小説 恋愛ドクターの遺産」カテゴリーアーカイブ

呪い(5)|恋愛ドクターの遺産第9話

ノッて来たのか、ドクターは缶ビールを一気に飲み干した。

「支配されにくい人、それは、自分が相手の考えを取り入れるかどうか決める際に、『自分はどう考えるのか』『自分はどう感じるのか』と、きちんと自分の側の考え、そして気持ちを明確にしてから、取り入れるかどうか決める人です。」
「ええと・・・心の実況中継をする人・・・でいいんでしょうか?」湯水ちゃんが訊いた。
「そうですね、基本的には。但し、支配を狙ってくる人は、相手の動揺を誘ったり、色々な手を使ってくることがあります。だから、家でひとりでいるときなら実況中継できるけれど、誰かが目の前にいると苦手、というぐらいのレベルだと、彼の術中にハマってしまう危険性がまだあります。少しぐらい動揺しても、その動揺を自己観察できるぐらいに、心の実況中継のレベルが上がっている人は、彼の支配戦略など、受け付けないでしょう。」

「なるほど。」心の実況中継は、こんなところでも役立つのだ・・・私なつをは改めて感心した。

「それで、A子さんはどうやってこの支配から抜け出したんですか?」湯水ちゃんが、早く先を聞きたい、と言いたげな、早口で質問した。
「そうですね。この問題はA子さんの話と、彼をチーム戦でうまく排除する話と、両方の取り組みで解決したのですが、全体像をお話しするのは今日は時間が足りないかな。それに私も少しアルコールが回ってきてうまく説明できない気がします。なので、A子さんがどうやって支配を抜け出したのか、その点のみ、今日はお話しします。」
「お願いします!」湯水ちゃんは真剣だ。
「先ほどお話ししたとおり、心の実況中継のレベルを上げて、相手にその場で言われたことを、その場で吟味できるようにトレーニングしていきました。相手から何かを言われたときに鵜呑みにするのではなく、自分はどう考えるのか、自分はどう感じるのかという、自分の側の意見と照らして、それから相手の意見を取り入れるのか捨てるのか、そういったことをしっかり判断できるような自我を作ることを目的として、カウンセリングをしていきました。」ドクターは話を続けていく。
「具体的には、目の前に人がいる状態で自分の意識が何に向かっているのか、それを自覚するところから始めました。まずはカウンセリングルームの中で。そして、そのあと、家族や、職場の人といるときに意識はどこに向かっているか感じる練習をしてもらいました。」
「はじめは、どこに向いていたんですか?」湯水ちゃんが質問した。
「うん。始めは実は、相手の機嫌を取ることにエネルギーのかなりの割合を使っていました。相手の考えを察すること、相手の表情を読み取ること、相手の感情を先取りすること。そんなことに意識の9割以上を使っていましたね。」
「それは、疲れますね。」と湯水ちゃん。
「でも、湯水ちゃんも昔はそうじゃなかったっけ?」
「あ、そうだったかもしれません。でも先生、私の時はそういう指導はして下さらなかった気がするのですが。」
「そうですね。以前はあまり、意識の使い方、という捉え方をしていなかったと思います。最近は、そこにしっかり注目していくと、人間関係の問題の起こり方がうまく説明できるし、解決の糸口も見つけやすいので、こんな風に考えてセッションをすることが多くなってますね・・・それで、話を戻すと・・・彼女は意識の9割ぐらいは相手の機嫌を取り、相手の考えを察することに使っていたわけです。それを、自分の感情を感じ、自分の考えはどうなのかを意識する方に、意識を取り戻すトレーニングをしたわけです。」
「意識の使い方、というと瞑想するとか、そういう取り組みなのかと思ったんですが・・・」ナタリーが割って入った。
「ええ、実際、心の実況中継をしっかり練習してもらうのと、瞑想に取り組んでもらうのと、彼女には両方をやってもらいました。」
「その結果?」湯水ちゃんはどうなったのかとても知りたいらしい。
「その結果ですが、以前彼女は、相手に何かを言われたときに何でも『そうなのかなぁ・・・』と影響を受けていたのですが、それが『いや、(目の前の人は)自信満々にそう言っているけど、やっぱり言っていることがおかしい』とか『その考えは受け入れられない』というように、『自分はどう思うのか』『自分はどう考えるのか』も大事にしながら、相手の意見を取り入れるかどうか決められるようになっていきました。」
「頑張りましたね、彼女。」私なつをはつい彼女に感情移入してしまった。
「いや、ほんと、良く頑張ったと思いますよ。その結果、支配的な夫の精神的なコントロールから脱することができるようになったし、K子に対しても『K子、あなたと私との関係は、ずいぶん長いよね。K子が私のことより、大して付き合いも深くない、口だけうまいうちの夫の言葉を信じるなんて、とても残念だし、悲しい。』というようなことをしっかりと伝えることができるようになったんですね。それでK子さんも再びA子さんの方を信じてくれるようになり、A子の夫が作り上げようとしていた包囲網は、最後は脆く崩れ去った、という訳だったんです。」
ふと見ると湯水ちゃんは目に涙をいっぱいためて話を聞いていた。

まだ今日は合宿の初日で、交流目的でゲームをしたり、簡単な勉強会をしたり、そして夜は交流を深めるために飲みながら話をしていたのだったが、もうすでにいきなり深い話になってしまった。いつもながら先生の話は深い。
このあとは、軽い話あり、笑い話ありで和やかに会は進み、日付が変わるよりは少し前にお開きになった。

(つづく)

