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なつをの夏の物語(4)|恋愛ドクターの遺産第10話

「お友達にはひょっとして『高望みしすぎなんじゃない?』みたいなことを言われたりしましたか?」ドクターが優しく尋ねた。
「あ、はい、言われました。でも、私がお断りしたような自己中心的な方と、平然と付き合える人っているのかな?と思いました。たぶん、私に『高望み』と言った、私の友人も、その、自己中心的な男性を見たら、断ると思います。」なつをはドクターにも「高望み」と言われることを警戒しているのだ。だからつい、自分の判断は当然だ、という主張をするような言い方になってしまう。
「なるほどね。でも、安心して下さい。私は、なつをさんが高望みだから恋人が出来ないのではなくて、そもそもその人とは、大抵の女性はやっていけない、と想定しています。詳しくはお話を伺いながら考えていきます。一緒に解決策を考えていきましょう。」ドクターは丁寧な調子で受け答えしている。

なつをはこのとき、こう思った。ああ、この人は私の立場をちゃんと分かってくれる人だ、と。人は自分の見ている世界から、他人のことを判断しがちだ。たとえば、自己中心的な男性があまり寄ってこない女性は、男性とは、色々お願いしたらそれを聞いてくれるものだ、と思っていたりする。一方で私のように、自己中心的な男性が寄ってきてしまうと、断るのも気疲れするし、かといって熱心に口説いてくれるからといってお付き合いすれば、それもまた本当に疲れることになる。そして、そういう悩みを、自己中心的な男性に悩まされていない女友達に相談すると、ほぼ、分かってもらえない。高望みなんじゃないの? みたいに言われることもある。
出会いの質や量は、本人の意識的な努力ではどうにもならない部分もあって、そもそも不公平に出来ている。私は不公平の、残念な側に属していると思う。
ただ、この先生は、そういうことを分かってくれる人だと思った。私のワガママだとか、高望みと決めつけず、話を聞いて、真実に迫ろうとしてくれている。その安心感が、本当にありがたかった。今日は来てよかった。

ここで湯水ちゃんがなぜか突然咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」なつをが声をかけた。
「あ、(ごほんごほん)、だ、大丈夫です。お気遣いなく。なぜか(ごほんごほん)突然むせてしまって。」
「なつをさん、大丈夫ですよ。お気遣いなく。」ドクターも言った。「湯水ちゃん、外してもいいですよ。」
湯水ちゃんが一旦席を外した。壁の向こうから咳き込む声が聞こえる。

「ところでなつをさん、こういう風に、自己中心的な人が寄ってきて、恋愛の始まりが難しい、というケースの場合、さらにさかのぼると、オレサマ的、自己中心的な人と交際してしまって、本当にしんどい恋愛をした、という経験をお持ちの場合が多いのですが、どうでしたか?」
なつをは図星を指されて少し驚いた表情になって、それから言った。「はい。おっしゃるとおりです。ここ一年半ぐらいは恋人がいない状態が続いているのですが、その前は、何もかも自分の思い通りにしないと怒鳴ったり、怒鳴らないときもとても怖い目でこちらを見ながら、理路整然と私の間違いを指摘し続ける、というようなことをしてくる彼氏で、交際が続くにつれてどんどん生気が無くなっていく私を見るに見かねて、友達が何人か介入してきて、それで別れることになったんです。私も始めは、辛くて苦しいのに更に別れが来るのが怖くて、友達にも抗議したのですが、今となっては、強制的に別れさせてもらって、感謝しています。あそこで別れたことはとても辛かったけれど、続けていたらもっと傷は深かったと思います。」

ここで湯水ちゃんが戻ってきた。
「大丈夫ですか?」なつをがやはり声をかけた。
「いえいえ、失礼しました。大丈夫ですよ。本当にお気遣いなく。」と湯水ちゃん。

 

そもそも、なつをが恋愛ドクターのことを知ったのは、友人から教えてもらったからなのだった。

・・・

なつをが恋愛ドクターのことを知るきっかけになったのが、この一件だった。暴君のような彼氏との交際で、日々心労が溜まり、どんどん生気が失われていくなつをを心配してくれた友達に、つい実情を話してしまったのだ。

「あのね、恭子」
「うん」
「私ね、彼に会うのが怖い。」
「どうしたの?なつを。」
「・・・・・怖い。」
なつをはただ涙をぽろぽろこぼすだけで、言葉が出て来なかった。

