主張を言えば言うほど焦っている感じが出てしまって、どうにもならなかった。何日も悔しくて涙を流したのだった。それを「確証もないのに彼女を犯人にして、もし違ったらお前ら責任取れるのか?」そう言ってかばってくれたのが幸雄だった。
当時、誰も味方をしてくれない中、唯一この人だけは味方でいてくれるんだ、そう感じて本当にほっとした。今こうして思い出してもまだ涙が出る。

ただ、ゆり子は幸雄について少し捉え違いをしていたところもあった。結婚生活を続けてきて徐々に分かってきたことは、そのとき幸雄は本当に文字通り「確証がない」と言ったのだろう、ということだ。結果的にはゆり子の味方をすることにはなったが、ゆり子の味方をするという動機でそうしたわけではなく、純粋に合理的に考えて「確証がない」と判断しただけだった。
その一件に関して言えば、幸雄の合理的な行動は、他のメンバーを集団ヒステリーから冷静な状態に引き戻す役割を果たしたし、結果的にゆり子の味方をした格好にもなった。幸雄の行動は、その時本当に必要な行動だったと、今でもゆり子は思っているし、今でも感謝している。ゆり子はその後数ヶ月気分が落ち込む日々が続いたのだが、不幸中の幸いと言えた。幸雄の援護がなければ、もっと傷つくことになっただろうし、もしかしたら何年も引きずることになったかもしれない。

幸雄と、同じサークルの仲間、という関係だけで終わっていれば「結果オーライ」と考えることも出来たと思う。実際、ゆり子の親友(サークルは違っていたが)は、今でもそう解釈しているようだ。しかし、行動がOKなら全てOK、とは単純に行かないのが人間関係の難しいところだと、今では、ゆり子はそう思っている。動機の違いは、その後交際、結婚へと進んだ生活の中で、ゆり子に、期待通りではない現実を突き付ける結果につながった。幸雄にとって、ゆり子の味方をすることは一番の動機ではないのだ。だから、合理的に考えてゆり子が間違っていると幸雄が考えるときには、ゆり子に対しても容赦がない。もちろん、多くの経験の中には、あのときと同じように幸雄が結果的にゆり子の味方をしてくれた出来事もあった。でも、幸雄の動機はあくまで「合理的に行動すること」であって、「ゆり子という特別な存在に対して、いつも味方であること」ではないのだった。

(つづく)

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シングルを卒業(14)下|恋愛ドクターの遺産第5話

セッションが終わったあと、なつをは課題設定したときのことを振り返っていた。今回は先生の采配も見事だったが、課題設定がスムーズに行った。これは大事なことだ。
実は、多くの人は自分の現在の状態を肯定できていないのだ。今の等身大の自分を肯定できていないから、「そのレベルであるべき」自分を基準に考える。別の言葉で言うと「自分の現状に見栄を張って」自分を見るのだ。たとえば、学校の勉強を考えればよく分かる。みんなは数学で因数分解がそれなりにできるようになった。自分はからっきしダメだ。そんなとき、因数分解の基礎の基礎から練習する本を買ってきて学ぶのは勇気がいる。みんなの平均ぐらいに合わせた本を買ってしまう。もっと悪いパターンだと、一発大逆転を狙って上級向けの本を買ってしまうことさえあるだろう。でもそれでは、かえってうまく行かないのだ。
たとえ劣等感を抱くようなレベルの自分であろうとも、たとえみんなから置いて行かれてビリの自分であろうとも、今現在の自分を肯定し、それを認めて、そこをスタート地点として、ちょっと背伸びをする課題に取り組む。これが成長のコツなのだ。多くの人は、自分に見栄を張りすぎている。思えば私なつを自身もそうだった。大学受験では第一志望は落ちている。ここのカウンセリングルームで働く際、先生から直接面接をしてもらって、その関係でその後も色々勉強のことを話す機会に恵まれた。
先生は小さい頃から勉強が出来たらしい。だからかえって、劣等感とは無縁の生き方をしていて、自分が苦手な教科は自分の出来る範囲に絞って勉強していたらしい。高校生でそこまで考えていたのは、さすがとしか言いようがないが・・・結局その結果として、苦手だった教科もそれなりに伸びたそうだ。そんな会話をしていた際、先生に言われたのは「なつを君、キミは今の自分自身ではなく、理想の自分しか見ていない。そのやり方だと返って失敗を招きますよ。」ということだった。厳しいひと言で、言われたときはショックであったが、今となっては、愛のある言葉だったと、感謝の気持ちが湧いてくる。
ここのカウンセリングルームでも、多くの「無理をしている」「背伸びどころかジャンプしても届かない課題に取り組みすぎて疲れ切っている」相談者をたくさん見てきた。そして、彼らに対して、先生は淡々と現状を客観的に見て、そして、今の現状から失敗なく踏み出せる小さな一歩を的確に提案する。他人だから客観的になれる部分もあるかもしれないが、高校生の頃の先生の勉強のエピソードを聞く限り、先生は自分を客観的に見る能力が非常に高いと思う。
無意味に自己卑下もしないし、逆に自分の能力に見栄も張らない。真っ直ぐに見ている。本当に素晴らしい客観視のお手本だ。でも、身近にいいお手本があるにもかかわらず、いつも自分のこととなると難しいなぁ。なつをはそう思った。