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呪い(4)|恋愛ドクターの遺産第9話

「えー。恐ろしい。」
「えー。怖いー。」
合宿の参加者から口々に感想が漏れた。ドクターはしかし、構わずに話を続けた。
「さらに、彼が恐ろしいのは、相手の罪悪感を刺激することで、ますますその相手の行動を縛ってしまうことでした。彼がどうやって知ったのか分かりませんが、たとえばK子は子供の頃に共感的に話を聞いてもらった経験が少なく、そのためにやや堅苦しく、こうあるべき、あああるべき、という『べき』の話が多い大人に育ったんですね。交流分析で言うとNPを受け取った経験が少ないため、CPが目立つようになっている、という感じです。そこで、A子の夫はK子に対して、『人は、弱い心に負けてしまうと、なれ合ってしまう。なれ合いは腐敗を生む。親しき仲にも礼儀あり。仲良しでも、言うべき事をきちんと言える関係が大事。私はK子さんがそういうことの出来る立派な方だと信じています。』まあこんな風に言って、『やっぱりA子が可哀想だから、言うのはやめた。』という行動の選択肢を予め封じてしまうのです。K子も、若干の違和感を感じつつも、自分の大事にしている日頃の信念に沿ったことを言われているので、ついつい彼の言葉を信用してしまうのです。」

「うわー。」
「それ苦しい・・・」
また口々に感想が漏れた。ドクターは構わずに話を続けていく。次第に語り口調に熱がこもってきた。
「つまり彼は、見ようによっては相手を洗脳して支配している、とも見える行動を平然とやってのける人間なのですが、そのやり方が非常に利口で、相手の中にある動機を上手に利用してコントロールしていく、そんなやり口なのです。」
「先生それって、防ぐ方法はないんですか?」なつをが質問した。
「それは、彼の被害を、社会的に止める方法、という意味ですか?それとも、自分が被害に遭わないためにはどうしたらよいか、という意味ですか?」ドクターは質問に質問で返した。
「あっ」なつをは思わず声が出た。相変わらず先生の指摘は鋭い。自分が彼に支配されないためにどうすれば良いのか、まずはそちらが大事なはずだ。ただ、社会的に彼のやり口を止める、封じる方法、出来ることなら知りたいとは思った。
「あの・・・まずは、自分がその被害に遭わない、自分が彼のような人にコントロールされないためにはどうしたら良いかが知りたいです。ただ・・・」そこまで言いかけたとき、ドクターがかぶせて言った。
「なるほど。まずはそうですよね。ただ、被害が広がっているときに、彼を止める有効な手立てはないのか、と考えたくなる気持ちもまあ、分かります。」しばらく沈黙があって、ドクターが口を開いた。「では、ここからは、彼とどうやって対峙していったのか、彼の支配をどうやって抜け出していったのか。その話をしたいと思います。」

「お願いします!」私なつをはつい声が大きくなっていた。

「そうですね。まず基本ですが、ここにいる皆さんは、彼の支配はあまり受けないだろうと思います。これだけ猛威を振るっていた彼ではありますが、誰に対してでも、その支配力を発揮できるわけではないのです。実際、彼が勤めていた会社では、どちらかというと『扱いづらい奴』扱いを受けていましたし、出世もしていませんでした。それは、会社の上層部には、ルールを決めて、人を動かしていくことに長けた人間が多く存在していて、ある意味、彼の能力以上の人たちだからです。彼の浅い支配戦略など簡単に見抜かれてしまっていた、ということなのだと思います。また、A子さんの親友の智子さんは、彼の戦略を早くに見抜いてA子さんに話をしていましたね。彼女も、彼の支配を受けないだろうと思われる人間です。」

「彼は智子さんにも近づいたんですか?」なつをが訊いた。
「いや、実際には智子さんには近づいてこなかったそうです。自分が支配できないだろうと思われる人間は、彼は巧みに見分けて避けているんですね。」
「見分けられるんですか?」
「ええ、それほど難しくはないと思います。ではこれから、支配されやすい人と、支配されにくい人の違いについてお話ししようと思います。」ノッて来たのか、ドクターは缶ビールを一気に飲み干した。

(つづく)

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呪い(3)|恋愛ドクターの遺産第9話

「では、怖い話をしてみましょうかね。」ドクターが座り直しながら言った。
みんなつられて姿勢を正した。
「あ、いや、気楽に聞いてもらっていいんですけどね。」笑いながらドクターが言った。
みんなもつられて笑った。しかし、笑っていられたのはこのときまでだった。アルコールの味も忘れてしまうほど、この日のドクターの話は衝撃的だったのだ。

「では仮に、この話の主人公をA子さんとしましょう。A子さんには20年ほど連れ添っただんなさんがいました。しかしこのだんなさん、割と高圧的で、何かとA子さんにきつく要求する人でした。そのことは、結婚前からA子さんは気づいていました。しかし、本当の恐ろしさに気づくのは結婚後のことでした。こんなことがありました・・・」

ここでナタリーが電気を消して部屋を暗くしたので、まるで怪談でも始まるような空気感に変わった。ドクターは調子を変えずに話し続けている。

「ある日、A子さんが友人のK子さんから、こんな事を言われました。『猫かぶるのは止めた方がいいと思うよ。友達なくすから。』全く心当たりがなかったA子さんは当惑しました。そして、『何かあったの?私、K子に何かした?』と聞きました。そのときはお茶を濁されて、一体何があったのか、全く分かりませんでした。」
「ところが、後日、別の友人の智子から、意外なことを聞かされます。実は智子は、K子から『A子には気をつけた方がいい』と忠告された、というのです。智子はA子と仲が良く、不審に思ったので、そのような素振りを見せずに平然と『へぇ〜?なんで?』と探りを入れてみた、というのです。そうしたら、K子は、A子の夫から相談を受けていたことが分かったそうです。その相談内容というのが、身の毛もよだつような内容だったのです。」
暗がりなのでみんなの表情はおぼろげにしか見えないが、なつをには、みんな緊張感がみなぎっているように見えた。