なつをの夏の物語(3)|恋愛ドクターの遺産第10話

「譲り合いすぎている、と私は今確かに言いましたが、もう少し違う気がしています。気を遣い合っている、というか、相手の出方をお互いにうかがっている、というか、そのあたりです。」
「あ、それ、ぴったりです。お互いの出方をお互いにうかがっている、という感じです。」なつをが先ほどより大きい声で答えた。
ドクターは、無言で数回、深くうなずいた。
「結局その時は、中華料理になったんですが、セットメニューにするか、好きな単品料理を頼んでシェアするか、という方針が決まるまでに10分ぐらいかかりました。」言いながらなつをは苦笑した。「私が『セットメニューにしますか?それとも、単品料理をいくつか頼みますか?』って聞いたら、彼は『なつをさんはどうしたいですか?』って逆に聞いてきて、食べたいもの次第かなぁ、みたいなことを色々言っているうちに、かなり時間が経ってしまったんですよね・・・」
「そうですか、ここでも、お互いの出方をうかがっている、という表現がピッタリですか?」ドクターはどんな話でも、極めて真面目に聞く。友達なら「早く頼めよ!」のひと言で終わりかもしれない話だが、こんな些細な出来事からも、二人を特徴付ける行動パターンを見つけられるかどうか、考えているのだ。
「はい。お互いの出方をうかがっている、という感じです。」なつをが答えた。
「なつをさんは、現在の、二人のこの距離感に対して、どう感じていますか?」
「ええと・・・なんかまどろっこしいというか、もやもやするというか、早く進んでほしいって思います。」
「そうですか。なつをさんとしては、先に進みたいという気持ちなのですね?」
「えと・・・基本、そうなのですが、いざ、自分から彼の・・・たとえば手を・・・握ってみようとか・・・考えたことはあるんですけど・・・」そう言いながらなつをは顔が真っ赤になった。「なんだか恥ずかしいというか、ちょっとためらってしまって、先に進めないのは自分の問題でもあるのかな、と思っているんです。」
「なるほどそういうことですか。確かに、一歩踏み出さない、踏み込まないのは、彼もそうだし、なつをさんもそうみたいですね。今回のご相談の中で、なつをさんの踏み込み問題については、扱った方が良いと思いました。」
「はい、お願いします。」

その後も、なつをと新しく知り合ったその彼との関係を色々ドクターは質問し、なつをは最近の出来事を答える、という形でしばらく話が続いた。

やがて、ドクターがひと言つぶやいた。「以前はもっと警戒心強かったよね。」
「えっ?」なつをは驚いた声を出した。
「確かに、お互いに踏み込みができず、足踏み状態になっているという様子ではありますし、そこは解決すべき課題だと思います。でも、昔は、そもそもなつをさんから気になる男性をデートに誘ったりすることさえ、なかったですよね。」
「ああ、そう言われてみれば、そうだったかもしれません。」

 

第三幕 オレサマとの過去

・・・
遡ること二年ほど・・・ドクターとなつをの初めての出会いは、こんな感じだった。

ノックの音がして、ドアが開いた。
「先生・・・あの・・・よろしくお願いします。」どこかおどおどした様子の女性が入ってきた。
「よろしくお願いいたします。」こんなとき、ドクターは必ず丁寧に応対する。以前、持論を語っていたことがある。「挨拶やマナーは、お互いに緊張感を持っていたり、警戒心を持っているときほど、安心感、つまりお互いに攻撃し合わないだろうという良い期待を作り出す効果があるものです。打ち解けてきたら丁寧すぎる必要はありませんが、最初は丁寧すぎるぐらいから始めて丁度良いものです。」と。

もう一人、ここには助手の湯川みずほ(通称「湯水ちゃん」)がいる。相談者が入ってきたときにドクターと共に起立して待ち受けていたが、挨拶が終わって、皆と同時に着席した。
着席して、セッションは静かに始まった。始めに口を開いたのはドクターだった。「さて、なつをさん・・・でしたね。今日はご相談ありがとうございます。出会いがあまりないということでお悩みだそうですね。」
「はい。でも、出会いが全くないというわけではないのですが、オレサマ系と言いますか、自己中心的な人が寄ってくることが多くて、もちろんそのような方はお断りしているのですが、そうすると今度は、恋人が出来ない、ということになってしまっています。」
「お友達にはひょっとして『高望みしすぎなんじゃない?』みたいなことを言われたりしましたか?」ドクターが優しく尋ねた。

(つづく)

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なつをの夏の物語(2)|恋愛ドクターの遺産第10話

第二幕 なつをの夏 つづき

「さて。」ドクターが言った。「なつをさん。今回のご相談は、ついに気になる男性と少しお近づきになれて、ここからどうしたらよいか、というお話でしたよね?」
「はい。おかげさまで、今度こそは長く付き合えそうな、いい人を見つけたと思ってます。でも、何だかそこから進展しなくて、それで思い切って相談に来ました。」
「なるほど。このタイミングで相談・・・こじれたり問題が大きくなったりしていない段階、という意味ですが・・・これはいい心がけです。今なら色々な手を打てると思いますので。」ドクターが自信ありげに微笑みながら、そう言った。
「では、最近どういう感じのことが起きているのか、ざっくばらんに、思い出した順で構いませんので、お話ししてもらえますか?」ドクターが訊いた。
「はい。実は、彼とは半年前に共通の友人を通じて知り合って、初めて会ったのは飲み会だったんですが、たまたま席が近くて、色々話しているうちに、科学の話や、心理学の話、それから好きなテレビ番組の話など、色々お話しして、それが、結構趣味が合うというか興味の方向が似ていて、話がとても盛り上がったんですよね。そこから、連絡先を交換して、よく会うようになりました。」
「なるほど。出だしは順調な感じですね。」
「はい。おかげさまで・・・でも、そのあと、全然進展しないんですよ。」
「全然進展しない、とは、どんな感じなのですか?もう少し具体的に『こんなことが起きました』的に説明して頂けますか?」
「先日、こんなことがありました。彼からお誘いがあって、一緒に横浜にお出かけすることになったんです。いわゆるデートコース、みたいな感じだったんですが、私たち、終始科学の話や、心理学の話、好きなテレビ番組の話などをしていて、確かにそれはそれで楽しかったんですけど、周りを見るとカップルがたくさんいて、みんな手をつないでいたり、腕を組んでいたり、もっとくっついていました。私たちは、肩と肩の距離が50センチ以内には近づかない感じで、どことなく距離感がありました。」

