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正しいだけでは解決しない(6)|恋愛ドクターの遺産第6話

「有紀さんは、社長さんからの愛情を、意識してもっと受け取った方がいいと思います。」

「ええっ!?」なつをは、つい声を出してしまった。
ドクターは、意に介せず、話を続けた。「社長さんから受け取る愛情を、もっと、心の深いところで、しっかりと受け取る。それが今の課題だと思います。」

まさかの、不倫肯定か。こんな方針を先生が出してきたので、セッションが終わったあと、先生と私なつをとの大議論になったのだった。結局この日は、先生がリアルライフセラピー的に行動課題を出して終わった。
大きくはこんな方針だ。まず彼と別れることを最終的な目標とするが、いますぐには別れない。そして、彼がハグしてくれたら、その愛情を感じながら、過去の寂しさを思い出す。こうして、子供時代の愛情飢餓を癒していくことをまず優先する。また、彼が作り出している安全な場、・・・たとえば職場の空気など・・・を感じながら、子供時代に、家ではそういう安心感がなかったことを思い出し、安全の欲求が十分満たされていない部分をしっかり埋めていく、などだ。
子供時代に足りなかったものを彼に求めているのだから、彼からしっかり受け取りきって、それで卒業しよう、という方針だ。

「きっと、受け取りきったら、今よりずっと、楽に離れられるようになっていると思いますよ。」ドクターは言った。

ドクターの提案は、こんな感じの、しっかり受け取って、解決のためのエネルギーにしましょう、という提案だった。この時点では、私なつをは受け入れられず、ついつい、セッションが終わったあと、あのような議論になってしまったのだった。

 
第三幕 指令:幸せでいてはいけない

「先生、今度のクライアントさんは、妙子さん36歳。ずっと彼氏ができない、というご相談です。お申し込みの時に頂いた手紙では、アダルトチルドレンだそうです。」
「なるほど。そうですか。アダルトチルドレンだと言うからには、何か、幼少期の家族問題があったということですか?」
「はい。ご本人さんによれば、父親が機嫌が悪いと暴言を吐き、母親は怖いからそれにただ唯々諾々と従う、という、典型的な機能不全家族だったそうです。ええと、少し大きくなってからは母親の愚痴聞き係も、ずっとやっていたそうです。」
「なるほど。それを聞くと、アダルトチルドレンだったというのは、確かなようですね。」
「そのようですね。それで先生、夫婦仲が悪いと子どもに悪影響がある、というのは、よく聞く話ですが、夫婦仲を解消すれば、悪影響も解消する、という風には行かないわけですよね?」
「そうですね。」
「彼女は、本を読んで、そんな風に勘違いした時期もあったようです。それで、母親に、夫との関係(彼女から見た父親)を何とかしてくれと何度も頼んで、結局、両親は離婚したそうです。」
「なるほどね。」
「彼女が25歳の時に両親が離婚したことで、問題は解決するかと思ったら、結局、現在36歳に至るまで、彼氏はできず、全然問題が解決できていないことに焦り、それで、相談を申し込んだ、と、そういう経緯のようです。」
「なるほど。両親の夫婦仲が悪いことは、確かにアダルトチルドレンが出来る経緯、きっかけになることは、よくあることではありますが、一度心に受けた影響は、今度は自分の心の中にある原因、となるわけですから、そこから両親の夫婦仲が回復したり、両親が離婚して家庭内の空気の悪さが解消したりしても、必ずしもメンタルな問題が解決するわけではない、ということは、知っておく必要がありますね。」
「そうですよね。夫婦仲を改善さえすれば、全て解決する、みたいに思ってしまう書き方が、本によっては、なされていますけど、それは・・・」
「そうなんです!特に、社会学系の本に多いですね。社会学というのは、社会をよくすること、社会の仕組みをどうするか、といったことを考える学問です。アダルトチルドレンが生まれる土壌が機能不全家族で、その最たる特徴が夫婦仲の悪さなら、そういう家庭を減らすことで、次の世代を救うのが、社会学です。但し、社会学では、すでにそのような家庭で育ってしまった人を救うことは出来ないんですね。石に躓いて転んで骨折した、という例で考えると、石を取り除いて、次に転ぶ人が出ないようにしよう、というのが社会学。でも、転んで怪我した人は、石を取り除いても治らないわけです。転んでしまった人の治療を考えるのが心理学です。」
「先生、分かりやすいたとえです。」
「ありがとう。それで、彼女は最初は社会学的な発想をしてしまった、ということですね。でも、自分がアダルトチルドレンだと言うことを、ちゃんと見つめて、心理学的な取り組みの方に、今はシフトしている、ということでいいのかな?」
「そうみたいです。但し、そうやって、アダルトチルドレンを抜け出すための取り組みを色々してみたけれど、それでもやはり、彼氏ができない、という問題が解決しなくて、それで先生に相談したいようです。」
「なるほど、やり甲斐がありそうですね。」
「先生、よろしくお願いします。」
「ええ、もちろんです。」
・・・

ノックの音がして、今日の相談者が入ってきた。妙子(たえこ)さん36歳。彼氏が36年間できない、ということでの相談申込だった。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
互いに挨拶をして、ドクターも妙子も着席した。

「ええと。」話し始めたのはドクターの方だ。「恋人ができない。今まで一度もつき合ったことがない、とのことでしたが。」
「はい。そうなんです。」
「恋人が出来たらいいな、という方向性でいいんですか?」ドクターが質問した。
少し間があって、妙子は、先ほどよりも小さな声で「・・・はい。」と答えた。