「智子によると、ある日、A子の夫がK子と二人きりになったときに、打ち明け話をされたそうだ。曰く『妻が感情的で、家に居場所がなくてつらい』『突然不安定になるので、いつキレるか分からなくて恐ろしい』と言ったとか。そして、A子が感情的なケンカをしたときの音声をK子に聞かせたらしい。「智子、信じて。そのときはお互い感情的になってケンカしたけど、夫も怒鳴り声を上げていたのよ。何か私だけが精神異常みたいな言われようだけど、それはすごく一方的な意見だと思う。」「A子、分かってるよ。私はあんたをずっと前から知ってるから、何かあるんじゃないかと思って、探りを入れたんだし。」
さらには、夫はK子に『A子の母親は、A子が子供の頃、ろくに面倒を見なくて、家に子供を置いて出かけてしまうネグレクトの母親だった。そういう育てられ方をしたから、こんな風に、根っこは感情的で、でも、裏表がある、外面だけはいい人間に育ってしまったのかもしれない』という主旨のことを言ったのだそうだ。
『ひどい!私のことをそんな風に!』
『A子、分かってるよ。私はあんたの味方だから。』
『でも、でも!そんな風に周りの人に言って回っているなんて・・・』」

ここでドクターは、ひとり芝居の感情を込めた話し方から、いつもの解説調、つまり冷静な話し方に戻った。
「実はこれは、後で分かったことなのですが、A子さんの夫は、極めて頭が良く、周りの人をどうやって支配するか、という手腕に長けていたのです。たとえばK子さんに対しては、こんな戦略で臨んでいました。K子さんは元々、感情的になることが嫌いな人でした。自分に対しても、他人に対しても、冷静で客観的であることを求める、といった考え方をしていました。そこでA子の夫は、K子のそういうところを『素晴らしい。人間としてそうあるべき。理想的な生き方だ。哲学者のカントも、人は理性があるからこそ、人であるという考え方をしていた。』そんな風に持ち上げてから、妻に対する不満を言い始めたのでした。
さらに、巧妙に相手の行動を支配するための要素を混ぜていったのです。
たとえば、K子に『妻とはあまり近づきすぎない方がいい。巻き込まれると大変だから。』とK子との間に溝を作るような助言をしつつ、『妻になにか友達として助言・・・いや、苦言と言っていいかもしれない・・・をしてもらえないだろうか。お恥ずかしい話なのですが、私が言うと、まったく耳を貸してもらえないんです。』と、K子がA子に苦言を言うように仕向けるひと言も忘れずに付け加えていたんです。そう、これがK子から突然覚えのないことで責められたように感じた、冒頭の出来事だったのです。」

「えー。恐ろしい。」
「えー。怖いー。」
合宿の参加者から口々に感想が漏れた。ドクターはしかし、構わずに話を続けた。

(つづく)

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呪い(2)|恋愛ドクターの遺産第9話

第二幕 呪いなんてあるんですか?

「先生!呪いなんてあるんですか?」なつをの声が一オクターブ高くなった。
「うーん、まあ、呪いそのものについては、私は懐疑的ですが、呪いを解くセッションをやったことはありますよ。」
「えぇっ!」一同が同時に反応した。
実はいま、恋愛ドクターAの発案によって、仲間うちのカウンセラーや、その見習いたちが集まって合宿形式の勉強会に来ているのだった。場所は真鶴。

そもそもこの話題は、なぜ真鶴を合宿の地に選んだのか、という話題から始まったのだった。東京から近いとか、海の幸が食べられるとか、そういった現実的な理由が出たあとに、ドクターが付け加えたのが「マナ づる」なので、何か、マナ、つまり魔力がありそうだ、という話だった。
日頃から、非科学的なことを嫌うように見えるドクターの口から魔力・マナなどという言葉が出たものだから、皆がいっせいに食いついて、先生は魔法を信じるんですか、とか魔力って何ですか、という話題になったのだった。
その流れの中で、ナタリーが「この地に宿る魔力があるとしたら、白魔術ですか、黒魔術ですか?」などと意味深なことを言い始めたのだった。ナタリーはもちろん本名ではないが、占い師兼カウンセラーをしていて、無論ドクターの仲間だけあって浅いオカルト趣味ではないが、スピリチュアルな発言が多い女性である。ドクターはナタリーの発言に対して「それほど非科学的なことを言ってはいない」と寛容であり、むしろ肯定的だ。この点もなつをには意外だった。ちなみにドクターとナタリーは旧知の仲であるが、なつをは今回が初対面だ。
そして、黒魔術がどうのこうのという話の流れの中で、呪いの話になったのだった。そして、日頃から非科学的なことを否定する発言が多いドクターが、まさかの「呪いを解くセッションをやったことがある」発言。合宿の、その日の正規のカリキュラムは終わって、夜の歓談(つまり飲み会だ)での爆弾発言。もうみんな止まらなくなったのだった。