先生のお気に入りの質問は「スケーリングクエスチョン」と言う。つい先ほどみさおさんに対して使っていた。「どん底を0点、何もかもよくなった状態を100点としたとき、今何点ですか?」と聞くのだ。
次に、「何が『ある』からその点なのですか?」と尋ねる。そうやって加点法で考えるクセをつけてもらうという意図もありつつ・・・今日一番大事だったのは最後だ。「あと10点上がったら何がどうなっていると思いますか?」と聞くのだ。それで、小さな一歩を踏み出して、現状が少し変化したときの未来が想像できる。
人は、問題の渦中にいるとき、何もかもよくなった後の未來など現在とかけ離れすぎていて想像できないのだ。少なくとも私はそうだ。いや、中には創造力が豊かな人もいて、一度も体験したことがなく、かつ、現状の辛い状態からかけ離れているのに、幸せな未来が創造できて、いつかそれを実現させてしまうような、イメージ力の強い人もいるらしい。先生はそう言っていたが、なつをは自分も含めて、そのような人にはまだ会ったことがない。
だから、何もかもよくなった未來を想像させることを無理して一生懸命やるよりも、現状から一歩だけ進んで、ちょっとだけよくなった未来を想像してもらう方がスムーズに出来るのだ。
但し、想像したことはすぐに実現してしまう訳なので、このタイプの「近い未来」を想像するセッションを行う場合は、繰り返し繰り返し、少し進んだらまた未来をイメージし、また少し進んだら・・・とやっていくことが大事になる。カウンセラーの側も、根気強さが求められるのだ。
色々面倒ではあるし、効果も短期的に見たら地味だ。しかし、コツコツ積み上げていく結果を甘く見てはいけない。長い目で見ると、こうやって積み上げたことは、大きな違いとなってゆく。そうやって人生が大きく好転したクライアントを、なつをは何人も見てきた。きっと、みさおさんも、異性の友達を作るという課題で一歩踏み出したら、そこからまた、次の一歩を考えて、と、着実な歩みを進めていくことだろう。

「なつを君、そろそろ帰りますよ。」ドクターの呼ぶ声がした。
「あ、はーい。私も帰ります。」

今日はオフィスを最後に出るのが二人同時だった。最寄り駅まで雑談をして、そこで別々の方面の電車に乗って別れた。

(つづく)