「なるほどそうですか。お互いに遠慮している感じ、なのかな?」ドクターが質問した。
「はい。そういう感じがします。でも、遊びにはどちらからも誘うんです。私から誘ったこともありますし、彼からもお誘いがあって、出かけたことは何度もあります。だから、消極的、という感じもしないんですけど、でも、このままずっと行ってしまうと、友達止まりのまま、自然消滅してしまったりしたら残念だなぁ、と思うんです。」なつをはしょんぼりした雰囲気でそう言った。
「そうですね・・・確かに、気の合う同士のようですし、進展したらいいですね。このまま消滅したらもったいないですね・・・」ドクターは少し考え込むような素振りを見せて、やがて言った。「具体的な話をもう少し聞きたいのですが、ほかに、どんなことがありましたか?」
「ええと・・・デートしていたときに、どこでお昼にしようか、という話になって、良さそうなお店が、和食と、中華と、イタリアンっぽい感じの洋食と、あったんですね。それで私が彼に『どこがいい?』って聞いたら、彼は『なつをさんが好きなお店で良いですよ』って。お互いにゆずり合いすぎているんですかね?」なつをが答えた。
それを聞いて、ドクターは何か分かったかのように深くうなずいた。「なるほど、そうですか。譲り合いすぎている、それはあるように思いますね。」
「それが原因、ということですか?」
「まあ、焦らないでください。もう少し問題をしっかり定義しましょう。」
「あ、はい。お願いします。」
「譲り合いすぎている、と私は今確かに言いましたが、もう少し違う気がしています。気を遣い合っている、というか、相手の出方をお互いにうかがっている、というか、そのあたりです。」
「あ、それ、ぴったりです。お互いの出方をお互いにうかがっている、という感じです。」なつをが先ほどより大きい声で答えた。
ドクターは、無言で数回、深くうなずいた。

(つづく)

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なつをの夏の物語(1)|恋愛ドクターの遺産第10話

第一幕 別れる前に婚活!?

「ゆり子さぁ、どうせなら今から婚活始めれば?」香澄が言った。
香澄はゆり子の友人だが、いつもハッキリとものを言う。相変わらず物事に囚われない自由な発言だ。
「それいいね。」割と慎重派の順子も、その案には同調した。
「えっ・・・それって・・・いけないことなんじゃ・・・」ゆり子は大胆な提案に、さすがに及び腰だ。そのまま、はいそうですか、じゃあやります、とはとても言えなかった。
いつもの面々で、いつものようにランチをしているところだ。ゆり子は既に、夫婦関係が冷え切っていることを言ってしまったので、こうして一緒に食事をしているときの話題に、ゆり子の夫婦関係のことや、今後のことがよく出てくる。始めは夫婦問題をカミングアウトしてしまったことに後悔していたが、最近では、ひとりで抱え込むよりも、この方が気が紛れていいのかも、と思うようになった。それに、香澄も放言しているように見えて、面白半分ではなく、結構ゆり子のことを考えて言ってくれているのだ。
それにしても、まだ離婚も成立していないのに次の相手を探すなんて、節操がないと思った。その昔「別れても〜好きな人〜」の替え歌で「別れたら〜次の人〜」というシニカルな歌詞があったけれど、それを地で行くみたいじゃないか、とゆり子は思った。
「まだ、離婚の話も進んでるわけじゃないし、気持ちも決まっていないのに、婚活って・・・」ゆり子はそう答えるのが精一杯だった。
「あ、いや、今すぐ相手を決めよう、って言うんじゃないんだけどね、ゆり子、結構美人だし、そういうところに出て行ってみたら、男性から交際を申し込まれたりして、自信がつくって言うか、少し夫婦関係の狭い部屋から出て、広い視点でものを見るようになるんじゃないかな、って思って。その上で、やっぱり旦那さんが大事って思ったら、戻ればいいわけだし。」香澄は軽い調子でそう言った。ハッキリとものを言うように見えて、ゆり子を傷つけないよう気を使っているのがよく分かる。こんな友達がいてくれてありがたいと思った。
「そうね・・・」順子も今回は同意見だ。「決して、離婚の準備のひとつとして次の相手を見つけておこう、というわけじゃないんだけど・・・なんて言うのかな・・・別れた後も、色々明るい未来がある、とか、そこで終わりじゃない、って思えると、いいと思うんだよね、色々な意味で。」
「そうそう、それが言いたかったの。」香澄が言った。
「そうね・・・でも、今すぐに始める気には、なれないのよね。」ゆり子は言った。
「まあ、ゆり子の人生だから、無理強いはしないけど。」と香澄。