「呪いを解くセッションって、もう、想像の範囲を超えています!」先ほど一オクターブ高くなった声が、更に高くなってなつをが言った。
「なつを君、まだそんなにアルコール入ってないのに、興奮しすぎです。」ドクターはあくまで冷静だ。
「先生、本当に呪いを解いたんですか?」なつをはいつもドクターに食いついているが、今日はいつもに増して執拗に食いついている。
「いや、呪いを解いてほしい、という依頼を受けたので、その依頼通り、『呪い』による症状を消す手助けをした、ということです。」淡々とドクターは応えた。
「えー、なんか気になるー。教えて下さいよー。」なつをは興味津々だ。
「先生の、魔術に関する見解が聞きたいなぁ」ナタリーは全く興味の方向が違うらしい。
「さて、呪いを解いた、というセッションは、明日の正規のカリキュラムの題材としてピッタリだと思うので、明日きちんと扱いましょう。」ドクターはアルコールが入っているときもいたって真面目だ。
「呪いって、なんか怖いです。」今まで静かにしていたが、ここで発言したのが湯川みずほ。通称湯水ちゃんだ。なつをの前に助手をしていた女性だ。なつをの姉弟子に当たる。今はもう独立していて、カウンセラーをやっている。久しぶりに先生の教えを、ということで今回の合宿に参加してきた。
「そうですか? ああ、本人にとっては深刻ですけど、カウンセラー側としては、他のセッションと変わりませんよ。」と、ドクター。
「先生は、怖いセッションとかないんですか?」湯水ちゃんは怖いセッションに興味津々のようだ。
「うーん。私はある意味他人事だと思ってセッションに臨んでいるので、それほど怖いとは思いませんけどね。あ、でも、クライアントから聞いた話で、これは怖い、と思った話はありますよ。」
「えっ?それ知りたいです。」今度は、湯水ちゃんが先生に迫る展開。

「そうですね。このテーマは教材にもならないし、夜の怪談にもってこいかもしれませんね。」脅かすような調子で、ドクターは言った。
「いやー、怖い話・・・なんか怖いー。」なつをが思わず声を上げた。
「怖い話、聞いてみたいです!」湯水ちゃんは怖がっているというより面白がっているように見える。

 

「では、怖い話をしてみましょうかね。」ドクターが座り直しながら言った。
みんなつられて姿勢を正した。
「あ、いや、気楽に聞いてもらっていいんですけどね。」笑いながらドクターが言った。
みんなもつられて笑った。しかし、笑っていられたのはこのときまでだった。アルコールの味も忘れてしまうほど、この日のドクターの話は衝撃的だったのだ。

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呪い(1)|恋愛ドクターの遺産第9話

第一幕 のろいってなぁに?

今日は幼稚園がお休みで、娘のさくらと二人で家に居る。さくらはおとなしい子で、そういう意味では手がかからなくて助かっている。ときどき色々ママにアピールしてきたり、質問してきたりするが、ひとり遊びも上手に出来る。
「ママ、のろいってなぁに?」突然さくらに訊かれた。
「え?のろい? 何がのろいの?」
「えーとねー。カイ君のおうちで、女の人ののろいで、ママがおふとんの中で動けなくなっちゃったんだって。」
どうやら、さくらは、幼稚園のお友達・・・カイ君はゆり子と仲の良い香澄の家の子だ・・・が話していた「呪い」のことを一生懸命伝えようとしていたらしい。しかもお布団の中で動けなくなったというのは、金縛りのことのようだ。つまり、翻訳すると、香澄が呪いのために金縛りに遭った、という話なのだろうか。香澄はあまり呪いなどを信じるタイプではないようだったが、そういう信念とは関係なく金縛りになることもあるらしいので・・・ちょっと心配になった。

「ねーねー、のろいってなぁに?」さくらは気になって仕方ないらしい。さて、どう答えたものか・・・
「あのね、昔の人は、誰かをものすごく嫌ったり、死んでほしい、って思ったりすると、その相手が病気になったり、本当に死んじゃったりする、って信じてたんだよ。」
「えー、そうなの?」
「ママは信じてないけどね。」
「でも、カイ君が、ママがのろいで、おふとんの中で動けなくなった、って言ってた。」
「うーん、(香澄がねぇ・・・)どうなんだろう・・・今度会ったときに聞いてみるね。」
「うん・・・あのさ、さくらものろいでおふとんから動けなくなる?」さくらが心配そうに訊いた。
「大丈夫。大丈夫よ。さくらは皆と仲良しだもの。さくらのことを呪うお友達はいないよ。だから、大丈夫。それに、もし、おふとんの中で動けなくなったら、ママが治してあげる。」
「ほんとに?」さくらの目が急にキラキラしてきた。子供は分かりやすい。
「うん。ほんとだよ。だから、さくらは大丈夫。いつも通りご飯をちゃんと食べて、よく寝て。」
「トイレと歯磨きもね!」
そう、呪いとは何の関係もないが、すでにさくらの頭の中ではきちんと生活することが大事、という話になっているようだ。
「そうそう、トイレと歯磨きもしっかりして。」
「うん、分かった。」

 