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シングルを卒業(14)上|恋愛ドクターの遺産第5話

「ではみさおさん、みさおさんもステキだと思う男性から告白されてOKした。これを100点としましょう。彼氏ができるところからほど遠い、最も遠いところにいるのを0点としますね。いま、何点ぐらいのところにいますか?」
しばらく考えて、みさおはゆっくりと答えた。「そうですね。20点ぐらいだと思います。」
「なるほど。20点。それは、何があるから20点なのでしょうか。」
「何があるから・・・そうですね。先生のところに通って、だいぶ、世界に対する緊張感がなくなりましたし、ずいぶん楽になって、希望も出てきたことですね。でも、あんまり男友達もいないし、まだまだ先が長い、の20点です。」
「なるほど、分かりやすい説明ありがとうございます。では、その20点が、30点に上がったとします。今と何がどんな風に違っていたら、30点だと思いますか?複数回答可能です。」ドクターは最後の複数回答、のところだけ、少しおどけた調子で笑いながら言った。
「そうですね。男性の友達が出来たら、ですかね。」
「なるほど・・・」ドクターは少し考え込んだ様子になった。そしてゆっくりと質問をした。「男性の友達が出来たら、本当に30点ですか?」
「あ、いや、そうですよね。そこまで行ったら50点ぐらいかもしれません。」
「ですよね。ちょっと先走ったかな? では改めて、『30点』になったとしたら、どんな状態なのでしょうか。」ドクターは「30点」のところを強調して言った。
「ええと、親しい友達、というほどでなくても、たとえば、何かのサークルとか習い事で、男性とも一緒に食事に行ったり、連絡先を交換したり出来たら、30点ぐらいかな・・・」
「それは、今から『よしやるぞ』って思ったら、できそうなことですか?」ドクターは真顔でそう聞いた。
改めて質問されて、みさおはしばらく考え込んでいた。おそらく、実際にやれるかどうか頭の中でシミュレーションしてみているのだろう。そして、ようやく口を開いた。「いや、ちょっとハードルが高いかもしれません。」
少し暗い顔になって、みさおは言った。「すみません、先生。私、行動できないんですよね。だからダメなのかなぁ・・・」
「いま出来ることを課題として設定すれば良いんですよ。ただそれだけです。」ドクターは淡々と言った。
「いま出来ること・・・」
「たとえば、そうやって男性と知り合うチャンスがあるサークルの候補をみっつ見つけてみる、とか、今の職場で、今まで断っていた飲み会(ですよね?)に一時間だけでもいいから参加してみる、とか、最初の一歩は、本当に小さくて、簡単な課題を設定するのがコツなんですよ。」
「なるほど!あ、そういえば、先日4D(みさおが好きなロックバンドの略称だ)好きの集まりで、飲み会に誘われて、まだ返事をしていませんでした。いつもは、そういう会には参加しないですぐに帰ってしまっていました。今度参加してみようかな・・・」
「それは、やろうとしたら、できそうなことですか?」
しばらく想像してみて、みさおは笑顔になって答えた。「はい。そこなら知っている女性もいますし、男性の方も何回か顔を見ている人ばかりなので、今なら参加できそうな気がします。」
「お!いいですね。そうです。そうやって、今の自分に無理なく出来る背伸びをする。これが、物事をうまく行かせるコツなんです。」

ここで、助手のなつをが割って入った。「みさおさん、いま、うまく課題設定できましたよね。」
「はい。」
「いま、みさおさんがうまく課題設定できたのは、一旦課題を作ったあと、出来そうかどうか想像してみて、無理そうなら、少し課題を小さくして再設定する、ということをやったからです。」なつをは優しい調子でそう言った。
「ああ、なるほど。今までは、自分には無理な課題を設定して、いざやってみて、その場に行って『無理・・・』となって落ち込んで帰ってくる、みたいなことが多かった気がします。」
「課題設定がうまく出来た、今の感覚をしっかり覚えておいて下さいね!ここ、大事なところなんで!」今度は力強く、なつをは言った。

ドクターは「そうそう」とでも言いたげに、ゆっくりうなずいていた。
「では、今日はこの辺にしましょうか。いい課題も設定できたことですし。」
「はい、ありがとうございます。やってみます!」

(つづく)