「・・・なるほど。」ドクターも少し間をとって、それから話し始めた。「恋人を作るには、まずは、出会いを作らないといけないわけですが、いま、適齢期の男性と、月当たり、何人ぐらい知り合うチャンスがありますか?」
「ほとんどありません。」妙子は間髪入れず答えた。
「そうですか。それは困りましたね。」
妙子は無言で、かすかにうなずいたようだった。

(つづく)

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正しいだけでは解決しない(5)|恋愛ドクターの遺産第6話

しばらくして、ドクターが質問した。「ところで、社長さんのどんなところが好きなんですか?」
有紀は、少しもじもじするような素振りを見せながら、答えた。「ええと、答えになっているか分からないんですけど、私のことを好きでいてくれること、ですかね。」
「なるほど、有紀さんのことを好きでいてくれる・・・意地悪な質問かもしれませんが、曲がりなりにも恋愛関係になった場合、基本的に、有紀さんのことを好きでいてくれるんじゃないですかね、相手の男性は。まあ少なくとも最初のうちは。」
「ええと・・・」ここで有紀が言葉に詰まった。
「彼は、有紀さんといるとき『有紀さんのことが好きだ』という気持ちがにじみ出ていて、それが分かりやすい人なんですか?」ドクターが助け船を出した。
「あ、そう、そうなんです! 彼はちょっと子どもっぽいというか、『好き』って気持ちも素直にストレートに出してきてくれるので、一緒にいるととても安心するというか、嬉しいんです。」
「素直で一途な感じなんですね。」
「そうなんです。でも、一途じゃなかった・・・」
「そうですね、一緒にいると『一途な感じ』がするけれど、実はそうじゃない。」
「先生、そんなことってあるんですか?」声のトーンが少し高く、声も大きくなって、有紀が質問した。
「ええ、よくありますよ。」声のトーンも大きさも全く変えずに、ドクターが答えた。
「そうなんですね。」
「こういうパターンの浮気をする男性の心理を想像してみたことがあるんですが、たぶん、こんな感じなのだと思います。彼が有紀さんと一緒にいるときは、彼は確かに有紀さんのことだけを見ているんです。有紀さんが世界の全てなんです。」
「そう!そんな感じがするので、安心していたんです。」
「ところが、出張先で、現地妻さんのところに行くと、きっと彼は、その女性のことで頭がいっぱい、彼女が世界の全てになっているんだと思います。」
このコメントを聞いて、有紀はハッとした。そうなのだ。確かに彼は「キミが全て」的な発言をする。言っている雰囲気から、それが嘘だとはとても思えなかった。もし嘘発見器を取り付けたとしても、本気で言っている、という判定になるだろう(そんなことが可能ならば、だけれども)。
「普通の男性は、『キミが全て』と言いたくても、明日の仕事が、とか、今月のお小遣い足りないなぁ、とか、色々気を配ることがあるわけです。意識を『キミ』だけに集中しきれない。こういう感覚の人が、もしも、二股を掛けたとしたら、両方の女性のことが気になるはずです。」
「ああ、なるほど・・・私はそっちの感覚の方が理解できます。」
「ですよね。でも、彼の場合は、本当に、今ここ、目の前にあることが全て、という感覚なのだと思います。有紀さんと居るときは、有紀さんのことが全て、でも、別の女性のところに行くと、その瞬間は、その人のことが全て、という。」
「ある意味、純粋ですよね。」
「そうですね。ある意味、純粋で、一途で、真っ直ぐだと思います。」
「私は、彼の、そういうところに惹かれたのかも。」
「なるほどね。二人で過ごしている、その瞬間のことだけ言えば、彼みたいなキャラクターは、魅力的ですからね。」
「先生、もうひとつあるんです。」
「はい?」
「彼のどんなところが好きか、って質問されましたよね?」
「ああ、はいはい。」
「その続きですけど、彼は、恋愛関係ではこんな風に困ったことになってしまう人なんですが、仕事では本当に頼りになるし、職場でのいじめとか、お局様がのさばるとか、そういうことが起きないように、うまく全体をまとめていく力、リーダーシップって言うんですかね、それをすごく持っている人なんです。」
「なるほどね。彼の仕切っている職場にいると、ルール通りきちんとやっていれば、それなりにきちんと仕事が回っていく・・・あ、もちろん仕事なんで、難しい仕事や骨の折れる仕事はあるとしても、理不尽な問題が起こることはない、という意味ですが・・・そんな風に、安心感があるわけですね。」
「そうなんです。なんか、彼が重しになってくれて、みんなちゃんと真面目に、しっかり仕事しよう、という方向に向けるんです。」
「なるほど。いい社長さんだ。」
「そうなんです!そっちの面では、本当にいい社長なんです。」
「職場の、いいお父さん、みたいな感じですね。」

なつをはこの瞬間「あ、先生、カマかけたな」と思った。不倫をする女性は、父親からの愛情が足りなくて、それを無意識に補おうとしている。以前先生はそう語っていた。さりげなく父親と結びつけてみる気なのだ。

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正しいだけでは解決しない(4)|恋愛ドクターの遺産第6話

第二幕 セッション

なつをとドクターのあの議論をさかのぼること数時間、そもそも、ドクターが行ったセッションはこのような流れだった。

ノックの音がして、今日のクライアント、有紀が入ってきた。
「こんにちは。よろしくお願いいたします。」
有紀は仕事帰りらしく、清楚なスーツ姿だ。社長秘書をしているらしく、礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で、言葉や動作にも上品さがにじみ出ている。
「有紀さんこんにちは。よろしくお願いいたします。」ドクターも気さくな調子で挨拶をした。