そんな話をして、時間はあっという間に過ぎてしまった。
さくらのお迎えの時間が近づいてきた。それで、このランチもお開きになった。
娘のさくらを迎えに行って、そのあとはいつものルーティーンが待っている。バタバタと家事をこなし、さくらを寝かしつけて、一息ついたときはもう夜になっていた。

「また、ノートを開いてみるかな・・・」ゆり子はひとりごとを言った。

恋愛ドクターの遺産・・・父から譲り受けたたくさんのノート。古ぼけた段ボールにどさっと入っている。元々は恋愛ドクターと異名を取っていた祖父の手記だ。祖父から父に渡り、そして父から受け継いで今はゆり子が持っている。中は手記だけれど記録というよりは、小説風に書いてある。悩んだらランダムにノートを一冊取り出して開くと、不思議と今の悩みにピッタリの内容が書いてある。その使い方も父から受け継いだのだが、ゆり子は今もその方法を守っている。

今日もゆり子は、目をつぶって、ノートを一冊つかんで抜き出した。手に取った瞬間に「あっ」と声を上げてしまった。なんだか、その一冊だけ他のノートと比べても、ひときわ古い感じがしたのだ。一瞬、このノートでいいのか、戻してやり直そうかと考えたが、それではランダムに選び出している意味がないと思って、その、ひときわ古いノートを、今回は読んでみることにした。

 

第二幕 なつをの夏

コンコン。ノックをして、なつをが先生の部屋に入った。
「先生、ご無沙汰しております。その節はお世話になりました。今日もよろしくお願いいたします。」
「おお、なつをさん、お久しぶり。あの頃より、ずいぶん元気そうに見えますよ。」
「ありがとうございます。おかげさまで、色々進んでいます。」

そう、今回のクライアントは、なつをだ。
「えと・・・こんにちは・・・湯川さん・・・みずほさんでしたっけ?」なつをが助手の女性に向かって挨拶をした。
「はい、こんにちはなつをさん。湯川みずほです。湯水ちゃんでいいですよ。」助手の湯水ちゃんが答えた。「外は暑かったでしょう。ここに来るだけで、お疲れさまです。」
「はい、実はとても暑かったです。ここに入って、生き返りました。」
「まあお茶でもどうぞ。」ドクターが言って、冷たいお茶を勧めた。
「ありがとうございます。」そう言ってなつをはひと口飲んだ。
今はちょうど真夏。今日はカンカン照りの晴れ。外は猛暑だ。この部屋は空調が利いていて涼しい。ドクターたちは、なつをと軽い雑談をしながら、なつをの汗が引くのを待ってくれた。

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(15)|恋愛ドクターの遺産第8話

第六幕 ゆり子の変化

ゆり子はノートを閉じた。
「はぁ・・・ダンナがオレサマなのは、私が引き寄せているのかなぁ・・・。」
何だか今回はノートを読んでいて疲れた。今まで、色々あったけれどノートを開けばそこに救いがあった。でも、今回は救われたというより、内面を変えなければいけないという、恋愛ドクターの教えをずっと突き付けられていたように感じていた。そして、読み終えた今、その緊張感からか、疲れがどっと出たのだ。

今からでも、自分を変えたらダンナとの関係は変わるのだろうか。
それとも、出会いの段階ですでに道を間違えてしまっているので、今から関係を変えるのは無理なのだろうか。
そのようなことを考えるだけでも頭がいっぱいになって、余計疲れてきた。
「今日はもうよそう・・・」ゆり子は考えるのを止めた。恋愛ドクターの遺産ノートを読むようになってから、ぐるぐる思考を切り上げることだけは早くなった、と思う。

その翌日、また例の面々と、一緒にランチをすることになった。
結菜は相変わらず、オレサマなダンナに気疲れする毎日を過ごしているらしい。例によって香澄は「そんなのキッパリ言ってやんなよ、『もうアンタのメシは作りたくない』って。」などと言っている。順子は静観している。
そんな、今まで通りの光景の中で、ゆり子の中で変化が起きていることに気づいた。
自分の外側で起きている出来事と、そのときに、自分の内側で起きている出来事を、同時に観察できるようになったことだ。
たとえば、こんな感じだ。
香澄の先ほどの言葉に、結菜が不安げな表情を浮かべ、黙り込んでしまった。
こんなことが起きた時、「あーあ、また香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ。まあ、正論ではあるんだけど。」と今までは考えていた。今も考えているのだけれど、違うところは、そう考えているんだなぁ、と自分を観察するもうひとつの目が、同時に持てるようになったこと。
まとめると、こんな感じだ。
(かつて)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。
(今)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→あ、自分って、そういう事考えているな、と自分の考えにも気づいた。
さらに、自分の考えだけじゃなくて、感情にその場で気づく力も上がったように思えた。先ほどの例に続けて書くと、
(かつて)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→なんかもやもやする気持ちがあったが、その場では明確に自覚できず、家に帰ってからも、もやもやし続けていた。
(今)結菜が不安げな表情になった→「香澄、ズバッと言い過ぎちゃったよ」と考えた。→あ、自分て、そういう事考えているな、と気づいた。→香澄に同情してちょっと悲しくなった。同時に、自分もオレサマ的なダンナとの関係を整理できないでいることを、間接的に責められているような気がして、気が重く(罪悪感かな)なってきた。→そして、そういう感情が湧いてきたことを、その場で自覚している!!!