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シングルを卒業(13)|恋愛ドクターの遺産第5話

第六幕 行動課題

今日は、再び、みさおさんのセッションのある日だ。
そろそろ時間だ。

ノックの音がして、みさおが入ってきた。
「こんにちは。よろしくお願いします。」
これまでより、表情が明るい。ずいぶんキラキラ輝いている。なつをは、人ってこんなにも変わるものかと驚いた。
「こんにちは。一段と美人になりましたね。」ドクターが開口一番そう言った。
みさおは少し照れた表情になった。「あ、ありがとうございます。でも最近自分でも、ちょっとキレイになった気がする、と思ったんです。でも、自意識過剰かな、なんて思っていたんですが・・・先生に言っていただけると、なんか自信になります。」
「そうですか。きっと表情が活き活きしてきたことが大きいのかな。土台は元から良いと思いますよ。表情が活き活きすると、やっぱりキレイに見えますよね。いい感じです。」ドクターはニコニコしている。「あ、失礼しました。立ち話ではナンですから、おかけ下さい。」
「そうでした。失礼します。」かなり元気な声でみさおが言った。

「今日もよろしくお願いいたします。」
「はい、先生、よろしくお願いします。」

「表情を見る限り、ずいぶん内面的な課題については、ほぐれてきた感じですね。」
「そうなんですよ先生! 最近、生きるのがこんなに楽なのか、と感じるようになったんです。今まで、本当に緊張して、怖い世界の中に自分を押し込めていたんだな、って、やっと気づきました。」
「そうですか。それは何よりです。」
「今まで、世界を怖いところと見て、すごく気を張って、気を張って、そうやって自分を守ろうとしていました。でも結果的には、それは自分の心をいじめているだけだったんだな、って気づきました。なんてかわいそうなことをしていたんだろうって。」そう言いながらみさおはぽろぽろっと大粒の涙をこぼした。
「そうですか。それはかわいそうなことをしてきましたね。でも、気づいたからには、これからはもっともっと、自分の心を大切に出来ますね。」
「はい、そうしたいです。」

しばらく沈黙があったあと、先に口を開いたのはみさおだった。
「先生、今日はどんな課題に取り組むのでしょうか。まだトラウマがあるかもしれませんし・・・」
「そうですね。インナーチャイルド課題は、先日までにお出しした課題を、引き続きやっていただくとして、新たな課題は特に設定しなくてもいいかな、と考えています。」
「えっ? そうなんですか?」みさおは少し驚いた表情になって言った。
「ええ。」
「では、今日は・・・?」
「そうですね。今日は、いよいよ、具体的な行動課題を設定して、取り組みを加速させていきたいと考えています・・・いや、本当のことを言うと、今日もまだインナーチャイルド課題に取り組むことになるかな、とセッションが始まる前は思っていたんですが、みさおさんのお顔を拝見した瞬間に、それはもういいか、って思い直したんです。」ドクターは笑いながら言った。
「そうなんですね。私の表情を見て、ということですか?」
「そうですね。まだしばらく取り組みは続けた方がいいと思いますが、今日積極的に扱うほどではなく、むしろ今日は、次のテーマに進んだ方が実りが多そうだと思いましたので。」
「分かりました。お願いします!」
「いいですね。その気合!元気!その調子です。」
「で、どんな課題なのでしょう。」
ドクターは、少し考えてから言った。「そうですね。今日は、実際に出会いを作るところに向けて、小さな一歩を踏み出す課題を作ってみたいと思います。」
「はい・・・でもそれは、かなり緊張します。」
「そうですね。安心して下さい。大丈夫ですから。」
「・・・はい。」

(もう出会いに向けて動くのか・・・展開が早いなぁ)みさおは思った。相変わらず先生は、問題解決のテンポが早い。ときどき自分でも「勇み足だったか」と言うことがあるけれど、少し背伸びをさせるぐらいの課題を出しても、結局相談者はその分成長していることが多い。課題の出し方の判断が・・・ちょっと勇み足傾向はあるとしても・・・的確なのだ。