ドクターはひとしきり、有紀さんの悩みを聞いていた。彼女の話は要約するとこういうことだった。その会社はある保険営業の代理店で、そこの社長は仕事も出来るが、人柄もよいので、秘書として努めている有紀は密かに憧れていた。
社長は、女性を貶めたりする人ではないが、女好きで、今までも不倫の噂のある人だった。交際する相手のことは大切にするが、わりと移り気で、有紀が働くようになってからも、どこかの女性に手を出していたという噂があった。有紀が入社して一年ぐらいした頃、有紀の気持ちを察してか、社長からアプローチがあった。話も面白く、遊び上手な人なのだ。とにかく、一緒に食事をしたり観劇をしたり、楽しい時間を過ごすことができて、いけないこととは思っていたが、有紀はついに一線を越えてしまった。
それからは、幸せな時間も多かったが、出張で彼がいなくなるたびに寂しくなったり、彼の一挙手一投足が気になってしまってそわそわしたり、不安定になることも多くなった。何より、自分が彼を「好き」と思う気持ちの重さと、彼が自分を「好き」と思う気持ちの重さを比べたときに、自分ばかり好きになっていて、彼に振り回されている感じがしていた。始めのうちは好きな人がいるだけで幸せだったが、次第に疲れてきて、辛くなってしまった。
社長に奥さまがいることも、不安をかき立てる要素にはなっていた。休日に家で一人になるとき、彼は何をしているんだろうと想像する。秘書という立場もあって、プライベートの予定も、緊急連絡が必要かもしれないという建前で、ある程度知らされていることもよくあったが、それが家族行事だったりすると、有紀は自分だけ仲間はずれにされているような疎外感を味わった。この状況からして他にどうしようもないことは頭では分かっているけれど、どうしても割り切れず、やりきれない気持ちになるのだった。
恋愛そのものも、苦しかったのだが、そこにとどめを刺したのが、社長が出張先でいわゆる「現地妻」のような関係を持っていたことだった。小さい会社なので、秘書といっても、領収書の入力作業など、経理の補助などの事務も兼務している(決算などの重要な会計業務は外部の税理士だ)。ある出張先で常宿にしているホテルの部屋が、いつもダブルベッドの部屋だったことも怪しい。社長は倹約家なので他の出張先では迷わず安いビジネスホテルのシングルの部屋を取るので、その地だけ贅沢なのはいかにも怪しいのだ。そしてレストランの領収書に2名様と書かれていたこと。ビジネスの会合の予定は入っていないので、女性と会っていたことは想像に難くない。有紀はつい過去の帳簿も調べてみたのだが、どうやら5年前ぐらいからその密会は続いているらしいことが分かった。社長が離席している間にこっそりPCをのぞいて、女性との密会の約束のメールを見つけた。
証拠を見つけたからといって、そもそも有紀自身も不倫相手の身。法律的に言えば何か自分に優先権があるわけでもない。あきらめて、身をひくことにした。

・・・というのが、過去の出来事、そしてここに相談に来た経緯だ。

「それで、有紀さんは、社長さんと今後どうしたいのですか?」ドクターが質問した。

(ああ、やっぱり先生はもう一度確認するのだな)なつをは思った。すでに「身をひくことにした」と言っているクライアントに対して、わざわざもう一度質問をしているが、先生の対応はいつも割とこういう感じだ。

「ええと・・・辛いので別れようと思うんですけど、離れるのも苦しくて、どうしていいか分からなくて・・・私、恋愛依存症ではないかと思って・・・それで相談に来たんです。」
「そうでしたか。誰でも恋愛が始まると、相手に対して愛着が生まれ、離れるときには痛みを伴うものです。有紀さんは、その程度が人より大きいようですね。」
「はい、そうだと思います。」
「つらいですね。」
「・・・はい。」有紀の目にうっすらと涙が浮かんだ。
「そして、こうして相談に来て下さって、ありがとうございます。」
「いえ。こちらこそありがとうございます。他に相談できるところがないので、ずっと苦しかったんです。」
ドクターは、ゆっくりとうなずいている。

しばらくして、ドクターが質問した。「ところで、社長さんのどんなところが好きなんですか?」

(つづく)

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正しいだけでは解決しない(3)|恋愛ドクターの遺産第6話