結論の出る話ではないので、その日のランチはその後、話があっちに行ったり、こっちに行ったりしつつ終了した。ゆり子はその時間の中で、自分自身の変化を確かに感じているのだった。

娘のさくらをお迎えに行って、今日もいつものルーティーンをこなし、夜一人になってから、ふとゆり子は考えた。
「恋愛ドクターの遺産って、漢方薬のように、じわじわと考え方や気づき力などを変えていくノートなのかもしれない。」と。

(第8話おわり 第9話につづく)

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脱オレサマを目指す女子(14)|恋愛ドクターの遺産第8話

「あのあと、仲のいい職場の友達は、私が困っていると助けてくれることが多くなりました。何か頼んだわけではないのに、向こうから助けてくれるんです。」淑恵は少し目を潤ませながら言った。
「そうですか。それは良かったですね。」
「職場に、ちょっと高圧的・・・というか女性の方なんですけど、色々押しつけてくる人がいるんですけど、いつも色々言われて『この人苦手だなぁ』って思っていたんですね。これまで、『ちゃんとNOが言えないとダメなのかなぁ』って思ってアサーティブの本を買って勉強したりもしたんですけど、なかなかうまく言えなくて・・・でも、先生に頂いた課題をやって、自分の感情に意識を向けるようにしたら、自分から何もしていないのに、S子ちゃんを始めとして、職場の仲良しの人たちが私の味方をしてくれて、そのお局的な人から守ってくれたんです。」
「まさに、分かりやすくなった、ということなんでしょうね。お友達も、淑恵さんが困っていたら助けたかったのだと思いますよ。」ドクターはニコニコしている。

少しだけ沈黙があって、ドクターが口を開いた。「ああ、そうそう。私の好きな言い方で、『テーブルの上に誰の感情が載っているか』という話をしたいと思います。」
「テーブルの上に・・・感情ですか・・・?」
「ええ、淑恵さんと、まあ誰かが会話していたとしますね。そのとき、話した話題をテーブルの上に載せていく、とイメージしてみます。」
「はい。」
「事実に関する話、解釈に関すること、そして気持ち、感情ですね。色々な要素が会話の中では出てくると思いますが、特に、感情の部分ですね。どちらの人の感情が多く出てきたか。どちらの人の感情が多くテーブルの上に載ったか。そんな風に考えてみます。」
「はい。」
「そのときに、良い友達関係というのは、お互いの感情が半々ぐらいで載る感じなんです。」
「ああ・・・今まで私の場合、友達でも相手の感情がほぼ載っていた感じです・・・あ、でも、S子ちゃんは私の気持ちをよく聞いてくれるので、S子ちゃんとの会話の時は、私の感情も載っているかもしれません。」
「なるほどね。そうやって、お互いの感情が両方載るのが、心地よい関係の基本なのです。そういえば、このご相談は、オレサマタイプの男性によく言い寄られて困る、という話から始まったわけですが、オレサマの場合は・・・」とドクターが言いかけたところで淑恵がかぶせてきた。
「彼の感情が100%載っていました。」
「ですよね。」

「ああ、なんだか分かってきました。オレサマタイプを避けようとするのではなくて、一生懸命自分の要求を伝えようとするのでもなくて、ただ、自分の感情を感じること。そのことで既に、テーブルの上に自分の感情を載せていることになるんですね!」
「おっ!いいところに気づきました!そういうことなんです。もちろん、必要に応じて感情を改めて言葉にして伝えたり、要求を言葉にして伝えることも、必要だと思いますよ。でも、その前に、その前提として、自分の感情を自分でちゃんと感じること。ちゃんと意識すること。それができると、会話のテーブルに、あらかじめ自分の感情を載せておくことが出来るわけです。逆に会話のテーブルに載っている感情がなくて、テーブルが空だと、そこに感情を載せたい人が寄ってきてしまうわけです。典型的にはオレサマな男性とか。」

「なるほど!!! 分かってみると納得です! でも、今までこんな大事なことに気づかず他人と関わっていたなんて、知ってみると何だか怖いです。」淑恵は身震いした。
「そうですね。これを知らないで生きていくなんて、分かってみると怖いことですね。」

 

こんな風に、この日のセッションは、もう、ドクターはほぼ解決と考えているのだろう。特に突っ込んだ質問が投げかけられる訳でもなく、淑恵の疑問にドクターが答えるという形で淡々と進んでいった。

「では、この辺で、卒業としていいと思いますよ。」ドクターが穏やかな調子で言った。
「先生!ありがとうございます。」今日一番の、嬉しそうな声で淑恵が言った。

「では、お元気で。多分もう大丈夫だと思いますよ。もし同じような問題がまた起きた時は、この一連のセッションで課題になったことを思いだして下さいね。」
「はい、とても勉強になりました。ありがとうございました。」淑恵は深々と頭を下げて、帰っていった。