その数日後、また例の面々でランチをすることになった。
香澄、順子、ゆり子の三人だ。最近この三人に合流することの多い結菜は、今日は来ていない。話題は当然、香澄が金縛りに遭ったかどうか、という話になった。
「いや、カイの奴が変なこと広めたもんだから、皆から『金縛りに遭ったの?』って訊かれて大変よ、もう。」香澄は苦笑しながら言った。
「え!?じゃあ、アレはデマなの?」私はつい声が大きくなってしまった。
「いやいや、デマじゃなくてね、実際に金縛りに遭ったのは、私の姉なの。彼女、ちょっと霊的なことを信じていて・・・まあちょっと面倒くさいんだけど・・・実際彼女に呪いをかけた知人がいたらしいのね。」
「呪いなんて本当にあるの?」順子が冷静に訊いた。
「いや、本当かどうかは、私もよく分からないよ。でもね、とにかく呪いをかけるほど恨みか何かを持っているらしいのね。姉にそういう知人がいるのは事実。そして、その人は呪いとか金縛りとか信じている人。姉もそうなんだけど。」
「なるほど・・・話がなんとなく見えてきた・・・」と順子。
「そう、つまりね、姉を恨んでいる知人が、たぶん、呪いの儀式か何かを実際に行って、それをしたよ、ということを、わざわざ姉に伝えてきたわけ。髪の毛だとか、儀式に使った鳥の羽だとか、気持ち悪いものが送られてきたらしいし。」
「えー、やだーそういう人ー。」順子と私は同時に声を上げてしまった。
「そのことがあってしばらくして、姉が金縛りに遭った、というわけ。」
「ああなあるほど。まあそれだけ精神的なストレスを受ければね・・・」私はついうっかり口を滑らせてストレス説を言ってしまった。
その瞬間、香澄の表情が曇った。「いや、まあ、そうなんだけど。私もそうだろうって姉に言ったんだけど、彼女、かなり激怒して『呪いをかけられたことがないからそんなこと言えるんだ!』って。もう面倒くさいから、うちでは呪い、ってことにしてるんだ。」
「ああなるほど。そういうことか。それでカイ君が・・・」そう言いかけたところに、香澄がかぶせてきた。
「そうなのよ。大人同士の話を聞きかじって、色々誤解して、それを幼稚園で話して回った、というのが、事の顛末なわけ。」
「あーなるほどねー。少し安心した。私、香澄が金縛りに遭ったのかと思って・・・呪いと関係なく、そうなることもあるらしいし・・・少し心配してたんだ・・・」
「ゆり子、ありがとね。心配してくれて。でも、私じゃないから。」ちょっと苦笑い気味の表情で、香澄がそう言った。

 

ランチは、そんな感じの会話で、ほどなくして解散になり、ゆり子は帰宅した。幼稚園が終わるまでにはまだ少し時間がある。
(まさか、今ノートを抜き出したら、ドクターが呪いに立ち向かう巻が出てくるなんて都合のいいことはないよね・・・)

そう思いながら、ゆり子は段ボールに無造作に突っ込んであるノートの中から、一冊を抜き出して開いてみた。そして思わず小さく「あっ」と声を上げてしまった。なぜなら、そこには確かに「呪い」の文字が書かれていたからである。

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(15)|恋愛ドクターの遺産第8話

第六幕 ゆり子の変化

ゆり子はノートを閉じた。
「はぁ・・・ダンナがオレサマなのは、私が引き寄せているのかなぁ・・・。」
何だか今回はノートを読んでいて疲れた。今まで、色々あったけれどノートを開けばそこに救いがあった。でも、今回は救われたというより、内面を変えなければいけないという、恋愛ドクターの教えをずっと突き付けられていたように感じていた。そして、読み終えた今、その緊張感からか、疲れがどっと出たのだ。

今からでも、自分を変えたらダンナとの関係は変わるのだろうか。
それとも、出会いの段階ですでに道を間違えてしまっているので、今から関係を変えるのは無理なのだろうか。
そのようなことを考えるだけでも頭がいっぱいになって、余計疲れてきた。
「今日はもうよそう・・・」ゆり子は考えるのを止めた。恋愛ドクターの遺産ノートを読むようになってから、ぐるぐる思考を切り上げることだけは早くなった、と思う。

その翌日、また例の面々と、一緒にランチをすることになった。
結菜は相変わらず、オレサマなダンナに気疲れする毎日を過ごしているらしい。例によって香澄は「そんなのキッパリ言ってやんなよ、『もうアンタのメシは作りたくない』って。」などと言っている。順子は静観している。
そんな、今まで通りの光景の中で、ゆり子の中で変化が起きていることに気づいた。
自分の外側で起きている出来事と、そのときに、自分の内側で起きている出来事を、同時に観察できるようになったことだ。
たとえば、こんな感じだ。
香澄の先ほどの言葉に、結菜が不安げな表情を浮かべ、黙り込んでしまった。
こんなことが起きた時、「あーあ、また香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ。まあ、正論ではあるんだけど。」と今までは考えていた。今も考えているのだけれど、違うところは、そう考えているんだなぁ、と自分を観察するもうひとつの目が、同時に持てるようになったこと。
まとめると、こんな感じだ。
(かつて)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。
(今)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→あ、自分って、そういう事考えているな、と自分の考えにも気づいた。
さらに、自分の考えだけじゃなくて、感情にその場で気づく力も上がったように思えた。先ほどの例に続けて書くと、
(かつて)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→なんかもやもやする気持ちがあったが、その場では明確に自覚できず、家に帰ってからも、もやもやし続けていた。
(今)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→あ、自分て、そういう事考えているな、と気づいた。→香澄に同情してちょっと悲しくなった。同時に、自分もオレサマ的なダンナとの関係を整理できないでいることを、間接的に責められているような気がして、気が重く(罪悪感かな)なってきた。→そして、そういう感情が湧いてきたことを、その場で自覚している!!!