「まあ、ここから、どうやったら、その欠けている経験を補っていけるのか、それはかなり創意工夫が必要な作業になりますから、一意にぱっと決まる、という訳ではないですけどね。」
「そうなんですね。」
「ええ、まあ、なつを君はなつを君のこだわりというか、自分なりのクライアント観を持つようになるべきだと思いますが、今はまず、私が考えていることを一旦受け取ってみて、真似をしてみるところから、始めてみることが良いと思います。」
「守破離の守ですね。」
「そういうことです。私は、一般的に『父親からの愛情が足りない』と言うときの『父親からの愛情』というのは、大きく分けて二つだと思っています。ひとつ目は、家族のために闘ってくれて、家族を守ってくれる、という行動と、そこから来る、守られている安心感。ふたつ目は、単純に男性から好かれているという喜び。」
「ああ、なるほど、そうやって分解して考えてみると、分かりやすいし、納得です。」
「先ほども言いましたが、なつを君は、単に私の真似をしてコピーになるのではなく、自分なりのクライアント観、自分なりの治療観を持ってくださいね。」
「はい、分かってます。でも、今の先生の考え方は、私はまず、取り入れて、そこから考えていきたいと思います。」
「そうですか。」ドクターはちょっとはにかんだような、嬉しそうな表情をして続けた。「まあ、そうやって受け取ってもらえるのは嬉しいですけどね。」
「うふふ。」なつをはつい笑ってしまった。
「ええと・・・そうでした。だから、こうやって定義を丁寧にしてみると、解決の方針も具体的に見えてきます。ひとつは『父親が守ってくれた』経験が足りないわけですから、どこかで、自分が『守ってもらえた』と感じる経験をすることが大事です。その相手は、父親ではなくても、ほとんどの場合、大丈夫です。」
「そうなんですね!」なつをは嬉しそうな声で言った。
「そうですよ。人間の心は意外に柔軟にできているものなんです。だから、父親、父親、って追いかけなくても、解決の道は作れるのです。」
「なるほど!希望があります。」
「もうひとつは、『男性から好かれている』という経験ですね。彼女の場合、こちらの比率の方が大きそうだったのですが・・・」
「あっ!そうか!これも、父親から好かれなかったという経験を、父親本人から取り返すのではなくて、別の男性からでもいい、ってことなんですね!」
「そうです。そういうことなんです。」
「えっ?」なつをは急に何かに気づいて驚いたような表情になり、黙り込んでしまった。そして、しばらくして口を開いた。「ということは、有紀さんが社長と不倫をしていることはつまり、お父さんからもらえなかったものを、社長を父親代わりにしてもらおうとしている、ということなんですね!」
「そういうことです。年上男性との不倫が多い女性の場合、その動機が、父親に愛されたかった、でも愛されなかった。だからそれを今の恋愛で取り戻したい、という動機になっていることは、比較的よくあります。」
「なんか・・・切ないですね。」
「そうですね。本当は自分という個人を作る土台であるべき、親子の絆が希薄だった。それを取り戻したいと渇望する心をずっと抱えて生きている。取り戻せそうな相手が見つかった。但しこのような場合大抵相手は年上の既婚者。その人と恋愛したら、人の道に反していると責められる、とこのような構図ですから、確かに、切ない、やるせないですよね。」ドクターはそう言ってなつをの方を見た。そして、何かに気づいたようだ。
「なつを君、何だか、自分事のように考えていますね?」
「えっ? あ、そ、そうなんです。」なつをは顔が赤くなった。「じ、実は、有紀さんのセッションについて私がついムキになってしまったのは、私と同じだって思ったことが結構あったからなんだ、って気づきました。」
「そうなんですね。」
「それで、私の場合は、せ、先生のことが好きで、それが恋愛感情なのか尊敬なのか、よく分からない気持ちだったんですけど、いま、分かりました。」これを言いながら私は、顔が熱くなり(きっと真っ赤だろう)、体中に変な汗をかいた。
「そうですか。そう思ってくれているとは、光栄ですね。ありがとう。」先生はあくまで優しくそう答えてくれたので、私はものすごく安心して、体中の力が抜けた気がした。
「この際ですから、よい受け取り方と、微妙な受け取り方の違いについて説明しておきましょう。」ドクターはいつもの理知的で鋭い言い方と、先ほどの優しい調子の中間ぐらいの調子でそう言った。「実は、父親からの愛情というのは、別に不倫しなくても補えるんですよ。職場の尊敬できる上司のことを好きでいる、その上司も、一線は越えてこないけれど、親しみを込めて接してくれている、こんな関係をしっかり味わって過ごせば、子供時代に愛情が足りなかった経験も、ちゃんと埋まっていくんですよ。もちろん、本人が自覚して受け取れば、ですけどね。」
「そうなんですね!」
「ええ、そうです。そもそも、父親とはセックスしないでしょう。だから父親からの愛情不足を不倫で補おうとしてしまう、というのは、回路がちょっとズレてつながってしまっている状態なんです。」
「ああ、そう言われてみればそうですね。でも、私、なんとなく分かります。父親からの愛情不足を補う感覚が、なぜか恋愛感情とつながってしまい、不倫に至ってしまうという、その気持ちが。」
「なつを君、なんだかずいぶん、不倫してしまう人の肩を持つようになってきましたね。」
「え?あ、あの、決して自分もしたいとか、しているとか、容認派になったとか、そういうわけではないんですけど。」なつをは焦りを隠せず、しどろもどろになってしまった。
「何か、気づいたり、変化したことがあったんですか?」ドクターはあくまで優しく、しかし鋭い質問を投げてきた。
「あの、さきほど先生が、私が先生のことを好き、ってつい口走ってしまったときに、バカにすることもなく、真っ直ぐ受け止めてくださったことが嬉しくて・・・」そう言いながら涙がぽろぽろっとこぼれた。「それで、なんだか力が抜けた気がします。」

(つづく)

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正しいだけでは解決しない(2)|恋愛ドクターの遺産第6話