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(13)|恋愛ドクターの遺産第8話

第五幕 テーブルの上に載せるもの

前回のセッションから数週間経った頃、今日も淑恵のセッションの日がやって来た。ドクターの意向で、しばらくひとりで他人とのコミュニケーションを取ってみる方針だった。特に、前回のセッションでテーマになった「他人が目の前にいると、目の前の人のことばかりに意識が向く」という傾向を、少し直して、「他人が目の前にいるときにも、自分の感情に一定の意識を向ける」という方向に努力する、という課題をやることが、主題であった。

「先生、そろそろ淑恵さんがいらっしゃる頃です。」なつをが言った。
「ああそうか。ありがとう。」ドクターは椅子に真っ直ぐ座り直しながら答えた。

ノックの音がして、淑恵が入ってきた。
「こんにちは、先生。」
「こんにちは。淑恵さん。なんだか、活き活きしているように見えますね。」ドクターは早速コメントした。
「あ、ありがとうございます。友達にもそう言われました。あ、なつをさん、こんにちは!」
「こんにちは。今日もありがとうございます。」なつをは丁寧にお辞儀をして答えた。

「どうそ、おかけになってください。」ドクターが自分の席に着席しながら言った。「さて、なんとなくそのご様子から、問題はずいぶん解決に向かっていそうな感じがするのですが・・・」
「はい、そうなんです!」

「・・・では、今日は、どのようなテーマでお話しすればよろしいのでしょうか?」ドクターは丁寧に質問した。
(始まりは丁寧だなぁ)なつをは思った。話が始まるとざっくばらんに語ることの多い先生だが、セッションの始まりは丁寧に、というのは大事な基本方針なのだ。私も先生からそうするように指導されている。

「あの・・・今まではわりと仲のいい友達からも、『よく我慢できるよね〜』みたいに言われることが多かったんですね。忍耐強い、我慢強いと思われていたみたいです。」
「なるほど。」
「でも、先生に頂いた課題を実践するようになったら、友達から『分かりやすくなった』と言われました。今までは、友達も私が何を考えているのかよく分からなかったみたいです。」
「なるほどそうですか。それは納得です。」

「そこが、私はなんだかよく分からなくて。だって別に、相手に要求を伝えたわけでもないし、取り組んだのは、相手が目の前にいるときに、自分の気持ちをちゃんと感じるようにした、ということだけです。実際、感じただけで、伝えてもいないんですよ。」
「それなのに、『分かりやすくなった』と言われたと。」
「はい。そういうものなんですか?」

「そういう場合もあるし、そううまくは行かないこともあります。ただ、お友達は、相手の気持ちを察するのが上手な人なのでしょう。だから、淑恵さんの変化にすぐ気づいたのだと思いますよ。」
「あ、そうです!すごくよく気がつく友達なんです。でも今まで、私は本当は我慢したくなんかないのに、『我慢強い』とか『よく我慢できるね』とか言われるのが、なんだか釈然としなかったんですが・・・」淑恵は考え込んでいるような表情でそう言った。

ドクターはにっこりして、ゆっくり口を開いた。「では、少しそのへんの仕組みを説明しましょうか。」
「はい、お願いします。」
「それは、今まで淑恵さんはそれだけ『分かりにくかった』ということなんだと思います。」
「そうなんですね・・・」
「だって、自分でも、自分の感情を感じていないわけでしょう? よほど鋭い人じゃない限り、本人がまだちゃんと感じることができていない感情を、先取りして感じるなんてできませんから。」
「・・・ですよね・・・そう言われてみれば・・・」
「私も、こういう職業をしていますが、そしてカウンセリングの時には、クライアントの感情に集中しています。それでも、本人がまだ感じていない感情を先取りできるかと言うと、まあ、五分五分ぐらいですね。」
「なるほど・・・そうですよね・・・」
「私も、仕事以外の時はそこまで相手の感情に意識を集中していませんから、そうなると、ほぼ分かりません。」
「先生でもそうなんですか?」
「私を超能力者か何かと? 私は普通の人間ですよ。知識と経験は少しはあると思いますが。」ドクターは笑いながらそう言った。「そもそも感情というのは、自分の中で起きている事を、相手に分かりやすく伝えるためのメッセージのようなものです。感情があるから、『ああ今、この人は喜んでいるのだな』とか『これは嫌なんだな』とか、相手に分かる訳です。」
「なるほど・・・」
「だから、相手に言葉で助けを求めるとか、頼み事をするとか、そういう目に見える行動をする前に、『自分の感情を感じている』という状態がまず大事なんです。」

「あのあと、仲のいい職場の友達は、私が困っていると助けてくれることが多くなりました。何か頼んだわけではないのに、向こうから助けてくれるんです。」淑恵は少し目を潤ませながら言った。
「そうですか。それは良かったですね。」