「ではみさおさん、みさおさんもステキだと思う男性から告白されてOKした。これを100点としましょう。彼氏ができるところからほど遠い、最も遠いところにいるのを0点としますね。いま、何点ぐらいのところにいますか?」

(つづく)

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シングルを卒業(12)|恋愛ドクターの遺産第5話

「では、この緑色のひんやりずっしりて、モチモチしたエネルギーをこうして両手に持ったまま、」そう言いながらドクターは「その世界」の方へと近づいていき、さらに言った。「その世界に入っていったとイメージしてみてください。」
「はい。」意を決したような表情で、みさおも、そのエネルギーを両手に持って、さきほど「過去の世界」とドクターが示した方に近づいていく。イメージの中では本当に過去の世界に入っているのだろう。表情が少しだけこわばっている。しかし、一回目とは明らかに違う。目つきにも、表情にも、どこか強さがある。
「そして。」ドクターが言った。「このエネルギーを、過去のみさおちゃんに、こうしてあげてください。こんなふうにして、エネルギーをかぶせてあげます。」そう言いながら、手のひらに乗っているエネルギーを「ふわーっ」と広げて目の前にいる何かにやわらかくかぶせるようなしぐさをした。
「はい。」みさおも、真似をして手のひらに載っている「エネルギー」を「ふわーっ」とかぶせるしぐさをした。その瞬間、少し固かった表情が安心感にあふれ、涙が一筋流れた。
「過去のみさおちゃんに、何か言ってあげたいことや、やってあげたいことはありますか?」ドクターが質問をした。
「ええと・・・これが欲しかったものだと思います。この安心感をあげられたのが嬉しい・・・よかったです。」
「そうですか。では、その、安心感に包まれた子どものみさおちゃんがどんな風に感じているのか、いま実際になってみて、体験してみたいと思いますか?」
「ええと・・・すでに何だか体験したみたいな感じです。」
「なるほどそうですか。今から『みさおちゃんになってみる』というワークはとくに必要ない、ということですかね?」
「はい、大丈夫です。」
「では、元の世界に戻ってきてください。」そう言いながら、ドクターも、場所を移動して(いま『過去の世界』に近づいていたのだ)、元の自分の椅子に戻って座った。
「はい。」みさおも『過去の世界』から離れて、元の自分の椅子に戻って座った。
「おつかれさまでした。」
「はい、ありがとうございました。」
ふう。と一息ついてからドクターは最後の仕上げに入った。確認作業だ。「では、もういちど、過去の世界に近づいてみてください。」先ほどと同じようにのぞき込むようなしぐさをした。
「はい。」みさおも過去の世界に近づいた。
「どんな感じがしますか?さきほどは、とても緊張した、重苦しくて痛い世界でしたよね?」
「まだ、その感じは残っています。でも、始めと比べて、全然よくなりました。全然楽です。」
「それはよかった。取り組みを続けていけば、さらに良くなっていきますよ、きっと。」
「そうなんですね。」急に声が明るくなって、みさおは言った。

もう一度自身で深呼吸してからドクターは言った。「このワークは、じわじわ効くものです。まあ初回は大きく変化した感じがするかもしれませんが。」
「はい。びっくりしました。」
「できれば毎日、こうやって過去のみさおちゃんにエネルギーを届けてあげてほしいのです。」
「はい、やってみます。」
「毎回同じエネルギーだと、次第に変化が小さくなっていきますので、エネルギー源を探す方もやってみると、効果がさらに高まります。」
「どうやって探すのですか?」
「職場でもいいし、友達でもいいですから、人を大切にしていて公正さ、公平さを持っているような、そんな人をよく観察してください。そして、そのような人を見ているとどんな感じがするか、感情をしっかり感じて覚えておくこと。それが『エネルギー源の開拓』です。」
「なるほど・・・観察するのですね。」
「そうです。」
ドクターは椅子から立ち上がりながら言った。「では、今日はここまでとしたいと思います。ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」

(つづく)

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