「では折角なので、実例に即して、なつを君にも考えてもらいましょう。なつを君なら、彼女に対して、どんな解決策、どんな方針を提示しますか?」
「えっ?」

そうなのだ。カウンセラーは評論家ではいられない。その日のセッションの中で、何かひとつでも、現実が前に進むための提案をしなければならないのだった。(そういうことをしない、ただ受け身のカウンセラーもいるが、先生の価値観では、そういう仕事の仕方は「職業倫理に反する」のだ)
私は焦った。先生の質問を受けて、いざ自分がどういう方針を立てるのか考えてみると、思考停止してしまう。
「ではなつを君、有紀さんが、つらいのに社長との不倫をやめられない原因は何だと思いますか?」
「依存しているから・・・ですか?」
「うーん。それでは、説明になっていません。『依存』とは何でしょう?」
「なぜ、説明になっていないんですか?」なつをはかなり困惑した表情で聞き返した。
「それは、問題解決をする場合、これが『原因だ』と原因推定をしたときに、ではその原因を取り除きましょう、というアクションが容易に取れるようでなければ、本当の意味で原因が分かったとは言えないからです。なつを君は、『依存』が原因だ、と言いましたね。では『依存』を取り除きましょう。さあ、どうすればいいか、分かりましたか?」
「・・・」なつをは黙ってしまった。
「そうです。ほぼ、『不倫をやめましょう』と同義語です。これでは、原因を掘り下げたことにならないし、解決するためのポイントも見えていないのです。原因を推定したと言えるためには、『ではそれを取り除きましょう』と言ったときに、何をすればよいか、明確になっている必要があるのです。」
「はあ・・・おっしゃるとおりです。」なつをは、自分の分析の浅さに自らがっかりした。
「では、もう少し考えてみましょう。」どうやらドクターは、ここでやめる気はないらしい。なつをがこの件について、きちんと考えられるところまで、食いついて離さないようだ。「なつを君、依存についてもう少し掘り下げてみましょう。有紀さんの『依存』とは、彼女が何を渇望していて、社長に依存しているということだと思いますか?」
「ええと・・・彼女の話からすると、子供の頃に、父親が家で暴言を吐く人で、父親からの愛情が足りないのではないでしょうか。」
ドクターは、うなずきながらも、少し頭を横に振った。
「先生、まだダメ、ですか・・・?」
「先ほどよりは、随分良くなりましたよ。」
「・・・」なつをは少し黙っていた。するとドクターは続けて言った。
「なつを君の仮説に基づくと、彼女は『父親からの愛情が足りない状態』にある。だから『父親からの愛情が足りない状態』を取り除くことが解決策。ということですよね?では、何をすることが、その原因を取り除くことになりますか?」
「えっ!?」なつをは固まってしまった。そうなのだ。父親からの愛情が足りない、と問題を定義したなら、父親からの愛情を得る、がシンプルに考えた解決策になる。でもそれができない、それをしてくれない父親だから、今の状態があるわけで、このように問題を定義してしまうと、解決不能になってしまう。
「父親からの愛情、とは心理学的に説明すると何でしょうか?」
「えっ? ええと・・・お父さんが愛してくれること、ですか?」
ドクターは少し困った表情をして、さらに質問を重ねた。「ここでの『愛してくれる』は、具体的には何をしてくれることなのですか?あるいはどんな状態のことなのですか?」
「え、それは・・・」なつをは言葉に詰まった。しかしドクターは続けて質問をしてくる。
「べつに、普遍的哲学的答えを言え、と言っているのではなくて、なつを君がどういう意味を込めて『愛してくれる』という言葉を使ったのか、それを聞いているのです。何かあるでしょう?」
「それは・・・『好きでいてくれること』が大きいと思います。」
「なるほど、つまりなつを君の言う『父親からの愛情不足』というのは、『お父さんが自分のことを好きでいてくれた、という経験が足りない』と、こう言い換えられるわけですね。」
「ああ、そういうことです。」
「その要素は、あると思いますね。私も。」
「そうなんですね!」なつをはドクターが同意してくれたので、嬉しくてつい声が大きくなった。
「しかし、では今から、お父さんに頼んで、『私のことを好きでいてください』ってお願いしますか? これは相手次第になってしまいますから、難しい解決策ですね。」
「・・・そうですね。」なつをは喜んだ気持ちが急にしぼんでしまうのを感じた。
「まあそれでも、先ほどの『依存しているから、依存をやめる』という問題の定義よりは、ずいぶん中身が分かってきているとは言えますね。」ドクターは穏やかな表情でそう言った。
「ありがとうございます。」なつをはそう言ったが、どこかぎこちなかった。
「まあ、ここから、どうやったら、その欠けている経験を補っていけるのか、それはかなり創意工夫が必要な作業になりますから、一意にぱっと決まる、という訳ではないですけどね。」
「そうなんですね。」

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正しいだけでは解決しない(1)|恋愛ドクターの遺産第6話

第一幕 不倫を肯定するなんてダメ!

「はぁ。私がこんな風に夫婦関係、うまく行かないのは、自分のせいでもあるのかなぁ・・・」ゆり子はうつむきながら、力なくつぶやいた。

ゆり子は悩んでいた。先日読んでいた本に「夫婦は合わせ鏡」とか「自分の周りに起きることは自分の心の反映」とか、自分原因説のような話ばかりが書いてあったのだ。以前もそのような本を読むことはあったが、夫婦仲がこじれる前は、正直どこか他人事のように読んでいた。しかし、実際に夫婦関係がこじれてきてから読むと、自分が周りから責められたり、こっそり後ろ指を指されたりしているような気がして、冷静に読めなくなってしまった。
偏った自分原因説の本全般が、現在苦手なゆり子だが、そのような本の中でも自分が原因だという話が、特に強調されている本を読んでしまったのだった。それで、ずいぶん気が滅入っている。
本を読んだせいだ、と、その本のせいにしたいところなのだが、書かれていた内容が、うすうす、自分の責任かもしれない、と感じているポイントだったので、まともにダメージを受けてしまったのだった。

そんなことを悩んでいるうちに、娘のさくらを迎えに行く時間が来てしまった。「今これを考えても仕方ない」そうつぶやいて、ゆり子は幼稚園に向かった。こんな風に夫婦関係で悩んでいるときに、子どもが問題を起こさないのは幸いだった。幼稚園でも友達とうまくやっているようだし、特に病気をするわけでもないし、ゆり子に悩む時間をくれているさくらが、心底ありがたいと思った。
とは言え、子どもを家に連れて返って来てからは、日常業務が始まる。着替えさせて、食事の支度をし、お風呂に入れて・・・とやっているうちに時間が過ぎていく。
ようやくさくらを寝かしつけて、ゆり子は今日も、恋愛ドクターの遺産ノートを開いてみることにした。
・・・