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(12)|恋愛ドクターの遺産第8話

「あの・・・先生が『焼肉』とおっしゃったので、もう『ああ焼肉を食べたいんだな』『お腹が空いているのかな』と、目の前の相手の考えにしか、意識が向かなくなっていました。二回目の方は、先生が目で合図して下さったのもあって、そのときに、自分の胸のあたりがすごく悲しくてきゅーんって感じでしぼむような感じになっていたことに気づきました。」
「そう、私はそこに気づくところまでを課題として出したのですが、結果的に、気づいたら『焼肉と聞いてがっかりしています』としっかり伝えるところまで出来ていましたね!」
「そうなんです!自分でもびっくりしました!」
「つまり、今まで、自分の感情に意識を向けないように、向けないようにしてきた、ということなのかもしれませんね。だから今後、意識の使い方を、自分の体の感覚にも意識を向ける、という風に変えていくと、今みたいに自分の利益についても、ちゃんと言えるようになりそうですよ。」
「ありがとうございます!そうですね。実は、アサーティブとか、自己主張のトレーニングを受けたことはあったのです。」
「おっ!そうなんですね!そういう努力、素晴らしいと思います!」
「ありがとうございます・・・でも、結局ちゃんと言えるようにならなくて、何でダメなんだろう、ってずっと思っていました。」
「ああなるほどね。そもそも感じてないんじゃ、伝えようがないですからね。」
「そうそう!そうなんです!今日やっと、大事なポイントが分かりました!先生、ありがとうございます!」
「いえいえ。どういたしまして。ちなみに、自己主張のトレーニングをしたことは無駄ではなかったと思いますよ。」
「えっ?そうなんですか?」
「そう思います。だからこそ、伝えるべき感情が自覚出来た瞬間に、ちゃんと言えたのだと思います。」
「あっ、そうか。そうですね!無駄ではなかったということですね。安心しました。」

 

「さて、コツが分かったところで、では、実際の生活や仕事の中で、今の取り組みをどうやって行っていくか、その辺りを考えておきましょうか。」
「あ、はい。お願いします。」
「では、比較的今の取り組みがやりやすい相手、というのは誰ですか?」
「よく休日にランチに行くお友達のS子ちゃんです。」
「なるほど。ではまず、その子の前で実践する、というのを最初のステップにしましょう。自分の気持ちを伝えるところまで、もし出来なければ、それはそれでOKとしましょう。」
「まずは、感じてみるところまで、ですね?」
「そうです。それなら出来そうですよね?」
「はい、出来ると思います。」
「そして、次のステップとしては、職場の中で、やりやすい相手はいますか?」
「ええと。割と面倒見が良くて、色々こちらの意見を聞いてくれたり、希望を聞いてくれるちょっと年配の女性の方がいらっしゃるんですけど、その方の前ならたぶんできると思います。」
「おお、いいですね!次のステップとしてはそんな感じで行きましょう。」
「はい。」
「で、もし、結構簡単だな、と思えたら、もう少し緊張する相手の前でどこまでできるかとか、それほど親しくない人と会話しているときにも、どこまで自分の体の感覚を意識出来るかとか、ちょっとずつチャレンジしてみて下さい。」
「はい。相手に伝えることは、しなくていいのですか?」
「うーん。なんとなく、どっちでもいい気がしているのですが・・・あ、すいません。なんか無責任なことを言っているように聞こえますよね? ええと、今日も、自分の気持ちが分かった途端、ちゃんと言えたじゃない? だから、言えそうな気もするし・・・なので、まずは、感じるトレーニングだけしてみて、それでもしも、言うところがすごく抵抗があって大変そうなら、その時にまた、対策を考えればいいかな、なんて思っているんです。」
「あ、なるほど。そうですね。取り越し苦労しても仕方ないですね。」
「そういうこと。」

少し沈黙があったあと、ドクターが言った。「では、今日はここまで、ということで。」
「はい、ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(11)|恋愛ドクターの遺産第8話

「そんな状況の中、淑恵さんのように、彼に合わせてくれる女性に出会ったら、どう感じると思いますか?『お前だけがオレのことを分かってくれる!素晴らしい女性だ!』って思うわけですよ。」
「ああっ!実際それ、言われました。」
ドクターは数回深くうなずいてから静かに言った。「というわけなのです。」