結論の出る話ではないので、その日のランチはその後、話があっちに行ったり、こっちに行ったりしつつ終了した。ゆり子はその時間の中で、自分自身の変化を確かに感じているのだった。

娘のさくらをお迎えに行って、今日もいつものルーティーンをこなし、夜一人になってから、ふとゆり子は考えた。
「恋愛ドクターの遺産って、漢方薬のように、じわじわと考え方や気づき力などを変えていくノートなのかもしれない。」と。

(第8話おわり 第9話につづく)

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脱オレサマを目指す女子(14)|恋愛ドクターの遺産第8話

「あのあと、仲のいい職場の友達は、私が困っていると助けてくれることが多くなりました。何か頼んだわけではないのに、向こうから助けてくれるんです。」淑恵は少し目を潤ませながら言った。
「そうですか。それは良かったですね。」
「職場に、ちょっと高圧的・・・というか女性の方なんですけど、色々押しつけてくる人がいるんですけど、いつも色々言われて『この人苦手だなぁ』って思っていたんですね。これまで、『ちゃんとNOが言えないとダメなのかなぁ』って思ってアサーティブの本を買って勉強したりもしたんですけど、なかなかうまく言えなくて・・・でも、先生に頂いた課題をやって、自分の感情に意識を向けるようにしたら、自分から何もしていないのに、S子ちゃんを始めとして、職場の仲良しの人たちが私の味方をしてくれて、そのお局的な人から守ってくれたんです。」
「まさに、分かりやすくなった、ということなんでしょうね。お友達も、淑恵さんが困っていたら助けたかったのだと思いますよ。」ドクターはニコニコしている。

少しだけ沈黙があって、ドクターが口を開いた。「ああ、そうそう。私の好きな言い方で、『テーブルの上に誰の感情が載っているか』という話をしたいと思います。」
「テーブルの上に・・・感情ですか・・・?」
「ええ、淑恵さんと、まあ誰かが会話していたとしますね。そのとき、話した話題をテーブルの上に載せていく、とイメージしてみます。」
「はい。」
「事実に関する話、解釈に関すること、そして気持ち、感情ですね。色々な要素が会話の中では出てくると思いますが、特に、感情の部分ですね。どちらの人の感情が多く出てきたか。どちらの人の感情が多くテーブルの上に載ったか。そんな風に考えてみます。」
「はい。」
「そのときに、良い友達関係というのは、お互いの感情が半々ぐらいで載る感じなんです。」
「ああ・・・今まで私の場合、友達でも相手の感情がほぼ載っていた感じです・・・あ、でも、S子ちゃんは私の気持ちをよく聞いてくれるので、S子ちゃんとの会話の時は、私の感情も載っているかもしれません。」
「なるほどね。そうやって、お互いの感情が両方載るのが、心地よい関係の基本なのです。そういえば、このご相談は、オレサマタイプの男性によく言い寄られて困る、という話から始まったわけですが、オレサマの場合は・・・」とドクターが言いかけたところで淑恵がかぶせてきた。
「彼の感情が100%載っていました。」
「ですよね。」

「ああ、なんだか分かってきました。オレサマタイプを避けようとするのではなくて、一生懸命自分の要求を伝えようとするのでもなくて、ただ、自分の感情を感じること。そのことで既に、テーブルの上に自分の感情を載せていることになるんですね!」
「おっ!いいところに気づきました!そういうことなんです。もちろん、必要に応じて感情を改めて言葉にして伝えたり、要求を言葉にして伝えることも、必要だと思いますよ。でも、その前に、その前提として、自分の感情を自分でちゃんと感じること。ちゃんと意識すること。それができると、会話のテーブルに、あらかじめ自分の感情を載せておくことが出来るわけです。逆に会話のテーブルに載っている感情がなくて、テーブルが空だと、そこに感情を載せたい人が寄ってきてしまうわけです。典型的にはオレサマな男性とか。」

「なるほど!!! 分かってみると納得です! でも、今までこんな大事なことに気づかず他人と関わっていたなんて、知ってみると何だか怖いです。」淑恵は身震いした。
「そうですね。これを知らないで生きていくなんて、分かってみると怖いことですね。」

 

こんな風に、この日のセッションは、もう、ドクターはほぼ解決と考えているのだろう。特に突っ込んだ質問が投げかけられる訳でもなく、淑恵の疑問にドクターが答えるという形で淡々と進んでいった。

「では、この辺で、卒業としていいと思いますよ。」ドクターが穏やかな調子で言った。
「先生!ありがとうございます。」今日一番の、嬉しそうな声で淑恵が言った。

「では、お元気で。多分もう大丈夫だと思いますよ。もし同じような問題がまた起きた時は、この一連のセッションで課題になったことを思いだして下さいね。」
「はい、とても勉強になりました。ありがとうございました。」淑恵は深々と頭を下げて、帰っていった。

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(13)|恋愛ドクターの遺産第8話

第五幕 テーブルの上に載せるもの

前回のセッションから数週間経った頃、今日も淑恵のセッションの日がやって来た。ドクターの意向で、しばらくひとりで他人とのコミュニケーションを取ってみる方針だった。特に、前回のセッションでテーマになった「他人が目の前にいると、目の前の人のことばかりに意識が向く」という傾向を、少し直して、「他人が目の前にいるときにも、自分の感情に一定の意識を向ける」という方向に努力する、という課題をやることが、主題であった。

「先生、そろそろ淑恵さんがいらっしゃる頃です。」なつをが言った。
「ああそうか。ありがとう。」ドクターは椅子に真っ直ぐ座り直しながら答えた。

ノックの音がして、淑恵が入ってきた。
「こんにちは、先生。」
「こんにちは。淑恵さん。なんだか、活き活きしているように見えますね。」ドクターは早速コメントした。
「あ、ありがとうございます。友達にもそう言われました。あ、なつをさん、こんにちは!」
「こんにちは。今日もありがとうございます。」なつをは丁寧にお辞儀をして答えた。

「どうそ、おかけになってください。」ドクターが自分の席に着席しながら言った。「さて、なんとなくそのご様子から、問題はずいぶん解決に向かっていそうな感じがするのですが・・・」
「はい、そうなんです!」