「先生、そんなアドバイスでいいんですか? 『彼の愛を意識してもっと受け取りましょう。』なんて、なんだか、問題を助長しているように感じます。」助手のなつをが恋愛ドクターAに食ってかかっている。おなじみの光景だ。

実はさきほど、ひとつのセッションが終わったのだが、その中でドクターが「彼(不倫相手)からの愛をもっと受け取りましょう。」というアドバイスをしたのが、なつをには気に入らなかったようだ。
今回のクライアントは有紀(29)。社長秘書をしているが、その社長と不倫関係にある。毎日、奥さまにバレるのではないかと不安になるが、社長は「そんなの始めから承知済みのはずだし、お互い五分五分の合意で始めた恋愛でしょう」ぐらいの認識で、もちろん冷たくされるわけではないが、積極的には取り合ってくれない。それに今度、どうやら、出張の多いこの社長、各地に現地妻的な愛人が数人いるらしいことが分かったのだった。
それで、相談に来たのだった。

ドクターと助手の議論はまだ続いている。
「なつを君、私も最終的に彼女が不倫をやめることには賛成です。そのままの関係を続けていても、きっと幸せではないでしょうから。ただ、『やめた方がいい』とか『家族のことを考えろ』といったアドバイスはすでに彼女の頭の中にもあるでしょうし、実際に友人などからも言われた、という話が、セッションの中で出ましたよね?」
「そうですけど・・・」
「つまり、この問題は、彼女自身、自分がやっていることは正しくないし、できれば自分自身でもやめたいと考えているけれど、やめられなくなってしまって、困っている、という問題なのです。そこに、すでに言われたことがあるような説教をしても、ただ彼女を追い詰めるだけになってしまって、よい効果はないのです。」
「それは分かりますけど・・・」なつをは不満そうにお茶菓子を口に入れた。

「なつを君、以前も言いましたが、我々プロカウンセラーは、友達が最初に思いつくようなアドバイスを口にしているようでは仕事にならないのです。なぜなら、そんなことは百も承知のはずだからです。それで解決しないから、相談に来ているのです。」
「それは、分かってますけど・・・」
「では折角なので、実例に即して、なつを君にも考えてもらいましょう。なつを君なら、彼女に対して、どんな解決策、どんな方針を提示しますか?」
「えっ?」

そうなのだ。カウンセラーは評論家ではいられない。その日のセッションの中で、何かひとつでも、現実が前に進むための提案をしなければならないのだった。(そういうことをしない、ただ受け身のカウンセラーもいるが、先生の価値観では、そういう仕事の仕方は「職業倫理に反する」のだ)
私は焦った。先生の質問を受けて、いざ自分がどういう方針を立てるのか考えてみると、思考停止してしまう。

(つづく)

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性癖を直す(8)|恋愛ドクターの遺産第2話

それから一週間後、ドクターがなつをを呼んだ。

「なつを君、まいくんの奥さまから手紙が来ているよ。」
「へぇ、そうなんですね。何ておっしゃっているんですか?」
「あれからすっかり、まいくんは奥さまを女として見ることができるようになったって。」
「えーっ、すごい・・・そんなことが起こるんですね。でもなんで、そういう変化が起きたんですか?」

「そうだね、学説ではなく、カウンセリング現場の知恵的なものですが、奥さまに対して感じるエネルギーと、『女』に感じるエネルギー、この場合は、鎖骨にほくろがあって性的に興奮する感じという意味ですが、それが、バラバラに解離してしまっていたのを、統合したわけです。これをすると、奥さまに対して感じなかった『女』を感じられるように変化することがあるんです。」

「そんなこと、あるんですか?」なつをはまだ信じられない気持ちでそう訊いた。
「そうですね。あります。」ドクターは淡々と答えた。
「今までも、そうやって解決した問題って、あったんですか?」
「えぇ、時々ありますよ。性的な嗜好の問題に関しては、よく使う技法です。」

なつをは、変えられるとはとても考えられなかった、性的な嗜好が、こんなにも簡単に変えられてしまうことに驚き、衝撃を受けた。

(人の生理的なもの、本能的なものまで、変えることが出来てしまうんだ・・・)スゴイと思う半面、本人の知らないところでこのスキルが使われたらと思うと恐ろしくもあった。

「なつを君、たい焼き食べませんか?」
「へ?たい焼き?」
「たい焼き、美味しいですよ。」
ドクターはまだほんのり温かいたい焼きを出して、自らひとつ取り、なつをにもひとつ勧めた。

「あぁ、じゃあ、いただきます。」
なつをはたい焼きを食べながら、先日のドクターのワークを思い出していた。確か、右手と左手に、それぞれ別の女性から感じるエネルギーを載せて、それを寄せていって合わせたのだった。あんな単純なワークでこんな大きな変化を起こせるなんて、未だに信じられなかった。