言われたことをしばらく咀嚼(そしゃく)している様子に見えたが、やがて淑恵は口を開いた。「ということは、相手の望むように振る舞うことが、必ずしもプラスになるという訳ではないのですね?」
「そうですね。残念ながら、そういう結論になります。」
少し沈黙があった。
沈黙を破ったのはドクターだった。「相手が望むように振る舞う、淑恵さんの側は良いとして、淑恵さんに不快な思いをさせ続けている、その相手、オレサマの側には、問題がありますよね? でも、本人が気づかないのなら、その状況は変わりようもない。だから、淑恵さんの側から働きかけることも大事なことなのです。」
「働きかけるって、どういうことなのでしょう?」
「働きかけるといっても、まず始めにやるべきことは、きちんと自分の望みや自分の感情に意識を向ける、という内面的な作業になります。」
「ああそれ、私が苦手な部分ですね。」
「そうですね。少し一緒に練習してみましょう。では・・・そうですね。淑恵さんと私が友達同士だったとしましょう。今日は休日。一緒に遅い朝食、というかブランチを取ることになっていたとします。淑恵さんは今日は行きたいカフェがあるとします。そして私の方は、なんと朝から焼肉を食べたい、という設定で行きますね。あ、そうそう、私のことは、このロールプレイでは『あっくん』と呼んで下さい。」
「はい。」
「あのさ、淑恵ちゃん、今日のブランチ、ちょっとお腹空いていて、焼肉を食べに行きたいんだけど。」
「え?焼肉?そ、そうだね。今日はお腹空いているの?」
「はい、ストーップ。」ドクターが急に会話を止めた。そして続けて言った。「いま、何を考えていましたか?」
「えと、焼肉食べたいのかな?お腹空いているのかな?って。」
「そうだと思っていました。もう一度、今のロールプレイを最初からやってみます。でも、今度は、次の点を努力してみて下さい。私が意見を言ったあと、自分の体の感覚を感じるようにしてみてください。『あっくんは焼肉食べたいのかな?』とか考えてもOKですから、そのあとに、『一方自分は、どう感じているのかな?』と、体に意識を向けて、自分の感情を探ってみてください。」
「はい。頑張ってみます。」
「では、テイク2(笑)行きましょう。」
「あのさ、淑恵ちゃん、今日のブランチ、ちょっとお腹空いていて、焼肉を食べに行きたいんだけど。」
「え?焼肉?そ、そうだね。今日はお腹空いているの?」
ここでドクターは目で合図して、うなずいて、(今自分の体の感覚を探るんだよ)という無言のサインを送った。
「あの・・・」
ドクターは、淑恵が先を続けるのを待っている。
「あの・・・私、本当はカフェでおしゃれにブランチするのを楽しみにしていて、だから焼肉って聞いてちょっとがっかりしています。」
「はい、ここで一旦止めましょう。」ドクターが再度会話を止めた。
「さて、今度は、体に意識を向けて、感情を探ることにチャレンジしてもらったわけですが、先ほどと、何がどう違いましたか?」
「ええと、先ほどは、先生・・・いやあっくん・・・」そう言いかけたところでドクターが「いや、どちらでもいいですよ」と笑って言った。
「あの・・・先生が『焼肉』とおっしゃったので、もう『ああ焼肉を食べたいんだな』『お腹が空いているのかな』と、目の前の相手の考えにしか、意識が向かなくなっていました。二回目の方は、先生が目で合図して下さったのもあって、そのときに、自分の胸のあたりがすごく悲しくてきゅーんって感じでしぼむような感じになっていたことに気づきました。」

(つづく)

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脱オレサマを目指す女子(10)|恋愛ドクターの遺産第8話

淑恵はその言葉を聞いて、ぱあっと表情が明るくなった。「あ!先生!分かりました。相手も、私に合わせようとしてくれていると、心地よい会話になるのだと思います!」
「はい。かなりいい線行きました。それで90点ぐらいです。もうちょっと説明しましょうかね。」
「はい、お願いします。」
「合わせようとしているかどうかは、本質ではないのですが、結果的に、会話をしている二人の頭の中に同じ事柄があるかどうか、ということが本質だと私は考えています。」
「ふたりが・・・同じことを考えている、ということですか?」
「まあ、大体そんな感じです。考え方や意見は違うことはあると思いますが、少なくとも、『同じことについて』考えている、ということですね。」
「ああなるほど、それで分かりました。話していて疲れる相手というのは、こちらが話していることを全然受け取ってくれず、自分の話したいことばかり話す人で、こちらからとにかく、相手の話題に合わせ続けていかなければいけない相手です。」
「そうですね。淑恵さんの頭の中に何があるか、そんなことお構いなしに、どんどん自分のペースで話す人。そういう人といると疲れるわけです。」
「でも、つき合ってしまうのは、そういうタイプの人が多いんです。前の彼とは趣味が同じだったので、趣味の話をしているときは心地よく話せたかな、と思うんですが、そういうのはダメなんですか?」

「ええと、少し整理しましょう。まず、淑恵さんにとって、どんな人が心地いいのか、という話と、相手の男性にとって、淑恵さんとの会話は心地いいのか、という話に分けましょう。」
「はい。」

「これ、このパターンではよくあるのですが、淑恵さんは相手のことを特になんとも思っていなかったり、あるいはむしろ面倒臭い人だと思っていたりするのに、相手から好かれてしまったり、相手が淑恵さんとの時間を心地よいと思ってしまう、ということが、結構あったのではありませんか?」
「はい。本当に、そういうことばかりです。」
「なるほど・・・やはりそうですよね。つまり、相手にとっては淑恵さんとの時間は心地よいものなんです。でもそれは淑恵さんの不快感という犠牲の上に成り立っているわけです。」
「私が不快に思っていることを、相手は分からないのでしょうか?」
「そう、そこがポイントです。基本、オレサマタイプの人は、分からないと考えた方がいいと思います。」
「そうなんですね。」
「そうなんです。自分の快・不快のみで行動しているわけです。」
「それで、社会でやっていけるのでしょうか?」
「微妙ですよね。確かに。だから、多くの女性からは白い目で見られたり、要注意人物扱いされて、距離を取られたりと、冷たいあしらいを受けているものなのです。」
「・・・はい。」
「そんな状況の中、淑恵さんのように、彼に合わせてくれる女性に出会ったら、どう感じると思いますか?『お前だけがオレのことを分かってくれる!素晴らしい女性だ!』って思うわけですよ。」
「実際それ、言われました。」
ドクターは数回深くうなずいてから静かに言った。「というわけなのです。」

(つづく)

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