「・・・では、今日は、どのようなテーマでお話しすればよろしいのでしょうか?」ドクターは丁寧に質問した。
(始まりは丁寧だなぁ)なつをは思った。話が始まるとざっくばらんに語ることの多い先生だが、セッションの始まりは丁寧に、というのは大事な基本方針なのだ。私も先生からそうするように指導されている。

「あの・・・今まではわりと仲のいい友達からも、『よく我慢できるよね〜』みたいに言われることが多かったんですね。忍耐強い、我慢強いと思われていたみたいです。」
「なるほど。」
「でも、先生に頂いた課題を実践するようになったら、友達から『分かりやすくなった』と言われました。今までは、友達も私が何を考えているのかよく分からなかったみたいです。」
「なるほどそうですか。それは納得です。」

「そこが、私はなんだかよく分からなくて。だって別に、相手に要求を伝えたわけでもないし、取り組んだのは、相手が目の前にいるときに、自分の気持ちをちゃんと感じるようにした、ということだけです。実際、感じただけで、伝えてもいないんですよ。」
「それなのに、『分かりやすくなった』と言われたと。」
「はい。そういうものなんですか?」

「そういう場合もあるし、そううまくは行かないこともあります。ただ、お友達は、相手の気持ちを察するのが上手な人なのでしょう。だから、淑恵さんの変化にすぐ気づいたのだと思いますよ。」
「あ、そうです!すごくよく気がつく友達なんです。でも今まで、私は本当は我慢したくなんかないのに、『我慢強い』とか『よく我慢できるね』とか言われるのが、なんだか釈然としなかったんですが・・・」淑恵は考え込んでいるような表情でそう言った。

ドクターはにっこりして、ゆっくり口を開いた。「では、少しそのへんの仕組みを説明しましょうか。」
「はい、お願いします。」
「それは、今まで淑恵さんはそれだけ『分かりにくかった』ということなんだと思います。」
「そうなんですね・・・」
「だって、自分でも、自分の感情を感じていないわけでしょう? よほど鋭い人じゃない限り、本人がまだちゃんと感じることができていない感情を、先取りして感じるなんてできませんから。」
「・・・ですよね・・・そう言われてみれば・・・」
「私も、こういう職業をしていますが、そしてカウンセリングの時には、クライアントの感情に集中しています。それでも、本人がまだ感じていない感情を先取りできるかと言うと、まあ、五分五分ぐらいですね。」
「なるほど・・・そうですよね・・・」
「私も、仕事以外の時はそこまで相手の感情に意識を集中していませんから、そうなると、ほぼ分かりません。」
「先生でもそうなんですか?」
「私を超能力者か何かと? 私は普通の人間ですよ。知識と経験は少しはあると思いますが。」ドクターは笑いながらそう言った。「そもそも感情というのは、自分の中で起きている事を、相手に分かりやすく伝えるためのメッセージのようなものです。感情があるから、『ああ今、この人は喜んでいるのだな』とか『これは嫌なんだな』とか、相手に分かる訳です。」
「なるほど・・・」
「だから、相手に言葉で助けを求めるとか、頼み事をするとか、そういう目に見える行動をする前に、『自分の感情を感じている』という状態がまず大事なんです。」

「あのあと、仲のいい職場の友達は、私が困っていると助けてくれることが多くなりました。何か頼んだわけではないのに、向こうから助けてくれるんです。」淑恵は少し目を潤ませながら言った。
「そうですか。それは良かったですね。」

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(12)|恋愛ドクターの遺産第8話

「あの・・・先生が『焼肉』とおっしゃったので、もう『ああ焼肉を食べたいんだな』『お腹が空いているのかな』と、目の前の相手の考えにしか、意識が向かなくなっていました。二回目の方は、先生が目で合図して下さったのもあって、そのときに、自分の胸のあたりがすごく悲しくてきゅーんって感じでしぼむような感じになっていたことに気づきました。」
「そう、私はそこに気づくところまでを課題として出したのですが、結果的に、気づいたら『焼肉と聞いてがっかりしています』としっかり伝えるところまで出来ていましたね!」
「そうなんです!自分でもびっくりしました!」
「つまり、今まで、自分の感情に意識を向けないように、向けないようにしてきた、ということなのかもしれませんね。だから今後、意識の使い方を、自分の体の感覚にも意識を向ける、という風に変えていくと、今みたいに自分の利益についても、ちゃんと言えるようになりそうですよ。」
「ありがとうございます!そうですね。実は、アサーティブとか、自己主張のトレーニングを受けたことはあったのです。」
「おっ!そうなんですね!そういう努力、素晴らしいと思います!」
「ありがとうございます・・・でも、結局ちゃんと言えるようにならなくて、何でダメなんだろう、ってずっと思っていました。」
「ああなるほどね。そもそも感じてないんじゃ、伝えようがないですからね。」
「そうそう!そうなんです!今日やっと、大事なポイントが分かりました!先生、ありがとうございます!」
「いえいえ。どういたしまして。ちなみに、自己主張のトレーニングをしたことは無駄ではなかったと思いますよ。」
「えっ?そうなんですか?」
「そう思います。だからこそ、伝えるべき感情が自覚出来た瞬間に、ちゃんと言えたのだと思います。」
「あっ、そうか。そうですね!無駄ではなかったということですね。安心しました。」

 