「そうそう。」たい焼きをかじりながらドクターは言った。「まいくんの奥さまからの、丁寧なお礼の手紙、読んでみますか。」
「はい、読ませてください。」
前略
恋愛ドクター A先生。
主人のカウンセリング、本当にありがとうございました。私達夫婦ふたりでは、どうにも行き詰まって解決の糸口が分からなくなっていた問題でしたので、本当に助かりました。
主人も、先生の、お噂通りの問題解決力に、感服しております。お恥ずかしい話ですが、女として見られなくなったと感じてから、本当につらく長い日々でした。それでも、主人は人間的に尊敬できる部分も多いし、家族のために働いてくれていますから、別れるという道は、考えたくなかったのです。
このような形で、みんなが幸せになる方向に解決できて、本当に良かったと思います。私自身も、女として求められるという体験を取り戻すことが出来て、日々、幸せを感じています。主人も、自分の中の「得体の知れない」感覚が消えて、私に気持ちが向かうようになったことで、「そんな自分が好きになった」と申しております。
何とお礼を申し上げてよいか分かりません。近々、私自身も、お話しさせて頂くかもしれません。このたびは、本当に、ありがとうございました。

草々

きれいな字で、手書きで綴ってある手紙だった。

なつをは手紙を読んでいるうちに引き込まれて、たい焼きを食べる手が止まっていたようだ。かじった端が、少し乾いて固くなっていた。
第五幕 妻

それから一週間ほど経って・・・

「先生、どうして解決したのに、まいくんの奥さまがいらっしゃるんでしょうか?」
「さぁ。解決したというのは、こちらの勝手な思い込みなのではないでしょうかね。」
「では、何かまだ問題があるということでしょうか。一体何が?」
「なつを君、それはご本人がいらっしゃったときに聞けば済む話です。聞けば済む話を勝手に推測しない!」

また怒られた。なつをは思った。勝手に妄想して、勝手に推測して、ついつい先生に色々質問してしまう。いつもの悪いクセだ。先生のこの落ち着きを、1割でも自分にほしい、そう思った。

「なつを君、そろそろみきさんがいらっしゃいますよ。」
「みきさん・・・えぇと・・・」
「まいくんの奥さまです。」
(つづく)

性癖を直す(7)|恋愛ドクターの遺産第2話

「温度や感触はありますか?」
「えぇと・・・生暖かい感じで、なんか、エロいというか、独特の感じがします。」
「なるほど。では、右手の上のエネルギーは、そのまま少し持っていてください。」
「はい。」
「では次に、今度は、奥様と一緒にいるときの感覚を想像してみてください。」
「はい・・・えっと、今度は、落ち着いていて、少し温かい感じですかね。」
「その時に感じる感情のエネルギーを、今度は左手の上に載せたとイメージしてみてください。」ドクターはそう言いながら、左手も、手のひらを上にして目の前に出した。
「はい。」まいくんもそれに倣って、左手を出した。そしてまた、その上にエネルギーを乗せたところをイメージしているようだった。
「今度は、そのエネルギーに色や形があるとしたら、どんな色や形をしていますか?」
「はい。白くて、丸くて、輝いています。あ、少しだけ黄色っぽいというか、暖かい感じの色です。」
「温度や感触はありますか?」
「えぇと、暖かくて、柔らかくて、フワフワしています。」

ドクターはここで、ふぅ、と軽くため息をついた。
「では、両方の手の上のエネルギーをもう一度しっかりとイメージして」そう言いながらドクターは自分の右手、左手、と順番に視線を送った。
まいくんも、ドクターに倣って、順に、自分の両手を見た。
「こんな風に、二つのエネルギーを近づけて、ひとつに統合してみてください。」そう言いながらドクターは、それまでそれぞれ別々に「エネルギーを持っていた」自分の両方の手を、両手で水をすくうような形に寄り添わせた。
まいくんも、ドクターに倣って、両方の手を、次第に近づけていき、水をすくうような形に寄り添わせた。そのとき、まいくんの顔に軽い驚きの表情が現れた。
「いま、何が起きていますか?」ドクターは尋ねた。
「えと、あの、うーん。」しばらく考えてから、まいくんは言った。「うまく説明できないんですが、なにか、混ざったというか、入っていった感じです。」
ドクターは、なるほど、というように、ゆっくりと三回うなずいた。

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性癖を直す(6)|恋愛ドクターの遺産第2話

「先生、依存症は、マイナス感情を持っているのに、それにフタをして、強い刺激を求めることで生じる。これは、心理学の本にも書いてありましたし、先生もおっしゃってましたよね?」なつをは例によってドクターを質問責めにしていた。
「まあ、一般的にはそうです。」

「でも、まいくんの場合、マイナス感情を解消するだけではダメなんですか?」
「まあ、たぶん、放っておいても、ある程度は自然に解消していくんじゃないかとは思うんですけどね。念のため、です。ちゃんと取り扱ってあげた方が解決も早いし、トラブルも少なくなります。」

「はぁ・・・」

「この際だから、依存症の出来る仕組みについて、ちょっと覚えておいて下さい。依存症というのは、喜びを感じる『正しい』感覚、というか正しい仕組みが機能しなくなって、その代わりに、社会的、あるいは健康的に問題のある方法で喜びを得ようとしてしまう状態のことです。」ドクターは早口で説明をした。
「社会的に・・・なるほど・・・」なつをは先生の考えについていくのがやっとだった。
「たとえば私たちは、美味しいお寿司のお店に入ったとします。食べて美味しかった、楽しかった。そういう体験をすると、またそこに行きたいと思います。」
「そうですね。」
「これは、自然な反応です。」
「はい・・・」
「喜びがあると、またその方法で喜びを得ようとする、というのが、我々人間の本能です。」
「そうですね。」

「確かに、依存症の背景には、たとえば幼少期の愛情飢餓や、何らかの心理的ストレスなどがあって、そこに、強い喜び、強い刺激が入ってくることで、その刺激に依存してしまう、という構図があるのは事実です。ですが、シンプルに、美味しいお寿司をもう一回食べたい、というのと同じような『その喜びをもう一度得たい』という基本的な反応も、そこにあるのです。」

「なるほど。では、まいくんの場合、過去のマイナス感情や愛情飢餓とは別に、女性の鎖骨にほくろがあって、それで・・・何か性行為というか、そういう喜びを得た経験があるから、それをもう一度得たい、という欲求が生まれている、ということなんですね?」

「そういうことです。そちらの、喜びをもう一度得たい、という欲求の方も、ちゃんと取り扱ってあげることが大事なのです。」

「でも先生、それって、どうやって消すんですか?」

「消しませんよ。」

「えっ? では、どうやって・・・」

「もうすぐまいくんがいらっしゃいますから、まあ見ていてください。」

「はい!」
ドアをノックする音が聞こえた。まいくんが来たのだ。「どうぞ」ドクターが答えると、まいくんが入ってきた。前回のセッションの時よりも、ずいぶん表情が明るい。

「先生、こんにちは。よろしくお願いします。」
「こんにちは。まいくん。今日もよろしくお願いします。元気そうですね。」
「はい。おかげさまで。ずいぶん気持ちが軽くなりました。」

まいくんが着席すると、ドクターは質問を始めた。
「奥さまとはどうですか?」
「一度、してみたのですが、まだなんとなく、やっぱり・・・ほくろもないですし・・・」
「なるほど、やっぱりまだ、奥さまを女として見る感じには・・・」
「なっていないです。」

「今日は、そのあたりを解決していきたいと考えています。」
「はい。ぜひお願いします。」まいくんは、ぺこりと頭を下げた。

そのあと、いくつか状況の確認のための質問をしてから、ドクターは本題に入った。

「では、これから、統合のワークをしたいと思います。」
「はい・・・?」
「まあ、分からなくても大丈夫です。順に誘導していきますので。」
「お願いします。」
「まず、鎖骨のあたりにほくろがある女性を目の前にしたときの感覚を思い出してみてください。」

「えぇと・・・はい。」まいくんの頬や、首のあたりがほんのり赤くなった。
「右手をこのように出して、そのときに感じる感情のエネルギーを、その手の上に載せてみたとイメージしてみてください。」ドクターは右手の手のひらを上にして、自分の前に出して見せた。
まいくんも同じように右手を目の前に出した。そして・・・手の上には何もないのだが・・・その手の上にあるエネルギーを想像しているようだった。しばらくして言った。「はい。」
「そのエネルギーに色や形があるとしたら、どんな色や形ですか?」
「えぇと。明るい赤紫色、ですね。まるくて、でも少しドライアイスの煙みたいに、輪郭がモヤモヤしています。」
「なるほど、赤紫で、丸くて、輪郭がモヤモヤしている・・・」
「はい。」
「温度や感触はありますか?」
「えぇと・・・生暖かい感じで、なんか、エロいというか、独特の感じがします。」

(つづく)

性癖を直す(5)上|恋愛ドクターの遺産第2話

「その体験は、今この場で話せますか?大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫だと思います。」

その後、まいくんが話した内容は、かなり生々しかった。曰く、まいくんは小学生の頃、少し気が弱くて、クラスの女子からもあれこれ命令されるような、そんな児童だったのだそうだ。6年生ぐらいの頃、近所の、ちょっと不良っぽい中学生の女子グループに、下校中によく話しかけられるようになって、始めのうちはからかわれたりするぐらいだったのだが、あるとき、公園の裏の、ほとんど誰も来ない工場跡地に呼び出されて、裸にされて観察されたのだそうだ。
女子の方も、ひとり上半身裸になり、露わな胸でまいくんを抱きしめた・・・もちろんこれは、まいくんの反応を見て楽しむためだったのだが・・・という、当時小学生だったまいくんは、衝撃的な体験をしたのだった。

「その先輩(まいくんはそう呼んでいた)の、私から見て左側だから、右の鎖骨のところに、くっきりと大きなほくろがあったんです。」

「なるほど。ところで、今思い出した、その過去の出来事の中で、その『先輩』に対して感じた感覚と、最近不倫相手に対して感じた感覚、あるいは奥さまと出会った頃に少し感じた感覚・・・えぇと、「吸い込まれそう」とおっしゃってましたっけ・・・それは、似ていますか?」

「はい。全く同じです。」
「なるほどね・・・では、どうやら、まいくんのほくろフェチの『ほくろに吸い込まれるような感覚』の正体は、その、小学生の時の出来事から来る、未解決の感情だったようですね。」

「なるほどですね。こうやって解明してもらえると、納得です。確かに同じ感覚です。」

「その時のことを、誰かに話しましたか?」
「いえ、当時は恥ずかしくてとても言えませんでした。」
「じゃあ、ずっと、胸にしまって生きてきた?」
「いや、大学生ぐらいの時に、男子同士の飲み会で話したことがあったんですけど・・・」
「もしかして『お前うらやましいぞ』的な扱いだったとか?」
「そう!そうなんですよ先生!私としては、凄く恥ずかしかったし、ちょっと怖くもあったし、それでもその・・・アソコが勃ってしまった自分が情けなくてアホみたいで・・・そういうことは言えませんでした。」
「そうですよね。ずっと抱えていて、苦しかったですね。」
「今思うと、そうだったのかもしれません。」
「その苦しさを、フタして分からないようにした・・・無意識にですが・・・そのストレスが、ほくろフェチという形で表に現れてきたのだと思いますよ。逆に言えば、そこをちゃんと治してあげると、ほくろフェチの問題も、収まっていくはずです。」
「先生、これで治るんですかね?」