「さて、コツが分かったところで、では、実際の生活や仕事の中で、今の取り組みをどうやって行っていくか、その辺りを考えておきましょうか。」
「あ、はい。お願いします。」
「では、比較的今の取り組みがやりやすい相手、というのは誰ですか?」
「よく休日にランチに行くお友達のS子ちゃんです。」
「なるほど。ではまず、その子の前で実践する、というのを最初のステップにしましょう。自分の気持ちを伝えるところまで、もし出来なければ、それはそれでOKとしましょう。」
「まずは、感じてみるところまで、ですね?」
「そうです。それなら出来そうですよね?」
「はい、出来ると思います。」
「そして、次のステップとしては、職場の中で、やりやすい相手はいますか?」
「ええと。割と面倒見が良くて、色々こちらの意見を聞いてくれたり、希望を聞いてくれるちょっと年配の女性の方がいらっしゃるんですけど、その方の前ならたぶんできると思います。」
「おお、いいですね!次のステップとしてはそんな感じで行きましょう。」
「はい。」
「で、もし、結構簡単だな、と思えたら、もう少し緊張する相手の前でどこまでできるかとか、それほど親しくない人と会話しているときにも、どこまで自分の体の感覚を意識出来るかとか、ちょっとずつチャレンジしてみて下さい。」
「はい。相手に伝えることは、しなくていいのですか?」
「うーん。なんとなく、どっちでもいい気がしているのですが・・・あ、すいません。なんか無責任なことを言っているように聞こえますよね? ええと、今日も、自分の気持ちが分かった途端、ちゃんと言えたじゃない? だから、言えそうな気もするし・・・なので、まずは、感じるトレーニングだけしてみて、それでもしも、言うところがすごく抵抗があって大変そうなら、その時にまた、対策を考えればいいかな、なんて思っているんです。」
「あ、なるほど。そうですね。取り越し苦労しても仕方ないですね。」
「そういうこと。」

少し沈黙があったあと、ドクターが言った。「では、今日はここまで、ということで。」
「はい、ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(11)|恋愛ドクターの遺産第8話

「そんな状況の中、淑恵さんのように、彼に合わせてくれる女性に出会ったら、どう感じると思いますか?『お前だけがオレのことを分かってくれる!素晴らしい女性だ!』って思うわけですよ。」
「ああっ!実際それ、言われました。」
ドクターは数回深くうなずいてから静かに言った。「というわけなのです。」

言われたことをしばらく咀嚼(そしゃく)している様子に見えたが、やがて淑恵は口を開いた。「ということは、相手の望むように振る舞うことが、必ずしもプラスになるという訳ではないのですね?」
「そうですね。残念ながら、そういう結論になります。」
少し沈黙があった。
沈黙を破ったのはドクターだった。「相手が望むように振る舞う、淑恵さんの側は良いとして、淑恵さんに不快な思いをさせ続けている、その相手、オレサマの側には、問題がありますよね? でも、本人が気づかないのなら、その状況は変わりようもない。だから、淑恵さんの側から働きかけることも大事なことなのです。」
「働きかけるって、どういうことなのでしょう?」
「働きかけるといっても、まず始めにやるべきことは、きちんと自分の望みや自分の感情に意識を向ける、という内面的な作業になります。」
「ああそれ、私が苦手な部分ですね。」
「そうですね。少し一緒に練習してみましょう。では・・・そうですね。淑恵さんと私が友達同士だったとしましょう。今日は休日。一緒に遅い朝食、というかブランチを取ることになっていたとします。淑恵さんは今日は行きたいカフェがあるとします。そして私の方は、なんと朝から焼肉を食べたい、という設定で行きますね。あ、そうそう、私のことは、このロールプレイでは『あっくん』と呼んで下さい。」
「はい。」
「あのさ、淑恵ちゃん、今日のブランチ、ちょっとお腹空いていて、焼肉を食べに行きたいんだけど。」
「え?焼肉?そ、そうだね。今日はお腹空いているの?」
「はい、ストーップ。」ドクターが急に会話を止めた。そして続けて言った。「いま、何を考えていましたか?」
「えと、焼肉食べたいのかな?お腹空いているのかな?って。」
「そうだと思っていました。もう一度、今のロールプレイを最初からやってみます。でも、今度は、次の点を努力してみて下さい。私が意見を言ったあと、自分の体の感覚を感じるようにしてみてください。『あっくんは焼肉食べたいのかな?』とか考えてもOKですから、そのあとに、『一方自分は、どう感じているのかな?』と、体に意識を向けて、自分の感情を探ってみてください。」
「はい。頑張ってみます。」
「では、テイク2(笑)行きましょう。」
「あのさ、淑恵ちゃん、今日のブランチ、ちょっとお腹空いていて、焼肉を食べに行きたいんだけど。」
「え?焼肉?そ、そうだね。今日はお腹空いているの?」
ここでドクターは目で合図して、うなずいて、(今自分の体の感覚を探るんだよ)という無言のサインを送った。
「あの・・・」
ドクターは、淑恵が先を続けるのを待っている。
「あの・・・私、本当はカフェでおしゃれにブランチするのを楽しみにしていて、だから焼肉って聞いてちょっとがっかりしています。」
「はい、ここで一旦止めましょう。」ドクターが再度会話を止めた。
「さて、今度は、体に意識を向けて、感情を探ることにチャレンジしてもらったわけですが、先ほどと、何がどう違いましたか?」
「ええと、先ほどは、先生・・・いやあっくん・・・」そう言いかけたところでドクターが「いや、どちらでもいいですよ」と笑って言った。
「あの・・・先生が『焼肉』とおっしゃったので、もう『ああ焼肉を食べたいんだな』『お腹が空いているのかな』と、目の前の相手の考えにしか、意識が向かなくなっていました。二回目の方は、先生が目で合図して下さったのもあって、そのときに、自分の胸のあたりがすごく悲しくてきゅーんって感じでしぼむような感じになっていたことに気づきました。」

(つづく)

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